錆びた街の落書き

宮滝吾朗

文字の大きさ
3 / 60
第一部 脱出編

第3話 特別区への連行

しおりを挟む
白い光が網膜を刺し、視界の輪郭が滲んだ。鉄と薬品の匂い。規則正しい低い鼓動音が耳の内側で鳴っている。天井は金属の格子で組まれ、そこから垂れた管がゆっくり呼吸するように膨らんではしぼんだ。

両手首は冷たい輪に固定され、足首にも同じ負荷がかかっている。鋼の台の縁が背中の骨を押し、体温が金属へ吸い取られていく。指先が痺れ、時間の感覚が薄まる。

「目が覚めたのね」

声の方向に顔を向けると、リタが小さな操作卓の前に立っていた。黒革のスーツ、白い手袋。額の赤いゴーグルが天井灯を反射する。表情は穏やかだが、瞳は計測器の光だ。

「ここは……どこだ」
「教育局・第七矯正棟。あなたの初期評価は“抵抗的だが回復性あり”。悪くない数値」

リタが端末に触れると、管のひとつで透明な液体が上昇した。喉奥に金属の味が広がる。

「タケルはどこにいる」
「“受講生第407号”。記録上は行方不明」
「記録上は──?」
「逃げたと書くと、上が機嫌を損ねるの」

画面には灰色の廊下、無人の教室、暗いシャフト。人影はないのに監視は厳しい。

「ここで何をする」
「再教育。記憶の整理と行動の矯正。痛みは最小、効果は最大──と標準書にはある」
「標準書?」
「現場はいつも、もう少し汚れるわ」

胸が重くなる。自分の鼓動より一拍遅れて別の鼓動が響く。拘束具に力を込めると、バンドが甲に食い込み、火傷跡が疼いた。

「落ち着いて。あなたの“心臓”はまだあなたのものよ」
「まだ、とは」
「選ばなければ、誰かのものになる。ここではそういう手順」

彼女は白い手袋を外し、素手で頬に触れた。冷たいのに、触れた場所だけ熱が戻る。

「この街は、忘れるより錆びつかせるのが得意。忘れたふりをして、覚えて生きるの」
「それを、弟に教えたのか」
「教える前に、タケルは走った。いい走りだった」

言葉の端がわずかに揺れる。胸元の隙間で微かな赤い光が鼓動に合わせて点滅した。

「手伝え、リタ。俺を、タケルのいた場所へ」
「命令?」
「頼む」

短い沈黙。スイッチが一つ切られ、拘束が少し緩む。額に小さなパッドが貼られ、視界が鋭くなる。

「痛みを下げる。走れる足は残しておく」
「走る先は?」
「壁の向こう。けれど、今は“内側”を見なさい」

モニターが切り替わり、古いボイラー室の映像。錆びた壁に翼の歯車。隣に小さな文字。

「逃げろ」「アキトへ」

呼吸が止まる。文字の癖、線の震え──タケルの手だ。

「場所は?」
「第七棟の下、廃止層。番号では──エテルナ」
「ホテルの名か」
「かつての。今は避難区画。管理人は物忘れが酷い。けれど何も忘れていない」

リタがゴーグルを額から目に落とす。レンズの内側で数値が流れた。

「連れて行ってくれるのか」
「連れて行く。あなたが目を閉じて、三つ数えたら」
「なぜ目を」
「ここから“下りる”には、ひとつの嘘が要るの。あなたが“おとなしくなる”という嘘」

彼女の声は低く柔らかい。管の鼓動が落ち、台のロックが外れる。足首の輪が解ける。

「約束して、アキト」
「何を」
「走るとき、最初の角で迷わないこと。右は綺麗で行き止まり、左は汚くて抜ける」
「覚えた」

目を閉じる。暗闇の底で誰かが囁く──逃げろ。リタの指が額のパッドを弾き、軽い落下の感覚。

「三」

金属臭が遠のく。

「二」

どこかで蒸気が裂ける音。

「一」

台が沈み、床が開く。冷たい風、錆と油と古い紙の匂い──エテルナ。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

二重のカーテン (スカートの下の黒い意志)

MisakiNonagase
青春
洗濯物の隙間に隠したのは、母としての祈りと、娘のプライド。 かつて、女子高生という生き物はもっと無防備で、自由だった。 44歳の主婦、愛子が朝のベランダで手にするのは、娘たちが毎日履き替える漆黒のオーバーパンツ、通称「黒パン」。それは、令和を生きる娘たちが自らの尊厳を守るために身に着ける、鉄壁の「鎧」だった。 小学校時代のママ友たちとのランチ会。そこで語られるのは、ブルセラショップに下着を売っていた奔放な50代、無防備なまま凛と歩くしかなかった40代、そして「見せないこと」に命を懸ける10代の、あまりに深い断絶。さらには、階段で石像のように固まる父、生徒の背後に立たないよう神経を削る教師……。 一枚の黒い布を通して浮き彫りになる、現代社会の歪さと、その根底にある不器用なまでの「優しさ」。 ベランダに干された黒いカーテンの向こう側に、あなたは何を見ますか?

猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~

橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。 記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。 これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語 ※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります

【完結】俺が信長で、幼馴染が吉乃と濃姫!? ~転生幼馴染トリオ、本能寺フラグ回避して戦国スローライフ目指します

月影 流詩亜
ファンタジー
事故で転生したのは、まさかの織田信長!? しかも、隣にいたはずの可愛い幼馴染(双子)も、なぜか信長の側室「吉乃」と正室「濃姫」に! 史実の本能寺フラグを回避するため、うつけの仮面の下、三人は秘密の同盟を結ぶ。 現代知識と絆を武器に、戦国スローライフを目指すサバイバル開幕!

日本新世紀ー日本の変革から星間連合の中の地球へー

黄昏人
SF
現在の日本、ある地方大学の大学院生のPCが化けた! あらゆる質問に出してくるとんでもなくスマートで完璧な答え。この化けたPC“マドンナ”を使って、彼、誠司は核融合発電、超バッテリーとモーターによるあらゆるエンジンの電動化への変換、重力エンジン・レールガンの開発・実用化などを通じて日本の経済・政治状況及び国際的な立場を変革していく。 さらに、こうしたさまざまな変革を通じて、日本が主導する地球防衛軍は、巨大な星間帝国の侵略を跳ね返すことに成功する。その結果、地球人類はその星間帝国の圧政にあえいでいた多数の歴史ある星間国家の指導的立場になっていくことになる。 この中で、自らの進化の必要性を悟った人類は、地球連邦を成立させ、知能の向上、他星系への植民を含む地球人類全体の経済の底上げと格差の是正を進める。 さらには、マドンナと誠司を擁する地球連邦は、銀河全体の生物に迫る危機の解明、撃退法の構築、撃退を主導し、銀河のなかに確固たる地位を築いていくことになる。

天竜川で逢いましょう 〜日本史教師が石田三成とか無理なので平和な世界を目指します〜

岩 大志
ファンタジー
ごくありふれた高校教師津久見裕太は、ひょんなことから頭を打ち、気を失う。 けたたましい轟音に気付き目を覚ますと多数の軍旗。 髭もじゃの男に「いよいよですな。」と、言われ混乱する津久見。 戦国時代の大きな分かれ道のド真ん中に転生した津久見はどうするのか!!??? そもそも現代人が生首とか無理なので、平和な世の中を目指そうと思います。

大東亜戦争を有利に

ゆみすけ
歴史・時代
 日本は大東亜戦争に負けた、完敗であった。 そこから架空戦記なるものが増殖する。 しかしおもしろくない、つまらない。 であるから自分なりに無双日本軍を架空戦記に参戦させました。 主観満載のラノベ戦記ですから、ご感弁を

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。 生きるために走る者は、 傷を負いながらも、歩みを止めない。 戦国という時代の只中で、 彼らは何を失い、 走り続けたのか。 滝川一益と、その郎党。 これは、勝者の物語ではない。 生き延びた者たちの記録である。

処理中です...