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第一部 脱出編
第4話 ボイラー室の落書き
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目を覚ますと、暗い部屋にいた。
壁には無数の管が這い、どこからか熱い蒸気が漏れている。
耳の奥でボイラーが唸り、真っ赤に光る計器の針が震えていた。
機械の心臓のように脈動する音が、鼓膜を通じて体の奥へ沈んでいく。
冷たい鉄の床に触れると、指先が油に濡れた。
床には焦げ跡のような模様が点々と続き、まるで誰かが這い出した痕のようだった。
重たい空気の奥で、細い水音がひとつ。
それが何かの合図のように、ぼんやりとした記憶が蘇る。
――リタ。弟。教育局。
夢か現実か、境界が曖昧なまま、視界の端に黒い影が揺れた。
ベッドの脇、錆びた壁に文字が刻まれていた。
「逃げろ」「信じるな」「リタに近づくな」
その筆跡は荒く、震えている。
掠れた線を指でなぞると、まだ粉っぽい感触があった。
新しい。ほんの数日前、いや昨日書かれたのかもしれない。
胸が重くなる。タケルの筆跡に似ていた。
部屋を出ると、上の階から古いオルゴールの音が聞こえた。
ゆっくりとしたテンポで、「君恋し」に似た旋律。
それがこの機械の街には不釣り合いなほど優しく響いていた。
階段を上る。
足を踏み出すたび、金属の段が悲鳴を上げる。
やがて、煤けたカウンターの向こうに小柄な老婆が見えた。
白髪をきっちり結い、古びた制服の襟を直している。
背後には壁一面に時計が積まれ、どれも止まったまま時を失っていた。
「部屋、気に入ったかい?」
老婆の声は柔らかいが、どこか歯車がずれたような響きだった。
ゆっくりと顔を上げたその瞳は、白く濁っている。
けれど、光を吸い込むように深く、何かを見透かしている気配があった。
「ここは……ホテルなのか?」
「“エテルナホテル”。昔はね、旅人が泊まったもんさ。
けど今は教育局の人ばかりだよ。学びに来て、戻らない人たち。」
老婆の笑みに、油の匂いが混じる。
カウンターの上には壊れた懐中時計が無数に積まれていた。
どれも同じ時刻で止まっている――午前2時17分。
赤いランプが一つ、一定のリズムで点滅していた。
「止まった時計ばかり……修理してるのか?」
「直してるつもりなんだよ。けどね、誰も“今”を持ってこないから。
この街じゃ、時間がみんな歯車の隙間に落っこちちまう。」
老婆の指が懐中時計をひとつ弾いた。
その瞬間、壁のパイプが鳴り、遠くのボイラーが応えるように唸る。
まるで街全体が、その合図に合わせて呼吸をしているようだった。
「弟を……知らないか。タケルという少年だ。」
老婆は首を傾げたまま、しばらく黙っていた。
そして、笑った。
「若い声が、昨日このあたりを通ったよ。
“出口を見た”って言ってた。
けどね、この街には出口なんてありゃしない。
誰もみんな、忘れるより錆びつく方を選ぶのさ。」
その言葉が、リタの声と重なった気がした。
――忘れるより、錆びつかせる方が得意なの。
胸の奥で何かが軋む。
老婆の濁った目に、微かに赤い光が揺れていた。
それは懐中時計の反射なのか、それとも――。
「……タケルは、本当にここにいたのか?」
老婆は何も答えなかった。
ただ、口元だけで「下」と囁いた。
その瞬間、床の下から低い爆音が響いた。
ボイラーが唸り、灯りが一斉に落ちた。
暗闇の中で、壁の落書きがふたたび赤く滲んで浮かび上がる。
「逃げろ」
その文字だけが、呼吸するように揺れていた。
壁には無数の管が這い、どこからか熱い蒸気が漏れている。
耳の奥でボイラーが唸り、真っ赤に光る計器の針が震えていた。
機械の心臓のように脈動する音が、鼓膜を通じて体の奥へ沈んでいく。
冷たい鉄の床に触れると、指先が油に濡れた。
床には焦げ跡のような模様が点々と続き、まるで誰かが這い出した痕のようだった。
重たい空気の奥で、細い水音がひとつ。
それが何かの合図のように、ぼんやりとした記憶が蘇る。
――リタ。弟。教育局。
夢か現実か、境界が曖昧なまま、視界の端に黒い影が揺れた。
ベッドの脇、錆びた壁に文字が刻まれていた。
「逃げろ」「信じるな」「リタに近づくな」
その筆跡は荒く、震えている。
掠れた線を指でなぞると、まだ粉っぽい感触があった。
新しい。ほんの数日前、いや昨日書かれたのかもしれない。
胸が重くなる。タケルの筆跡に似ていた。
部屋を出ると、上の階から古いオルゴールの音が聞こえた。
ゆっくりとしたテンポで、「君恋し」に似た旋律。
それがこの機械の街には不釣り合いなほど優しく響いていた。
階段を上る。
足を踏み出すたび、金属の段が悲鳴を上げる。
やがて、煤けたカウンターの向こうに小柄な老婆が見えた。
白髪をきっちり結い、古びた制服の襟を直している。
背後には壁一面に時計が積まれ、どれも止まったまま時を失っていた。
「部屋、気に入ったかい?」
老婆の声は柔らかいが、どこか歯車がずれたような響きだった。
ゆっくりと顔を上げたその瞳は、白く濁っている。
けれど、光を吸い込むように深く、何かを見透かしている気配があった。
「ここは……ホテルなのか?」
「“エテルナホテル”。昔はね、旅人が泊まったもんさ。
けど今は教育局の人ばかりだよ。学びに来て、戻らない人たち。」
老婆の笑みに、油の匂いが混じる。
カウンターの上には壊れた懐中時計が無数に積まれていた。
どれも同じ時刻で止まっている――午前2時17分。
赤いランプが一つ、一定のリズムで点滅していた。
「止まった時計ばかり……修理してるのか?」
「直してるつもりなんだよ。けどね、誰も“今”を持ってこないから。
この街じゃ、時間がみんな歯車の隙間に落っこちちまう。」
老婆の指が懐中時計をひとつ弾いた。
その瞬間、壁のパイプが鳴り、遠くのボイラーが応えるように唸る。
まるで街全体が、その合図に合わせて呼吸をしているようだった。
「弟を……知らないか。タケルという少年だ。」
老婆は首を傾げたまま、しばらく黙っていた。
そして、笑った。
「若い声が、昨日このあたりを通ったよ。
“出口を見た”って言ってた。
けどね、この街には出口なんてありゃしない。
誰もみんな、忘れるより錆びつく方を選ぶのさ。」
その言葉が、リタの声と重なった気がした。
――忘れるより、錆びつかせる方が得意なの。
胸の奥で何かが軋む。
老婆の濁った目に、微かに赤い光が揺れていた。
それは懐中時計の反射なのか、それとも――。
「……タケルは、本当にここにいたのか?」
老婆は何も答えなかった。
ただ、口元だけで「下」と囁いた。
その瞬間、床の下から低い爆音が響いた。
ボイラーが唸り、灯りが一斉に落ちた。
暗闇の中で、壁の落書きがふたたび赤く滲んで浮かび上がる。
「逃げろ」
その文字だけが、呼吸するように揺れていた。
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