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第一部 脱出編
第20話 歯車の空の縁で
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通路の根元が折れた、と直感した。
塔の喉元から嫌な軋みが走り、
次の瞬間には足元の鉄板が、丸ごと空へ投げ出されたように傾いた。
京橋機関街の上に突き出した一本の橋。
その根本が、塔の外殻から乱暴に剥ぎ取られていく。
背中でタケルが息を呑む気配がした。
「兄貴……!」
振り返らない。振り返った瞬間、吸い戻される。
「しがみついてろ。離したら置いてく」
言葉より先に脚が動く。
傾き始めた通路の上を、前へ前へと走る。
走らないかぎり、ただ滑り落ちるだけの鉄板になる。
塔の内側から、主機のうなりが一段上がった。
街の心臓が、残った全力をしぼって収縮する音だ。
その拍に合わせるように、通路全体が沈み込む。
鉄骨の継ぎ目が悲鳴をあげ、ボルトが一つ、また一つと宙に飛んだ。
灰の空門が正面にあった。
街の頭上に浮かぶ巨大な輪。
その縁を滑る防壁の金属板が、もうほとんど噛み合っている。
残された隙間は、人ひとりが横向きでやっと通れるほど。
間に合わなければ、塔も街も、鉄ごとまとめて棺になる。
◇
通路の中ほどで、壁が割れた。
塔の外壁から、ぶ厚い鉄の塊が飛び出してくる。
補修用のアーム。
普段は壁の裏に畳まれているはずのそれが、暴走した筋肉のように伸びてきた。
関節に詰まった錆と油が、塔の鼓動に合わせて歪む。
アームは横殴りに通路を掠め、その一振りで数メートル先の鉄板をまとめてなぎ倒した。
人間の身体なら、触れた瞬間に砕ける。
「……悪趣味な見送りだな」
喉の奥が勝手に笑った。
余裕なんて欠片もないくせに。
鉄の腕は一度引き、また振り抜く。
塔の心臓の拍にぴったり合わせるように。
ぶん、と空気が押し潰される音。
その軌道の先に、俺とタケルがいた。
「兄貴!」
「頭下げろ!」
背中の重みが沈む。
俺は通路のど真ん中から、アームの付け根ぎりぎりのほうへ身体を投げた。
鉄の腕が視界を横切る。
関節部の歯車が、すぐ目の前で噛み合っていた。
そこから、ひと筋だけ蒸気が漏れている。
漏れた蒸気は、白くなかった。
金属を焼き続けたあとの、鈍い黄土色の熱だった。
頬を掠めた瞬間、皮膚が短く悲鳴をあげた。
焼ける匂いが鼻の奥を叩く。
さらに悪いことに、アームの縁に飛び出たボルトの頭が、肩を削っていった。
布ごと肉が裂ける。
熱と痛みが一気に肩の中に流れ込んだ。
息が詰まりそうになったが、足は止めなかった。
針のような痛みの向こう側で、タケルが背中から呻いた。
「っ……あつ……」
「歯ぁ食いしばっとけ。落ちるよりましだ」
鉄の腕は勢い余って通路の端を叩き壊し、そのまま壁の中へ戻っていった。
次に振り抜かれる頃には、俺たちはもうそこにはいない。
そう決めて、走る。
◇
通路は、もはや橋というより、塔の外側に引っかかった一本の骨だった。
根元はすでに半分ちぎれ、
残った支えも、街の心臓が拍動するたびに、ミシ、といやな音を立てる。
一歩ごとに傾きが増す。
足元の鉄板が、わずかに前へ滑る。
走っているのか、落ちているのか、自分でも判別がつかない。
灰の空門の縁が、視界いっぱいに広がっていた。
防壁の金属板が、ガキ、と鈍い音を立てて噛み合う。
隙間が、また数センチ狭まる。
「兄貴……これ、もう……」
「黙って掴まってろ。喋る分の息がもったいない」
タケルの腕が、首に食い込む。
背中の体温が、まだ「生きている」と主張している。
通路の終わりまで、あと数十メートル。
そこから先は空だ。
防壁の隙間まで、斜めに伸びた何もない空間がある。
足裏に伝わる振動が変わった。
塔の心臓が、最後の圧縮に入ったのだ。
街のどこかでまだ動いている蒸気機関すべてを、
この一瞬のために逆流させているような力押しの拍。
通路が、その拍ごとに沈んでいく。
橋の端が、眼に見える速度で街の底のほうへ傾く。
「タケル」
「うん……」
「怖いか」
「当たり前だよ」
「俺もだ」
それでも、脚は止めない。
最後の十メートルは、走るというより、
落ちてくる鉄板から逃げるために、前へ前へと身体を投げていた。
通路の端が、目の前に迫る。
そこから先には、もはや何もない。
足場も、手すりも、支えも。
灰の空門の防壁が、最後の抵抗みたいに閉じようとしている。
隙間は、タケルの肩幅より狭い。
世界が、この街を切り離そうとしている。
「兄貴……」
背中から、擦れた声。
「なに」
「ここまで来たんだからさ」
一拍、風と心臓のあいだで間が空いてから、
タケルは続けた。
「外で転んだほうが、まだマシだよ」
笑えた。
こんな場面で、そんな理屈を信じている弟が。
「そうだな」
喉の奥で短く笑って、吐き捨てるように言った。
「じゃあ、派手に転ぼう」
通路の端に片足をかける。
鉄板が悲鳴を上げながら折れ始めた。
その折れ目を蹴って、身体を空へ放り出す。
◇
灰色の空と、街の全景と、防壁の縁が、一瞬でねじれて入れ替わった。
風が、牙を剥いた。
さっきまでは塔の隙間で吠えていたそれが、今は真正面から全力で殴りつけてくる。
背中でタケルが一瞬浮いた。
首に噛みついていた腕の力が緩みかける。
「離すな!」
怒鳴ると同時に、自分の指も防壁のほうへ伸びていた。
閉じかけた金属板と金属板のあいだから、
わずかな溝が見える。
その隙間に肩をねじ込んだ。
鉄が肉を挟む。
焼けた板に押しつけられたみたいな熱が、傷口に食い込んでくる。
防壁の縁には、古い歯車の段差が残っていた。
自動開閉の機構が壊れ、半ば固定されたままになっている。
その歯のひとつに、左腕が引っかかった。
歯車の角が、肘の内側を抉る。
肉と血がそこに残るのが分かった。
骨に鈍い音が響く。
それでも、腕は外れなかった。
背中のタケルの重さが、逆に楔になって、
俺たち全体を防壁の隙間へ押し込んだ。
歯車の列のすぐ下を、何本もの蒸気管が走っていた。
そのサポートが限界を迎えたのか、一本が破裂した。
高温の蒸気が、白ではなく錆色の霧になって噴き出す。
顔の半分を焼かれたような熱が襲いかかった。
目が、瞬間的に何も見えなくなる。
皮膚が縮む。
タケルの悲鳴が背中でちぎれた。
「兄貴っ……!」
「口閉じろ!」
歯を食いしばり、蒸気の中で身体を押し出す。
歯車に挟まれた腕を、無理やり引きずり抜く。
皮膚と肉が一緒に持っていかれる感触。
血の匂いが蒸気の中に混ざる。
防壁が、最後の一押しをかけるように閉じてきた。
金属板同士がぶつかる直前。
その溝に、俺たちは滑り込んだ。
◇
世界が、裏返った。
鉄の音が、遠くへ飛んでいく。
蒸気の熱が、背中のほうへ滑り落ちる。
代わりに、冷たい何かが頬を撫でた。
落ちた。
塔の内部とは違う硬さが、背中に叩きつけられる。
砂と砕けた石と、薄く残った鉄片が混ざり合った地面。
肺から空気が全部抜ける。
視界に白い斑点が浮かんでは消える。
耳鳴りの中で、しばらくは自分の鼓動しか聞こえなかった。
「……兄貴」
背のほうから、擦れるような呼び声。
「生きてる。たぶんな」
答えながら、どうにかして上体を起こす。
腕が震える。肩が悲鳴を上げる。
それでも、動ける。
タケルはすぐ隣に転がっていた。
顔は煤と灰で真っ黒だが、目は開いている。
「大丈夫か」
「……大丈夫じゃないけど、生きてる」
「十分だ」
自分でそう言いながら、周囲を見渡した。
塔の外壁は、すぐそこにそびえていた。
分厚い金属とコンクリートの層。
防壁の向こう側からの音は、ほとんど届かない。
さっきまで耳の奥を支配していた街の心臓の拍も、もう聞こえなかった。
そのかわり──
目の前に、世界があった。
◇
灰色の荒野。
それが第一印象だった。
塔の足元から外側へ向かって、
地面は一面、薄い灰を固めたような層で覆われていた。
踏めばわずかに沈むが、すぐ下にはひび割れた地盤がある。
遠くまで伸びるその灰の地面の上には、
折れた塔や潰れた工場の残骸が突き出していた。
どれも色を失い、錆も赤ではなく白っぽく乾いている。
空は、塔の天井よりも低く感じた。
雲が重なり合い、層をなしている。
本来なら流れていくはずの蒸気雲や煙が、
風を失ってしまったせいで空中で固まっているようにも見えた。
動かない雲。
沈殿した蒸気。
空全体が、止まった機関の内部みたいに見えた。
その雲の隙間からは、
遠くに浮かぶ巨大な影も見えた。
空中に吊られたまま動かなくなった構造物。
歯車と梁で組まれた巨大な輪の集合体。
かつては街全体の圧を受け止めていたのかもしれない、
空の骨組みが、そのまま空中で錆びついている。
地平線の向こうには、
大地を貫くように横倒しになった巨大な蒸気機関の残骸も見えた。
長大なシリンダーと配管。
そのどれもが破裂し、黒い跡だけを残している。
世界そのものが、
一度全力で回ってから、そのまま二度と動かなくなった機械のようだった。
「……外、って」
タケルが、呆然と呟いた。
「こんな、だったのかな」
「昔は違ったんだろう」
自分で言いながら、その「昔」を見たことのないことに気づく。
塔の中で交わされていた断片的な話。
工場の年寄りが酒の匂いと一緒に吐き出した昔話。
写真の中の、見たことのない色。
全部、ここにはない。
あるのは、止まった歯車みたいな空と、
冷えた灰と、壊れた機械の骨だけだ。
風も、ない。
塔の外の空気は冷たい。
肺には入ってくる。
だが、頬を撫でることも、髪を揺らすこともない。
「兄貴……」
タケルが、隣で膝を抱えた。
「ここ、ほんとに外?」
「外だよ」
答えながら、胸の奥がひどく重くなった。
ここまで走ってきた。
街の心臓を振り切って、歯車と蒸気の海を抜けて、
命を削って飛び出してきた先が、これだ。
「……笑えねえな」
気づいたら、地面を殴っていた。
拳が灰と石を砕き、骨に鈍い痛みが走る。
塔の鉄板と違って、この地面は反撃してこない。
ただ、拳の跡を少しだけ残すだけだ。
「走っても走っても、
どこにも辿り着かねえ世界だったら、冗談じゃねえぞ……」
塔の中では、走る意味が分かっていた。
逃げるため。
取り返すため。
生きていると確かめるため。
ここではどうだ。
風もなく、誰もいない、止まった世界の真ん中で、
走ったところで何になる。
喉までせり上がった苛立ちと、
どうしようもない虚しさが、
一瞬だけ目の奥を熱くした。
そのとき、袖を引っ張る手があった。
タケルだ。
「兄貴」
声は掠れていたが、その目だけはまっすぐだった。
「どこにも、行けないかもしれないけどさ」
一度息を吸い込んでから、
彼は続けた。
「ここで止まってたら、ほんとにどこにも行けないよ」
安っぽい励ましだ。
そう切り捨てることもできた。
だが、それを言うには、
この弟はあまりにもボロボロで、
それでもまだ前を見ようとしていた。
塔に連れていかれ、夢の中で何度も壊され、
それでも今、自分の足で立とうとしている。
俺は、灰を払って立ち上がった。
膝が笑う。
肩が軋む。
焼けた皮膚が服の下で引きつる。
それでも、立てる。
「……ちくしょう」
空を見上げる。
動かない雲。
止まった蒸気。
錆びついた空の骨。
「風がねえなら、こっちで勝手に進むしかないか」
タケルが、少しだけ笑った。
「兄貴らしい」
「うるせえ」
そう言いながら、ポケットに手を入れる。
金属の感触が指先に触れた。
古い、小さな機械。
昔、工場の廃棄箱から拾い上げた、
まともには動かない懐中時計。
塔の中では、ただの重りだった。
昼休みに眺めては、歯車の噛み合わせを想像するだけの玩具。
外に出るときも、無意識にそれを持ってきていたらしい。
俺はその蓋を親指で弾いた。
錆びついた蝶番が、鈍く震えながら開く。
中の文字盤はひび割れ、
針は途中で止まったままだ。
ただ、その下で、
小さな歯車がひとつ、固まった油の中に埋もれている。
「動いてねえな」
そう呟いたその瞬間──
時計の奥で、ごくごく小さな音がした。
カチ、と。
一度だけ。
それっきり。
針は動かなかった。
歯車もすぐに黙り込んだ。
気のせいだと言われれば、それまでの音だ。
その一拍は、街の心臓の鼓動とは違った。
微かに揺れる金属音なのに、どこかで一度だけ聞いたことのある“声”に似ていた。
リタが、塔の深い層で俺たちを押し出したときに響かせていた、あの赤い拍に。
時計の奥の歯車が、ほんのわずかに震えていた。
まるで、「まだ終わりじゃない」と告げるように。
タケルが、驚いたように俺の顔を見る。
「今……」
「ああ。聞こえたな」
懐中時計の蓋を閉じる。
ポケットに戻す。
重みは変わらない。
だが、その中身は、さっきより少しだけ“生き物”に近づいた気がした。
「行くぞ、タケル」
「どこに?」
「知らん」
即答すると、タケルが肩をすくめた。
「兄貴らしい」
「うるさい」
言い合いながらも、
足は自然と、塔から離れるほうへ向いていた。
灰の地面に、二人分の足跡が刻まれる。
風がないから、すぐには消えない。
街の心臓の音はもう届かない。
代わりに、胸の奥で、自分たちの鼓動だけが鳴っている。
止まった世界の中で、
そのリズムだけが、かろうじて前へ進めと言っていた。
扉の向こうには、風がなかった。
──第一部 脱出編 了
塔の喉元から嫌な軋みが走り、
次の瞬間には足元の鉄板が、丸ごと空へ投げ出されたように傾いた。
京橋機関街の上に突き出した一本の橋。
その根本が、塔の外殻から乱暴に剥ぎ取られていく。
背中でタケルが息を呑む気配がした。
「兄貴……!」
振り返らない。振り返った瞬間、吸い戻される。
「しがみついてろ。離したら置いてく」
言葉より先に脚が動く。
傾き始めた通路の上を、前へ前へと走る。
走らないかぎり、ただ滑り落ちるだけの鉄板になる。
塔の内側から、主機のうなりが一段上がった。
街の心臓が、残った全力をしぼって収縮する音だ。
その拍に合わせるように、通路全体が沈み込む。
鉄骨の継ぎ目が悲鳴をあげ、ボルトが一つ、また一つと宙に飛んだ。
灰の空門が正面にあった。
街の頭上に浮かぶ巨大な輪。
その縁を滑る防壁の金属板が、もうほとんど噛み合っている。
残された隙間は、人ひとりが横向きでやっと通れるほど。
間に合わなければ、塔も街も、鉄ごとまとめて棺になる。
◇
通路の中ほどで、壁が割れた。
塔の外壁から、ぶ厚い鉄の塊が飛び出してくる。
補修用のアーム。
普段は壁の裏に畳まれているはずのそれが、暴走した筋肉のように伸びてきた。
関節に詰まった錆と油が、塔の鼓動に合わせて歪む。
アームは横殴りに通路を掠め、その一振りで数メートル先の鉄板をまとめてなぎ倒した。
人間の身体なら、触れた瞬間に砕ける。
「……悪趣味な見送りだな」
喉の奥が勝手に笑った。
余裕なんて欠片もないくせに。
鉄の腕は一度引き、また振り抜く。
塔の心臓の拍にぴったり合わせるように。
ぶん、と空気が押し潰される音。
その軌道の先に、俺とタケルがいた。
「兄貴!」
「頭下げろ!」
背中の重みが沈む。
俺は通路のど真ん中から、アームの付け根ぎりぎりのほうへ身体を投げた。
鉄の腕が視界を横切る。
関節部の歯車が、すぐ目の前で噛み合っていた。
そこから、ひと筋だけ蒸気が漏れている。
漏れた蒸気は、白くなかった。
金属を焼き続けたあとの、鈍い黄土色の熱だった。
頬を掠めた瞬間、皮膚が短く悲鳴をあげた。
焼ける匂いが鼻の奥を叩く。
さらに悪いことに、アームの縁に飛び出たボルトの頭が、肩を削っていった。
布ごと肉が裂ける。
熱と痛みが一気に肩の中に流れ込んだ。
息が詰まりそうになったが、足は止めなかった。
針のような痛みの向こう側で、タケルが背中から呻いた。
「っ……あつ……」
「歯ぁ食いしばっとけ。落ちるよりましだ」
鉄の腕は勢い余って通路の端を叩き壊し、そのまま壁の中へ戻っていった。
次に振り抜かれる頃には、俺たちはもうそこにはいない。
そう決めて、走る。
◇
通路は、もはや橋というより、塔の外側に引っかかった一本の骨だった。
根元はすでに半分ちぎれ、
残った支えも、街の心臓が拍動するたびに、ミシ、といやな音を立てる。
一歩ごとに傾きが増す。
足元の鉄板が、わずかに前へ滑る。
走っているのか、落ちているのか、自分でも判別がつかない。
灰の空門の縁が、視界いっぱいに広がっていた。
防壁の金属板が、ガキ、と鈍い音を立てて噛み合う。
隙間が、また数センチ狭まる。
「兄貴……これ、もう……」
「黙って掴まってろ。喋る分の息がもったいない」
タケルの腕が、首に食い込む。
背中の体温が、まだ「生きている」と主張している。
通路の終わりまで、あと数十メートル。
そこから先は空だ。
防壁の隙間まで、斜めに伸びた何もない空間がある。
足裏に伝わる振動が変わった。
塔の心臓が、最後の圧縮に入ったのだ。
街のどこかでまだ動いている蒸気機関すべてを、
この一瞬のために逆流させているような力押しの拍。
通路が、その拍ごとに沈んでいく。
橋の端が、眼に見える速度で街の底のほうへ傾く。
「タケル」
「うん……」
「怖いか」
「当たり前だよ」
「俺もだ」
それでも、脚は止めない。
最後の十メートルは、走るというより、
落ちてくる鉄板から逃げるために、前へ前へと身体を投げていた。
通路の端が、目の前に迫る。
そこから先には、もはや何もない。
足場も、手すりも、支えも。
灰の空門の防壁が、最後の抵抗みたいに閉じようとしている。
隙間は、タケルの肩幅より狭い。
世界が、この街を切り離そうとしている。
「兄貴……」
背中から、擦れた声。
「なに」
「ここまで来たんだからさ」
一拍、風と心臓のあいだで間が空いてから、
タケルは続けた。
「外で転んだほうが、まだマシだよ」
笑えた。
こんな場面で、そんな理屈を信じている弟が。
「そうだな」
喉の奥で短く笑って、吐き捨てるように言った。
「じゃあ、派手に転ぼう」
通路の端に片足をかける。
鉄板が悲鳴を上げながら折れ始めた。
その折れ目を蹴って、身体を空へ放り出す。
◇
灰色の空と、街の全景と、防壁の縁が、一瞬でねじれて入れ替わった。
風が、牙を剥いた。
さっきまでは塔の隙間で吠えていたそれが、今は真正面から全力で殴りつけてくる。
背中でタケルが一瞬浮いた。
首に噛みついていた腕の力が緩みかける。
「離すな!」
怒鳴ると同時に、自分の指も防壁のほうへ伸びていた。
閉じかけた金属板と金属板のあいだから、
わずかな溝が見える。
その隙間に肩をねじ込んだ。
鉄が肉を挟む。
焼けた板に押しつけられたみたいな熱が、傷口に食い込んでくる。
防壁の縁には、古い歯車の段差が残っていた。
自動開閉の機構が壊れ、半ば固定されたままになっている。
その歯のひとつに、左腕が引っかかった。
歯車の角が、肘の内側を抉る。
肉と血がそこに残るのが分かった。
骨に鈍い音が響く。
それでも、腕は外れなかった。
背中のタケルの重さが、逆に楔になって、
俺たち全体を防壁の隙間へ押し込んだ。
歯車の列のすぐ下を、何本もの蒸気管が走っていた。
そのサポートが限界を迎えたのか、一本が破裂した。
高温の蒸気が、白ではなく錆色の霧になって噴き出す。
顔の半分を焼かれたような熱が襲いかかった。
目が、瞬間的に何も見えなくなる。
皮膚が縮む。
タケルの悲鳴が背中でちぎれた。
「兄貴っ……!」
「口閉じろ!」
歯を食いしばり、蒸気の中で身体を押し出す。
歯車に挟まれた腕を、無理やり引きずり抜く。
皮膚と肉が一緒に持っていかれる感触。
血の匂いが蒸気の中に混ざる。
防壁が、最後の一押しをかけるように閉じてきた。
金属板同士がぶつかる直前。
その溝に、俺たちは滑り込んだ。
◇
世界が、裏返った。
鉄の音が、遠くへ飛んでいく。
蒸気の熱が、背中のほうへ滑り落ちる。
代わりに、冷たい何かが頬を撫でた。
落ちた。
塔の内部とは違う硬さが、背中に叩きつけられる。
砂と砕けた石と、薄く残った鉄片が混ざり合った地面。
肺から空気が全部抜ける。
視界に白い斑点が浮かんでは消える。
耳鳴りの中で、しばらくは自分の鼓動しか聞こえなかった。
「……兄貴」
背のほうから、擦れるような呼び声。
「生きてる。たぶんな」
答えながら、どうにかして上体を起こす。
腕が震える。肩が悲鳴を上げる。
それでも、動ける。
タケルはすぐ隣に転がっていた。
顔は煤と灰で真っ黒だが、目は開いている。
「大丈夫か」
「……大丈夫じゃないけど、生きてる」
「十分だ」
自分でそう言いながら、周囲を見渡した。
塔の外壁は、すぐそこにそびえていた。
分厚い金属とコンクリートの層。
防壁の向こう側からの音は、ほとんど届かない。
さっきまで耳の奥を支配していた街の心臓の拍も、もう聞こえなかった。
そのかわり──
目の前に、世界があった。
◇
灰色の荒野。
それが第一印象だった。
塔の足元から外側へ向かって、
地面は一面、薄い灰を固めたような層で覆われていた。
踏めばわずかに沈むが、すぐ下にはひび割れた地盤がある。
遠くまで伸びるその灰の地面の上には、
折れた塔や潰れた工場の残骸が突き出していた。
どれも色を失い、錆も赤ではなく白っぽく乾いている。
空は、塔の天井よりも低く感じた。
雲が重なり合い、層をなしている。
本来なら流れていくはずの蒸気雲や煙が、
風を失ってしまったせいで空中で固まっているようにも見えた。
動かない雲。
沈殿した蒸気。
空全体が、止まった機関の内部みたいに見えた。
その雲の隙間からは、
遠くに浮かぶ巨大な影も見えた。
空中に吊られたまま動かなくなった構造物。
歯車と梁で組まれた巨大な輪の集合体。
かつては街全体の圧を受け止めていたのかもしれない、
空の骨組みが、そのまま空中で錆びついている。
地平線の向こうには、
大地を貫くように横倒しになった巨大な蒸気機関の残骸も見えた。
長大なシリンダーと配管。
そのどれもが破裂し、黒い跡だけを残している。
世界そのものが、
一度全力で回ってから、そのまま二度と動かなくなった機械のようだった。
「……外、って」
タケルが、呆然と呟いた。
「こんな、だったのかな」
「昔は違ったんだろう」
自分で言いながら、その「昔」を見たことのないことに気づく。
塔の中で交わされていた断片的な話。
工場の年寄りが酒の匂いと一緒に吐き出した昔話。
写真の中の、見たことのない色。
全部、ここにはない。
あるのは、止まった歯車みたいな空と、
冷えた灰と、壊れた機械の骨だけだ。
風も、ない。
塔の外の空気は冷たい。
肺には入ってくる。
だが、頬を撫でることも、髪を揺らすこともない。
「兄貴……」
タケルが、隣で膝を抱えた。
「ここ、ほんとに外?」
「外だよ」
答えながら、胸の奥がひどく重くなった。
ここまで走ってきた。
街の心臓を振り切って、歯車と蒸気の海を抜けて、
命を削って飛び出してきた先が、これだ。
「……笑えねえな」
気づいたら、地面を殴っていた。
拳が灰と石を砕き、骨に鈍い痛みが走る。
塔の鉄板と違って、この地面は反撃してこない。
ただ、拳の跡を少しだけ残すだけだ。
「走っても走っても、
どこにも辿り着かねえ世界だったら、冗談じゃねえぞ……」
塔の中では、走る意味が分かっていた。
逃げるため。
取り返すため。
生きていると確かめるため。
ここではどうだ。
風もなく、誰もいない、止まった世界の真ん中で、
走ったところで何になる。
喉までせり上がった苛立ちと、
どうしようもない虚しさが、
一瞬だけ目の奥を熱くした。
そのとき、袖を引っ張る手があった。
タケルだ。
「兄貴」
声は掠れていたが、その目だけはまっすぐだった。
「どこにも、行けないかもしれないけどさ」
一度息を吸い込んでから、
彼は続けた。
「ここで止まってたら、ほんとにどこにも行けないよ」
安っぽい励ましだ。
そう切り捨てることもできた。
だが、それを言うには、
この弟はあまりにもボロボロで、
それでもまだ前を見ようとしていた。
塔に連れていかれ、夢の中で何度も壊され、
それでも今、自分の足で立とうとしている。
俺は、灰を払って立ち上がった。
膝が笑う。
肩が軋む。
焼けた皮膚が服の下で引きつる。
それでも、立てる。
「……ちくしょう」
空を見上げる。
動かない雲。
止まった蒸気。
錆びついた空の骨。
「風がねえなら、こっちで勝手に進むしかないか」
タケルが、少しだけ笑った。
「兄貴らしい」
「うるせえ」
そう言いながら、ポケットに手を入れる。
金属の感触が指先に触れた。
古い、小さな機械。
昔、工場の廃棄箱から拾い上げた、
まともには動かない懐中時計。
塔の中では、ただの重りだった。
昼休みに眺めては、歯車の噛み合わせを想像するだけの玩具。
外に出るときも、無意識にそれを持ってきていたらしい。
俺はその蓋を親指で弾いた。
錆びついた蝶番が、鈍く震えながら開く。
中の文字盤はひび割れ、
針は途中で止まったままだ。
ただ、その下で、
小さな歯車がひとつ、固まった油の中に埋もれている。
「動いてねえな」
そう呟いたその瞬間──
時計の奥で、ごくごく小さな音がした。
カチ、と。
一度だけ。
それっきり。
針は動かなかった。
歯車もすぐに黙り込んだ。
気のせいだと言われれば、それまでの音だ。
その一拍は、街の心臓の鼓動とは違った。
微かに揺れる金属音なのに、どこかで一度だけ聞いたことのある“声”に似ていた。
リタが、塔の深い層で俺たちを押し出したときに響かせていた、あの赤い拍に。
時計の奥の歯車が、ほんのわずかに震えていた。
まるで、「まだ終わりじゃない」と告げるように。
タケルが、驚いたように俺の顔を見る。
「今……」
「ああ。聞こえたな」
懐中時計の蓋を閉じる。
ポケットに戻す。
重みは変わらない。
だが、その中身は、さっきより少しだけ“生き物”に近づいた気がした。
「行くぞ、タケル」
「どこに?」
「知らん」
即答すると、タケルが肩をすくめた。
「兄貴らしい」
「うるさい」
言い合いながらも、
足は自然と、塔から離れるほうへ向いていた。
灰の地面に、二人分の足跡が刻まれる。
風がないから、すぐには消えない。
街の心臓の音はもう届かない。
代わりに、胸の奥で、自分たちの鼓動だけが鳴っている。
止まった世界の中で、
そのリズムだけが、かろうじて前へ進めと言っていた。
扉の向こうには、風がなかった。
──第一部 脱出編 了
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