錆びた街の落書き

宮滝吾朗

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第一部 脱出編

第5話 走ることを教える女・前編

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重い眠りの底から引き上げられるように、アキトは目を開けた。
硝子越しの曇天が、薄く青い光を差し込ませている。
機械の唸りが遠くで鳴っていた。街の心臓――京橋機関街の鼓動。

「おはよう、アキト。今日から“更生”のプログラムを始めるわ。」

声に顔を向けると、リタが立っていた。
黒革のライダースーツに白銀の髪。
背後には、見慣れない二輪機が静かに佇んでいる。
車輪の代わりに、いくつもの球体が脚のように並び、床を滑るように移動する。
動くたびに微かな磁気音が鳴り、まるで呼吸をしているかのようだった。

「乗って。」

アキトは黙って跨がった。
革の匂いと金属の冷たさが混ざり合う。
リタの背中は小さく、だが緊張を孕んでいた。
エンジンが唸る。風が一瞬で頬を切り裂いた。

街が後方に溶けていく。
頭上を無数の配管が交差し、歯車橋の下をくぐるたびに黒い水滴が弾けた。
錆びついた信号塔、崩れかけた高架。
京橋機関街の上層へ、音もなく滑り上がっていく。

「今日の課題は、“逃げること”。」

リタが呟いた。
彼女の声は、金属の間で反響し、空気を裂くように響いた。

「……冗談だろ。」
「冗談じゃないわ。この街で生き残るには、逃げ方を知らなきゃならないの。」

リタはわずかに振り向いた。
その瞳に、反射した光が一瞬、赤く閃く。
ゴーグルの奥の視線が冷たい。
彼女がブレーキを外した瞬間、二輪機は宙に浮いた。

音が消える。
風が爆発する。
アキトの視界が白く染まり、世界が遠ざかる。
配管の森を抜け、鉄骨のアーチを越え、やがて街の中心が見えた。

「見える? あれが“心臓”よ。」

塔――黒く巨大な塊。
その表面には無数の人影が貼り付いている。
均一な制服、規則的な動き。
誰も顔を上げず、ただ上から流れる命令の光を受けている。

「矯正教育局本庁舎。あそこが、街を動かす“主機”。」

「人間を……歯車にしたのか。」

「そう。効率的でしょ?」
リタは小さく笑った。
風に乗って、彼女の声が溶けていく。
アキトはその笑みの奥に、微かに滲む痛みを見た気がした。

「……お前は、あそこにいたことがあるのか。」

「あったかもしれない。忘れるように、教えられたけどね。」

リタがアクセルを戻すと、速度が落ちた。
下方に、錆びたトンネルの入り口が見えた。
中は暗く、蒸気が漂っている。
街の底へと続く路――それが「練習場」と呼ばれる場所だった。

「次は、あなたが走る番。命を賭けて。」

その声に、冷たい笑みが宿る。
アキトは息を呑んだ。
風が止まり、街の鼓動だけが聞こえる。
遠くで鐘が鳴った。開始の合図のように。
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