ブリュー・デ・ブリュー

蒼月さわ

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 私が彼と出会ったのは、暑い夏の日の午後だった。
 その日はクラブの初練習にあたっていて、バカンス明け早々、リヴァプール近郊にある練習場に姿を見せると、バーン監督がグラウンドの脇に立ち、私と同様に初日から馳せ参じた少数の精鋭たちを眺めていた。

「地中海の船旅は、楽しかったようだね」

 私の日に焼けた顔を見ると、監督は英国紳士らしい穏やかな微笑を浮かべた。

「しばらく、行方不明になろうと思っていたんですけれどね」
「良かったよ。美しいヴィーナスに会わずにすんだようだ」
「ええ、残念なことに。監督もご家族と一緒にどちらかへ?」
「ああ、故郷に帰って孫と遊んでいたよ。五歳になる坊ずと一緒に虫取り網を振り回していて、フットボールのことなどすっかり忘れていた。だが、こうしてまたグラウンドに立っている。現実はこんなものだ」

 監督はゆったりとクッキーを噛むように喋った。前期、イングランドのサッカーリーグであるプレミアリーグと、伝統あるFAカップを制覇した「ノーザンプールFC」のクラブ監督は、短いバカンスをそれなりに満喫したようだった。だがこの口調を耳にすると、再びリーグ戦が否応なしに始まる現実を実感する。

「自主練習にしては、選手が集まっていますね。みんな恋人にでも振られたのかな?」

 グラウンドを見渡して、私は軽口を叩いた。八人のチームメイトが白地に赤い螺旋模様の入ったトレーニングウエアに着替えて、グラウンドを走っている。バカンス中に連絡をくれたゲイリーとキャプテンのエヴァレットもいた。全体の半分にも満たない人数だが、五人しかいなかった去年に比べればましである。

「初日だからね。まあ、良しとしよう」

 バーン監督は青縞のトレーニングウエア姿で、鷹揚に頷いた。銀色の前髪がかかる額には、粒状の汗が浮いている。おそらく監督が一番現実に戻りたくなかったに違いない。

「我々は昨季優勝した。その興奮はいまだに体中を駆け巡っているよ。だが、今日から忘れなくてはいけない」

 グラウンドを走る選手たちを眺めながら、監督は静かに言った。このイングランドリーグでクラブ優勝をした回数が最も多い監督のキャリアは、エヴァレットのパス捌きのように華麗だが、おそらくその頭の中には甘い残り香すらないのだろう。
 私もしばらくグラウンドを見つめた。鉄条のフェンスに囲まれた広い練習場に、去年は初日から参加していた同じフランス人仲間であるピエールの姿はなかった。ゲイリーと共にチームの優勝にも貢献したストライカーは、バカンスの最中に海を渡ってスペインへと移籍してしまった。そのチームはスペインでも強豪で、ヨーロッパのクラブ王座を決めるチャンピオンズリーグではライバル同士である。私がそれを知ったのは、バカンス先でのイタリアの新聞だった。

「仲間がいなくなってしまうというのは寂しいですね。ピエールはこのチームが好きでした。他のクラブへ移るのは、本意ではなかったでしょう」

 私は監督にだけ聞こえるように言った。

「クラブの経営も厳しいようですね」

 ピエールの移籍金は四十億円と書かれていた。クラブの経営が芳しくない話は、耳に蓋をしても入ってくる。財政を立て直す手っ取り早い方法は、有力な選手を他のチームへ売ることだ。ピエールはクラブの借金を清算する資金を得るために、馬や牛のように売られてしまったのだ。

「それはオリバー会長が考えることだよ、ヴィクトール」

 監督は私を振り返って、片目を瞑った。余計なことは考えるなと言いたいのだ。

「今期も君に期待している。チームの司令塔として、頑張って欲しい」
「去年と同じように、他のチームを蹴散らしてやりますよ」

 ピエールのぬけた穴は大きく、私も哀しいが、バーン監督ならばすでに善後策を講じているだろう。
 私は会釈をして、そばを離れた。バカンスで鈍った肉体を目覚めさせなければならない。軽く身体を動かして、グラウンドを走ることにした。
 だが、その前にバーン監督が手招きをした。 監督はグラウンドではなく、背後にあるロッジ風のクラブハウスを見ている。つられるように私も振り返ると、クラブハウスのドアが開いて、誰かが走ってきた。 
 監督が何事か口にした。英語ではない。仏語でもない。我々の前で足をとめたのは、一人の少年だった。

「紹介しよう。今期からノーザンプールにレンタル移籍してきた選手だ」

 その声に押されるように、少年が私を見た。アジア人だった。

「名前は、アイ・イソザキ。日本人だ。ポジションはフォワードだよ」

 紹介されている間、私たちと同じトレーニングウエアを着ている少年は、息を乱しながら私をずっと見上げていた。背丈が私の胸あたりまでしかないのだから仕方がない。

「フォワードですか」

 少年が何も言わないので、話の相手は監督にした。

「こんな華奢な体つきで、よくボールが蹴れるものですね」

 背も低く、体格も小さい。練習着を着ていても一目瞭然である。私には小学生に見える。

「彼はJリーグのトップストライカーなんだ。代表にも選ばれている。今年で十九歳だ」
「そのリーグことはよく知りません」

 少なくとも、チームメイトの間で話題になったことはない。

「日本人ですか」
「そうだよ。日本でもサッカーが盛んになってきているんだ。リーグも発足してだいぶ経つし、君の国で開催されたワールドカップにも初出場を果たしただろう? アジアでは強豪国だ」

 私は監督に失礼にならない程度に、失笑した。アジアサッカーのレベル自体がどれほどなのか、ここで説明しても仕方がない。監督は英国紳士なのだ。
 私たちが会話をしていても、少年は一言も口を利かなかった。呼吸は落ち着いてきたが、相変わらず東洋人特有の黒い瞳を、まっすぐに私へ向けている。丸くて小さい子犬のような目を。それも頑固そうな。
 ここで気がついた。この十九歳の少年は、おそらく英語が話せないのだ。

「通訳はいないのですか?」
「アイが拒否した。通訳がいては、英語を話せないとね。私も了承したよ。日本語は学生の頃にちょっと習っていたから」
「しかし、挨拶程度もわからないとなると、ボールを蹴るのもままならないでしょう。家庭教師でもつけたらどうですか?」 

 せめて、ハロウぐらい言って欲しかった。初対面なのだから。

「いや、話せないことはないんだよ」 

 監督が私を紹介するように腕を差し伸べて、何か喋っている。少年はその言葉に耳を傾ける仕草をして、再び私を見た。だがその唇は不機嫌そうに結ばれ、相変わらず睨むように見上げてくる。そのうちに、だらりと両脇に垂れた腕の片方が、面倒そうに動き、私の手前でとまった。
 私は冷ややかにその手を見た。

「まともに挨拶できるまで、語学教室にでも通いたまえ」

 監督に一礼し、その場を離れた。すばやく上着を脱ぎ、グラウンドを走る仲間たちに合流した。
 ゲイリーは集団の最後尾を走っていて、角ばった肩を軽く叩くと、汗が滲んだ逞しい顔に不敵な笑みを浮かべた。

「よお、ヴィクトール。地中海で、可愛いニンフにとっ捕まらなかったようだな。かわいそうに、また地獄へ戻ってくるなんて」
「監督にも同じことを言われたよ。地中海では毎日が薔薇色だったのに、不謹慎にも一本の電話が私を夢から目覚めさせたんだ」

 我がノーザンプールが誇る最強のストライカーは豪快に笑った。リヴァプールの下町で育った彼は、きつい訛りのはいった英語を喋る。大英帝国仕込みの礼儀正しい言葉遣いを習った私は、当初何を喋っているのか全くわからなかったが、四年も経つと平気で自動翻訳してしまえるのだから恐ろしい。だが、ゲイリーに言わせれば、私の話す英語も相当に訛っているそうだ。フランスワインの香りが鼻先まで匂ってくるらしい。

「ところで、ピエールのことは聞いたかい?」
「ああ、行っちまったんだってな」

 ゲイリーは同僚の頑丈な背中を睨みながら、ひどくぶっきらぼうに言った。
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