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第一章
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しおりを挟む──あの日太一は中学校から帰ったばかりで、狭いアパートの一室の六畳間に鞄を投げ、靴下を脱ぎ、扇風機の前で一人しょうもなく宇宙人の真似をしていた。
そんな時電話が鳴り、何の気なしに出たその電話は病院からで。その時、ぽたりと顎先から汗が垂れた不快感も、窓越しの蝉の声も、目の前の木の木目も、今でも太一は鮮明に覚えている。
まるで現実味がなく、裸足のまま靴を履き、足を縺れさせてやっと辿り着いた病院。
その霊安室で見た顔は紛れもなく母で、太一はその顔を黙って見つめていた。
母は仕事中突然倒れ、そのまま病院に緊急搬送されたが、もう手遅れだったと聞かされた。
なぜだか、涙は出なかった。
それから太一は初めて会う母方の遠い親戚に引き取られる事になり、葬儀をしない代わりに。と嫌々ながらも母の遺影を作ってくれた親戚に、頭を下げた。
その時も、太一はうんともすんとも言わず、ただただ黙って俯いていた。
そうして親戚の家に引っ越しをする事が目の前に迫った、ある日の夜。
母子二人で住んでいたボロいアパートの、すっかり物がなくなった部屋のなか、太一は小さなひび割れたタンスの上に飾られていた若かりし頃の母と、太一が産まれた直後に交通事故で他界してしまった父が仲睦まじく寄り添っている写真を、手に取った。
その写真は出会った頃の二人の時の写真で、どちらも学生服を着ていて。
母はいつもその写真を愛しげに眺めては父との思い出を話してくれ、それは宝箱のなかの宝石をそっと見せてくれるようなドキドキにも似た優しさだった。
それなので太一は父が居なくても父の事を尊敬していたし、愛していた。
将来、父と母のような幸せな結婚をしたいと思っていた。
だがしかし、そんな太一の幼く淡い想いが打ち砕かれたのは、小学三年生の時だった。
人類は男女性に加え、アルファ、ベータ、オメガの三種類に分類されるというのは知っていたが、アルファのことも、オメガの事も良く理解しておらず、けれども太一は自分はベータで普通の人間なんだと思っていた。
それが三年生になると受けさせられる一斉検査により、太一は自分の性がオメガである事を知った。
けれど、未だオメガだというのがどういうものか分からず、まぁ何でもいいか。と太一は思っていた。
──しかし、周りの目は一変した。
友人だと思っていた、昨日までは明日何して遊ぶ? だなんて話していた奴等から、オメガだと診断された瞬間、オメガってフェロモンっていうの出して誰彼構わず誘うらしいよ。とませた子供たちに蔑まれ、あっち行けよ変態。と突き飛ばされた。
なぜそう言われるのか分からなくて、悲しくて悔しくて、泣きながら家に帰った太一の話を聞いた母は太一を抱き締め、泣いた。
『言わなくてごめんね、母さんも、オメガなの』
そう溢した母の言葉に、どうしてごめんなの。と聞いた太一。
そんな太一の無垢な瞳に母はとても悲しい顔で、オメガの人の性質と今までの歴史、発情期や番いの事などを教えてくれ、太一は唖然とした。
そんな事があるのか。と青ざめる太一に、それでも母は、だからこそ母さんはアルファだった父さんと出逢えた事を、とても嬉しく思ってる。と優しく、本当に優しく笑って太一の頬を撫でてくれた。
その言葉があったから、太一は学校で始まったいじめにも耐え、オメガであるというだけで謂れのない言葉を投げつけられても、母が居てくれればそれだけで平気だった。
胸を張って、生きていられた。
中学に上がる頃に初めての発情期を迎え、自分が自分じゃなくなる怖さも、未知の疼きも、留まることのない性欲の強さにも怖いと泣きじゃくる太一の背を、体を抱いてくれた母。
母に、欲にまみれ精液でどろどろになっている姿を見られる事がひどく恥ずかしく、消えたいと思った太一だったが、それでも母にしかすがれず、辛い。苦しい。と泣きながら地獄のような一週間を過ごした。
それから連れて行かれた産婦人科から、オメガの発情を抑制出来る薬があると聞かされ、そのリスクをしっかりと聞いた上で太一は薬を飲む事を希望した。
幸い太一の体質に薬は効き、一日目と二日目以外は自慰行為をせずともなんとか我慢できるほどに効果があった。
けれども、やはり発情期の間は学校を休まざるを得ず、そのせいで遅れた授業の内容を、やはり母は一緒に勉強してくれた。
そんな、太一にとって全てだった、母。
その母の死因を調べた医者には、働きすぎと抑制薬の多量摂取が原因の、過労死だろうと言われた。
母は、抑制薬があまり効かないタイプだったらしい。それでも太一にはそんな姿を見られたくないと無理やり規定以上の薬を飲んでいたらしく、二人分の薬代を稼ぐ為、そして生きていく為に働きづめになっていった母。
それでもそんな辛さを一切見せず、あの日も、朝、普通に優しく笑って学校へと向かう太一を見送ってくれた。
……そんな、優しくて強くて清廉で、いつも救ってくれた、いつも自分の事だけを考えてくれた唯一の光だった母は、もう居ない。
どこを探しても、この世に存在しない。
そう思った時初めて、太一は泣いた。
ぼたぼたとこぼれ落ちる涙が手にしていた父と母の写真に落ち、ひりつく喉から嗚咽を溢れさせ、太一は泣きじゃくった。
何も知らず母に甘えきっていた自分のふがいなさと、オメガの生と、この世界の理不尽さに世界を恨みながら一晩中泣いた太一は、その日、生きながらにして死んだ。
──そんな一年前の記憶を思い出した太一は展望台で小さく鼻を啜り、朝焼けに染まる太一の美しく長い睫毛は震えていたが、それでも涙は溢さなかった。
それから展望台の上にある時計を見た太一は時刻が朝の六時を指している事に慌て、階段を駆け下り、親戚の家への道をひた走った。
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