百代の夢幻

蒼月さわ

文字の大きさ
4 / 6

4

しおりを挟む
 汗ばんできた手の内で、護り刀の重みが肌に吸いつく。まだ夢を見ているのだろうか。
 義家は顔をあげた。外で小石が転がるような軽い音がした。はじめは風が吹いているのかと思ったが、よく耳を澄ますと、人が囁いているように聞こえてくる。それは足音にも似て、ひたひたと義家の寝所まで近づいてきた。
 誰だと思った瞬間、松明のような火焔が幾つも浮きあがり、義家をぐるりと取り囲んだ。焔は上下に長くなり、天井と床に広がる。瞬く間に一面は火の海と化した。
 義家は肉の削れた面に驚愕を浮かべたが、すぐに念仏を唱えた。忽ち火はよろけ、浪のように大きくうねり、義家の目前に群がると、ひとつの塊となった。
 義家はうっと呻いた。それは鬼となった。
 鬼形の輩は、地獄絵に描かれている姿その者だった。二本の角が頭から生えていて、ざんばら髪に、頬は強張っている。眉は吊りあがり、眼は浮き出て、鼻は大きく、口は耳まで張り裂けている。頭が天井板までとどく巨漢で、布切れを腰に巻いている。腰も足も幹のように太く、病床の義家を踏み潰すなど造作もない。まことに怖ろしい風貌をしていた。
 義家は霊剣を握る手に力を込めた。だが指は空振りをした。手のひらにあった護り刀は、跡形もなく消え失せていた。

「八幡太郎義家、多くの罪無き者を殺したとがにより、地獄へ連れてゆく」

 異形の鬼はぐわっと口を割いて、獣のような牙を鳴らすと、腕を振りあげ義家の肩を掴み、まるで子犬を扱うように臥所から曳き摺り出した。義家は床に振り落とされ、胸を押さえながら、咳を吐く。
 鬼か。
 乱れた息を繰り返し、義家は座り込んだまま頭だけをあげた。鬼が義家を見下ろしていた。

「……お前が、儂を連れてゆくと」
「そうだ」

 鬼が頷いた。

「多くの罪無き者を殺した咎は重い」
「……何と」

 義家は鬼の言葉に、深い皺が刻まれた目尻を吊りあげた。

「儂を咎人と申すのか」

 豪胆にも、鬼を睨みあげる。

「確かに儂は病に冒されている。お前に言われるまでもなく、ほどなく死ぬだろう。だが、その名を辱めるようなことを行った覚えなどない」

 声色は痩せているが、張りがあった。
 だが鬼は、義家を吹き飛ばさんかぎりに嗤った。

「何を言うのか! 人を殺め、この世を血で穢した奴めが! お前の背後には屍が累々と横たわっておるわ! 見るがいい!」

 鬼は義家の背後を指した。義家はその指の先を這うように躰をよじって振り返り、青ざめる。そこは広大無辺の暗闇となっていた。道無き道には大勢の屍が打ち捨てられている。どれも血を流し、無残な姿だ。ある者は頸がなく、またある者は腕がなく、足はなく、耳はなく、目はなく。鎧を着込んだ武将に腹巻姿の雑兵たちが、死に際の恐怖を浮かべて重なりあっている。彼らは恨めしげに義家を見つめていた。
 手前には、大楯に四肢を投げ出している男がいた。梔子くちなし色の衣を身につけ、全身が血に染まっている。男は鬼にも負けない悪鬼の形相で、義家を睨みつけていた。
 義家は拳を硬く握って胸に押し当てる。あの男だ。安倍一族の軍勢を率いた猛将で、父と自分を睨みながら死んでいった男だ。

「わかったか! お前は悔いる心もない! 悪趣あくしゅへ落ちるのは当然のことだ!」

 鬼は大きなまなこを動かして言い放った。
 義家は鈍々のろのろと立ちあがった。鬼の腰辺りまでしか身の丈はない。だが正面から鬼に向いた。

「儂は堂々と戦った。蝦夷の兵どもは強く雄雄しかったが、我らが戦い打ち負かしたのだ。何を恥じる必要があるのか」
「まことにそう思うのか」
「無論。儂は己の名を辱めた覚えなどない」
「だが大勢の者たちを殺したのは罪深い。お前を地獄へ連れてゆかねばならない」

 鬼は少しの哀れみも見せなかった。

「そのように神々がお決めになった」

 義家は源家の氏神である八幡神を思った。岩清水八幡宮で元服し、その名も八幡太郎と号した義家には最も尊崇する武の神だった。
 はっきりとした畏れが、じわじわと足元から這い上がってきた。

「神々は、お前がかの地を変えたことに腹を立てていらっしゃる」

 鬼は平然と言った。

「ゆえに、神々はお前を地獄へおとすのだ」

 その声は、矢庭やにわに異なって聞こえた。
 鬼は口を開くと、火焔を吐き出した。人の頭程度の赤い火の玉で、義家の鼻の先で、揺ら揺ら、揺ら揺らと、まるで生き物のように漂う。老武者の衰えた顔立ちが、かすかに浮きあがる。
 義家は漠然とそれを眺めた。松明。篝火。火矢。赤く彩られた戦場の情景が、目前に甦ってくる。

「お前はかの地に深く関わってしまった」

 禍々しく浮かぶ鬼火。自分は以前にも目にしただろうか。

「地獄へ連れてゆく今一つの咎は、その地へ参ったことだ」

 ふいに義家の心が騒いだ。いつぞや似たような言葉を耳にした覚えがある。どこかで聞いた。誰かが自分へ言った。
 義家は頭のてっぺんから足の爪先まで、鬼を何度も何度も眺めた。そのようなはずがないと念じながらも、寝間着を汚した墨のように染みついている。この異様な鬼を知っているわけがないというのに。

「このような浅ましい姿に覚えがあるか」

 しゃがれた声が言った。

「お前たちが我らを斯様かような異形に仕立てたのだ」

 義家は仰け反った。誰かが後ろで束ねた髪を掴んで引っ張った。

「……それは、神々もとめようがない」

 鬼の言葉はくぐもってよく聞こえなかった。だが枯れ木のようにしゃがれた声だけは耳に残った。
 義家は我知らず後ずさった。胸が苦しい。物の怪が暴れている。己を殺して、外へ出ようとしている。護り刀を手放してしまったせいだ。あれほどきつく言われていたのに。護り刀がこの手にあれば、自分で退治して……
 義家はよろめいた。前屈みに倒れ込み、咳を吐く。床に手と膝をついて、背を丸め、何度も吐き出す。物の怪が腹の底から足早に駆けあがってくる。臓腑を喰い破り、喉を蹴って、舌を引き千切り、口を裂いて飛び出るつもりなのだ。
 ふと、御簾越しに格子が上がっているのが見えた。その向こうには広大な中庭がある。池のそばの植木に目が留まった。弓形に反った痩木。枝葉に隠れるようにして可憐な白い花が数えきれないほど咲いている。小さな蕾も見える。それが花開いた。
 頭上で、雷が鳴った。

「出立時刻となった! 八幡太郎義家、お前を連れてゆくぞ! 無間地獄へな!」

 げえっという唸りと共に、義家の口から何かが落ちた。
 火焔だった。
 義家は悲鳴をあげた。鬼が肩を掴み、荒々しく義家をひきずってゆく。

「……様! お許し下され!……」

 鬼が誰かの名を叫んでいる。
 義家は総毛だった。

 ――儂はこの鬼を知っている。知っているぞ!

 そこで、目が覚めた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

if 大坂夏の陣 〜勝ってはならぬ闘い〜

かまぼこのもと
歴史・時代
1615年5月。 徳川家康の天下統一は最終局面に入っていた。 堅固な大坂城を無力化させ、内部崩壊を煽り、ほぼ勝利を手中に入れる…… 豊臣家に味方する者はいない。 西国無双と呼ばれた立花宗茂も徳川家康の配下となった。 しかし、ほんの少しの違いにより戦局は全く違うものとなっていくのであった。 全5話……と思ってましたが、終わりそうにないので10話ほどになりそうなので、マルチバース豊臣家と別に連載することにしました。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

無用庵隠居清左衛門

蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。 第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。 松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。 幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。 この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。 そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。 清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。 俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。 清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。 ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。 清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、 無視したのであった。 そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。 「おぬし、本当にそれで良いのだな」 「拙者、一向に構いません」 「分かった。好きにするがよい」 こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。

別れし夫婦の御定書(おさだめがき)

佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★ 嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。 離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。 月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。 おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。 されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて—— ※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記

颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。 ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。 また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。 その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。 この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。 またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。 この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず… 大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。 【重要】 不定期更新。超絶不定期更新です。

もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら

俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。 赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。 史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。 もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。

処理中です...