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閑話 壱
閑話 千里眼フジタ・コウシロウ
しおりを挟むロックハンマー侯爵は、美食家であり、健啖家でもあった。
領地の街や村を視察で訪れたときは、必ずその土地の名産品などを大量に食べる事で有名である。
各街や村もその事をよく知っており、彼が訪れた際はたくさんのご馳走を用意するのが通例になっていた。
ロックハンマー侯爵は領民にすこぶる受けがよく、彼を持て成す事は領民にとって喜びとなっているのだ。
しかし。
今回の件でハンスの街を訪れたロックハンマー侯爵は、ずっと一般の兵士達と同じ食事を取っていた。
ハンスが事前に手配していた、兵士達向けの炊き出しである。
普通、貴族は戦場であっても、一般の兵士とは違うものを食べるものであった。
専属のシェフを引き連れ戦場にやって来て、わざわざフルコースを作らせるものも珍しくは無い。
だが、元来武家の名門であり質実剛健を尊ぶロックハンマー侯爵は、そういった手間や労力を嫌っていた。
平時であれば食に労力を惜しまないのであるが、非常には一切頓着しないのだ。
そういった気質が、領民が彼を慕う一端になっているのだろう。
そんなロックハンマー侯爵も、隣国の実験部隊を乗せた護送馬車を送り出した事でようやく一息つくことが出来た。
街の住民やハンスが、手ぐすね引いて待っていた瞬間である。
ロックハンマー侯爵においしいものを食べてもらう事は、街の住民にとって名誉や喜びであるだけではない。
彼にその味を認められれば、その食べ物の名声は一気に領地中に広がることになる。
特産品の少ないこの地方の街にとっては、途轍もないチャンスでもあるのだ。
ロックハンマー侯爵に食事を出すというのは、住民達にとっては戦なのである。
当然住民達は今回のロックハンマー侯爵の来訪には、並々ならぬ気合を入れて挑んでいた。
たとえ非常時であるとはいえ、事件が解決すればきっと食事を楽しんでいただく時間も出来るはずである。
その一瞬に、この地方の街の全力を注ぐしかないのだ。
自分たちの命がかかっているかもしれないときでも、街興しのチャンスは見逃さない。
そのぐらいがっついていかないと、こんなド田舎の地方街はすぐに寂れてしまうのである。
さて、ようやく事件が一応の決着を見て、ロックハンマー侯爵はゆっくりと食事を楽しむ時間を作る事ができるようになった。
待ってましたとばかりに勢い込む住民達だったが、ここで思わぬ事態が起きたのである。
なんと、ロックハンマー侯爵は事件が解決したからと、明日には出立してしまうというのだ。
これは非常事態である。
出立当日はあわただしく、ゆっくり食事を楽しむ暇など無いだろう。
昼食は既に終わってしまった時間帯だから、チャンスは夕食の一度きりという事になる。
その一度を、最大限生かすにはどうすべきか。
最高の食材を用意し、最高の調理を行わなければならない。
そこで白羽の矢が立ったのが、コウシロウであった。
既に数ヶ月間この街で暮らしている彼は、この地方の料理なども良く知っている。
作ることが出来る料理の幅も広く、その腕前は街随一といってもいい。
瞬く間に、コウシロウの下へ大量の食材が運び込まれた。
川で取れた新鮮な魚介類に、山の幸。
牧場で作られる魔獣肉や、乳製品に卵等々。
コウシロウの店は、軽い物産展のような状態である。
だが、ここで問題も起きていた。
皆慌てるあまり、コウシロウに趣旨を説明していなかったのである。
あまりコウシロウが街に馴染んでいた為、当然ロックハンマー侯爵へ食事を出す事の意味も、知っているものだと思い込んでしまったのだ。
それを訂正してくれそうなハンスも、今は兵士たちの撤退作業の手伝いをしている。
とりあえずコウシロウが理解できているのは、ロックハンマー侯爵が食事をしに来る、という事だけであった。
「まあ、おいしいものを作ればいいんですかねぇ」
とりえずそう結論付けると、コウシロウは早速仕込みに取り掛かるのであった。
素材の下準備を進めるなか、コウシロウはドアの開く音に顔を上げた。
外には閉店の看板をかけておいたので、誰も入ってこないはずである。
入ってくるとすれば、納品に来た誰かか、腹をすかせてミツバぐらいだろうか。
不思議に思ったコウシロウが顔を上げると、そこに居たのはなんとロックハンマー侯爵であった。
護衛らしき数人の兵士と、副官であるセヴェリジェを引き連れたロックハンマー侯爵を見て、コウシロウは驚いたように目を見開いた。
「これは。いやぁ、驚きました」
「少し早く来てしまって、すまないね。実は料理をしているところを見せて欲しいと思ってね」
「はぁはぁ。料理をしているところを、ですか」
不思議そうな顔をするコウシロウに、ロックハンマー侯爵は大きく頷いて見せた。
「私は見ての通りものを食べるのが好きでね。そのせいか、作っている過程を見るのも好きなんだよ」
「ああ、なるほど。そういうことですかぁ」
ロックハンマー侯爵の言葉に、コウシロウは納得が行ったという様子で頷いた。
食べる事に興味がある人の中には、作る過程にも興味を示す人もいる。
日本でも食べ物屋を営んでいたコウシロウは、そういう客も何人も見てきていた。
特に日本という国はそういった趣向を好む人間が多く、コウシロウ自身様々なところで料理を作ってきている。
コウシロウはいつもの人好きがする柔和な笑顔を浮かべると、ゆっくりと大きく頷く。
「分かりました。では、どうぞそちらのカウンターに掛けてご覧ください。お気に召して頂けるかわかりませんが、一つ気張るとしましょう」
「よろしく頼むよ。実に楽しみだね」
コウシロウの店には、調理場を見渡せるような位置にカウンターが付いている。
ロックハンマー侯爵がそこに腰掛けるのを確認すると、コウシロウは早速といったように動き始めた。
まず手に取ったのは、小鉢である。
カウンターのすく脇においてあった寸胴におたまを入れると、コウシロウはその中身を小鉢へと移した。
立ち上る湯気と美味そうな香りに、ロックハンマー侯爵は小さく「おお」と声を上げる。
「ご覧になっている間、よろしければこちらをお召し上がりください」
「これは……肉を煮込んだもののようだね」
ロックハンマー侯爵の言うように、それは肉を煮込んだものであった。
ただ、香ばしいその香りは、様々なものを食べてきたロックハンマー侯爵でもかいだ事の無いものである。
肉は一口より少し大きい程度の大きさのブロック状になっており、それが小鉢には三つほど入っていた。
赤身の部分は黒く染まっているようであり、脂身の部分はやや赤黒くなっている。
全体的に黒く染まったその様は一見気味悪くも感じるのだが、よくよく見ればしっとりと肉汁が噴出しそうなほどやわらかそうである事が見て取れた。
出された一瞬は眉をひそめるものの、見れば見るほど美味そうな肉の照りと、香ばしく独特な香りに、ロックハンマー侯爵の目は煮込み料理に釘付けになっている。
「これは、私の故郷にある角煮と言う料理を再現した物でしてねぇ。大豆で作った醤を使って、肉を煮込んだものです」
「ほぉ、魚で作る魚醤は知っているが、アレは大豆でも作るのだね」
ハンス達の国には大豆で作る醤油こそ無かったが、魚で作る魚醤は存在している。
これはかなりポピュラーなものであり、山間にあるこの街でも簡単に入手する事ができた。
国中で使われているため、ロックハンマー侯爵も魚醤はよく知っていたのである。
「ううむ。それで肉を煮込んだわけだね。なるほど、魚由来のものでなく植物由来のものであれば、味の調和が取りやすいということかな」
ロックハンマー侯爵は早速、角煮にフォークを入れた。
使っているのは、金属よりもこちらの方が良いといってコウシロウが出した、木製のものだ。
切り分けるのにはナイフがいりそうなものだが、コウシロウはそれで十分だという。
角煮にフォークの横腹の部分が当ったとき、ロックハンマー侯爵はその意味を理解した。
この肉の塊は、かろうじて今の形を留めているだけなのだ。
さしてとがってもいないフォークなのだが、それでも肉の塊はほろほろと解けるように崩れていく。
これはまるでプティングにスプーンを入れるような感覚だと、ロックハンマー侯爵は思った。
だが、これはあくまで肉の塊だ。
これほどやわらかくするには、一体どれほど煮込む必要があるのだろう。
肉をやわらかく煮込んだシチューなどは食べた事があるロックハンマー侯爵であったが、ここまで柔らかな肉は見たことが無かった。
フォークで崩した角煮を、ロックハンマー侯爵は口へと運んだ。
隣にいるセヴェリジェや兵士達が毒見が必要だなどと囁きかけてきたが、それどころではない。
口に入り、舌の上に肉を載せた瞬間、極上の肉汁が染み出してきた。
まるで解けるように柔らかなその食感は、ひき肉のパティに似ているだろう。
いや、ロックハンマー侯爵にはそれよりもずっとやわらかく、それでいてたっぷりと肉汁を含みジューシーに感じた。
なによりも、ソースの味がたまらなかった。
ともすれば肉汁と油でしつこくなりすぎてしまいそうだが、このとろみのあるソースはそうはなっていない。
むしろその香ばしい匂いと奥深さのある塩気で、全体を引き締めている。
「これは……素晴らしい。予想以上だ」
感嘆のため息を吐くロックハンマー侯爵に、コウシロウは白い液体の入ったコップを差し出した。
僅か匂いを嗅いだだけで、ロックハンマー侯爵はその正体を言い当てる。
「これは、米で作ったにごり酒だね」
「ええ。このあたりの名産ですよぉ」
米が栽培されているこの国では、米を醸した酒も作られていた。
ただそれは、現代の日本人が想像するような清酒ではなく、いわゆるどぶろく、にごり酒と呼ばれるものである。
ロックハンマー侯爵はコップを手に取ると、くっと中身をあおった。
とろりとした乳白色の酒は、なかなかに酒気が強く口の中がぴりりと痺れる。
だが、肉と濃い目のソースの味が残った舌には、それが実に心地よい。
「うぅむ。先ほどの大豆で作ったという醤と、このにごり酒は実に良く合うね」
「私の故郷では、米からは清ました透明な酒を造りましてねぇ。こちらもなかなかこの手の料理には合うのですが、まだまだ侯爵様にお出しするような味にはならないんですよぉ」
「コウシロウ殿はなかなかに厳しそうだからね。それを作っている職人は大変そうだ。その分、良いものができるのを期待しているよ。完成したら是非報せてほしいね」
「はい。では、出来上がりましたら、レインさんに頼んで伝えてもらうとしましょう」
「ありがたい。楽しみが増えたよ」
ロックハンマー侯爵はそういうと、もう一度にごり酒をあおる。
にごり酒自体は何度も飲んだ事があるロックハンマー侯爵だったが、魚料理ならばともかく、肉料理でここまで合うものに出会ったのは初めてであった。
合う料理と合わない料理の多い酒だと思っていたが、ここまであってしまえば文句の付けようも無いだろう。
そうだ、差し支えなければ、後でこの大豆の醤を分けてもらい、領主館に持ち帰るのはどうだろうか。
ロックハンマー侯爵がそんな事を考えている間に、コウシロウは次の作業へと移った。
それに気が付くと、ロックハンマー侯爵の興味は俄然コウシロウへと向けられる。
この角煮一つとっても、この味なのだ。
続く料理も期待が持てるだろう。
「その角煮のように料理を作る前にお出しするものは、私の国では突き出しといいましてねぇ。料理を作る間、酒のつまみにしていただくものなんですよぉ」
「客を待たせる間の、つなぎということかね」
「ええ。料理というのは、出来立てが美味い物が多いですからねぇ。ご注文を頂いてから作り始めると、どうしてもお待たせしてしまうんですよぉ」
「なるほど。よく出来ているね。所で、今日のメニューは決まっているのかね?」
「はい。街の皆さんが食材を持ち寄ってくださいましたからねぇ。地のものでこしらえようと思っております。何か、ご要望がありましたか?」
ロックハンマー侯爵は僅かに考えるように顔を上げるが、すぐに視線をコウシロウへと戻した。
「いや、全てお任せしよう。是非、コウシロウ殿のこれだと思うものが食べてみたいからね」
この国では、招かれるときいくつか好みの料理を伝える事は珍しい事ではなかった。
好みを伝えることで、お互いにもてなし、もてなされやすくなるからだ。
だが、ロックハンマー侯爵はあえてそれをしなかった。
異世界からきたという料理人の腕を、じっくりと見てみたくなったのだ。
コウシロウはにっこりと笑うと、静かに頭を下げる。
そして、調理へと戻った。
コウシロウが次に取り出したのは、焼き物の鍋であった。
それに大きな鍋からすくった琥珀色の液体を流しこむ。
「この汁は、このあたりで取れる川魚の節を使ったものです」
この街の近くには、大きな川があった。
そこからあがったメリメと呼ばれる20cm程の川魚の内臓を取り出し、火でよく炙る。
それをじっくりと陰干しすると、素晴らしい出汁が出るのだ。
「これは煮立てると香りも味も飛んでしまいましてねぇ。火加減が難しいんです」
炭火の金網の上に載せた鍋の位置を調整しながら、コウシロウはその横で野菜を刻み始める。
いくつかの葉物野菜と根菜類を刻み、順繰りにそれを入れていく。
どれも地球には無い野菜だが、このあたりではポピュラーなものばかりだ。
それだけに、ロックハンマー侯爵もその味は良く知っていた。
まず先に入れられたのは、ゴレイシアという根野菜だ。
これはそれだけで食べると味も素っ気も無いのだが、他のものと共に火を通すと全くの別物へと変貌する。
滋味深い旨みを吐き出し、他の食材の旨みを吸収するのだ。
ただ根野菜であるだけに火が通りにくく、扱いは多少難しい。
次に入ったのは、ハウノスという葉野菜。
これは生のままではしゃきしゃきとした食感を楽しめるのだが、煮立てるととろとろとしたやわらかさを持つようになる。
肉厚のやわらかい葉は周りの出汁をよく吸い込み、噛み締めるたびにそれをじわじわを滲み出させるのだ。
コウシロウが鍋にそそいだ汁は、実に美しく澄み切った色をしていた。
メリメでとった出汁は火加減が難しく、少し誤ってしまうとすぐににごってしまう。
そうなっても美味いのだが、やはり宝石のように澄んだ琥珀色の汁には敵わない。
そんなものにその二つの野菜を入れるのだから、もはや美味くないはずが無いではないか。
ロックハンマー侯爵はもうこの時点で、壁を殴りつけてやりたい衝動に駆られていた。
貴族が抱えているような調理人は、こういった料理を出す事は殆ど無い。
庶民の味としては存在してはいるが、コウシロウのような丁寧さと几帳面さで作る事は殆ど無い。
例えばゴレイシアであるが、これは一つ一つの硬さなどを見ながら大きさを決めており、煮上がりをそろえるようにしている。
煮崩れる事が無い様に丁寧に面取りもされており、まるで一個一個がそれだけで作品のように仕上がっていた。
ハウノスも、厚みなどをそろえられており、虫食いなどの無いきれいな面が使われている。
葉の厚い部分を下にして鍋に入れられているのは、そこから煮上がり易くする為だろう。
暫く鍋を火にかけている間に、コウシロウは何かが入ったボールを取り出した。
「それは何かね?」
「はい。セネト貝です」
セネト貝というのは大きな二枚貝で、地球で言えばハマグリのような外見をしていた。
ただそのサイズがかなり大きく、身だけでも掌ほどの大きさである。
コウシロウはまだ口を開閉させているこれを器用に開かせると、身だけをぽんぽんと取り出しはじめた。
その見事な手並みに、ロックハンマー侯爵は感心したような声を上げる。
「それは、どうするのかね? ん? まさか……」
「はい。鍋に入れてます。生でも食べられるいいセネト貝ですから、美味いですよぉ」
「生で? セネト貝は生でも食べられるのかね」
この言葉を聞いて、ロックハンマー侯爵は驚いたように目を見開いた。
新鮮であれば、この国では生で魚介類を食べるという文化は存在している。
だが、セネト貝は生のままだと多少泥臭く、味付けを濃くして煮立てて食べるのが主流であった。
「ええ。これは井戸水で一週間ほど泥を吐かせていましてねぇ。小さいものだと途中で死んでしまうんですが、このぐらいの大きいやつだとまだまだ元気に生きているんですよぉ。すっかり体から泥が抜けていますから、臭みも無くなっていましてねぇ」
そういいながら、コウシロウはセネト貝を一つまな板の上に置き、包丁を入れていく。
あっという間に切り分けられたそれを、再び貝殻の中に戻した。
硬い部分にはうっすらと包丁で切れ目も入れてある、見事な刺身である。
「よろしければ、あがってみてください」
ためしにと置かれたそれに、ロックハンマー侯爵は早速フォークを突き立てた。
隣でセヴェリジェや兵士達がぎょっとしているが、今はそんなものに構っている余裕など、ロックハンマー侯爵には欠片も存在していなかった。
まず口に入れると、本来感じるはずの泥臭さは全く無かった。
その身をかみ締めれば、こりこりとした貝特有の歯ごたえが帰ってくる。
噛めば噛むほどあふれてくるのは、甘みと称して差し支えの無い素晴らしい旨みだ。
まるでその身の中にぎゅうぎゅうと押し込められていたものが、歯を入れるごとに開放されていくようである。
「川から上がったばかりの元気なセネト貝を、何日も水を替えながらさらして置かなければなりませんからねぇ。これは川の近くでしか食べられない味ですよぉ」
ニコニコとした顔で言うコウシロウの言葉に、ロックハンマー侯爵は大きく頷き納得した。
確かにその通りなのだろう。
これはロックハンマー侯爵が知っているセネト貝とは、別物といっていい。
何の嫌味も臭みもなく、美味さの塊となっているのだ。
よろしければこれを、と、コウシロウが差し出したのは、醤油を入れた小皿だ。
それをつけてセネト貝を口に入れてみれば、もはやこれしかないと思わせるような味であった。
ふと思い立ち、ロックハンマー侯爵は米のにごり酒をあおる。
コレがまた、よく合う。
ロックハンマー侯爵は、背中にぶるっと震えるのを感じた。
今目の前に置かれている肉と、この貝だけで、無限にこのにごり酒を飲み続けられるのではないかと思うほどだ。
是が非でも大豆で作った醤だけは持ち帰ろうと、ロックハンマー侯爵は心に決めた。
そこで、ある考えに思い至り、はたと手が止まる。
もしこの旨みの塊を、メリメのだし汁に入れてしまったらどうなるのだろうか。
メリメの上品な旨みと、ゴレイシアの滋味に富み奥深い旨み。
そこに、臭みの消えた純粋無垢なセネト貝を入れたら。
これらの食材は、どれも目新しいものではない。
探せば幾らでも手に入るものであるし、調理方法自体も目新しいものではけっして無い。
だが、それら全てに施された神経質とも取れる丁寧な仕事が、全てを一変させているのである。
その仕事ぶりは、ロックハンマー侯爵に名工が打った剣のようであると思わせた。
同じ鉄であっても、生半の刀鍛冶が打つのと、名工と呼ばれる職人が打つのとでは全くの別物になる。
武人であるロックハンマー侯爵にとってその違いは、命を左右するものだ。
それに匹敵するほどの仕事を、このコウシロウという男は料理でして見せたのである。
どの食材も、味の想像が付く。
組み合わせたときのそれも、恐らく想像できるだろう。
だが、そこに一つ一つに施された丁寧な技と呼んで差し支えの無い仕事ぶりが加わればどうか。
自分が知っている食材の欠点を限りなく無にし、美味さのみを追求したような組み合わせは、まさに研ぎ澄まされた剣のようである。
そう頭の中で結論を出し、ロックハンマー侯爵は唸り声を上げた。
そんな事をしているうちに、コウシロウはセネト貝を鍋の中へと入れ始めた。
「生でもいけるものですから、あまり煮立てずにあがって頂きます」
なるほど、と、ロックハンマー侯爵は頷いた。
確かに生でも食べられるものでもあるから、あまり煮立てる必要は無い。
むしろ煮立てすぎれば、硬くなってしまうかもしれない。
そういったこりこりの弾力も良いのだろうが、生の味を知ってしまった今となっては、そんなもったいない事は考えるだけで恐ろしい。
くつくつと煮える音と、立ち上る香りだけで、ロックハンマー侯爵は駆り立てられるような衝動に駆られた。
もうそのままでいいから出してくれと、口に出してしまいそうである。
そこで、はっと手元にあるものを思い出した。
角煮と生のセネト貝だ。
それを口に運びにごり酒を呷ると、一先ず衝動は抑えられた。
なるほど、これにはこういう効果もあるのかと、ロックハンマー侯爵は大いに納得する。
鍋が煮立ったころあいで、コウシロウは次の野菜を取り出した。
茎の部分に少しだけ葉の付いたもので、セナンという。
地球で言えば、水菜やセリに近いものなのだが、それよりもずっと葉が多いのが特徴だ。
コウシロウはこれを同じ大きさに切り分けると、鍋の上にどっさりと乗せた。
ロックハンマー侯爵は、これは良い手であると唸った。
セナンは葉が細かく、よく汁を吸上げるだろう。
この鍋の汁を吸上げつつ、そのしゃきしゃきとした歯切れの良い食感を楽しめるのだ。
鍋に目が釘付けになるロックハンマー侯爵の前に、今度は小皿と野菜の載せられた皿が出された。
茶色いチーズのようなものと、なにやら赤いものが練りこまれた同じもの。
野菜の方は、茎野菜のコナエである。
しゃきしゃきとした生のまま、しゃきしゃきとした食感を楽しむ野菜で、ネギの様な辛さがあった。
「これは?」
「大豆を醗酵させた、チーズのようなものです。私の国では、味噌といいましてねぇ。赤い方には、辛味の強いハナサが練りこんであります」
ハナサは、辛味のある小さな実で、香辛料としてよく使われるものだ。
ロックハンマー侯爵は早速、コナエを手に取り味噌をつけて食べてみる事にした。
なるほど大豆のチーズとはよく言ったものである。
深いコクとうまみがあり、これ以上ないほどコナエとよく合う。
そのままのものも、ハナサを混ぜたものも、ロックハンマー侯爵は大いに気に入った。
「さぁさぁ、あがりましたよ」
そういうと、コウシロウはロックハンマー侯爵の目の前に、鍋を置いた。
鍋を突きながら料理を食べるスタイルのものは、この国にも存在する。
庶民の食事ではあるが、戦場で兵士と並んで食事をすることもあるロックハンマー侯爵にとっては、馴染み深いものであった。
ロックハンマー侯爵は小鉢を手に取ると、鍋から立ち上る香りを嗅いだ。
もう、この時点で既に美味い。
香りだけで酒が飲めるとは、よく言ったものである。
「素晴らしい香りだね。スープまで全て飲み干してしまいそうだ」
ため息混じりに言ったそんな言葉に、コウシロウは静かに首を振った。
「いえいえ。もったいないですよ。具を全てさらげましたら、炊いた米を入れますからねぇ。そこに、といた卵をさっとかけるんです」
「なんと!」
うまみを詰め込まれた鍋であるから、その汁は凄まじいうまみを蓄えているはずだ。
そこに米を入れれば、うまみを全て吸上げる事だろう。
この上なく美味い粥が出来上がるはずだ。
そこに、卵である。
これはもはや暴力ではないだろうか。
「そのままでも良いですし、もしよろしければ小鉢の中に汁をとって、そちらの味噌をつけて食べてみてください。どちらも美味いですからねぇ」
なるほど、今しがた出された味噌はそのためのものだったのだ。
コナエは、その味を確認するためのものだったのである。
既に一度口に入れたものであるから、これも味の想像が付く。
美味い。
食べる前から分かる、これは美味い。
「では、頂くとしよう」
もはや我慢の限界に達したロックハンマー侯爵は、早速鍋を食べ始めた。
一口、二口。
汁をすすり、野菜をかみ締め、貝を口に運ぶ。
その衝撃的な美味さに、ロックハンマー侯爵は思わずにごり酒に口をつけた。
この美味さがどこかに行ってしまわないうちに、そうしかねればならないと体が欲したのである。
美味い。
予想できる味だと称したが、それは間違いであった。
想像の数段上を行く美味さに、ロックハンマー侯爵は軽いめまいすら覚えた。
コウシロウが言ったように軽く味噌をつけて食べてみれば、コレがまた美味い。
吸い込むように鍋を食べていくロックハンマー侯爵の様子を見て、コウシロウは嬉しそうな笑顔を作る。
「もう2、3品、しっかりと食べ応えのあるものを作りましょうかねぇ」
「2、3といわず、どんどん頼むよ」
このあと、ロックハンマー侯爵はハンスが来るまでの間に、八品の料理を平らげた。
ハンスが合流して後は、さらに十品の料理を完食する。
幸いな事に、ロックハンマー侯爵はこの土地で取れたものと、コウシロウの料理を大いに気に入った様子であった。
翌日領主館へと戻っていったロックハンマー侯爵であるが、この土地の食材と味噌、醤油を持ち帰ったのは、もはや言うまでも無いだろう。
************************************************
はらへった
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