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第一部 脱出編
第16話 灰の梯子
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爆発の余熱が、まだ足元の鉄骨を震わせていた。
瓦礫の斜面を駆け上がりながら、俺は胸元のコアを片手で押さえ込む。小さな歯車の塊が、皮膚越しに一定のテンポで脈打っている。俺の心拍はそれより速く、乱れているのに、コアの律動だけは不気味なほどぶれない。
「行くぞ、タケル。上だ」
誰もいない空間に向かってそう告げる。
応える声はない。代わりに、コアの鼓動が一拍だけ強くなったように感じた。
足元は、崩れた床材と曲がった鉄骨と砕けたコンクリートが混ざり合った、悪意の塊みたいな地面だ。踏み損ねれば、そのまま黒い穴へ落ちる。塔の階層がいくつも抜け落ち、その断面から赤い炎が覗いていた。
塔の奥で、鈍く重い金属音が響いた。
遠くで巨大な鐘が打たれたような音。
その一拍を合図に、周囲の梁が低く鳴り、壁の配管がじわじわと震え始める。
街の心臓が、爆発で乱れたリズムを組み直している。
死んではいない。
むしろ、傷ついた獣が息を吸い直すみたいに、塔そのものが再起動しつつあった。
この街は、しぶとい。
人が何人潰れようが、歯車が少し欠けようが、全体としての拍動さえ保てればそれでいいと考えている。
人間の心臓はひとつ止まれば終わりだが、街の心臓は部品を替え、配線を継ぎ直し、平気な顔で、いや、むしろ誇らしげに動き続ける。
その図太さが、昔から嫌いだった。
「お前の拍動なんかに、合わせてやるつもりはない」
吐き捨てるようにそう言い、さらに速度を上げる。
◇
崩れた通路の先で、鉄骨の橋が空中に引っかかっていた。
爆風に半分を持っていかれたせいで、残った部分もひどく歪んでいる。溶接の痕が捻じ曲がり、鉄骨同士が無理やり噛み合っている様は、壊れた顎のように見えた。
橋の下は、さっきまでいた階層の残骸だ。
焼けた配管と折れた梁が絡まり合い、その合間を火の粉が漂っている。風が吹き込むたびに、赤い粒が宙を舞い上がり、すぐに黒い煙に飲まれて消えていく。
一歩踏み出すと、橋全体が深い喘ぎ声のような軋みを漏らした。
金属の繊維が悲鳴を上げている。
「悪いが、もう少しだけ持ってくれ」
低く呟き、さらに足を踏み込む。
二歩目で橋が沈む。
三歩目で斜度が不意に変わり、重心が前へ滑る。
四歩目で、継ぎ目に走っていた亀裂が白く光った。
金属が裂ける感触が足裏から伝わった瞬間、考える前に身体が跳んでいた。
空気が一瞬軽くなる。
下から熱が噴き上がり、顔を焼く。
視界の端で、鉄骨の破片が黒い穴へ吸い込まれていくのが見えた。
指先が、反対側の梁の縁をかろうじて捉えた。
古い火傷が、その瞬間だけ生き物のように暴れ出す。
痛みで視界が白く滲む。
それでも腕に力を込め、身体を引き寄せた。
肩が軋み、肺が燃えるように痛む。
そうして、崩れた床の上へ自分の重さを引き上げる。
背後で、橋の残骸が崩れ落ちていく音がした。
さっきまで俺が乗っていた足場が、火の底へ沈んでいく。
俺が落ちれば、街はそれを一拍分のノイズとして処理するだけだろう。
歯車がひとつ欠けた程度の、些細な誤差として。
「そう簡単には、部品になってやらねえよ」
息を吐きながら、胸元のコアを軽く叩く。
中から、弱いが確かな応答の拍動が返ってきた。
◇
階段を駆け上がる。
壁に埋め込まれた配管が少しずつ鼓動を取り戻し、塔全体がひとつの巨大な体みたいに息をし始めていた。
その脈動に、別の拍が混じる。
一定の間隔で床を震わせる、金属の足音。
感情のない、淡々とした律動。
疲労の概念を持たない歩調。
塔の警戒装置が、動き出した。
姿は見えない。
だが、存在そのものが梁を伝い、こちらへ迫ってくるのがわかる。
塔が「ここに異物がいる」と判断し、その排除のために脚を動かし始めた音だ。
この街が本当に祈っているのは、人間の幸福なんかじゃない。
自分自身の機能が乱れず続くことだけだ。
その祈りの邪魔になるものは、人でも、記憶でも、躊躇なく削り取る。
そういう仕組みを、俺は長いこと裏側から見てきた。
「間に合えよ」
階段の途中、脇に狭いサービストンネルが開いているのを見つけた。
人間ひとりがやっと通れる幅。
かつて整備工として潜り込んだのと同じ規格だ。
ハッチのレバーを蹴り下ろす。
内部で小さな歯車が噛み合い、重い蓋がじわりと開く。
躊躇うことなく身を滑り込ませた。
湿った鉄の匂いが鼻を刺す。
身体をねじ込みながら、手を伸ばして蓋を引き寄せる。
閉じきる寸前、階段を踏みしめる重量が伝わってきた。
誰か、ではない。
何かがそこに立った、という感触。
数秒後、薄い鋼板の向こう側を、硬い指先が一度だけなぞった。
叩くでもなく、怒るでもなく、ただ「存在を確認した」と記録するような、冷たい触れ方だった。
塔は、俺たちがここにいることを知っている。
だが、この幅は奴らの脚には狭すぎる。
「お前らの懐は、人間用には出来ちゃいないからな」
かすかに笑って、四つん這いで進み始める。
サービストンネルの中は蒸気で湿っていた。
結露が壁を伝い、時折、冷たい水滴が首筋に落ちる。
天井すれすれに張り巡らされた細い配管が、塔のどこかから送られてくる熱をじわじわと伝えていた。
息苦しいはずなのに、この閉塞感はどこか懐かしい。
整備工として働いていた頃の、仕事の空気だ。
ボルトの位置。
継ぎ目の癖。
金属の材質。
指先が触れた情報だけで、通路の先の構造が頭に浮かぶ。
塔の“内臓の地図”が、皮膚の裏で再び動き出す。
この街が嫌いで、ここから外へ出たくて仕方なかったはずなのに。
気づけば、俺の身体は街の構造と同じリズムで動いている。
塔が息を吸えば、俺の肺もそれに合わせて膨らみ、塔が拍動すれば、俺の心臓もつられて跳ねる。
まるで、街のほうが「お前はもうこっち側だ」と証明してやる、とでも言っているみたいだった。
「勝手に仲間にするなよ」
そう言いながらも、俺は塔の癖を利用して前へ進んでいる。
嫌悪と依存が同居している感覚が、胸の奥でひどく居心地が悪い。
胸元のコアが、かすかに震えた。
――兄貴、さっきの女の人……。
耳の奥で、形になりきらない声がこぼれる。
タケルの声だ。
意識のほとんどを街に預けられたまま、それでも残った僅かな部分で俺に話しかけようとしている。
「リタのことか」
――死んだの?
質問ともつかない問いが、胸の内側に沈んだ。
返事は簡単だ。
でも、言葉にした瞬間、それが完全に現実になってしまう。
「さあな」
短くそれだけ言う。
嘘でも真実でもない、逃げの言葉。
リタは俺たちのために、塔の心臓に火をつけた。
自分の心拍と街の拍動を無理やり重ねて、その歪みで道をこじ開けた。
その代償を、俺はまだきちんと想像できていない。
もしかしたら、あいつはまだどこかで息をしているのかもしれないし、もうとっくに街のノイズに溶けてしまったのかもしれない。
彼女のことを、俺がどう思っているのかも、まだ曖昧なままだ。
憎んでいたはずだ。
弟を奪った側の人間として。
だが同時に、彼女がいなければ、俺はとうの昔に諦めていたはずでもある。
街の道を知っているのは俺だが、走る方向を変えたのは、あいつだ。
「タケル。リタに借りっぱなしってのは、気持ちが悪いだろ」
胸元に向かってそう言うと、コアが一拍だけ強く脈打った。
同意なのか、反発なのか、判別はつかない。
それでも、その拍は俺の足を少しだけ速くした。
◇
やがて通路の先が、薄い灰色に滲み始めた。
出口が近い。
最後のハッチを押し上げると、冷たい外気が一気に流れ込んできた。
熱と蒸気に慣れていた肺が驚き、小さく痙攣する。
そこは上層工場フロアの廃区画だった。
高い天井の半分が吹き飛び、そこから灰色の空が覗いている。
残った梁にはちぎれた配線とパイプが垂れ下がり、風に揺れていた。
床には砕けた歯車の山、ひしゃげた圧力タンク、止まったコンベア。
全てが途中で時間を止められたまま、そこに取り残されているように見える。
その廃墟めいた工場の奥に、斜路が一本伸びていた。
傾いた鉄板の道が、さらに上の階層へと続いている。
斜路のさらに上方で、巨大な輪が空を切り取っていた。
灰の空門。
街の外殻に穿たれた裂け目。
そこへ向かう道が、ようやく視界に入った。
「見えてきたぞ、タケル」
胸の内側に囁く。
コアの鼓動が、一瞬だけ俺の心臓とぴたりと重なった。
その瞬間、塔の奥から、さっきよりも深い金属音が響いた。
床がわずかに跳ね、工場の壁に埋め込まれた古い端末群が、一斉に薄く明滅する。
壊れていたはずのランプが、どれも赤い色だけを拾って震えるように点いた。
街が、本気で目を覚ました。
天井のレールに吊るされたクレーンが、一台、また一台と動き出す。
眠っていた巨大な腕が、重力を思い出したように軋み、先端に取り付けられた監視レンズがじわりとこちらへ向きを変える。
その視線が工場床の一点をなぞった瞬間、鉄板の下で圧力が跳ねた。
次の刹那、床の一部が内側から弾け飛び、白熱した蒸気が噴き上がる。
破片と熱風が頬をかすめ、灰が炎のように舞い散った。
とっさに側のコンベアの影へ身を滑り込ませる。
さっきまで立っていた場所に、黒い穴が穿たれていた。
クレーンのレンズが、少し角度を変える。
その動きが、次の一撃の座標を計算していることを告げていた。
「さっさと片をつけたいってわけか」
街に感情なんてないはずなのに、その冷ややかな集中に、妙に人間臭い性急さを感じてしまう。
塔と長く付き合い過ぎたせいで、俺のほうが街に引きずられているのかもしれない。
リタも、最初はこんなふうに街を見ていたのだろうか。
機械に寄り添い過ぎた結果、自分の心臓のリズムと街の拍動の違いが分からなくなっていったのだろうか。
あいつの胸の中で赤く光っていた小さな装置を思い出す。
街の心臓に自分の鼓動を差し出すようにして笑った顔を。
「……あそこまで真似する気はない」
そう言い聞かせるように、胸元のコアを握りしめる。
「隠れてやり過ごすために、ここまで走ってきたわけじゃない」
短く息を整え、コンベアの影から飛び出した。
◇
斜路へ向かって全力で駆ける。
蒸気弾が床を穿ち、熱風が背中を追いかけてくる。
灰が喉に入り込み、息をするたびに肺が削られるようだった。
クレーンの腕が頭上をかすめ、吊り下がったフックが揺れる。
風を裂くその軌跡の先に、わずかな隙が見えた。
あの高さまで行ければ、一気に灰の空門へ近づける。
躊躇えば、足が止まる。
考える前に跳んだ。
指がフックの冷たい金属を捉えた瞬間、全体重が腕にのしかかる。
肩の関節が悲鳴を上げ、古い火傷が再び焼ける匂いを放つ。
離せば終わりだ。
街の底まで落ち、塔の心臓に一拍分のノイズを残して消えるだけ。
「タケル、しがみついてろ」
自分でも何に向かって言っているのか分からない言葉を吐きながら、フックを握る指に力を込める。
胸元のコアが、それに応じるように強く脈打った。
クレーンはレールの上を移動し始めた。
工場フロアが足元から遠ざかり、斜路が斜め下に傾いて見える。
複数の監視の目が、その斜路をなぞるように移動しているのがわかる。
塔の奥で鳴る拍動が、さっきより速くなっていた。
街の心臓が走っている。
逃げる俺を追いかけるみたいに。
レールの継ぎ目を越えるたび、身体が大きく揺れた。
視界の端で、灰の空門が徐々に大きくなる。
輪の外側の空は濁っているのに、その中心だけが不自然なほど色を失っていた。
あの先に何があるのかは知らない。
世界の終わりかもしれないし、ただ別の塔が待っているだけかもしれない。
それでも、この街の心臓に飲まれるよりはマシだと思った。
灰の空門へ続く外部通路が、真下に見えた。
崩れかけの鉄板が空中に突き出し、その先はもう何もない。
「ここだ」
フックから手を放す。
足元の空気が消え、重力だけが身体を掴む感覚。
次の瞬間、鉄板に着地した衝撃が骨を通して全身に走る。
膝が沈み込み、視界がぐらりと揺れた。
それでも倒れはしない。
足首が、軋みながらも持ちこたえた。
外部通路は、風の通り道になっていた。
灰と冷気が混じり合い、どこか遠くから潮のような匂いも運ばれてくる。
胸元のコアの鼓動が、ゆっくりとしたリズムに戻った。
それは恐怖とも高揚とも違う、妙に静かな拍だった。
塔の内側の音が、いったん遠くなる。
外の風の音だけが耳に届く一瞬。
灰の空門が、目の前にあった。
「……もうすぐだ、タケル」
囁いたとき、塔の奥から再び金属の鐘が鳴った。
今度の拍は、さっきよりも硬く、こちらの存在を叩きつけるような響きを持っていた。
街の心臓が、新しいリズムを完全に掴んだのだ。
この街は、自分の拍動を乱したものを決して許さない。
リタの心臓も、タケルの記憶も、俺の足も、全部まとめて飲み込んで、最後は自分の鼓動に仕立て直そうとしている。
「そうはさせねえよ」
呟き、外部通路の先へと足を踏み出す。
まだ終わってはいない。
だが確かに、“終わりへ向かう梯子”の一段目には、足をかけた気がした。
瓦礫の斜面を駆け上がりながら、俺は胸元のコアを片手で押さえ込む。小さな歯車の塊が、皮膚越しに一定のテンポで脈打っている。俺の心拍はそれより速く、乱れているのに、コアの律動だけは不気味なほどぶれない。
「行くぞ、タケル。上だ」
誰もいない空間に向かってそう告げる。
応える声はない。代わりに、コアの鼓動が一拍だけ強くなったように感じた。
足元は、崩れた床材と曲がった鉄骨と砕けたコンクリートが混ざり合った、悪意の塊みたいな地面だ。踏み損ねれば、そのまま黒い穴へ落ちる。塔の階層がいくつも抜け落ち、その断面から赤い炎が覗いていた。
塔の奥で、鈍く重い金属音が響いた。
遠くで巨大な鐘が打たれたような音。
その一拍を合図に、周囲の梁が低く鳴り、壁の配管がじわじわと震え始める。
街の心臓が、爆発で乱れたリズムを組み直している。
死んではいない。
むしろ、傷ついた獣が息を吸い直すみたいに、塔そのものが再起動しつつあった。
この街は、しぶとい。
人が何人潰れようが、歯車が少し欠けようが、全体としての拍動さえ保てればそれでいいと考えている。
人間の心臓はひとつ止まれば終わりだが、街の心臓は部品を替え、配線を継ぎ直し、平気な顔で、いや、むしろ誇らしげに動き続ける。
その図太さが、昔から嫌いだった。
「お前の拍動なんかに、合わせてやるつもりはない」
吐き捨てるようにそう言い、さらに速度を上げる。
◇
崩れた通路の先で、鉄骨の橋が空中に引っかかっていた。
爆風に半分を持っていかれたせいで、残った部分もひどく歪んでいる。溶接の痕が捻じ曲がり、鉄骨同士が無理やり噛み合っている様は、壊れた顎のように見えた。
橋の下は、さっきまでいた階層の残骸だ。
焼けた配管と折れた梁が絡まり合い、その合間を火の粉が漂っている。風が吹き込むたびに、赤い粒が宙を舞い上がり、すぐに黒い煙に飲まれて消えていく。
一歩踏み出すと、橋全体が深い喘ぎ声のような軋みを漏らした。
金属の繊維が悲鳴を上げている。
「悪いが、もう少しだけ持ってくれ」
低く呟き、さらに足を踏み込む。
二歩目で橋が沈む。
三歩目で斜度が不意に変わり、重心が前へ滑る。
四歩目で、継ぎ目に走っていた亀裂が白く光った。
金属が裂ける感触が足裏から伝わった瞬間、考える前に身体が跳んでいた。
空気が一瞬軽くなる。
下から熱が噴き上がり、顔を焼く。
視界の端で、鉄骨の破片が黒い穴へ吸い込まれていくのが見えた。
指先が、反対側の梁の縁をかろうじて捉えた。
古い火傷が、その瞬間だけ生き物のように暴れ出す。
痛みで視界が白く滲む。
それでも腕に力を込め、身体を引き寄せた。
肩が軋み、肺が燃えるように痛む。
そうして、崩れた床の上へ自分の重さを引き上げる。
背後で、橋の残骸が崩れ落ちていく音がした。
さっきまで俺が乗っていた足場が、火の底へ沈んでいく。
俺が落ちれば、街はそれを一拍分のノイズとして処理するだけだろう。
歯車がひとつ欠けた程度の、些細な誤差として。
「そう簡単には、部品になってやらねえよ」
息を吐きながら、胸元のコアを軽く叩く。
中から、弱いが確かな応答の拍動が返ってきた。
◇
階段を駆け上がる。
壁に埋め込まれた配管が少しずつ鼓動を取り戻し、塔全体がひとつの巨大な体みたいに息をし始めていた。
その脈動に、別の拍が混じる。
一定の間隔で床を震わせる、金属の足音。
感情のない、淡々とした律動。
疲労の概念を持たない歩調。
塔の警戒装置が、動き出した。
姿は見えない。
だが、存在そのものが梁を伝い、こちらへ迫ってくるのがわかる。
塔が「ここに異物がいる」と判断し、その排除のために脚を動かし始めた音だ。
この街が本当に祈っているのは、人間の幸福なんかじゃない。
自分自身の機能が乱れず続くことだけだ。
その祈りの邪魔になるものは、人でも、記憶でも、躊躇なく削り取る。
そういう仕組みを、俺は長いこと裏側から見てきた。
「間に合えよ」
階段の途中、脇に狭いサービストンネルが開いているのを見つけた。
人間ひとりがやっと通れる幅。
かつて整備工として潜り込んだのと同じ規格だ。
ハッチのレバーを蹴り下ろす。
内部で小さな歯車が噛み合い、重い蓋がじわりと開く。
躊躇うことなく身を滑り込ませた。
湿った鉄の匂いが鼻を刺す。
身体をねじ込みながら、手を伸ばして蓋を引き寄せる。
閉じきる寸前、階段を踏みしめる重量が伝わってきた。
誰か、ではない。
何かがそこに立った、という感触。
数秒後、薄い鋼板の向こう側を、硬い指先が一度だけなぞった。
叩くでもなく、怒るでもなく、ただ「存在を確認した」と記録するような、冷たい触れ方だった。
塔は、俺たちがここにいることを知っている。
だが、この幅は奴らの脚には狭すぎる。
「お前らの懐は、人間用には出来ちゃいないからな」
かすかに笑って、四つん這いで進み始める。
サービストンネルの中は蒸気で湿っていた。
結露が壁を伝い、時折、冷たい水滴が首筋に落ちる。
天井すれすれに張り巡らされた細い配管が、塔のどこかから送られてくる熱をじわじわと伝えていた。
息苦しいはずなのに、この閉塞感はどこか懐かしい。
整備工として働いていた頃の、仕事の空気だ。
ボルトの位置。
継ぎ目の癖。
金属の材質。
指先が触れた情報だけで、通路の先の構造が頭に浮かぶ。
塔の“内臓の地図”が、皮膚の裏で再び動き出す。
この街が嫌いで、ここから外へ出たくて仕方なかったはずなのに。
気づけば、俺の身体は街の構造と同じリズムで動いている。
塔が息を吸えば、俺の肺もそれに合わせて膨らみ、塔が拍動すれば、俺の心臓もつられて跳ねる。
まるで、街のほうが「お前はもうこっち側だ」と証明してやる、とでも言っているみたいだった。
「勝手に仲間にするなよ」
そう言いながらも、俺は塔の癖を利用して前へ進んでいる。
嫌悪と依存が同居している感覚が、胸の奥でひどく居心地が悪い。
胸元のコアが、かすかに震えた。
――兄貴、さっきの女の人……。
耳の奥で、形になりきらない声がこぼれる。
タケルの声だ。
意識のほとんどを街に預けられたまま、それでも残った僅かな部分で俺に話しかけようとしている。
「リタのことか」
――死んだの?
質問ともつかない問いが、胸の内側に沈んだ。
返事は簡単だ。
でも、言葉にした瞬間、それが完全に現実になってしまう。
「さあな」
短くそれだけ言う。
嘘でも真実でもない、逃げの言葉。
リタは俺たちのために、塔の心臓に火をつけた。
自分の心拍と街の拍動を無理やり重ねて、その歪みで道をこじ開けた。
その代償を、俺はまだきちんと想像できていない。
もしかしたら、あいつはまだどこかで息をしているのかもしれないし、もうとっくに街のノイズに溶けてしまったのかもしれない。
彼女のことを、俺がどう思っているのかも、まだ曖昧なままだ。
憎んでいたはずだ。
弟を奪った側の人間として。
だが同時に、彼女がいなければ、俺はとうの昔に諦めていたはずでもある。
街の道を知っているのは俺だが、走る方向を変えたのは、あいつだ。
「タケル。リタに借りっぱなしってのは、気持ちが悪いだろ」
胸元に向かってそう言うと、コアが一拍だけ強く脈打った。
同意なのか、反発なのか、判別はつかない。
それでも、その拍は俺の足を少しだけ速くした。
◇
やがて通路の先が、薄い灰色に滲み始めた。
出口が近い。
最後のハッチを押し上げると、冷たい外気が一気に流れ込んできた。
熱と蒸気に慣れていた肺が驚き、小さく痙攣する。
そこは上層工場フロアの廃区画だった。
高い天井の半分が吹き飛び、そこから灰色の空が覗いている。
残った梁にはちぎれた配線とパイプが垂れ下がり、風に揺れていた。
床には砕けた歯車の山、ひしゃげた圧力タンク、止まったコンベア。
全てが途中で時間を止められたまま、そこに取り残されているように見える。
その廃墟めいた工場の奥に、斜路が一本伸びていた。
傾いた鉄板の道が、さらに上の階層へと続いている。
斜路のさらに上方で、巨大な輪が空を切り取っていた。
灰の空門。
街の外殻に穿たれた裂け目。
そこへ向かう道が、ようやく視界に入った。
「見えてきたぞ、タケル」
胸の内側に囁く。
コアの鼓動が、一瞬だけ俺の心臓とぴたりと重なった。
その瞬間、塔の奥から、さっきよりも深い金属音が響いた。
床がわずかに跳ね、工場の壁に埋め込まれた古い端末群が、一斉に薄く明滅する。
壊れていたはずのランプが、どれも赤い色だけを拾って震えるように点いた。
街が、本気で目を覚ました。
天井のレールに吊るされたクレーンが、一台、また一台と動き出す。
眠っていた巨大な腕が、重力を思い出したように軋み、先端に取り付けられた監視レンズがじわりとこちらへ向きを変える。
その視線が工場床の一点をなぞった瞬間、鉄板の下で圧力が跳ねた。
次の刹那、床の一部が内側から弾け飛び、白熱した蒸気が噴き上がる。
破片と熱風が頬をかすめ、灰が炎のように舞い散った。
とっさに側のコンベアの影へ身を滑り込ませる。
さっきまで立っていた場所に、黒い穴が穿たれていた。
クレーンのレンズが、少し角度を変える。
その動きが、次の一撃の座標を計算していることを告げていた。
「さっさと片をつけたいってわけか」
街に感情なんてないはずなのに、その冷ややかな集中に、妙に人間臭い性急さを感じてしまう。
塔と長く付き合い過ぎたせいで、俺のほうが街に引きずられているのかもしれない。
リタも、最初はこんなふうに街を見ていたのだろうか。
機械に寄り添い過ぎた結果、自分の心臓のリズムと街の拍動の違いが分からなくなっていったのだろうか。
あいつの胸の中で赤く光っていた小さな装置を思い出す。
街の心臓に自分の鼓動を差し出すようにして笑った顔を。
「……あそこまで真似する気はない」
そう言い聞かせるように、胸元のコアを握りしめる。
「隠れてやり過ごすために、ここまで走ってきたわけじゃない」
短く息を整え、コンベアの影から飛び出した。
◇
斜路へ向かって全力で駆ける。
蒸気弾が床を穿ち、熱風が背中を追いかけてくる。
灰が喉に入り込み、息をするたびに肺が削られるようだった。
クレーンの腕が頭上をかすめ、吊り下がったフックが揺れる。
風を裂くその軌跡の先に、わずかな隙が見えた。
あの高さまで行ければ、一気に灰の空門へ近づける。
躊躇えば、足が止まる。
考える前に跳んだ。
指がフックの冷たい金属を捉えた瞬間、全体重が腕にのしかかる。
肩の関節が悲鳴を上げ、古い火傷が再び焼ける匂いを放つ。
離せば終わりだ。
街の底まで落ち、塔の心臓に一拍分のノイズを残して消えるだけ。
「タケル、しがみついてろ」
自分でも何に向かって言っているのか分からない言葉を吐きながら、フックを握る指に力を込める。
胸元のコアが、それに応じるように強く脈打った。
クレーンはレールの上を移動し始めた。
工場フロアが足元から遠ざかり、斜路が斜め下に傾いて見える。
複数の監視の目が、その斜路をなぞるように移動しているのがわかる。
塔の奥で鳴る拍動が、さっきより速くなっていた。
街の心臓が走っている。
逃げる俺を追いかけるみたいに。
レールの継ぎ目を越えるたび、身体が大きく揺れた。
視界の端で、灰の空門が徐々に大きくなる。
輪の外側の空は濁っているのに、その中心だけが不自然なほど色を失っていた。
あの先に何があるのかは知らない。
世界の終わりかもしれないし、ただ別の塔が待っているだけかもしれない。
それでも、この街の心臓に飲まれるよりはマシだと思った。
灰の空門へ続く外部通路が、真下に見えた。
崩れかけの鉄板が空中に突き出し、その先はもう何もない。
「ここだ」
フックから手を放す。
足元の空気が消え、重力だけが身体を掴む感覚。
次の瞬間、鉄板に着地した衝撃が骨を通して全身に走る。
膝が沈み込み、視界がぐらりと揺れた。
それでも倒れはしない。
足首が、軋みながらも持ちこたえた。
外部通路は、風の通り道になっていた。
灰と冷気が混じり合い、どこか遠くから潮のような匂いも運ばれてくる。
胸元のコアの鼓動が、ゆっくりとしたリズムに戻った。
それは恐怖とも高揚とも違う、妙に静かな拍だった。
塔の内側の音が、いったん遠くなる。
外の風の音だけが耳に届く一瞬。
灰の空門が、目の前にあった。
「……もうすぐだ、タケル」
囁いたとき、塔の奥から再び金属の鐘が鳴った。
今度の拍は、さっきよりも硬く、こちらの存在を叩きつけるような響きを持っていた。
街の心臓が、新しいリズムを完全に掴んだのだ。
この街は、自分の拍動を乱したものを決して許さない。
リタの心臓も、タケルの記憶も、俺の足も、全部まとめて飲み込んで、最後は自分の鼓動に仕立て直そうとしている。
「そうはさせねえよ」
呟き、外部通路の先へと足を踏み出す。
まだ終わってはいない。
だが確かに、“終わりへ向かう梯子”の一段目には、足をかけた気がした。
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ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら
俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。
赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。
もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。
サイレント・サブマリン ―虚構の海―
来栖とむ
SF
彼女が追った真実は、国家が仕組んだ最大の嘘だった。
科学技術雑誌の記者・前田香里奈は、謎の科学者失踪事件を追っていた。
電磁推進システムの研究者・水嶋総。彼の技術は、完全無音で航行できる革命的な潜水艦を可能にする。
小与島の秘密施設、広島の地下工事、呉の巨大な格納庫—— 断片的な情報を繋ぎ合わせ、前田は確信する。
「日本政府は、秘密裏に新型潜水艦を開発している」
しかし、その真実を暴こうとする前田に、次々と圧力がかかる。
謎の男・安藤。突然現れた協力者・森川。 彼らは敵か、味方か——
そして8月の夜、前田は目撃する。 海に下ろされる巨大な「何か」を。
記者が追った真実は、国家が仕組んだ壮大な虚構だった。 疑念こそが武器となり、嘘が現実を変える——
これは、情報戦の時代に問う、現代SF政治サスペンス。
【全17話完結】
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
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