2 / 60
第一部 脱出編
第2話 リタという女
しおりを挟む
扉の蝶番がきしみ、煤と油の混ざった風が顔に張りついた。真鍮の街灯が鈍く滲み、空いっぱいに縫い込まれた配管は、雲の腹からぶら下がる静脈のように脈を打っている。黒い鳥型ドローンが無音で旋回し、通りの端では車輪仕掛けの馬車が遠ざかった。足元の鉄板は雨でぬめり、踏み出すたび冷たい音を返した。遠くの塔では巨大な歯車が回転し、街全体がゆっくり呼吸している気配がした。
「ようこそ、教育局の特別区へ」
声は背中の少し斜め後ろから落ちてきた。振り向くと、バイクに似た機械の横に女が立っていた。黒革のスーツ、腰まで届く白銀の髪。額には真紅のゴーグル。その赤だけが血のように鮮やかだ。唇には細い煙管、火口が微かな紅を脈打たせ、吐き出された煙が煤に紛れて消えていく。
「……誰だ、お前」
「リタ。あなたの“更生担当”」
軽い声色に反して目は冷たかった。氷の芯のように温度を持たない視線がこちらを測る。
「更生?俺が?どういう意味だ」
「弟の借金、覚えているでしょう。代償は時間。あなたはここで“学ぶ”。矯正教育局の特別プログラム。終われば、いくつかが元に戻るかもしれない」
「元に、って何がだ」
「あなたの生活。あるいは、あなたの弟」
名を出され、胸の奥の糸が強く引かれた。タケル――雨に濡れ、震えていた背中。取り立て屋の無表情。次の瞬間の閃光。
「タケルはどこだ」
「質問は一つずつ」
女が指で時刻を弾くように煙管を鳴らした瞬間、両脇から黒服が現れた。反射で下がるより早く腕を掴まれる。革手袋の圧力、鉄の匂い。
「離せ!」
身体を捩じり、肩で押し返す。だが首筋へ冷たい金属が触れ、骨の芯まで薄い電流が走った。膝が抜け、視界の縁が暗く滲む。塔の歯車が回転を速め、街の唸りが高くなる。
「弟を……どうした」
喉から押し出した声は掠れていた。リタは一瞬だけ目を伏せる。揺れは小さいが、明確だった。
「タケル。いい子だった。けど──少し壊れちゃった」
壊れた、という語が耳の奥でゆっくり開く。何が、どこで、誰の手で。問いは口まで上がるのに、舌が重い。
「安心して、アキト。これは最初の手順。痛みは長く続かない」
「俺の名を……どこで」
「あなたの弟が、壁に書き残していた。“逃げろ。アキトへ”」
落書き。錆色の壁。見たことのない走り書きが脳裏を掠める。
「案内するわ。特別区の規則は簡単。歩く、聞く、忘れないふりをする」
「ふり、だと?」
「忘れたように見せるの。忘れないで生き延びるために」
黒服に支えられたまま、足が鉄板を滑る。メーターの針が赤域をかすめた。リタは振り向きもせず、小さく指を鳴らす。街のスピーカーが繰り返す。「市民は指定区画を離れないように」
「歩幅を合わせて」
「命令するな」
「命令じゃない。ここでの助言は命綱」
塔の影が長く伸びた。視界の端でゴーグルの赤が灯る。視界が暗く沈んだ。
足音の列が交差点で止まり、金属柵が自動で開いた。向こう側には低いアーチの通路。壁に擦れたような文字がうっすら残り、指先ほどの翼の歯車がいくつも重ねて描かれている。誰かが急いで残した印だ。俺は立ち止まろうとしたが、肩を押され、視線だけがそこに縫い付けられた。
「見えた?」
「何をだ」
「“出口は上じゃない”。ここの標語」
女の靴音が乾いて響く。「上層は綺麗で退屈、下層は汚くて正確」
「じゃあ、どこを」
「間。配管と配管の隙間。監視の届かない振動の死角」
意味を測る前に視界が揺れた。唸りが増幅し、どこかで汽笛のような音が鳴る。黒服の手が額に触れ、薬品の匂いがふっと鼻腔に落ちた。
「少し眠って。続きは、その先で」
リタの声は温度を持たないのに、言葉の端だけが近かった。俺は最後にもう一度だけ、壁の翼の歯車を見た。歯の欠けた印が、なぜかタケルの笑い皺に見えた。
「ようこそ、教育局の特別区へ」
声は背中の少し斜め後ろから落ちてきた。振り向くと、バイクに似た機械の横に女が立っていた。黒革のスーツ、腰まで届く白銀の髪。額には真紅のゴーグル。その赤だけが血のように鮮やかだ。唇には細い煙管、火口が微かな紅を脈打たせ、吐き出された煙が煤に紛れて消えていく。
「……誰だ、お前」
「リタ。あなたの“更生担当”」
軽い声色に反して目は冷たかった。氷の芯のように温度を持たない視線がこちらを測る。
「更生?俺が?どういう意味だ」
「弟の借金、覚えているでしょう。代償は時間。あなたはここで“学ぶ”。矯正教育局の特別プログラム。終われば、いくつかが元に戻るかもしれない」
「元に、って何がだ」
「あなたの生活。あるいは、あなたの弟」
名を出され、胸の奥の糸が強く引かれた。タケル――雨に濡れ、震えていた背中。取り立て屋の無表情。次の瞬間の閃光。
「タケルはどこだ」
「質問は一つずつ」
女が指で時刻を弾くように煙管を鳴らした瞬間、両脇から黒服が現れた。反射で下がるより早く腕を掴まれる。革手袋の圧力、鉄の匂い。
「離せ!」
身体を捩じり、肩で押し返す。だが首筋へ冷たい金属が触れ、骨の芯まで薄い電流が走った。膝が抜け、視界の縁が暗く滲む。塔の歯車が回転を速め、街の唸りが高くなる。
「弟を……どうした」
喉から押し出した声は掠れていた。リタは一瞬だけ目を伏せる。揺れは小さいが、明確だった。
「タケル。いい子だった。けど──少し壊れちゃった」
壊れた、という語が耳の奥でゆっくり開く。何が、どこで、誰の手で。問いは口まで上がるのに、舌が重い。
「安心して、アキト。これは最初の手順。痛みは長く続かない」
「俺の名を……どこで」
「あなたの弟が、壁に書き残していた。“逃げろ。アキトへ”」
落書き。錆色の壁。見たことのない走り書きが脳裏を掠める。
「案内するわ。特別区の規則は簡単。歩く、聞く、忘れないふりをする」
「ふり、だと?」
「忘れたように見せるの。忘れないで生き延びるために」
黒服に支えられたまま、足が鉄板を滑る。メーターの針が赤域をかすめた。リタは振り向きもせず、小さく指を鳴らす。街のスピーカーが繰り返す。「市民は指定区画を離れないように」
「歩幅を合わせて」
「命令するな」
「命令じゃない。ここでの助言は命綱」
塔の影が長く伸びた。視界の端でゴーグルの赤が灯る。視界が暗く沈んだ。
足音の列が交差点で止まり、金属柵が自動で開いた。向こう側には低いアーチの通路。壁に擦れたような文字がうっすら残り、指先ほどの翼の歯車がいくつも重ねて描かれている。誰かが急いで残した印だ。俺は立ち止まろうとしたが、肩を押され、視線だけがそこに縫い付けられた。
「見えた?」
「何をだ」
「“出口は上じゃない”。ここの標語」
女の靴音が乾いて響く。「上層は綺麗で退屈、下層は汚くて正確」
「じゃあ、どこを」
「間。配管と配管の隙間。監視の届かない振動の死角」
意味を測る前に視界が揺れた。唸りが増幅し、どこかで汽笛のような音が鳴る。黒服の手が額に触れ、薬品の匂いがふっと鼻腔に落ちた。
「少し眠って。続きは、その先で」
リタの声は温度を持たないのに、言葉の端だけが近かった。俺は最後にもう一度だけ、壁の翼の歯車を見た。歯の欠けた印が、なぜかタケルの笑い皺に見えた。
0
あなたにおすすめの小説
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
【完結】俺が信長で、幼馴染が吉乃と濃姫!? ~転生幼馴染トリオ、本能寺フラグ回避して戦国スローライフ目指します
月影 流詩亜
ファンタジー
事故で転生したのは、まさかの織田信長!?
しかも、隣にいたはずの可愛い幼馴染(双子)も、なぜか信長の側室「吉乃」と正室「濃姫」に!
史実の本能寺フラグを回避するため、うつけの仮面の下、三人は秘密の同盟を結ぶ。
現代知識と絆を武器に、戦国スローライフを目指すサバイバル開幕!
日本新世紀ー日本の変革から星間連合の中の地球へー
黄昏人
SF
現在の日本、ある地方大学の大学院生のPCが化けた!
あらゆる質問に出してくるとんでもなくスマートで完璧な答え。この化けたPC“マドンナ”を使って、彼、誠司は核融合発電、超バッテリーとモーターによるあらゆるエンジンの電動化への変換、重力エンジン・レールガンの開発・実用化などを通じて日本の経済・政治状況及び国際的な立場を変革していく。
さらに、こうしたさまざまな変革を通じて、日本が主導する地球防衛軍は、巨大な星間帝国の侵略を跳ね返すことに成功する。その結果、地球人類はその星間帝国の圧政にあえいでいた多数の歴史ある星間国家の指導的立場になっていくことになる。
この中で、自らの進化の必要性を悟った人類は、地球連邦を成立させ、知能の向上、他星系への植民を含む地球人類全体の経済の底上げと格差の是正を進める。
さらには、マドンナと誠司を擁する地球連邦は、銀河全体の生物に迫る危機の解明、撃退法の構築、撃退を主導し、銀河のなかに確固たる地位を築いていくことになる。
天竜川で逢いましょう 〜日本史教師が石田三成とか無理なので平和な世界を目指します〜
岩 大志
ファンタジー
ごくありふれた高校教師津久見裕太は、ひょんなことから頭を打ち、気を失う。
けたたましい轟音に気付き目を覚ますと多数の軍旗。
髭もじゃの男に「いよいよですな。」と、言われ混乱する津久見。
戦国時代の大きな分かれ道のド真ん中に転生した津久見はどうするのか!!???
そもそも現代人が生首とか無理なので、平和な世の中を目指そうと思います。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
名もなき民の戦国時代
のらしろ
ファンタジー
徹夜で作った卒論を持って大学に向かう途中で、定番の異世界転生。
異世界特急便のトラックにはねられて戦国時代に飛ばされた。
しかも、よくある有名人の代わりや、戦国武将とは全く縁もゆかりもない庶民、しかも子供の姿で桑名傍の浜に打ち上げられる。
幸いなことに通りかかった修行僧の玄奘様に助けられて異世界生活が始まる。
でも、庶民、それも孤児の身分からの出発で、大学生までの生活で培った現代知識だけを持ってどこまで戦国の世でやっていけるか。
とにかく、主人公の孫空は生き残ることだけ考えて、周りを巻き込み無双していくお話です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる