錆びた街の落書き

宮滝吾朗

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第一部 脱出編

第15話 心臓の門

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夢層を抜けた先は、街のいちばん深いところだった。

最初に襲ってきたのは、音だ。耳ではなく、骨で聞く音。ドン、ドン、と一定のリズムで空間そのものが震えている。壁も床も天井も、すべてがその鼓動に合わせて微かに膨らみ、しぼむ。まるで金属でできた巨大な心臓の内側に入り込んだようだった。

リタが一歩前に出る。靴底が床を踏むたび、薄い振動が俺の足にも伝わってくる。

「ここが、“心臓層”の手前。門の前庭ってところね」

前方には、滑らかな鉄の壁が円弧を描いて立ちはだかっていた。高さは建物でいえば十階分はある。にもかかわらず、圧迫感というより、どこか静かな威圧がある。壁の表面には細かい溝が何層にも刻まれ、巨大な円形の模様を描いていた。歯車のような、虹彩のような、あるいは、誰かの瞳孔のど真ん中を覗き込んでいるような。

その中心にだけ、ぽっかりと穴がある。人が二人並んで通れるほどの直径。けれど、その穴は今、透明な膜のようなもので塞がれていた。触れてもいないのに、そこから熱と圧力が伝わってくる。

「これが“心臓の門”か」

思わず息を呑んだ。門の向こうから、さらに強い鼓動が漏れてきている。今まで聞いてきたボイラーの音も、塔の回転軸の唸りも、すべてはこの向こうでまとめて鳴っているのだと直感した。

胸の内側で、ポケットに入れている歯車が震えた。タケルの記憶コア。夢層で拾った「記憶の種」と、資料庫で集めた欠片たち。全部まとめて、今は俺の胸ポケットの中で一つの固まりになっている。

その震え方が、街の鼓動と少しずつ重なっていくのが分かった。

「感じる?」と、リタが俺を見た。

「ああ。こいつが……呼ばれてるみたいだ」

「呼んでいるのは、心臓層にいる“主機”よ。私と同じ系列の、もっと古くて、もっと大きな核。そこへ通じる唯一の扉がこれ」

リタはゆっくりと壁に近づき、掌をそっと当てた。赤く脈打つ胸の光が、壁を通して向こう側へじわりと染み込んでいく。

「本来なら、この門は一度開いたら二度と閉じない。だから、街が完全に覚醒するまでは絶対に開けちゃいけない扉だったの」

「それを、今からこじ開けるのか」

「ええ。あなたとタケルを外へ出すために」

あっさりと言われて、言葉に詰まった。

「お前、それで済むのかよ。ここを開けたら、街はどうなる」

「上層が吹き飛ぶ。灰の空門までの経路がむき出しになる。たぶん、京橋機関街の半分はまともに機能しなくなるでしょうね」

そんなことを、まるで天気の話みたいな調子で言う。

「それ、つまり……街ごと自爆させるってことじゃないか」

「違うわ。これは呼吸よ」

リタは壁から手を離し、振り向いた。ゴーグルの奥の瞳が、金属光沢と人間の湿り気の境界で揺れている。

「この街は、長いあいだ“吸い込む”ばかりだった。祈りも、記憶も、反逆も、全部自分の中に取り込んで、溜め込み続けてきた。でも、吐かない息は、いつか肺を壊す。ここで一度、大きく吐き出さないと」

「それが、爆発ってわけか」

「そう。ちゃんと息を吐かせてやるの。多少、派手にね」

そう言って、ほんの少しだけ笑った。いつもの、からかうような笑みではない。どこか、安堵に似たものを含んだ笑み。

「でも、吐き出されたものは、どこへ行く」

「空へ。灰の層を突き抜けて。もし外側にまだ風が残っているなら、その風に混ざって、世界のどこかへ散っていく」

リタは胸元に手を当てた。

「私も、その一部になれるかもしれない」

その言葉に、喉の奥が熱くなった。

「ふざけるなよ、リタ。お前をここで散らして終わりなんて、そんなラストは認めない」

「ラスト?」と、彼女は首を傾げる。「まだ途中でしょ、物語は」

その返しに、思わず笑ってしまう。こんな状況で何を言ってるんだ、こいつは。

「安心して。全部捨てるつもりはないわ」

リタはそう言って、ポケットから細いケーブルを引き出した。心臓に繋がる赤い線。彼女の“命綱”みたいなそれを、俺の胸元――タケルのコアの上にそっと押し当てる。

じん、と熱が走った。歯車の震えが一瞬止まり、そのあとで激しく脈打ち始める。

「リンクを分岐させた。私の一部は、タケルの記憶側へ逃がしておく。もし私がここで完全に散っても、その断片はあなたたちと一緒にいる」

「……ズルいな、お前」

「機械はね、だいたいズルいのよ」

リタはそう言って立ち上がると、今度は壁から数歩離れた位置に移動した。

「派手にやるって言ったでしょ。門を開けるには、ただ鍵を差し込むだけじゃ足りない。街じゅうの配管とボイラーに、同時に逆流させる必要がある」

「逆流?」

「今まで下へ下へと落としていた熱と圧力を、一気に上向きにねじ曲げる。ボイラー室の落書き、覚えてる?」

思い出した。ボイラー室の壁に描かれていた、あの落書き。“圧をひっくり返せ”。配管図に、子どもの字で書かれていた矢印。

「あれ、お前が描いたのか」

「半分は私、半分は……この街で昔走ってた連中。ハートギアの奴らよ」

リタが指を鳴らした。足元の鉄板が薄く光り、遠くの配管まで連鎖的に赤く染まっていく。塔の内部に張り巡らされたパイプラインが、一本の巨大な回路みたいに浮かび上がった。

「見える?これが京橋機関街の“血管”。いまから、全部の血の流れを逆にする」

「そんなことしたら――」

「うん。一度だけ、盛大に破裂する」

その軽さが、かえって恐ろしい。

「アキト。ここから先、私は細かい制御ができない。いったんスイッチを入れたら、後戻りはできない」

リタは真っ直ぐに俺を見る。

「門が開いたら、迷わず走って。振り返らないで。タケルのコアを抱えて、一番速く、一番遠くへ」

「お前は?」

「私は……こっち側でブレーキを踏む役。街が全部吹っ飛ばないように、ギリギリのところで抑える」

「つまり、盾かよ」

「そう。たまには女の子が盾になる展開もありでしょう?」

笑いながら言うその目は、本気だった。

言いたいことはいくらでもあった。でも、時間は待ってくれない。心臓の鼓動が、さっきより速くなってきている。主機が完全に目覚める前に、こちらから先に扉を叩き割らなければ。

「――分かった」

俺は短くそう答え、タケルのコアを両手で握り直した。胸の中に、タケルの笑い声が微かに蘇る。

『兄貴、走れよ。そうすりゃ、だいたいなんとかなる』

「なんとかなんねえ場面なんだがな、今」

小さく吐き捨てる。けれど、その言葉が胸の奥を軽くしてくれた。

「スイッチ、入れるわよ」

リタが深く息を吸い込んだ。胸の赤い光が、心臓の鼓動と完璧に同期する。次の瞬間、足元の鉄板に走る線が、一斉に白熱した。

――ドン。

低い衝撃が、塔の下から突き上げてきた。

――ドドン。

二打目は、もっと大きい。壁が震え、天井から細かな砂鉄が降り注ぐ。遠くの配管が悲鳴のような音を上げた。

「来るぞ……!」

三打目。鼓動が跳ね上がった瞬間、リタが叫んだ。

「逆流開始!」

世界がひっくり返った。

足元から、これまで聞いたことのないような唸り声が上がる。熱が、圧力が、街の底から一気に押し寄せてくる。普段は下へ逃がしていた蒸気が、今度は上へ、上へと押し戻されてくるのだ。

配管が膨れ上がり、継ぎ目から白い蒸気が噴き出す。バルブが弾け、ボルトが飛び、鉄板がミシミシと悲鳴を上げる。そのすべてが、ここ、“心臓の門”の一点へ向かって収束してくる。

視界が熱でゆらぎ、汗が一瞬で蒸発した。息を吸えば、喉が焼ける。肺が鉄の味でいっぱいになる。

「リタ!!」

叫んだときには、彼女の周囲がもう別の物質になっていた。熱と光と圧力の中心に立つ彼女の輪郭が、ぼやけていく。髪が浮かび、肌の下から金属の骨格が透けて見える。胸の赤い心臓がむき出しになり、その一打ちごとに周囲の空間が押し広げられる。

彼女は両腕を広げ、門の前に立ちはだかった。まるで巨大な津波の前に、ただ一枚の薄い板を差し出しているみたいに。

「アキト――!」

爆発の中心で、彼女が俺の名を呼んだ。

「走れ!!」

その声が合図だった。

次の瞬間、世界が裂けた。

心臓の門の中心――透明な膜で塞がれていた部分が、内側から破裂した。音という概念で表現できない衝撃。耳は潰され、視界は白一色になり、全身の骨が内側から叩かれる感覚だけが残る。

光が奔った。赤、白、黄、青。街じゅうの配管を流れていた蒸気と炎と火花が、一点に集まり、巨大な閃光となって外へ解き放たれる。圧縮されきった祈りと記憶と怒りが、まとめて爆ぜた。

金属の壁がめくれ上がり、天井が吹き飛び、上層の構造物が崩れ落ちる。塔の外殻を貫いて、炎と煙が空へ向かって噴き上がった。京橋機関街全体が一瞬、昼みたいな明るさに包まれる。

俺はその爆風に背中を殴られ、文字通り“吹き飛ばされた”。足も床も関係なく、ただ空間の中を投げ出される。胸に抱いたタケルのコアだけを離すまいと、両腕に力を込める。

何か硬いものにぶつかり、転がり、またぶつかった。痛みはあるのに、どこがどう傷んでいるのかが分からない。耳鳴りの向こうから、金属が千切れる音、建物が倒壊する音、人ならざる悲鳴のような機械音が重なって聞こえてくる。

しばらくして――どれくらい時間が経ったのかは分からない――ようやく、世界に色が戻り始めた。

灰色。鉄錆色。煤けた赤。

俺は瓦礫の山の上に投げ出されていた。上を見上げると、そこには見たことのない“空”があった。

塔の外殻が破れ、上層の一部が吹き飛んでいる。むき出しになった鉄骨の隙間から、灰色の雲が覗いていた。まだ完全な“外”じゃない。けれど、これまで塔の内側から見上げていた天井とは明らかに違う。風が、吹いている。

熱を含んだ、焼けた鉄と灰の匂いのする風。それでも、紛れもなく“風”だ。

胸の前で、コアが震えた。青い光が、薄い灰煙を透かして瞬く。

『……兄貴……』

タケルの声が、はっきりと聞こえた。

「タケル!」

思わず身を起こし、あたりを見回す。崩れた壁、折れた配管、黒く焦げた床。リタの姿は、どこにもない。

さっきまで彼女が立っていたはずの場所は、巨大なクレーターになっていた。心臓の門は跡形もなく吹き飛び、その先には、黒い空洞がぽっかりと口を開けている。そこから、まだ熱と煙が噴き出していた。

「リタ……!」

呼んでも、返事はない。けれど、風に乗って、かすかな赤い光の粒が流れていくのが見えた。爆心地から離れ、上へ、上へと舞い上がっていく。

それはまるで、誰かの祈りの残りかすみたいだった。

『兄貴』

腕の中のコアが、もう一度俺を呼ぶ。

『まだだよ。終わってない。走れる?』

「……ああ」

喉がひりついて、声がうまく出ない。それでも、答える。

塔の内部から、まだ低い唸りが響いている。心臓は完全には止まっていない。むしろ、さっきの爆発で無理やり目を覚まされて、ここからどう動くかを決めかねている、そんな音。

俺は瓦礫の上に立ち上がった。足元は不安定で、一歩間違えれば崩れ落ちそうだ。それでも、進む方向ははっきりしている。

上へ。灰の空門のほうへ。

リタが身を賭してこじ開けたこの“穴”を、無駄にはしたくない。

「行くぞ、タケル」

コアを胸に押し当てる。鼓動が重なり合い、ひとつのリズムになる。

風が吹いた。灰と火の粉を巻き上げ、俺の背中を押す。

俺は走り出した。爆発の残響がまだ塔の骨を震わせている。その振動を足裏で受けながら、崩れかけた鉄骨の橋を駆け上がる。

背後で、遠くのどこかで、金属の鐘のような音が鳴った。街の心臓が、新しい拍を刻み始めた合図のように思えた。
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