錆びた街の落書き

宮滝吾朗

文字の大きさ
18 / 60
第一部 脱出編

第18話 塔の呼吸音

しおりを挟む
塔の再起動の轟音を背に、俺は上層へと続く通路へ踏み込んだ。

そこは、先ほどまでの階層とはまったく空気が違っていた。

熱がない。
風がない。
音もない。

ただ、沈黙だけがあった。

金属の匂いも、焦げた匂いも薄れ、喉の奥まで乾いた静けさが入り込んでくる。
何かが破裂しそうな緊張ではなく、逆に、何も起きていないことそのものが不自然な静寂。

塔が、息を止めている。

まるで、俺の足音を待っているみたいに。

——兄貴。

胸元のコアが、ほんのわずかに脈動した。
タケルの声が滲む。

「大丈夫だ。まだ見つかってはいない」

そう言いながら、俺自身の声も耳に重く響いた。
この階層は、音がよく通る。
それが返ってこないことが、余計に怖い。

鉄板の通路は、塔の外殻に沿って伸びていた。
左側には巨大な空洞。
右側には壁も手すりもなく、ひび割れたガラス越しに外の灰色の空が見える。

空が近いのに、風がない。
それが異様だった。

塔の鼓動が戻りつつあるなら、どこかから風が抜けてもおかしくない。
だが、ここだけは何かに“塞がれている”。

「……息を潜めているのか」

自分で口にした瞬間、背が冷えた。

塔に意思なんてあるはずがない。
だが、あの静脈の階層が“目覚めた”なら、この無風もただの故障で片づけられない。

塔は広い。
すべてが一度に動き出すわけではない。

動く部分。
眠る部分。
潜る部分。

その交差が、この街の“呼吸”になる。

——兄貴……風が……。

タケルの声が震える。

「わかってる。おかしい。普通なら……」

言葉が途切れた。

通路の先で、なにかが微かに揺れた。

空気だ。
風がないはずの空間で、空気だけが震えた。

まるで、巨大な肺が、壁の向こうでゆっくり膨らんだり萎んだりしているような、そんな目に見えない脈動。

塔の“呼吸音”だ。

「……まずいな」

塔は起動しつつあった。
さっきの階層よりも深いところで、もっと太い何かが、動こうとしている。

動き出せば、この通路ごと吸い込まれるかもしれない。

歩幅を狭め、通路を進む。
鉄板は古く、ところどころ浮き上がっていた。
足を置くたびに、腹の底で響くような鈍音がする。

その音が、塔の“鼓動”に吸い込まれていく感覚。

通路の途中、脚が止まった。

前方の暗がりから、微かな熱が吹き出した。

そして、それが一瞬止まり──
次の瞬間、反対方向へ吸い込まれる。

空気が、逆に流れている。

「……やっぱりか」

この階層のさらに奥で、巨大な動力軸が反転したのだ。
塔の心臓の拍が切り替わるとき、塔内部の通路は“吸気”に変わる。

吸い込まれる風。
圧力の反転。
静寂の中に、巨大な流れの気配だけがある。

通路の端のガラスが、ぱきり、と細く割れた。

「急ぐぞ、タケル」

走り出す。

鉄板の軋みが、塔の呼吸に吸われる。
音が前へ前へと引っ張られる。

通路の奥で、壁が落ちた。

いや、違う。

落ちたんじゃない。

“引かれた”のだ。

塔の奥へ向かって。

空気が流れ、瓦礫が滑り、通路の端に置かれた古い配管が、まるで糸に引かれるように吸い込まれていく。

「っ……!」

反射的に手すりのない縁を避け、通路中央を走る。

次の瞬間、足元の鉄板が沈んだ。

一拍遅れて、塔の吸気が爆発的に強まった。

空気が逆流し、身体が前へ持っていかれる。
足裏が浮き、視界が傾いた。

「タケル、しがみつけッ!!」

胸のコアが熱を帯び、脈動が跳ねる。
タケルの声が混ざり、耳の奥で微かな悲鳴のように揺れた。

吸気が強まり、身体が宙に引き上げられる。
通路の前方にぽっかり空いた巨大な穴――塔の動力軸へつながる竪穴が、目の前に迫った。

落ちたら終わりだ。

風がない世界が、音もなく牙を剥いてくる。

穴の縁が迫る。
鉄板の端が、指一本分の幅で残っていた。

飛ぶしかなかった。

「うおおおおッ!!」

全身の筋肉を叩きつけ、穴の上を跳んだ。

吸気が足を掴み、靴底が空へ引き上げられる。
だが、腕が間に合った。

通路の反対側、残された梁の破片に指を食い込ませる。

手のひらの皮が裂ける。
火傷跡が再び疼き、視界が白く染まる。

それでも離さなかった。

塔の吸気が背中を引き千切ろうとする。
足が穴の縁に吸い込まれそうになる。

「タケル……タケル、黙ってつかまってろ!」

胸元が震え、コアが激しく脈打つ。
タケルの声が呼吸に混じり、ノイズのように震えた。

——兄貴……こっち。

声が指先に力を戻す。
肩に重さが戻り、梁の上へ身体を引き上げた。

吸気が弱まる。
塔の呼吸が、一拍だけ止まった。

「……助かった」

息が、やっと肺に入った。

だが終わりではない。

通路の先で、塔の壁面が音もなく開いた。

巨大な動力軸の一部だ。
さっきの吸気がその“準備動作”だったのだろう。

今度は──“排気”が来る。

塔の心臓は、吸って、吐く。

吐く時が、いちばん危険だ。

「行くぞ、タケル。ここは死ぬほど嫌な場所だ」

胸のコアが、静かに同意したように脈打つ。

次の拍。

塔が息を吐いた。

巨大な風圧が通路全体を薙ぎ払い、後ろの階層へ吹き戻すように通路を震わせた。

鉄板が浮き、壁のパイプが吹き飛び、ガラス片が鋭い雨のように舞う。

その暴風のただ中で、俺は駆け出した。

塔の呼吸に逆らい、風に抗い、通路の最奥へ向けて加速する。

この塔の肺が完全に動き出す前に、抜けなければならない。

風圧が背を叩く。
足が前へ飛ぶ。
身体が浮きかける。

それでも走り続けた。

通路の終端に、小さなシャフトが見えた。

そこへ飛び込みさえすれば、この階層は抜けられる。

胸元のコアが、最後の一拍を強く打つ。

——兄貴、今。

「分かってる!」

跳んだ。

風が身体を持ち上げ、背中を押し、視界がシャフトの暗闇に収束する。

灰色の空と、鉄の世界が遠ざかる。

次の瞬間、俺の身体はシャフトの中へ滑り込んだ。

風が背後で爆ぜ、通路全体を巻き込む轟音が響いた。

だが俺はその音から遠ざかっていた。

塔の呼吸の外側へ。

静寂が戻る。

胸元でコアが穏やかに脈打った。

——兄貴……行ける。

「当たり前だ。ここまで来たら、もう止まらない」

俺は暗いシャフトの奥へと進んだ。

塔の呼吸音を背後に置き去りにしながら。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

中1でEカップって巨乳だから熱く甘く生きたいと思う真理(マリー)と小説家を目指す男子、光(みつ)のラブな日常物語

jun( ̄▽ ̄)ノ
大衆娯楽
 中1でバスト92cmのブラはEカップというマリーと小説家を目指す男子、光の日常ラブ  ★作品はマリーの語り、一人称で進行します。

日本新世紀ー日本の変革から星間連合の中の地球へー

黄昏人
SF
現在の日本、ある地方大学の大学院生のPCが化けた! あらゆる質問に出してくるとんでもなくスマートで完璧な答え。この化けたPC“マドンナ”を使って、彼、誠司は核融合発電、超バッテリーとモーターによるあらゆるエンジンの電動化への変換、重力エンジン・レールガンの開発・実用化などを通じて日本の経済・政治状況及び国際的な立場を変革していく。 さらに、こうしたさまざまな変革を通じて、日本が主導する地球防衛軍は、巨大な星間帝国の侵略を跳ね返すことに成功する。その結果、地球人類はその星間帝国の圧政にあえいでいた多数の歴史ある星間国家の指導的立場になっていくことになる。 この中で、自らの進化の必要性を悟った人類は、地球連邦を成立させ、知能の向上、他星系への植民を含む地球人類全体の経済の底上げと格差の是正を進める。 さらには、マドンナと誠司を擁する地球連邦は、銀河全体の生物に迫る危機の解明、撃退法の構築、撃退を主導し、銀河のなかに確固たる地位を築いていくことになる。

異世界宇宙SFの建艦記 ――最強の宇宙戦艦を建造せよ――

黒鯛の刺身♪
SF
主人公の飯富晴信(16)はしがない高校生。 ある朝目覚めると、そこは見たことのない工場の中だった。 この工場は宇宙船を作るための設備であり、材料さえあれば巨大な宇宙船を造ることもできた。 未知の世界を開拓しながら、主人公は現地の生物達とも交流。 そして時には、戦乱にも巻き込まれ……。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?

ビキニに恋した男

廣瀬純七
SF
ビキニを着たい男がビキニが似合う女性の体になる話

もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら

俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。 赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。 史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。 もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。

サイレント・サブマリン ―虚構の海―

来栖とむ
SF
彼女が追った真実は、国家が仕組んだ最大の嘘だった。 科学技術雑誌の記者・前田香里奈は、謎の科学者失踪事件を追っていた。 電磁推進システムの研究者・水嶋総。彼の技術は、完全無音で航行できる革命的な潜水艦を可能にする。 小与島の秘密施設、広島の地下工事、呉の巨大な格納庫—— 断片的な情報を繋ぎ合わせ、前田は確信する。 「日本政府は、秘密裏に新型潜水艦を開発している」 しかし、その真実を暴こうとする前田に、次々と圧力がかかる。 謎の男・安藤。突然現れた協力者・森川。 彼らは敵か、味方か—— そして8月の夜、前田は目撃する。 海に下ろされる巨大な「何か」を。 記者が追った真実は、国家が仕組んだ壮大な虚構だった。 疑念こそが武器となり、嘘が現実を変える—— これは、情報戦の時代に問う、現代SF政治サスペンス。 【全17話完結】

日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-

ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。 1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。 わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。 だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。 これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。 希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。 ※アルファポリス限定投稿

処理中です...