【本編完結済み】朝を待っている

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第九章

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 今は何時ごろだろうか。と太一は黒々とした空を仰ぎながら、そんな事をぼんやりと考えた。
 泣きすぎたせいで目元が腫れているらしく、冷たい風がやけに目に染みる。

 ……欲情して、泣きじゃくって、すがって、本当にとんでもない醜態を晒してしまった。

 そう自分を恥じ、まじで消えたい。と空を見続ける太一は、しかしどこにも行くあてなどなく行きたい場所もなく、寒々とした空の下をとぼとぼと歩いた。


 亮は家に居てくれていい。と言っていたが、亮と一緒に居ればきっとまたこうして弱くて情けない姿を見せてしまうだろうと、分かっている。
 いつかきっと亮に対する気持ちが抑えられなくなって、とんでもない馬鹿をしでかしてしまうだろう。
 そうなれば、発情期が終わりかけだったというのもあり今回はなんとか耐えてくれたものの、フェロモンに対抗する術を持たない亮はきっと抗えない。
 そんな事になれば、いくら俺が魂の番いだからと、友人だからと優しくしてくれる亮といえど後悔するに決まってる。

 だから、もう亮の側には居られない。
 居ては、いけない。

 そう太一は今一度ぐっと気持ちを引き締め、けれどもみっともなく亮の前で泣きじゃくってしまってから馬鹿になった涙腺がゆるゆると弛んでしまい、ずずっと鼻を啜り顔を強めにバチンッと叩いた。

 それから、とりあえず親戚の家に戻ってせめて父と母の写真だけでも良いから取りに行かなくては。と真っ暗な夜の道を駆けていった。




 真っ暗な夜に浮かぶ、『東』と書かれた表札。

 何故か走ってしまったせいでハァハァと上がる息のまま、太一は灯り一つ点いていない親戚の家を眺めた。
 留守なのか或いは寝ているのか知らぬが、自分がどこで何をしていようが、ましてや自分が淳に何をされようが気にも止めないらしいその静寂さがかえっていっそ清々しく、もうこの場所に来ることは無いだろうと思いながら、太一はゆっくりと門を開けた。

 横の砂利道を、習慣のように小さく踏み鳴らし、物置小屋の扉を開ける。

 ガタガタ。とがたびしの音を響かせた、扉の奥。
 そこは亮に手を引かれ逃げ出した時と変わらず、雑然と荒れたまま。
 その部屋を見た太一は、淳のあの歪んだ顔を思い出してしまい、堪らずハッと息を乱した。

 呼吸が浅くなり、脈拍が速くなっていく感覚がする。
 フラッシュバックし脳内に流れる残像にぐらりと目眩がしてしまいそうだったが、ガタガタ、と扉に手を預けつつ、太一はなんとか足を踏ん張った。

 ……大丈夫、大丈夫。大した事じゃない。

 そう心のなかで唱え、……くそったれ。とその残像を振り切るよう、かぶりを振る太一。
 それから心を無にしようと務め、この家に来た時と同じ大きいスポーツバッグに数枚程度の服や生活用品を詰め込んだあと、それから丁重に母の遺影と父と母の写真を押し込んでから、太一は部屋を見回した。

 その時目の端に、綺麗に畳んで机の上に置いていた亮から借りているカーディガンとマフラーが床にぐしゃぐしゃになって落ちているのが見え、そしてその上に壁に掛けていた亮から貰ったメダルすらも落ちていた事に気付いた太一は慌ててそれを拾ったが、手にした瞬間ぬるりとした感触がして、思わず顔をしかめてしまった。

 べっとりと付着していた、自分が吐いた吐瀉物と淳のだろう赤黒くなってしまっている血液。
 それからほんの少しの精液が、手にこびりついている。

 その汚れた己の手を見つめて太一はヒュッと息を飲んだあと、……ああ、汚い。と座り込んだ。

 亮との楽しかった、大事に大事にしまって宝物にしようと思っていた想い出が、どろどろと糞にまみれてゆく感覚。
 足元からヘドロが身体中に巻き付いてくるような、そんな絶望めいた息苦しさにまたしてもじわりと目尻に涙を溜めた太一は、……やっぱり俺はどこも綺麗なんかじゃねぇよ、亮。と一人ごち、ずびっと鼻を啜った。

 やるせなくて、虚しくて、この掌が自分の人生だと思うと苦しくて。

 それでも、泣いても喚いても逃れる事はできないのだから。と服の袖口で涙を拭えばふわりと亮の匂いがし、またしても太一はつんと鼻の奥が痛くなるのを感じながら、ああこの服も汚れてしまう。なんて申し訳なさにまたしても鼻を鳴らす。
 唯一の救いは猫のぬいぐるみは無事だった事で、それにほっと胸を撫で下ろしつつ、ごそごそと鞄を漁り自身の服を取り出した太一は、その服が汚れるのもお構いなしにごしごしとメダルにこびりつく淳の血を拭った。

 それから、公園かどこかでカーディガンとマフラーに着いた汚れを落とそう。とその服でカーディガンとマフラーを包み鞄にしまったあと、それからメダルと猫のぬいぐるみもぎゅうぎゅうと詰め込んでは、立ち上がった。



 あっという間に、太一がここに住んでいたという痕跡など跡形もなく消えてしまった物置小屋。
 そこから出て、鍵を母屋のポストにでも入れておこう。と歩いていたのだが、突然母屋の玄関がガラガラッと開き、太一を見るなり鬼の形相へと変わった叔母がそこには居た。


「あ、あんた、どの面さげて……!!!」

 金切り声で怒鳴る叔母の声が、真夜中に響く。
 しかしその声に太一は臆することなく、けれども深々と頭を下げた。

「……今まで、お世話になりました」

 自身の汚れている靴の爪先をじっと見つめながら吐き気と憤りとを耐え、糞みたいな場所だったが最低限の礼儀として。と拳を握り頭を下げる太一に、しかし叔母は忌む者を見つめる瞳のまま、叫んだ。

「うちの子を誘惑しておいてよくのうのうとそんな台詞が吐けるわね!! あんたのせいでうちは……!! 」

 ヒステリックに叫び続ける叔母のその言葉が心にジクジクと染みたが、けれども太一はその罵声を、じっと耐えた。

 ……誘惑なんてした事はないが、淳をおかしくさせてしまったのは本当に俺のせいかもしれないから。……俺が、オメガだったから。

 そう卑屈すぎる考えがぐるぐると腹のなかで巡り、ただただ頭を下げその言葉を受け止めていた太一だったが、

「近衛さんの息子にまで色目使ってうちを陥れて! どうせ近衛さんの息子もその薄汚い体で媚びて手玉にしたんでしょう! 本当に汚ならしい! さっさと出ていきな!! 二度とうちの敷居を跨ぐんじゃないよ!!」

 なんて叔母が亮の事まで侮蔑するかのような発言をしたので、太一は堪らずがばっと顔を上げた。


「……俺と亮はっ、俺と亮はそんなんじゃない!!」

 カッとなり、怒りで目の前が真っ赤に染まってゆくのが分かる。
 視界の先には初めて反抗的な態度を取られた事に驚いたのか、呆けた顔をした叔母が居て。
 けれど、どうしても亮についてとやかく言われる事だけは、我慢ならなかった。

 あんたに俺と亮の何が分かるんだ。

 そう睨み付ける太一の瞳にありありと怒りが浮かんでいるのが見てとれ、今まで何を言っても何をしても反抗どころか俯いて黙っていただけの太一の気圧されそうな態度に、叔母が後ずさる。


 ……どれだけ俺が亮に優しくしてもらったかを、どれだけ俺が亮に救われたかを、……どれだけ俺が亮を好きなのかを、このやるせなさを、何ひとつだって分からないくせに。

 心のなかでそう呟いた太一はまたしても泣いてしまいそうになり、それでもぐっと歯を食い縛っては、そんな事をこの人に言っても、これ以上ここに居ても無駄だ。と深く息を吐いた。


「……お金は必ずまとめて返します。その時以外はもう一生顔も見せないんで安心してください」

 何の感情もこもっていない瞳で吐き捨てるよう言い切り、スポーツバック一つで踵を返した太一が、じゃりじゃりと砂利の音を盛大に響かせながら親戚の家から出る。

 その背に叔母は口をつぐんだままもう何を言うこともなく、ただ呆然と太一の遠ざかっていく背を見ていただけだった。




 ***



 親戚の家を出てすぐ、近くのあの公園へと足を運んだ太一は、一目散に水道がある場所へと向かい蛇口を捻り、鞄から汚れてしまったカーディガンとマフラーを取り出して洗い流した。

 十一月も終わろうとしている、冬真っ盛りの季節。
 そのせいで水は驚くほど冷たく、じんじんと痛む掌が真っ赤に染まっていったが、それすらも気にも止めない太一はゴシゴシと吐瀉物を落とそうと躍起になり、しかし胃液がぬるぬると滑るだけで中々落ちてはくれず、半泣きになりながら、くそっと小さく呟いた。


 公園の心許ない外灯だけが太一の背を照らし、風は寒々と体を撫ぜてゆく。

 手を沈める冷たい水はひたひたと熱を奪い、心まで浚っていくようで、……汚い、汚い、汚い。とその言葉だけをぐるぐると頭の中で巡らせた太一は手首を彩る亮から貰ったミサンガが濡れていくのを見つめ、叔母や叔父、それから淳の顔や言葉、今まで向けられてきた侮蔑を孕んだ瞳を思い出したが、それでも一度かぶりを振っては深呼吸をひとつした。


 うじうじぐだぐだ終わったことを考えたり思い出したりして何になる。
 とりあえずこれからどう生きなきゃ考えるのが先だろ。

 そう思い直し、……よっし! これ以上嘆いてたって腹は膨れねぇし生きてもいけねぇ! と無理やりにでも気丈に振る舞おうと自分を鼓舞した太一は、キュッと蛇口を締め、冷たい掌で顔をパンパンと叩いた。

 とりあえずカーディガンとマフラーはこんなもんでいいだろ。あとはコインランドリーに行って、洗濯と乾燥が終わるまでそこで少し休んで、それからこれからどうするか考えよう。なんてどこか楽観的にも思える事を考えながらも、太一がもう一度、よし! と声に出して立ち上がる。

 そんな太一の背を相変わらず心許ない外灯だけが照らしていたが、その背はどこまでも真っ直ぐだった。




 
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