ブリュー・デ・ブリュー

蒼月さわ

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 彼も私と向かいあって座ると、一口飲んだ。が、すぐに鼻に皺が寄った。舌までは出さなかったものの、カップを下に置いた。見れば私と同じブラックである。別に砂糖やクリームを入れても笑わないのだが。
 私はそ知らぬ顔でコーヒーを飲んだ。どういうわけか、また私を睨みつけている。まだ何か叫びたりないことでもあるのだろうか。よくわからない青年だ。怒ったり泣いたり、頬を紅潮させたり……
 そうか。私の頭に天啓が舞いおりた。

「それは癖かい?」

 彼は訝しげに目を細めた。私はカップに口をつけながら、顎をしゃくった。

「その人を睨みつけるのは、緊張したりあがったりしているときの癖なのかい?」
「……えっ?」

 私の指摘に、彼は亡霊にでも告白されたかのように青ざめた。

「知らなかったのかい? 君はずっと私を睨みつけていたんだよ。クラブのグラウンドで初めて会ったときからね」

 彼は文字通り目が点になった。慌てて両手で顔を押さえ、粘土をこね回すようにあちこち触る。だが彼の顔は粘土で作られているわけではないので、変わるわけがない。

「に、睨んで……たんですか……」

 ひっくり返ったのは声だった。私は天使のように微笑んであげた。

「そうだよ。なぜ君に睨まれなければならないのかわからなかった。面識もなかったしね。君の恋人でも知らないうちに奪ったのかと、本気で考えたよ」
「――まさか!」

 彼は勢いよく身をのりだし、テーブルに膝をぶつけた。そばにあったカップが揺れ、中身がこぼれる。黒い液体が、透明なテーブルに小さな水溜りをつくった。驚きの表現にしては、見事な連鎖反応だ。

「私は人の癖に興味はないが、君のその目つきが悪くなる癖はどうにかしたほうがいい。それのせいで、いつか不測の事態に直面するかもしれないよ」
「……気をつけます」

 チェストの上にあるティッシュ箱を持ってきて、水滴を拭きながら、彼は赤面した。私の言う不測の事態を思い起こしたかのような羞恥ぶりだ。昔何かあったのかもしれない。ところで、膝は痛くないのだろうか。
 カップを口から離し、静かに置いた。私の目の前で、彼はまだ恥ずかしがっている。ひょっとすると、足の爪先まで真っ赤になっているのかもしれない。
 シャイな性格なんだ――バーン監督の言葉が甦り、自然に笑いがこぼれた。彼は拭いていた手をとめて、釣竿に引っかかったように顔をあげる。

「君はドイツに留学していたそうだね」

 私は話題を変えた。少々会話を楽しみたかった。

「サッカーのために留学したのかい?」

 彼は明らかに狼狽したが、律儀に相槌をうった。

「どうしてドイツを選んだんだい?」

 あのゲルマン人の国が、過去ワールドカップを制覇したサッカー強豪国なのは、スポーツ史を紐解けばすぐにわかる。だがドイツ以上の強豪国は他にもある。

「三国同盟の名残かい?」

 彼は私の冗談がわからなかったようで、真面目に首を横に振った。

「いえ……高校の部活でお世話になった監督が、昔ドイツ人の先生にサッカーを習っていて……その関係で、自分も留学できたんです。一年間でしたけど」

 所々早口になりながら、短い説明をしてくれた。概要はわかった。しかし私と話すのに、それほど緊張するのだろうか。目つきがまた険しくなっている。

「そのために、英語を覚えたのかい?」
「いえ、あの……最初はドイツ語を覚えようとしたんですけど、英語を覚えることになってしまって……」

 意味がよくわからない。

「ドイツ語を話せなくて、大変だっただろう?」

 彼は曖昧に頷いた。どうもあまり話題にしたくないらしい。ドイツのクラブに馴染めなかったのは、彼らの言語を話せなかったことも理由の一つではないか。別にドイツ語を話せなくても人生に困るわけではないが。

「君は間違っていないよ。英語の方が利便性では上だからね」

 彼の名前を口にしようとしたが、咄嗟に出てこなかった。なんてことだ。記憶が戸惑っている。名前は……なんと言っただろう。確か……

「……アイ」

 目の前の青年は、突然鞭で打たれたように背筋をのばした。

「これからアイと呼んでも構わないかい?」
「……はい」

 アイは両膝を揃えて、その上に両手も揃えて、行儀のお手本のような素晴らしい姿勢をつくっている。まるで教師の教えを請う生徒のようだ。私はくすくすと笑った。
 アイは恥ずかしさを紛らわそうとするかのように、黒髪の頭を掻いた。その仕草が、妙にあどけない。初対面のときに感じた少年の匂いが漂ってくる。それは若葉のようなみずみずしさだ。何年か前には、確かに私の手のひらの中にあったものだ。
 私は再び白いカップを手にとり、一口含んだ。ブラックコーヒーはぬるくなっており、味が白けている。せっかく淹れてくれたのだから、全て胃の中におさめるのが日本流の礼儀だろう。フランスだったら、もはや存在しないものになるが。
 アイも気を落ち着かせようとするかのように、自分のカップを手にして口元に引き寄せた。もしかして飲む気だろうか。案の定、口にした瞬間に表情がまずくなった。自分のカップの中身を覗き、今はじめて知ったというかのように目を丸くする。

「私と話すのは、それほど緊張するものなのかな?」 
「……え?……い、いいえ、そんなことは……」

 勿論あるのだろう。必死になって首を横に振る仕草がおかしい。少々動転しすぎているのかもしれない。
 コーヒーの後始末をしながら、私は彼のことを考えた。アイはとても素直な青年だ。ただし、誤解される星の下に生まれている。うまく回らない舌をもう多少ほぐし、あの身の危険に関わる癖を直せば、より楽しい毎日を過ごせるはずだ。この異国の土地でも。
 アイは身の置き所がなさそうな様子で小さくなっている。そのワイシャツの首周りはボタンが外されていて、細い首筋がさらけ出されている。服のサイズは大きめなので、よけいにほっそりとした体つきがわかる。黒いジーンズも足の線をなぞるように細い。シャワールームでも感じたが、本当に華奢な肉体だ。
 もしこの腕で抱いたら、雪のように粉々になって、私の手のひらの中へ落ちてくるかもしれない。
 そう思い、苦笑した。埒もないことを考えた。いくら恋人がいないからといって、チームメイトと関係をもつのは私の主義に反する。
 妙な気分になった。潮時かもしれない。

「さて、そろそろ……」

 カップを置いて、ソファーから腰をあげかけた時だった。突然部屋の明かりが消え、暗闇になった。まるで天井から黒い弾幕がかぶせられたかのように、何も見えなくなった。私は反射的に周囲を警戒し、目を凝らして、隈なく見回す。疑う余地はない。あの使用済みのロウソクと懐中電灯が答えだ。
 アイも驚いたのか、慌てて立ちあがろうとしたらしく、テーブルにぶつかる音がした。呻き声が聞こえる。また同じ箇所をぶつけたのだとしたら、それは痛いだろう。

「停電のようだね」

 まだ目は慣れていないが、慎重にその場を離れ、手探りで窓辺に近寄った。大体の配置は頭に残っている。足下に気をつけながら少し進み、伸ばした手が柔らかい布に触れた。カーテンだ。それを掴んで、横に強く引っ張った。外の光景が現れた。夜空の下、街路沿いの電灯は明るく、繁華街のネオンも眩しい。どうやら異常はこのフラット限定のようだ。

「て、停電のようですね」

 彼の声は痛そうだった。

「前にも一度あって……ちょっと待っていてください」

 そう言うと、暗闇の中を動く気配がした。

「待ちなさい。私が取ってこよう」

 下手に動いたら、今度は脹脛や足の指をぶつけるかもしれない。私の方が安全だ。
 辺りに気をつけながら、右側へ寄った。確か、床に雑誌が数冊置いてあった。靴が硬いものを踏んだので、それだ。申しわけないが、そのまま進んだ。チェストの左に、目的のものは置いてあったはずだ。
 それにしても、視界が塞がれているというのは不便である。まるでパントマイムのように、手や足が動いている。ネズミが電気のコードでも齧ったのだろうか。その犯人は感電して転がっていることだろう。
 いきなり手が壁にぶつかった。随分柔らかいと思ったら、彼の背中だった。

「少し……待っていてください。今、懐中電灯をつけるんで……」

 私の手前で、カチカチというスイッチを押す音がした。だが、明るくはならなかった。

「電池が切れているんじゃないのかい?」
「でも、この前はちゃんと……」

 私は彼の背中から腕をまわし、手探りで彼の手首を掴んだ。少女のように細かった。

「貸してごらん」

 アイは手首を掴まれて肩越しに私を振り返ったようだが、すぐ後ろにぴったりと立っている私に、さらに驚いたようだった。背後から彼を抱くような姿勢で私は懐中電灯を奪い取ると、スイッチらしき場所を何度か押した。しかし駄目だった。

「これは役に立たないよ。他になにかないのかい?」
「……えっと……ロウソクが……」

 ロウソクはあった。だがロウソクだけでは明るくならない。芯に火をつけないと。

「ライターはないのかい?」

 彼は返事をする代わりに、身を屈めて、チェストの引き出しをあけた。中を引っ掻き回しているようだ。目が使えない時、まっさきに頼りにするのは手だ。私は腕を戻し、彼の作業が終わるのをすぐ背後で待った。私の手も、目ではわからないものを伝えてくれた。

「……どこいったんだろう」

 困ったような呟きが聞こえる。どうやらネズミにでも持っていかれたようだ。ここのネズミは何かを企んでいたに違いない。

「もういい、アイ」

 しゃがみこんでいる彼の肩を叩き、腕を掴んで立ちあがらせた。無いものに執着してもしょうがない。相変わらず室内は夜の闇だが、しばらくすると目も慣れてくるはずだ。運が良ければ、空が明けるまでには修復されるかもしれない。期待はしないが。
 アイを連れて、慎重にソファーに戻った。彼を座らせ、私もその隣に腰をおろす。このような状況で、アイを一人残して帰るわけにはいかない。もっとも、もはやその気もないが。
 私たちの前に、しばらく沈黙がたれ落ちた。 

「あの、停電は初めてじゃないんです……」

 アイはこれ以上黙っていたら窒息してしまうというように、ぽつりと言った。

「そのようだね」

 私は暗がりの効用に思い立った。それは自分の表情が相手に見られないということだ。

「このフラットは、それほど古いのかい?」
「そうでもないとは思うんですけど……」

 自信なさそうに言葉を振る。私は彼の方へ首をまわした。うっすらとだが、小さな顔がわかる。少し腕を動かせば、手が届く。

「でも、管理人のロジャースさんが、もしかしたらどこかの配管が壊れているかも……」

 彼の口がかたまった。私が腕を伸ばし、ひとさし指を軽くあてたからだ。驚いたことに、指はまっすぐに彼の唇を探し当てた。

「少し、黙ってくれないか」

 あとから考えると、どうしてそういう気持ちになってしまったのか、自分でもわからない。暗闇と静寂が私を惑わしたのかもしれない。

「恋人はいるのかい?」

 アイはびっくりしたようにかぶりを振った。私の指はアイの唇と息を感じている。

「ならば、大丈夫だね」

 私は指を離すと、その手でグラスを掲げるように彼の顎を持ちあげて、口を重ねた……
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