上 下
3 / 3
私は佐伯茜。

3

しおりを挟む
茜が本社に到着し、二重になっている自動ドアの手前の扉を通り抜けたところでポケットに入れていたスマホに着信が入った。萌黄からである。そのまま歩き続けながら、スマホを手にし、耳に当てる。
「何か用かしら」
と茜は言った。
「社長。コーヒーを用意してあるので、社長室までお越しください」
萌黄がそう言った。茜はそれを聞くと
「わかったわ」
とだけ言い、電話を切った。ロビーの横にあるエレベーターの上階行きのボタンを押す。高層ビルであるが、この本社でエレベーターを使う人はあまりいないらしく、すぐにドアが開き、茜はそこに乗った。
最上階まで行くと、エレベーターはとまり、ドアが開く。決して複雑な作りではない通路を歩き、いくつか角を曲がると、社長室の前までたどり着いた。茜が、目の前の扉を開けると、中では萌黄が待っていた。その傍らの机の上には、さっき電話越しに茜に言っていたコーヒーが置かれている。まだ熱いらしく、湯気が出ているのがわかる。
茜は戸を閉めると、立ったままコーヒーを手にし、飲み始めた。しばらくして、萌黄が茜に声をかけた。
「社長。雑誌STYLEの編集部との打ち合わせはどうでした?」
萌黄がそう聞くと、
「まあまあだったわ。とりあえず、もうすぐ発表予定のseasonsの新デザインの服を何着か使ってくれるみたいよ。あの雑誌は、若い世代で1番有名で買う人結構多いらしいから宣伝費少し浮くかしらね」
と茜が言った。
「そうですね。でもまあ、発売前に大々的に発表予定ですから。『社長、佐伯茜デザイン』だと。それだけでも世間の方々はこぞって買いにやってくるでしょうね」
seasonsのデザイン画のコピーを眺めながら、萌黄がそう言った。
「そうかもね。私がデザインしたのなんて何年ぶりかしら。最近はほとんど雑誌やらショーやらの打ち合わせばかりだったもの。まあ、そうやって注目されるのはありがたいことだけれど」
茜はそう言いながら再びコーヒーに口をつける。そのとき、萌黄がハッと思い出したように口を開いた。
「そういえば、先程seasonsの新デザインの発表会の打ち合わせを後日に延期して欲しい、とseasonsのデザイン・企画部門から要望があったのですが、どうなさいますか?」
その途端、茜の動きがぴたりと止まった。そのまま、気まずい沈黙が少しの間続いた。
さすがに居心地の悪さを感じたらしく、萌黄が、
「あの......」
と声を漏らした。
「後日に伸ばして欲しいですって?あそこの企画課は何を考えているのかしら。そもそも私だってそんな都合良く空いている日があるのかどうかすらわからないっていうのに」
茜はそう言って、カバンから手帳を取り出し、予定の確認を始めた。彼女の表情は見るからに機嫌が悪そうである。まあ、それもそうだろうか。毎日たくさんの予定があるのにもかかわらず、いきなりキャンセルされては、全てのスケジュールが崩れてしまう。
そう察した萌黄が、無理にでも予定通り打ち合わせを開かせましょうか。と尋ねようとしたが、萌黄が茜を見るとスマホを耳に当て、どこかへ電話しているようだった。
「もしもし?打ち合わせの予定をずらせってどういうことかしら。私の予定は気にしないということ?そもそもだいぶ前から決めてあったじゃない。この日取りは。なぜ今日になってそうなるのかしら?お聞きしたいわ」
どうやら直接seasonsのデザイン部門へ電話をかけているらしい。茜の口調はだんだん鋭いものに変わっていく。電話の向こう側で、相手が慌てている声が少し漏れている。
萌黄は開きかけた口を閉じて手にしていたデザイン画に再び目を落とした。
茜は電話している時に声をかけられても全く反応しないのは既に知っている。それよりも、デザイン部門の失敗など自分には無関係なことだ、と萌黄は思った。
しばらくして、
「あらそう、だったら一週間後の全く同じ時間が空いているわ。ラッキーだったわね。それまでに間に合わせなさいよ。それでも間に合わないなんてことがあったら、あんたの首がとぶってこと......覚悟しておきなさいよ」
と言って茜が電話を切った。
あんなこと電話で言われたら、その次に会った時合わせる顔がないのではないだろうか、と萌黄は思った。
しかし、実際茜が社員をクビにすることはほとんどない。あるとしたら、それはよっぽどの使えない人間か、もしくは何か問題を起こした輩だろうか。
「まったく、もう」
電話は切ったが、茜はまだ怒りが収まっていない様子であった。
そんな状態の茜に声をかけるのも少し身がすくむが、こんな雰囲気の中に無言で座り続けている勇気は持ち合わせていない。むしろ、微妙に時間が経ってから声をかけたらそれこそ不自然である。
そう考え、萌黄は茜に声をかけた。
「社長?デザイン部門はなんと?」
「ああ、なんか知らないけど作る予定だった服のサンプルが上がってなくて、急いで作ってたら資料を作るのも忘れてただかなんだかって言ってたわ。本当馬鹿な話よね。あそこの課長変えたほうがいいのかしらね」
とりあえず来週まで引き延ばしたわ。と茜はつぶやいた。正直不本意だが、できないものは仕方ない、ということなのであろう。
「来週の空いていた時間、何か個人的な予定でもあったんですか?」
ふと疑問を持った萌黄がそう聞いた。
「いいえ?そんな大した理由じゃないわよ。予定が空いていたのは」
茜は窓の方を向きながらそう言った。
本当にそうなのか。と萌黄は再び疑問を口にしそうになったが、あわてて口をつぐんだ。
2人は仕事上での関係だけだ。プライベートまで深入りされるのを茜は好まない。
それを知っている萌黄は、仕事以外で茜に干渉はしないと決めている。今までだって、茜の秘書として働いてきた数年間、そうやって過ごしてきた。必要以上に関係を持たず、私情を持ち込まず、ドライに。そうすることで茜の信頼を得てきたのだ。
「そうですか。でもそうしたら今日の午後が空いてしまうのでは?どうなさる予定ですか?」
萌黄がそう言うと、茜は少し考え、
「特に何もないし、のんびり??」
休もうかしら。と言おうとしたところで、部屋に備え付けてある固定電話が鳴り出した。ちょうど近くにいた茜が受話器を持ち上げ、電話に出る。
「もしもし。......ええ、そうだけれど。はあ?そんなの追い返しなさいよ。ちょっと......」
電話越しにガチャンと電話が切れた音がして、茜は受話器を戻す。
「なんの電話ですか?」
何気なく萌黄がそう聞くと、茜がすごい形相で
「まずいわ、ECLAプロモーションの社長がお見えになりましたとか言って今からここ......というか社長室に連れて来るって......そんなの追い返しなさいよ、もう。あの人にはあまり会いたくないのに」
どこか隠れるところないのかしら。と呟いて茜は部屋の中をウロウロし出した。
「ECLAプロ社長って......神崎さんですっけ」
「そうよ。あのわけのわからない人よ」
しおりを挟む

この作品は感想を受け付けておりません。


処理中です...