19 / 60
第一部 脱出編
第19話 灰の階を駆けろ
しおりを挟む
シャフトの中は、音を飲み込んでいた。
金属の筒の内側を、膝と掌で押し広げるみたいにして、少しずつ上へ這い上がる。
背中にはタケルの体温。胸元ではコアが律儀に脈を刻む。
塔の呼吸音は遠ざかったはずなのに、骨の内側ではまだ金属の唸りが残響していた。
腕が張る。肩が焼ける。
それでも止まれない。止まった瞬間、ここはただの墓穴になる。
「タケル。息、合わせろ」
背中越しに言うと、首筋にかかる呼気が、わずかに深くなった。
「……うん」
掠れた声。それだけで十分だった。
コアの鼓動が、俺の心拍と一瞬だけ揃う。
上方から、薄い灰色の光が滲み込んできた。
シャフトの蓋が壊れている。
出口だ。
最後の数メートルを、ほとんど脚だけで蹴り上げる。
縁を掴み、上半身を引き出す。背中のタケルを引きずるようにして、床へ転がり出た。
冷たい金属の床が、肺の中身を絞り出す。
数拍、何も考えられなかった。
「……アキト」
背中からタケルの声。すぐ横でコアが脈打っている。
「いる。まだ生きてる」
そう答えて、上半身を起こした。
◇
そこは、塔の最上層手前の広いフロアだった。
高い天井からは、太いチェーンと鉄骨の梁が何本もぶら下がっている。
どれも錆びつき、ところどころが崩れ、ぶら下がった先には使われなくなった作業台や、空の搬送用ケージが揺れていた。
床は半分ほど抜け落ちていて、その先は暗い縦穴になっている。
残った部分だけが島のように点在し、鉄骨の橋や細い桁で無理やり繋がれていた。
塔の骨の上を歩く、という表現がぴったりだった。
右側の壁はひび割れて、割れ目から外の空が覗いている。
灰色の光。
風は、まだほとんどない。
あの先に、灰の空門がある。
「……近いな」
呟きが喉に貼りつく。
近いのに、遠い。
このフロアを抜けなければ、指先ひとつ外へ届かない。
塔の奥から、低い振動が伝わってきた。
さっきの階層より、さらに深い拍。
主機が本気で回り始めた音だ。
天井から下がった梁が、かすかに揺れる。
チェーン同士が触れ合い、鈍い音を立てた。
塔が、身体を起こし始めている。
「急ごう」
タケルの腕を引き寄せ、背中に担ぎ直す。
重さはもう気にならない。
ここまで来て、手を放す選択肢は最初からなかった。
床の端から、次の鉄骨の橋へ飛び移る。
足を置いた瞬間、橋全体が沈むように揺れた。
古い。
鉄板の下で支えている骨組みが、何度も補修された挙げ句に限界を迎えつつある。
塔の息づかいに合わせて揺れる橋。
それを抑え込むように、足の裏でリズムを殺しながら進む。
「兄貴……」
背中からタケルの声。
「下、見ないで」
タケルの視線の先には、崩れた床の隙間から覗く、深い暗闇があるのだろう。
「安心しろ。見たってろくなもんはない」
そう言って、自分の目も上だけを見る。
◇
橋を渡り切った先には、小さな足場があった。
そこからさらに上へと続く細い階段が、梁に沿うように伸びている。
階段の突き当たりは、塔の外壁に開いた長い横穴??外側の通路だ。
あの穴の向こうに、灰の空門がある。
息が浅くなる。
急いでいるからだけじゃない。
ようやく、ここまで来たという実感が喉を締めつける。
そのときだった。
「……来る」
タケルが、背中越しに低く言った。
同時に、フロア全体が震えた。
足場の下を、何か巨大なものが通り抜けていく。
床の鉄板が一枚、また一枚と跳ねるように震え、
吊られたチェーンが一斉に短く鳴いた。
塔の心臓が、拍を上げたのだ。
下から噴き上がる風。
さっきの階層とは逆向きの流れ。
塔が“吐く”ときの圧だ。
「まずいな」
呟いた瞬間、足元の鉄骨が大きく沈んだ。
支柱の一本がひしゃげた音がした。
橋の片端が、空中に持ち上がる。
「掴まれ!」
反射的に鉄骨を握る。
タケルの腕が首に食い込む。
橋が半ばまで持ち上がり、残り半分が空へ傾く。
下に沈んだ側の床が崩れ、鉄片が暗闇へ落ちていった。
俺たちは滑り台のようになった橋の上に立っていた。
一歩でもバランスを崩せば、そのまま下へ滑り落ちる。
塔の鼓動に合わせて揺れる鉄の坂。
悪趣味な遊具みたいだ、と一瞬だけ思う。
「兄貴……」
「黙ってろ。息がぶれる」
傾きは一定ではない。
塔の拍に合わせて微妙に変わる。
だが、拍そのものは乱れていない。
ならば、それを利用する。
塔が息を吐き切る瞬間??
揺れが一瞬、ゼロに近づく。
そのわずかな止みに合わせて走る。
深く息を吸う。
塔の拍と、自分の心臓と、コアの鼓動を、無理やり重ねる。
同調なんてしたくはない。
街の心臓なんかと呼吸を合わせたくはない。
だが今だけは、その一拍を盗む。
「……今だ」
傾きがわずかに戻り、橋全体の震えがゼロに近づいた瞬間、足を踏み出した。
鉄の坂を駆け上がる。
滑りそうになる足を、靴底の摩擦でねじ伏せる。
背中の重みを軸にして、身体を前へ投げ出す。
下からの風が、遅れて追い上げてくる。
塔の吐息だ。
それに飲まれる前に、上へ。
橋の上端、梁に繋がる部分まで、なんとか走り切った。
梁に飛び移り、手を伸ばして階段の最初の段を掴む。
次の瞬間、さっきまでいた橋が支えを失い、
そのまま塔の喉奥へ落ちていった。
鉄と火花と灰の雨。
「ほんと、ギリギリだな……」
自分の声が笑っているのに気づく。
タケルが、背中で小さく息を吐いた。
「兄貴、さっき……」
「なに」
「塔の息、使った」
「気づくな。気分が悪くなる」
そう言いながら、内心では認めざるを得なかった。
さっきの走りは、塔の拍に助けられた。
街の心臓を嫌悪しているくせに、その一拍に乗ってしまった。
リタなら、どう言うだろう。
――ほらね。あなたももう、半分こっち側。
そんな声が耳の奥で蘇る。
「借りっぱなしは性に合わないんだがな」
それでも、今は前へ行くことだけを選ぶ。
◇
細い階段を駆け上がると、
風が変わった。
乾いている。
塔の内側の蒸気まじりの風ではない。
外の空気だ。
横穴の出口に近づくほど、
灰の匂いが濃くなる。
焼けた金属と、遠い埃の匂い。
階段の終わりで立ち止まり、
横穴の縁から外を覗いた。
そこは、塔の外殻と外界のあいだにある、細い外周通路だった。
風除けのために壁が立てられ、その上部には狭い隙間が走っている。
隙間から、灰色の光が差し込んでいた。
遠く、街の輪郭が見えた。
京橋機関街の上層部。
煙突と煙、歪んだ鉄骨の塔。
その上に、巨大な輪が浮かんでいる。
灰の空門。
塔の頭上に穿たれた穴。
街の内側と外側を隔てる、唯一の“境目”。
今まで塔の内部から感じていた小さな風は、
あそこから漏れていたのだ。
「……見えたな、タケル」
背中に問いかけると、
タケルの指が俺の胸元を掴んだ。
「うん」
声が震えているのは、恐怖だけじゃない。
初めて見る“外”の気配に圧倒されているのだ。
俺も同じだった。
ここまで何年も、この街の内臓ばかり見てきた。
冷却水と蒸気と錆びた鉄。
人の声より金属音のほうが多い場所。
その外側に広がるものを、
ようやく目で掴みかけている。
だが、浸っている暇はない。
空門の縁に、動きがあった。
巨大な金属板が、ゆっくりとずれていく。
街の頭上を守るための防壁。
爆発や異常を感知したとき、自動で閉じる仕組みのやつだ。
塔の心臓が拍を上げ、
それに応じるように、空門の縁がわずかに狭まる。
「……閉じ始めてる」
呟いた声が、自分の喉で引っかかった。
このまま封鎖されれば、空門はただの天井になる。
塔も街も、密閉された箱のような世界に戻る。
「間に合わす」
意識して、短く言い切る。
外周通路は輪のように円形に続いていた。
灰の空門へ直接繋がるのは、その途中にある一箇所だけ。
他はすべて、点検用の足場か、行き止まりの小部屋だ。
俺は昔、外側からあの空門を見上げたことがある。
ここへ資材を運ぶために使われるラックの位置。
その先にだけ、外界との“橋”が伸びていた。
「タケル。少し揺れるぞ」
返事を聞く前に、外周通路へ飛び出す。
強い風が正面からぶつかってきた。
塔の内側とは違う、乾いていて容赦のない風。
灰と砂を巻き込み、肌を刺す。
外壁の向こうで、街全体が低く唸っている。
爆発の余波、主機の回転、建物の崩落。
それらすべてが混じり合い、ひとつの巨大なうなりへと変わっている。
皆、まだ足掻いている。
街も、人も、機械も。
俺たちだけじゃない。
だが、俺たちはここで止まるわけにはいかない。
「走るぞ」
外周通路の鉄板を蹴る。
足音が風にさらわれ、背後へ消えていく。
外側の壁の隙間から、街の断面がちらちらと見えた。
炎を噴き上げる工場区画。
折れた橋。
崩れた住宅群。
その間を、塔から伸びた配管が脈打つように走っている。
この街は壊れかけの心臓みたいだ、とふと思う。
それでも、まだ動いている。
まだ祈っている。
塔の奥から、金属音がひときわ大きく響いた。
空門の金属板が、さらに数十センチほど閉じる。
猶予は、そう多くない。
外周通路の途中で、足場が一箇所崩れていた。
穴をまたぐように、細い補修用の桁が一本だけ渡されている。
幅はタケルの足の半分ほど。
風をまともに受ければ、落ちる。
「ここ、怖い」
背中でタケルが言う。
「怖いなら、目をつぶれ」
安っぽい励ましだが、それしかない。
桁の端に足をかける。
風が横から吹きつける。
身体が右へ持っていかれそうになる。
胸元のコアが強く脈打つ。
――兄貴。
タケルの声が、骨の内側に直接触れる。
――踏み出して。今。
塔の風が一瞬だけ変わった。
正面からの圧が弱まり、横風がわずかに収束する。
そのわずかな隙を、足が勝手に掴んだ。
桁の上を駆け抜ける。
鉄が足裏でしなる。
下には、街の底が落ち込んでいる。
三歩。四歩。
無心で走り抜け、反対側の足場に飛び移る。
着地した瞬間、風がまた荒れた。
桁の一部がきしみ、次の拍で折れた。
鉄片が回転しながら落ちていく。
「……ギリギリだらけだな、本当に」
つぶやくと、背中でタケルがかすかに笑った。
「兄貴っぽい」
「褒めてんのか、それ」
「うん」
短い笑いが、風に削られて消えた。
◇
やがて、外周通路の先に見えてきた。
灰の空門へ伸びる、最後の“橋”。
塔の内側から突き出した、一本の傾いた通路。
骨組みがむき出しになった鉄の板。
その先端が、空門の縁のすぐ手前まで届いている。
かつては資材を運ぶための搬送路だったのだろう。
今は誰も使っていない。
手すりも守りもない、剥き出しの一本路だ。
空門の縁では、防壁の金属板が少しずつ閉じ続けている。
輪の内側の空が狭まるたび、そこから漏れる光も細くなる。
風が、通路の表面を削るように吹き抜けた。
「タケル」
「うん」
「ここを抜けたら、もう街の中には戻らない」
言葉にしてみて、初めてその事実が骨に入ってきた。
塔の内側は、俺にとって仕事場であり、牢獄であり、戦場でもあった。
そこから出るということは、この街そのものから出るということだ。
京橋機関街。
錆びた歯車と祈りの残骸。
リタが身を投げた心臓。
タケルを奪われ、そして取り返しに来た街。
それらすべてを、背中に貼り付けたまま、外へ出る。
「……戻る場所がないのは、前からだな」
自嘲めいた言葉が口をつく。
タケルが、背中で小さく首を振った気がした。
「兄貴。俺、ここ嫌いだったけど……兄貴がいるから、平気だった」
胸の奥で、なにかがほどける音がした。
塔の心臓ではない、自分の心臓の音だ。
「そうか。なら、外でも同じだ」
そう言って、通路の入口に足をかける。
足元の鉄が、わずかに悲鳴を上げた。
塔の奥から、金属音が一段と高く鳴る。
空門の縁の防壁が、さらに閉じた。
開いている隙間は、もう、通路一本分くらいしかない。
「走るぞ、タケル」
答えを待たず、身体を前へ投げ出した。
灰の空門が正面にある。
街の心臓の拍が背中を押してくる。
風が顔を叩き、視界から色を奪う。
塔の上に積み上がった、すべての祈りと歯車と血の匂い。
その全てを後ろに置き去りにするために。
俺は、灰色の空へ向かって走り出した。
金属の筒の内側を、膝と掌で押し広げるみたいにして、少しずつ上へ這い上がる。
背中にはタケルの体温。胸元ではコアが律儀に脈を刻む。
塔の呼吸音は遠ざかったはずなのに、骨の内側ではまだ金属の唸りが残響していた。
腕が張る。肩が焼ける。
それでも止まれない。止まった瞬間、ここはただの墓穴になる。
「タケル。息、合わせろ」
背中越しに言うと、首筋にかかる呼気が、わずかに深くなった。
「……うん」
掠れた声。それだけで十分だった。
コアの鼓動が、俺の心拍と一瞬だけ揃う。
上方から、薄い灰色の光が滲み込んできた。
シャフトの蓋が壊れている。
出口だ。
最後の数メートルを、ほとんど脚だけで蹴り上げる。
縁を掴み、上半身を引き出す。背中のタケルを引きずるようにして、床へ転がり出た。
冷たい金属の床が、肺の中身を絞り出す。
数拍、何も考えられなかった。
「……アキト」
背中からタケルの声。すぐ横でコアが脈打っている。
「いる。まだ生きてる」
そう答えて、上半身を起こした。
◇
そこは、塔の最上層手前の広いフロアだった。
高い天井からは、太いチェーンと鉄骨の梁が何本もぶら下がっている。
どれも錆びつき、ところどころが崩れ、ぶら下がった先には使われなくなった作業台や、空の搬送用ケージが揺れていた。
床は半分ほど抜け落ちていて、その先は暗い縦穴になっている。
残った部分だけが島のように点在し、鉄骨の橋や細い桁で無理やり繋がれていた。
塔の骨の上を歩く、という表現がぴったりだった。
右側の壁はひび割れて、割れ目から外の空が覗いている。
灰色の光。
風は、まだほとんどない。
あの先に、灰の空門がある。
「……近いな」
呟きが喉に貼りつく。
近いのに、遠い。
このフロアを抜けなければ、指先ひとつ外へ届かない。
塔の奥から、低い振動が伝わってきた。
さっきの階層より、さらに深い拍。
主機が本気で回り始めた音だ。
天井から下がった梁が、かすかに揺れる。
チェーン同士が触れ合い、鈍い音を立てた。
塔が、身体を起こし始めている。
「急ごう」
タケルの腕を引き寄せ、背中に担ぎ直す。
重さはもう気にならない。
ここまで来て、手を放す選択肢は最初からなかった。
床の端から、次の鉄骨の橋へ飛び移る。
足を置いた瞬間、橋全体が沈むように揺れた。
古い。
鉄板の下で支えている骨組みが、何度も補修された挙げ句に限界を迎えつつある。
塔の息づかいに合わせて揺れる橋。
それを抑え込むように、足の裏でリズムを殺しながら進む。
「兄貴……」
背中からタケルの声。
「下、見ないで」
タケルの視線の先には、崩れた床の隙間から覗く、深い暗闇があるのだろう。
「安心しろ。見たってろくなもんはない」
そう言って、自分の目も上だけを見る。
◇
橋を渡り切った先には、小さな足場があった。
そこからさらに上へと続く細い階段が、梁に沿うように伸びている。
階段の突き当たりは、塔の外壁に開いた長い横穴??外側の通路だ。
あの穴の向こうに、灰の空門がある。
息が浅くなる。
急いでいるからだけじゃない。
ようやく、ここまで来たという実感が喉を締めつける。
そのときだった。
「……来る」
タケルが、背中越しに低く言った。
同時に、フロア全体が震えた。
足場の下を、何か巨大なものが通り抜けていく。
床の鉄板が一枚、また一枚と跳ねるように震え、
吊られたチェーンが一斉に短く鳴いた。
塔の心臓が、拍を上げたのだ。
下から噴き上がる風。
さっきの階層とは逆向きの流れ。
塔が“吐く”ときの圧だ。
「まずいな」
呟いた瞬間、足元の鉄骨が大きく沈んだ。
支柱の一本がひしゃげた音がした。
橋の片端が、空中に持ち上がる。
「掴まれ!」
反射的に鉄骨を握る。
タケルの腕が首に食い込む。
橋が半ばまで持ち上がり、残り半分が空へ傾く。
下に沈んだ側の床が崩れ、鉄片が暗闇へ落ちていった。
俺たちは滑り台のようになった橋の上に立っていた。
一歩でもバランスを崩せば、そのまま下へ滑り落ちる。
塔の鼓動に合わせて揺れる鉄の坂。
悪趣味な遊具みたいだ、と一瞬だけ思う。
「兄貴……」
「黙ってろ。息がぶれる」
傾きは一定ではない。
塔の拍に合わせて微妙に変わる。
だが、拍そのものは乱れていない。
ならば、それを利用する。
塔が息を吐き切る瞬間??
揺れが一瞬、ゼロに近づく。
そのわずかな止みに合わせて走る。
深く息を吸う。
塔の拍と、自分の心臓と、コアの鼓動を、無理やり重ねる。
同調なんてしたくはない。
街の心臓なんかと呼吸を合わせたくはない。
だが今だけは、その一拍を盗む。
「……今だ」
傾きがわずかに戻り、橋全体の震えがゼロに近づいた瞬間、足を踏み出した。
鉄の坂を駆け上がる。
滑りそうになる足を、靴底の摩擦でねじ伏せる。
背中の重みを軸にして、身体を前へ投げ出す。
下からの風が、遅れて追い上げてくる。
塔の吐息だ。
それに飲まれる前に、上へ。
橋の上端、梁に繋がる部分まで、なんとか走り切った。
梁に飛び移り、手を伸ばして階段の最初の段を掴む。
次の瞬間、さっきまでいた橋が支えを失い、
そのまま塔の喉奥へ落ちていった。
鉄と火花と灰の雨。
「ほんと、ギリギリだな……」
自分の声が笑っているのに気づく。
タケルが、背中で小さく息を吐いた。
「兄貴、さっき……」
「なに」
「塔の息、使った」
「気づくな。気分が悪くなる」
そう言いながら、内心では認めざるを得なかった。
さっきの走りは、塔の拍に助けられた。
街の心臓を嫌悪しているくせに、その一拍に乗ってしまった。
リタなら、どう言うだろう。
――ほらね。あなたももう、半分こっち側。
そんな声が耳の奥で蘇る。
「借りっぱなしは性に合わないんだがな」
それでも、今は前へ行くことだけを選ぶ。
◇
細い階段を駆け上がると、
風が変わった。
乾いている。
塔の内側の蒸気まじりの風ではない。
外の空気だ。
横穴の出口に近づくほど、
灰の匂いが濃くなる。
焼けた金属と、遠い埃の匂い。
階段の終わりで立ち止まり、
横穴の縁から外を覗いた。
そこは、塔の外殻と外界のあいだにある、細い外周通路だった。
風除けのために壁が立てられ、その上部には狭い隙間が走っている。
隙間から、灰色の光が差し込んでいた。
遠く、街の輪郭が見えた。
京橋機関街の上層部。
煙突と煙、歪んだ鉄骨の塔。
その上に、巨大な輪が浮かんでいる。
灰の空門。
塔の頭上に穿たれた穴。
街の内側と外側を隔てる、唯一の“境目”。
今まで塔の内部から感じていた小さな風は、
あそこから漏れていたのだ。
「……見えたな、タケル」
背中に問いかけると、
タケルの指が俺の胸元を掴んだ。
「うん」
声が震えているのは、恐怖だけじゃない。
初めて見る“外”の気配に圧倒されているのだ。
俺も同じだった。
ここまで何年も、この街の内臓ばかり見てきた。
冷却水と蒸気と錆びた鉄。
人の声より金属音のほうが多い場所。
その外側に広がるものを、
ようやく目で掴みかけている。
だが、浸っている暇はない。
空門の縁に、動きがあった。
巨大な金属板が、ゆっくりとずれていく。
街の頭上を守るための防壁。
爆発や異常を感知したとき、自動で閉じる仕組みのやつだ。
塔の心臓が拍を上げ、
それに応じるように、空門の縁がわずかに狭まる。
「……閉じ始めてる」
呟いた声が、自分の喉で引っかかった。
このまま封鎖されれば、空門はただの天井になる。
塔も街も、密閉された箱のような世界に戻る。
「間に合わす」
意識して、短く言い切る。
外周通路は輪のように円形に続いていた。
灰の空門へ直接繋がるのは、その途中にある一箇所だけ。
他はすべて、点検用の足場か、行き止まりの小部屋だ。
俺は昔、外側からあの空門を見上げたことがある。
ここへ資材を運ぶために使われるラックの位置。
その先にだけ、外界との“橋”が伸びていた。
「タケル。少し揺れるぞ」
返事を聞く前に、外周通路へ飛び出す。
強い風が正面からぶつかってきた。
塔の内側とは違う、乾いていて容赦のない風。
灰と砂を巻き込み、肌を刺す。
外壁の向こうで、街全体が低く唸っている。
爆発の余波、主機の回転、建物の崩落。
それらすべてが混じり合い、ひとつの巨大なうなりへと変わっている。
皆、まだ足掻いている。
街も、人も、機械も。
俺たちだけじゃない。
だが、俺たちはここで止まるわけにはいかない。
「走るぞ」
外周通路の鉄板を蹴る。
足音が風にさらわれ、背後へ消えていく。
外側の壁の隙間から、街の断面がちらちらと見えた。
炎を噴き上げる工場区画。
折れた橋。
崩れた住宅群。
その間を、塔から伸びた配管が脈打つように走っている。
この街は壊れかけの心臓みたいだ、とふと思う。
それでも、まだ動いている。
まだ祈っている。
塔の奥から、金属音がひときわ大きく響いた。
空門の金属板が、さらに数十センチほど閉じる。
猶予は、そう多くない。
外周通路の途中で、足場が一箇所崩れていた。
穴をまたぐように、細い補修用の桁が一本だけ渡されている。
幅はタケルの足の半分ほど。
風をまともに受ければ、落ちる。
「ここ、怖い」
背中でタケルが言う。
「怖いなら、目をつぶれ」
安っぽい励ましだが、それしかない。
桁の端に足をかける。
風が横から吹きつける。
身体が右へ持っていかれそうになる。
胸元のコアが強く脈打つ。
――兄貴。
タケルの声が、骨の内側に直接触れる。
――踏み出して。今。
塔の風が一瞬だけ変わった。
正面からの圧が弱まり、横風がわずかに収束する。
そのわずかな隙を、足が勝手に掴んだ。
桁の上を駆け抜ける。
鉄が足裏でしなる。
下には、街の底が落ち込んでいる。
三歩。四歩。
無心で走り抜け、反対側の足場に飛び移る。
着地した瞬間、風がまた荒れた。
桁の一部がきしみ、次の拍で折れた。
鉄片が回転しながら落ちていく。
「……ギリギリだらけだな、本当に」
つぶやくと、背中でタケルがかすかに笑った。
「兄貴っぽい」
「褒めてんのか、それ」
「うん」
短い笑いが、風に削られて消えた。
◇
やがて、外周通路の先に見えてきた。
灰の空門へ伸びる、最後の“橋”。
塔の内側から突き出した、一本の傾いた通路。
骨組みがむき出しになった鉄の板。
その先端が、空門の縁のすぐ手前まで届いている。
かつては資材を運ぶための搬送路だったのだろう。
今は誰も使っていない。
手すりも守りもない、剥き出しの一本路だ。
空門の縁では、防壁の金属板が少しずつ閉じ続けている。
輪の内側の空が狭まるたび、そこから漏れる光も細くなる。
風が、通路の表面を削るように吹き抜けた。
「タケル」
「うん」
「ここを抜けたら、もう街の中には戻らない」
言葉にしてみて、初めてその事実が骨に入ってきた。
塔の内側は、俺にとって仕事場であり、牢獄であり、戦場でもあった。
そこから出るということは、この街そのものから出るということだ。
京橋機関街。
錆びた歯車と祈りの残骸。
リタが身を投げた心臓。
タケルを奪われ、そして取り返しに来た街。
それらすべてを、背中に貼り付けたまま、外へ出る。
「……戻る場所がないのは、前からだな」
自嘲めいた言葉が口をつく。
タケルが、背中で小さく首を振った気がした。
「兄貴。俺、ここ嫌いだったけど……兄貴がいるから、平気だった」
胸の奥で、なにかがほどける音がした。
塔の心臓ではない、自分の心臓の音だ。
「そうか。なら、外でも同じだ」
そう言って、通路の入口に足をかける。
足元の鉄が、わずかに悲鳴を上げた。
塔の奥から、金属音が一段と高く鳴る。
空門の縁の防壁が、さらに閉じた。
開いている隙間は、もう、通路一本分くらいしかない。
「走るぞ、タケル」
答えを待たず、身体を前へ投げ出した。
灰の空門が正面にある。
街の心臓の拍が背中を押してくる。
風が顔を叩き、視界から色を奪う。
塔の上に積み上がった、すべての祈りと歯車と血の匂い。
その全てを後ろに置き去りにするために。
俺は、灰色の空へ向かって走り出した。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
二重のカーテン (スカートの下の黒い意志)
MisakiNonagase
青春
洗濯物の隙間に隠したのは、母としての祈りと、娘のプライド。
かつて、女子高生という生き物はもっと無防備で、自由だった。
44歳の主婦、愛子が朝のベランダで手にするのは、娘たちが毎日履き替える漆黒のオーバーパンツ、通称「黒パン」。それは、令和を生きる娘たちが自らの尊厳を守るために身に着ける、鉄壁の「鎧」だった。
小学校時代のママ友たちとのランチ会。そこで語られるのは、ブルセラショップに下着を売っていた奔放な50代、無防備なまま凛と歩くしかなかった40代、そして「見せないこと」に命を懸ける10代の、あまりに深い断絶。さらには、階段で石像のように固まる父、生徒の背後に立たないよう神経を削る教師……。
一枚の黒い布を通して浮き彫りになる、現代社会の歪さと、その根底にある不器用なまでの「優しさ」。
ベランダに干された黒いカーテンの向こう側に、あなたは何を見ますか?
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
【完結】俺が信長で、幼馴染が吉乃と濃姫!? ~転生幼馴染トリオ、本能寺フラグ回避して戦国スローライフ目指します
月影 流詩亜
ファンタジー
事故で転生したのは、まさかの織田信長!?
しかも、隣にいたはずの可愛い幼馴染(双子)も、なぜか信長の側室「吉乃」と正室「濃姫」に!
史実の本能寺フラグを回避するため、うつけの仮面の下、三人は秘密の同盟を結ぶ。
現代知識と絆を武器に、戦国スローライフを目指すサバイバル開幕!
日本新世紀ー日本の変革から星間連合の中の地球へー
黄昏人
SF
現在の日本、ある地方大学の大学院生のPCが化けた!
あらゆる質問に出してくるとんでもなくスマートで完璧な答え。この化けたPC“マドンナ”を使って、彼、誠司は核融合発電、超バッテリーとモーターによるあらゆるエンジンの電動化への変換、重力エンジン・レールガンの開発・実用化などを通じて日本の経済・政治状況及び国際的な立場を変革していく。
さらに、こうしたさまざまな変革を通じて、日本が主導する地球防衛軍は、巨大な星間帝国の侵略を跳ね返すことに成功する。その結果、地球人類はその星間帝国の圧政にあえいでいた多数の歴史ある星間国家の指導的立場になっていくことになる。
この中で、自らの進化の必要性を悟った人類は、地球連邦を成立させ、知能の向上、他星系への植民を含む地球人類全体の経済の底上げと格差の是正を進める。
さらには、マドンナと誠司を擁する地球連邦は、銀河全体の生物に迫る危機の解明、撃退法の構築、撃退を主導し、銀河のなかに確固たる地位を築いていくことになる。
天竜川で逢いましょう 〜日本史教師が石田三成とか無理なので平和な世界を目指します〜
岩 大志
ファンタジー
ごくありふれた高校教師津久見裕太は、ひょんなことから頭を打ち、気を失う。
けたたましい轟音に気付き目を覚ますと多数の軍旗。
髭もじゃの男に「いよいよですな。」と、言われ混乱する津久見。
戦国時代の大きな分かれ道のド真ん中に転生した津久見はどうするのか!!???
そもそも現代人が生首とか無理なので、平和な世の中を目指そうと思います。
大東亜戦争を有利に
ゆみすけ
歴史・時代
日本は大東亜戦争に負けた、完敗であった。 そこから架空戦記なるものが増殖する。 しかしおもしろくない、つまらない。 であるから自分なりに無双日本軍を架空戦記に参戦させました。 主観満載のラノベ戦記ですから、ご感弁を
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる