或ル呉藍月ノ物語リ

蒼月さわ

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 蓮は反射的に空を見上げる。その視界に小さな影が入った。それが何かわかるよりも先に、シキが鋭く叫んだ。

「逃げろ!」

 影に向かって長い尾を跳ね上げながら駆けて行く。
 
「シキ!」
「見つけたぞ!」

 金色の髪をなびかせた半人半鳥が獲物を捕らえようとするように急降下すると、刃のような爪を剥き出しにしてシキに襲いかかった。
 シキは尾の先を振りあげて、半人半鳥の腹部に激しく叩きあてる。

「ぎゃあ!」

 半人半鳥は横様に弾き飛ばされる。
 蓮はシキを助けに行こうとした。だが、森林の奥が急に騒々しくなったかと思うと、大きな歓声と共に何人もの半人半獣たちが現れた。

「いたぞ!ヒトだ!」
「捕まえろ!今度こそ逃すな!」

 怖ろしい咆哮を上げながら、地面を揺るがす激しさで向かってくる。
 蓮はこぼれんばかりに目を見開いて、その一群を凝視した。突然の出現に、凄まじい恐怖が全身を襲い呼吸が早くなる。

 ――逃げないと……

 しかし両足は縫いつけられたように動かない。

「レン!」

 鞭を振るような厳しい声が、微動だにしない蓮を我に返らせた。
 シキは身を翻すと、立ち竦む蓮を両腕で抱きかかえ【門】へと走り出す。

「……シキ!」

 蓮のうろたえる目にシキの横顔を映った。まっすぐに【門】だけを見据える表情は、今まで見たことのない緊張で漲っていた。

「……早く【門】へ……」

 と呟いた声が、うっと呻いた。

「シキ!」

 シキは弾かれたように仰け反って、両腕で抱えていた蓮を地面に落とす。荒い息を吐き出し、苦しげに身をよじった。
 蓮は地面を這いながらシキに縋りつく。シキの蛇の胴体には、長い槍が深々と突き刺さっていた。

「よくもこの間は我が兄弟を殺してくれたな!」

 まだ少年のような半人半馬が拳を突き上げて、疾風のように駆けて来た。

「我々の邪魔をする蛇め! 毒でのたうち回るがいい! ヒトを喰らったら、お前の生皮も剥いでやる!」

 そうだそうだと囃し立てる声が巻き起こる。
 蓮は震える手で、必死にシキを抱きしめた。刺さった箇所からは、白い鱗を塗りつぶすように赤い血が溢れ出ている。

「……行け」

 蓮は両腕の中を見た。シキは血の気の失せた顔で、苦しげに息を吐いていた。

「早く……行け……」

 言葉と共に唇から落ちたのは血だった。

「……私が……防いでいるうちに……」

 シキは残った力を振り絞るように、弱々しく起き上がろうとする。

「……何言ってんだ! 喋るな!」

 蓮の目が涙で濡れる。

「絶対助けてやるからな!」

 だがシキは辛そうにかぶりを振った。

「……私は……ここで、お前を……守る……」

 だから行けと、血で汚れた口元が安心させるように薄く笑む。しかし蓮の目からは涙が溢れ出た。

「お前を置いていけるか……」

 胴体に突き刺さった槍には、毒が塗られてあった。以前に同じく毒槍を喰らって死んだ半人半馬が思い浮かんだ。口から大量に吐き出された血。苦痛に歪んだ顔――蓮はあらゆる力をかき集めて、しっかりと胸でシキを抱きしめた。そんな惨い運命から絶対に守ろうとするかのように。
 レン……とシキは力なく呟く。
 半人半獣たちが大声をあげながら二人を取り囲もうとする。
 蓮は一瞬、【門】を見た。自分とシキが困難を潜り抜けながら目指したものは、すぐそばにある。
 そこに、何かが見えた。
 蓮は霞む視線を寄せ集めて、それを睨む。
 【門】の向こうにいたのは、小さな蛇だった。
 草むらの中に潜み、じっと二人を見つめている。

 ――そうだ……

 蓮の記憶の中で、突如霧が晴れたように鮮明になった。

 ――あの夜、俺が足を止めたのは……

 鳥居の向こうに、小さな蛇がいたからだ。
 石段の上から自分を見下ろしていた。
 そして、赤い月が……

「ヒトを喰うぞ!!」

 半人半獣たちが我先に襲いかかり、あっという間に二人の姿は覆い尽くされた。
 風が、妙に冷たさを帯び始める。
 平野に落ちる黒い影が、野火のように広がってゆく。
 最初に気がついたのは、シキに弾き飛ばされた半人半鳥だった。
 体勢を立て直しながら振り返り、あっと悲鳴をあげる。

「空が!!」

 夢中になっていた半人半獣たちもまた、ようやく異変に気がついた。

「……暗い……」

 いつのまにか、周囲は暗く沈んでいた。溢れんばかりに眩かった太陽は隠れ、空は暗闇へと衣を変えてゆく。昼であったはずが、突然に夜の世界へと変貌してゆく。
 半人半獣たちは息を呑んで辺りをうかがった。
 また、誰かが悲鳴をあげた。

「あれは!!」

 太陽が高く昇っていた場所に浮かんでいたのは、半人半獣たちが最も忌むべき光景だった。

「クレアイ月だ!!」
「禍つ月だ!逃げろ!」
「早く姿を隠せ!!」

 半人半獣たちは互いを押しのける勢いで、森の奥へと走って逃げる。
 夜になった空に孤高の如く現れた呉藍月は、端然と浮かんでいた。それは闇夜に咲いた大輪の華のように艶やかで、また仰ぐ者を魅入らせようとするばかりに美しく、地上の生き物たちの狂騒をただ静かに見つめていた。それは蓮が確かに目にした赤い月であった。
 やがて、再び光が地上を照らす。
 身を潜めていた半人半獣たちは、周囲が明るくなったのを確認してから、恐る恐る森から出てきた。呉藍月が浮かんでいた空には、太陽が何事もなかったかのように輝き、雲一つなかった。
 半人半獣たちは、ほっとしたように自分たちが襲っていた場所へ急ぐ。
 だが、そこに二人の姿はなかった。
 半人半馬は、自分が投げた槍がそばで転がっているのに気がついた。その隣に落ちてあるものを見つけ、手で拾い上げる。
 それは、二つの蛇の小さな抜け殻だった。
 一つは白い鱗のもので、もう一つも同じく白かったが、何故か小さな穴があった。その穴は傷のようなもので、赤い染みが付いていた。
 他の半獣たちも、それを覗き込む。
 互いに不思議そうに顔を見合わせるが、それが何なのか、ついにわからなかった。
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