ブリュー・デ・ブリュー

蒼月さわ

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 目的のフラットは、リヴァプールの中心街から少し外れた住宅街にあった。
 車で乗りつけ、近くの駐車場に預けたあと、歩いて向かった。通りの道端は路上駐車で溢れかえっている。周辺は治安が良く、表通りはデパートや映画館、レストランにパブなどが軒を連ねた繁華街で、華やかなネオンが洪水のように溢れかえっている。だが少し通りを離れれば、停電にでもなったかと思うような暗闇になる。氾濫する車や人の往来を避けながら、路地裏にある建物に辿り着いた。
 石造りの階段をのぼり、玄関の扉を押し開けた。ランプ形状の小さな灯りが四方に置かれている。私は足下の影を確かめて、階段をあがった。四階建てのフラットの三階に、彼の部屋はあった。
 監督に教えられた部屋はすぐに見つかった。番号二一。彼の背番号と同じである。
 その扉を前にして、少々躊躇ってしまった。数時間前に、スタジアムのドレッシングルームで別れたきりである。彼が帰ってきている確証もない。まるで父親に怒られ家出した子供が自宅へ帰るべきかどうか迷っているように、私も悩んだ。だがここまで来た以上、何もしないのは無意味である。数分間逡巡したあと、意を決してノックをし、間隔をおいて繰り返した。
 応答はない。
 耳を澄ませて、扉の向こうに集中した。しかし人の動く気配がしない。がっかりした。ここでないとすれば、どこだというのだ。十九歳の日本の青年がロンドンの夜を過ごすのに、自宅以外で安らげる場所といえば、まっさきに恋人の家が浮かぶが、もう一度だけ部屋のドアをノックすることにした。
 すると、奇跡がおこった。しばらくして、僅かにドアが開いたのだ。そのすき間から、ドアノブを握った彼の顔が現れた。
 彼は眠っていたのか、気だるそうに目だけをあげた。だが私に気がつくと、突然夢から目が覚めたかのように、顔を強張らせた。私は彼を刺激しないよう、努めて穏やかに挨拶をした。

「やあ、元気かい?」

 返事はなかった。当然かもしれない。驚いたように私を凝視している。

「今、いいかな? 今日のスタジアムでの一件を詫びたいんだ」
「……別に気にしていません」

 彼は素っ気なく目を逸らした。悪夢がぶり返しているのかもしれない。だが追い払われるわけにはいかない。

「入らせてもらうよ」

 強引にドアをこじあけた。その反動で彼は前屈みに倒れそうになり、私は腕を差し伸べて体を支えた。彼は呆気にとられた様子で私の腕を掴んだが、構わずに引きずるようにして室内へ足を踏み入れた。
 彼のフラットは、一人暮らしにはほど良い広さだった。家具やテーブル、ソファーなどが備えつけられてある。続き部屋はベッドルームになっていて、残りの部屋がダイニングキッチンとバスルームとトイレに違いない。
 まるで取調べに来た警察官のように部屋中を見渡し、細長の木製のチェストの上にあるロウソクと懐中電灯に目をとめた。ロウソクの芯は焦げていた。

「停電にでもなったのかい?」

 私の問いかけにも、彼はまともに応えられなかった。部屋のすみで呆然と立ち尽くしている。私がこの部屋にいること自体が信じられないかのようだ。あまりにもマネキンのように立っているので、気でもおかしくなったのかと思った。

「君、いつまでそこに突っ立っている気なのかな? ドアを閉めてくれないか」

 その声で、たった今目が覚めたとでもいうように、よろめきながら後ろを振り返って、部屋のドアを閉めた。いまので正気に戻ってくれるとありがたい。

「せっかくだから、紅茶かエスプレッソでもご馳走してくれないか。できれば、エスプレッソをお願いしたいのだけれどね」

 彼はぽかんと口をあけ、面食らったように私を見つめた。珍種の生き物にでも出会っているかのような驚きが、手にとるように伝わってくる。しかし私は、このフラットのダイニングキッチンのどこに、エスプレッソの器具やコーヒー豆やカップやソーサーが置いてあるのかわからない。

「君の分も入れて、一緒に飲みながら語りあおう」
「……でも」

 私は大きく手を叩いた。彼はびっくりして、言葉を呑み込んだ。バーン監督は自分に注目して欲しいときに、よく手を叩く。

「行くんだ」

 有無を言わせなかった。

「私は君と語りたいんだ。それにはエスプレッソが必要だ。わかったかな?」

 彼は壊れた機械のように瞬きを繰り返した。言葉の意味を理解してくれるまで、あと数十回は必要のようだ。だがようやく止んだと思ったら、頑固そうな光が瞳のなかに甦った。

「語りたいことって……何ですか?」

 あのいつもの睨む眼差しまで復活している。私は室内を見渡すふりをして、沈黙を投げつけた。窓をおおう淡い空色のカーテン。部屋のすみに置いてある小さな液晶テレビ。タブレットにスマートフォン、数本のDVDや本……部屋主の性格を反映してか、生活必需品が簡単に置かれているが、やはりロウソクと懐中電灯が気になる。
 無言の圧力にも、彼はへこたれずにその場を動かなかった。仕方がない。立ったまま、話すことにした。

「単刀直入に聞こう。君はクラブとスポンサーの契約で、我々のクラブに移籍してきたのかい?」

 彼の睨みぶりがライオンのように鋭くなった。

「クラブが日本企業と契約する代償として、日本企業は日本人選手をクラブに入団させるよう求めた。これは事実かい?」

 もし本当なら、彼は実力を見せないかぎり、チームメイトから永遠に軽んじられるだろう。我々の世界は実力だけが物を言うのだ。
 彼はしばらく微動だにしなかった。足下がセメントで固まったかのように、身動きもしない。強情そうに唇を引き結んで、私を強く見据えている。揺らいでいる船の鋼板に立ちながら、波の激しさに必死に耐えているような感じだ。体は小柄だが、頑固な魂はまるで岩だ。鶴嘴を下ろしても、簡単には砕けそうにない。

「君は……」

 ふいに、彼は顔を背けた。

「……嘘ではないと思います」

 やがて、搾りだすような声が聞こえてきた。

「その話は、自分がノーザンプールから受けたオファーの理由の一つだと……代理人から教えられました……でも!」

 横顔が再びまっすぐになった。

「でも! 俺は自分が下手糞だとは思っていません!」

 挑むように叫んできた。

「他のストライカーに比べたら、俺は劣っているかもしれません! でも俺はけして金のためだけに呼ばれたんじゃない! 日本のファンにユニフォームを買わせるためだけに入団させられたんじゃない! 俺は……世界最高のクラブでサッカーをやりたいから来たんです!」

 私は無言で頷いた。ノーザンプールはプレミアでも屈指の名門であり、世界中に名の知られたクラブだ。誰もが憧れてやまない。

「俺はサッカーをしたくて来たんです! ただそれだけです!」

 叫び終わるのを待って、私は彼のそばに近寄り、肩に手を置いた。

「だから、語りあおうと言ったんだ。そのためにはエスプレッソが必要なんだ。お願いだから、淹れてもらえないかい? 私はこのフラットへ足を踏み入れるのは生まれて初めてで、何がどこにあるのか知らないのだよ」

 数分後、香ばしい匂いとともに、彼は部屋へ戻ってきた。
 テーブルに二つのカップを置くと、無言で一つを私の前に押し出した。他に選択肢がないから置いたというような愛想のなさだが、ここはカフェではないので、サービスを期待しても無駄だ。

「メルシィ」

 カップを覗くと、コーヒーのブラックだった。口につけると、まあまあの味である。不味くもなければ美味くもないという絶妙さだ。どう飲んでもエスプレッソではないが、日本人の家にはそういった器具がないのかもしれない。
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