錆びた街の落書き

宮滝吾朗

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第一部 脱出編

第17話 静脈の階層

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斜路を駆け上がった先で、空気が変わった。

それまで背中を焼いていた熱は薄れ、代わりに冷えた金属の気配が肺を刺した。
湿気も熱も奪われ、音のすべてが遠ざかったような静けさ。
塔の内部なのに、まるで廃墟の底にいるような感覚だった。

「……ここは」

足を止めた瞬間、響くはずの靴音が、生々しいほどよく響いた。
それがやけに大袈裟に聞こえるのは、周囲の空間が異様なほど息を潜めているからだ。

目の前に広がるのは、暗いホールだった。
天井は高いが、半分以上が壊れてコンクリート片がぶら下がっている。
壁一面に古いパイプとケーブルが縦横無尽に走り、それらはまるで凍った血管みたいに、どれ一つとして動いていなかった。

動力の火が落ちた塔は、こんなにも静かになるのか。

いや違う。
これは“静か”じゃない。

“息をひそめている”。

塔が、こちらの動きを窺うように、じっと耳を澄ましている。

そう思った瞬間、背筋が冷えた。

胸元でコアの鼓動が、小さく揺れる。
タケルの心臓ではないが、タケルの残響だけはそこに息づいている。

「兄貴……」

微かな声が、胸の奥で震えた。
空気を震わせる声ではなく、神経の内側をなぞるような、微弱な電流に近い。

「どこ、ここ……」

「塔の内部だ。でも動力が落ちてる。爆発の余波だろう」

——違う。落ちてるんじゃない。潜ってる。

タケルの声は、言葉としては成立していなかった。
それでも、意味だけが流れ込んでくる。

潜っている?
動力が……?

その時、気づいた。

壁も天井も床下も、すべての配線が沈黙しているのに、なぜか“熱”だけが残っている。
微かに漂う、煤と鉄の匂い。
配管の奥にこびりついた赤い残光。
塔の内側を流れていたはずの蒸気が、息を止めた瞬間の温度だけ維持している。

まるで塔そのものが、心臓の鼓動を一拍だけ止め、再び動く瞬間を待っているようだった。

「嫌な空気だ……」

自分でも気づかぬほど小さく呟く。

音を返す者はいない。
だが、この沈黙そのものが“返事”のように聞こえた。



ホールの奥へ進むと、古い昇降機の残骸があった。
籠は捻じ曲がり、扉は半開きのまま押し潰されている。
階段を上がるしかないが、その階段すら途中で途切れている。

瓦礫と鉄板を踏みしめながら慎重に進む。

“踏むな”

タケルの声が、突然、胸元で震えた。

反射的に足を引いた瞬間、目の前の床面が沈んだ。
黒い溝のような穴が口を開け、中から冷たい風が吹き上がる。

床下階層との仕切りが抜けていたのだ。
あと一歩、踏み抜けば落下していた。

「……助かった」

呟くと、コアが弱々しく点滅した。
肯定なのか安堵なのかはわからない。
だが確かに、タケルは俺を引き戻した。

この沈黙の空間で、それは唯一の“生きた声”だった。



階段の代わりに、壁に沿って走る保守用の細い足場を使う。
幅はわずか二十センチほど。
足を滑らせれば、そのまま黒い階層へ落ちる。

足元の鉄板が薄く軋む。

その音に、塔全体が反応した。

ホールの奥のパイプ群が、目に見えない呼吸を始めたように、かすかに震えた。
沈黙していた天井のケーブルが、ひとつ、またひとつと揺れる。

音はない。
だが、確かに“動き出している”。

塔の静脈が目覚めつつある。

——兄貴、急げ。

タケルの声が震える。

「わかってる」

足場を慎重に進む。
だが、その静寂が逆に足を鈍らせた。

少しでも音を立てれば、塔の“目”に触れる気がする。

そう思った矢先だった。

ゴン——

巨大な心臓を直接殴られたような響きが、床下から突き上げた。
圧が空気を揺らし、足場が震える。

「……再起動を始めやがったか」

塔の心臓部が、完全に目を醒まそうとしている。

次の拍で、ホール全体に微細振動が走った。

ケーブルが一斉に天井から垂れ下がり、
壁のパイプが吐息のような蒸気を漏らす。
踏んでいる足場の下で、古いギアの噛み合う重い音がじわじわと近づく。

塔の静脈に血が戻り始めた。

“間に合わない”

タケルの声が強くなった。
彼の意識がコアの奥で震え、焦りが直接流れ込んでくる。

「大丈夫だ。俺がいる」

言いながら、自分に言い聞かせているようでもあった。

再起動が完全に始まれば、この階層は塔の“循環路”になる。
人間が歩くことなんか想定されていない。

床も壁も、歯車も配管も、すべて“動く”。
轟音と熱と蒸気の渦が、外界と内界の区別を消し去る。

そうなる前に通り抜けなければならない。

距離はあとわずか。
ホールの向こう側に、上層へ続く狭いシャフトが見える。

そこへたどり着けば、この死んだ臓腑の階層を抜けられる。

だが、塔の心臓がそれを許すかはわからない。

静脈の震えが、足元から全身へ伝わる。

——兄貴。

コアが熱を帯びる。

——走って。
——早く。

「言われなくても、もう走ってる」

息を吐き、足場の上を駆け出した。

金属の震動が、不意に強まる。
天井のケーブルが頭すれすれで揺れ、壁のパイプが今にも破裂しそうに膨らむ。

次の瞬間、ホールの奥から風が吹いた。
塔が大きく息を吸うときの音だ。

すべての振動が、一拍で揃う。

塔が完全に目覚めた。

それと同時に、床下の巨大な歯車が轟音を上げて回転を始めた。
沈黙の世界が破れ、金属の咆哮が空間を満たす。

「来るぞ……!」

足場が跳ねた。

爆風のような熱気が背中を押す。

シャフトまでは、あと十数メートル。

塔の静脈は目を醒まし、俺たちを飲み込むために動き始めている。

ここを抜けなければ終わる。

胸元のコアが鼓動を合わせる。
タケルの声が、震えながら重なった。

——兄貴、行って。

「任せろ」

俺はそのすべてを背負って、再起動した塔の中心へと走り込んだ。
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