ブリュー・デ・ブリュー

蒼月さわ

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「仕方がないな。俺たちはクラブに買われた奴隷のようなもんだよ。へとへとに働かされ、邪魔になったら、あっちへ売られこっちへ売られ、最期には行く場所もなくなるのさ。昔のローマ時代にコロッセオで戦った連中と同じだ。違うのは、まぬけなエージェントがいるってことと、健康保険があるってことだけだ」
「ピエールが望んだ移籍だと思うかい?」

 ゲイリーは無言で肩をすくめた。

「ま、しょうがない。会長とフロントの連中がつくった借金は、ヒマラヤにあるエベレストみたいなもんさ。つまり大きすぎて、天井が見えないってことだ。あいつら、人のことこき使っていながら、経営が苦しくなったのは、俺たち選手が高給取りになったからって言っているんだぜ? 俺たちが去年出場した試合は、何試合だ? 毎年毎年試合数が増えているのは気のせいか? 試合のぶんだけ、儲けが出ているはずなのに、いったいどこにその金は流れているんだ? まったく、やってられないぜ」

 私は同意の意味で頷いた。クラブの経営が苦しいのは、どこの国も一緒だ。理由は色々とあるが、やはりきちんとした経営を心がけていたら、倒産も破産もあり得ない。

「ノーザンプールは、イングランドでも有数の優勝数を誇る名門中の名門クラブなのにね」
「まあな。けど、能無しオリバーも、少しは狡賢くなったようだぜ」
「どういう意味だい?」
「新しいスポンサーを見つけてきたらしい。金持ちジャパニーズさ」

 それは初耳だった。

「フルハシだってよ」

 聞いたことのある名前だ。世界的に有名な日本の自動車メーカーである。

「うちのクラブに出資して、車を売ろうって腹なようだぜ。そのうち俺たちのユニフォームに、新車の名前が並ぶかもな。企業の名前じゃなくて」

 私は吹き出した。足がつんのめって転ばないよう、慌ててバランスをとった。ゲイリーの皮肉には辛めのソースがぬられている。

「……日本か」

 走りながら、バーン監督へ目をやった。監督は先程の少年と肩を並べて、なにやら話し込んでいる。その姿は、まるで生活指導している校長と生徒のようだ。
 ゲイリーに話を振ってみると、やはり最初に紹介されていた。

「ま、ピエールの代わりなんだろう」
「君もそう思うか」

 どう考えても、移籍してしまったピエールの代わりに、あの少年が極東からわざわざやってきたとしか思えない。レンタルとはいえ、移籍は移籍だ。しかしなぜ、あの少年なのだろう。

「新しいスポンサーが関係しているのかもしれない」

 だが、ゲイリーは首を傾げた。

「さあな、能無しどもの考えることはわからねえ。バーン監督は色々と希望を出しているみたいだが、サンタクロースでも叶えることはちょっと難しいな。でも、あのジャパニーズは中々礼儀正しいぜ。へったくそな英語でも、きちんと挨拶はしたからな」

 今度は私が首を傾げた。先程、ハロウと言われただろうか? 

「シャイなんだろ、たぶんな。それとも世界のヴィクトール・ヴュレルに出会って、びびったんだろ、たぶんな」

 ゲイリーは他人事のように言って、欠伸をした。
 その日は、軽めの調整で終わった。シャワーを浴びる前に、ミーティング室へ全員呼ばれ、明日からはじまる合宿について説明を受けた。一ヶ月後のプレミアリーグ開幕戦に向けての、強化合宿である。クラブハウスを出る時、エヴァレットと一緒になり、ピエールのことで話しあった。エヴァレットもピエールとは仲が良かった。お互いに残念だと肩を叩きあった。
 翌日、愛車のポルシェで合宿所に到着した私は、馴れた赤煉瓦造りの宿舎に入り、いつもの部屋へ荷物を置いて、一階にあるドレッシングルームに急行した。宿舎の窓からは、広大なグラウンドで運動をはじめるチームメイトたちの姿が見える。まだ監督に言われた時間には若干早いが、我々は優勝候補にあげられるチームの一つなのだ。早く着替えなければならない。 
 ドレッシングルームには、まだ数名のチームメイトたちが残っていた。みなチームのシンボルカラーを取り入れた練習着に着替えている。一人一人と挨拶を交わしながら、自分の名前が貼られたロッカーを開けてジャケットを脱ぐと、背後から元気に肩を叩かれた。誰かと思ったら、レインだった。

「元気していた? ったく、もっと休みたかったよなー! 全然足りないよ!」

 ゲイリー同様に乱暴な発音をするレインは、チームの下部組織出身で、ポジションはフォワードである。まだ十八歳の若者だが、チームには欠かすことのできない才能ある選手で、イングランド代表チームへも選出された期待の若きストライカーだ。彼の趣味は髪の染色で、バカンス前は金髪だったのが、今は真っ赤になっている。地毛は確かブラウンだったはずだが、たとえどのような髪にしようと、サポーターからは愛されている存在である。

「君は、髪の色を変えただけで終わったようだね」

 鶏のとさかのような頭をからかうと、レインは舌打ちした。どうやら図星だったらしい。

「ところでさ、ピエールが移籍しちゃったんだって?」

 髪に関してはもう話したくないのか、話題を変えてきた。

「オレ、ピエールと仲が良かったから、すっげー残念! なんで、出てったのかなあ」
「クラブの事情だよ」

 シャツを脱ぎながら、子供にもわかるように説明した。

「お金の問題なんだ」
「でもさあ、ピエールはクラブの優勝にすっげー貢献したじゃんか。オレよりすごいよ。そういう選手を出すのかなー」
「バーン監督が望んだことじゃない。私たちにとっても、とても不幸なことだ」

 また気持ちが沈んできた。トレーニングウエアに袖をとおして、気持ちを切り替えることにした。

「でも、ピエールがいなくなって、フォワードは四人だろ。ゲイリーのおっさんに、ラースに、ステイに、オレ……」

 レインは起用に指を折り曲げて数えると、両手を軽くはじいた。

「そういや、うちに移籍してきた選手の話は聞いている? 今期は三名だってさ。フォワードも一人いるんだよ」
「日本人だろう?」

 自国製の革靴を愛用のスパイクシューズに履き変えた。

「もう会ったかい?」
「ううん、まだ。でも、楽しみさ」

 レインは弾けるように笑った。私はその背中を叩き、他に残っていたチームメイトたちとも連れ立って、グラウンドへ急いだ。私たちが最後のメンバーだったようで、やがて全員集合となった。
 バーン監督は時間どおりに現れた。昨日と同じ青縞模様のトレーニングウエア姿で、今からジョギングにでも行きそうな雰囲気である。整列した私たちを前に、いつもどおりゆったりとした口調で、新シーズンへの決意を語った。監督の背後には、チームを支える歴戦のスタッフたちが揃っている。これから二週間の合宿生活が始まる。
 一日目はランニングから始まった。
 故障を抱えていたり、怪我から復帰したばかりの選手たちは、それぞれチームドクターに許された範囲での独自の練習メニューをこなす。だがそれ以外、正常な選手たちは決められたトレーニングをこなさなくてはならない。
 グラウンドを数周走ったあと、敷地を出て、舗装されたアスファルトの山道を走った。登りあり下りありの起伏に富んだ道程である。私たちは二列で出発したが、すぐにマラソンランナーのようにばらばらになった。

「俺たちの使命は、どこまでも走ることなのさ」 

 手前にいるゲイリーは口笛を吹いている。
 クラブの合宿所は、宿舎に食堂、トレーニングセンター、シャワールーム、ドレッシングルーム、グラウンドなど、全てが完備されている。クラブがチームのために建てたもので、環境も良く、緑の森林が涼しげな空気を提供してくれる。匂い豊かな木々が風に吹かれて揺らぐさまには、いつも心が安らぐ。クラブ関係者や取材記者たちも一緒とはいえ、練習に集中できるのはありがたい。
 しばらく走っていると、前方で揺れる赤いとさかが目についた。レインだ。
 レインの隣には、黒髪の日本人がいた。
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