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第二部 漂流編
第27話 深層の縁(えん)
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灰は降っていない。だが降っているように“見えた”。
深層の空気が粒子をまとい、光も風もない空間の中でゆっくり沈んでいく。
三人の歩調も、灰の落ちる速度に合わせて遅くなっていた。
アキトは胸の奥にじわりと広がる“重さ”を感じた。
脇腹の傷の重さではない。
深層が呼吸するたびに、胸郭の内側を押すような圧の重さだった。
タケルは黙って歩く。
肩がわずかに揺れ、足取りは不安定。
深層へ向かうほど、背中の形が“誰かに似ていく”気がした。
塔の奥でタケルが弄られたときの、あの弱い背中。
呼び声に吸われる直前の、迷子の影。
リタはアキトの斜め後ろを静かに歩いていた。
赤い拍は薄く光り、深層の脈と干渉するたびに微かな揺らぎを見せる。
その揺れは、鼓動の乱れではなかった。
“記憶の層”が重なり、剥がれ、また重なる、その錯綜した動きだった。
アキトは気づいていた。
――リタの揺れ方が、塔のときと違う。
塔でのリタは、記憶を保持しながら壊れていった。
今のリタは、記憶そのものが“増えて”揺れている。
祈り機に吸われた情報と、塔での記憶と、兄弟と歩いた記憶と、
深層で新しく触れたものが、層のように折り重なっている。
赤い拍は、その層を抱えきれずに滲んでいた。
アキトは声をかけようとして、やめた。
呼べば、揺れがひとつ壊れそうだった。
深層の通路は広がり、壁は崩れ、鉄骨は骨のように曲がり、
祈り機の残骸があちこちで倒れている。
どれも沈黙しているのに、沈黙の“質”が変わっていく。
死んだ機械の沈黙ではない。
目を開ける直前の沈黙。
呼吸を始める直前の沈黙。
「……兄さん」
タケルが呼んだ。
アキトは返事をしようとしたが、声が出なかった。
胸の中の圧が、言葉を押し戻していた。
タケルが不安そうに振り返る。
「兄さん、また痛むのか?」
違う。痛みではない。
アキトはわずかに首を振った。
深層の呼吸がまたひとつ、壁を押し広げた。
灰が舞い、空気が膨らむ。
音ではなく、圧だけが襲ってくる。
リタの赤い拍がその圧に反応して揺れ、光の端で波紋のように広がる。
タケルがリタを見て、眉を寄せた。
「さっきから、リタ……変じゃない?」
アキトはリタに視線を向けた。
リタはゆっくりと歩いている。
ただ歩いているだけのはずなのに、足跡が残らない。
身体の輪郭が、時々、背景と溶け合うように揺れる。
その揺れが“恐怖”ではなく、“迷い”の揺れであることが分かった。
アキトはようやく声を出した。
「リタ」
リタは立ち止まらない。
顔を上げない。
呼ばれたことに“気づいていない”……?
「リタ」
もう一度。
今度は少し強く。
リタは歩調を変えず、通路の奥を見たまま。
その横顔は、塔で見たものとも、街で見たものとも違っていた。
タケルが焦った声で言う。
「兄さん……リタ、聞いてない」
アキトの胸が沈む。
――気づいていないのか。
――それとも、気づけないのか。
深層がまた呼吸する。
赤い拍が激しく震え、リタの身体の輪郭が一瞬だけ歪んだ。
タケルが駆け寄ろうとして、アキトが腕を掴んだ。
「タケル、待て」
「でもリタが——」
「違う。今触ると……壊れる」
リタの揺れ方は、“内側から”の崩壊ではなかった。
深層の脈が、リタの持つ記憶の層を“別の順番で並べ替えようとしている”。
塔の記憶、街路の記憶、兄弟の声——
それらが層になって押し寄せ、順番を失った記憶が“現在”に割り込んでくる。
リタがふいに、立ち止まった。
何もない空間をじっと見つめる。
アキトは慎重に近づいた。
リタの肩が、微かに震えた——。
「アキト……」
声にならない声。
だが、その形だけは確かにそう呼んだ。
アキトは胸が詰まりそうになった。
だが、次の瞬間。
リタの顔がゆっくりこちらを向き——
目の焦点が、アキトの“横”を通り過ぎた。
名前を呼んだ“次の瞬間に”、アキトを見失った。
タケルが小さく息を呑む。
「兄さん……今、リタ……」
「ああ」
アキトは唇を噛んだ。
「俺を……思い出せなかった」
赤い拍が強く光り、次の瞬間には淡い光に戻る。
その変化は脈ではなく、
記憶が「消える」でも「戻る」でもなく、
“別の場所に滑っていく”動きだった。
リタはまた前を向き、歩き出した。
タケルが不安げに言う。
「兄さん……リタ、迷ってるんじゃなくて……」
アキトは続けた。
「……記憶の“順番”を失ってる」
深層が呼吸する。
リタはその呼吸に合わせ、かすかに身体を揺らした。
塔で崩れたときの記憶が、ふとアキトをよぎる。
リタの最後の視界。
赤い拍が砕け、祈りの海へ吸われていく瞬間。
あの瞬間、アキトは確かに手を伸ばした。
届かなかった。
その“届かなかった記憶”が、今また胸を締め付けた。
タケルが言う。
「どうすれば……戻るの?」
アキトは答えられなかった。
祈りの回路に残った記憶がどの順番で組み上がるのか、
そもそも“順番”という概念が通用するのか、
誰にも分からない。
リタが突然、足を止めた。
胸に手を当てる。
赤い拍が、深層の脈と逆方向に震える。
正反対のリズム。
ぶつかった拍同士が互いを削り合い、赤い光が裂ける。
アキトは駆け寄ろうとした。
「リタ!」
タケルが叫ぶ。
「兄さん、待っ——」
だが、アキトは止まれなかった。
脇腹の痛みが警告のように走る。
それでも手を伸ばした。
リタがアキトの方へ顔を向けた。
その瞳に宿るのは、
“知らない誰かを見ている”視線だった。
塔の心臓層で、崩れ落ちていった瞬間の記憶。
祈り機の断片に沈んでいく記憶。
アキトとタケルと初めて出会った、遠い街角の記憶。
どれもリタの中で混線していた。
リタがかすかに動いた唇で、
声にならない声を漏らす。
——あなたは……誰?
アキトの胸が崩れた。
タケルが震える声を絞り出す。
「兄さん……リタ、兄さんを……」
アキトは息を吸い込んだ。
肺の奥が痛む。
だが声を絞り出した。
「……大丈夫だ。揺れてるだけだ」
嘘だった。
心の底からの嘘だった。
深層の呼吸が、ゆっくりと膨張する。
通路全体が押し広げられ、灰が巻き上がる。
リタの身体が、深層の呼吸に呼応し、後ろへ引かれた。
アキトは必死に手を伸ばす。
タケルが反対側で支えるように腕を伸ばす。
だが、リタの輪郭は深層へ滑っていく。
足跡を残さず、音もなく。
その瞳は、まだアキトを“知らない”。
赤い拍が、裂けるように揺れた。
深層の影が、ゆっくりと首を向けた。
祈り機が首を揃えたのと同じ角度。
同じ滑らかさで。
アキトとタケルとリタの方へ。
深層が、三人を撫でるように震えた。
これはもう呼吸ではなく、
“選択の開始”でもなく、
“記憶を奪う予告” だった。
リタの拍が砕ける寸前の光で震えた。
――そして。
深層のどこかで、
骨の裏側を擦るような低い音が一度だけ鳴った。
それは“始まりの音”だった。
鳴りきる前に、深層そのものがその音を吸い込む。
響きの残り香だけを残して、空気は急激に静まり返った。
アキトは息を止めた。
深層が音を消した瞬間だった。
深層の空気が粒子をまとい、光も風もない空間の中でゆっくり沈んでいく。
三人の歩調も、灰の落ちる速度に合わせて遅くなっていた。
アキトは胸の奥にじわりと広がる“重さ”を感じた。
脇腹の傷の重さではない。
深層が呼吸するたびに、胸郭の内側を押すような圧の重さだった。
タケルは黙って歩く。
肩がわずかに揺れ、足取りは不安定。
深層へ向かうほど、背中の形が“誰かに似ていく”気がした。
塔の奥でタケルが弄られたときの、あの弱い背中。
呼び声に吸われる直前の、迷子の影。
リタはアキトの斜め後ろを静かに歩いていた。
赤い拍は薄く光り、深層の脈と干渉するたびに微かな揺らぎを見せる。
その揺れは、鼓動の乱れではなかった。
“記憶の層”が重なり、剥がれ、また重なる、その錯綜した動きだった。
アキトは気づいていた。
――リタの揺れ方が、塔のときと違う。
塔でのリタは、記憶を保持しながら壊れていった。
今のリタは、記憶そのものが“増えて”揺れている。
祈り機に吸われた情報と、塔での記憶と、兄弟と歩いた記憶と、
深層で新しく触れたものが、層のように折り重なっている。
赤い拍は、その層を抱えきれずに滲んでいた。
アキトは声をかけようとして、やめた。
呼べば、揺れがひとつ壊れそうだった。
深層の通路は広がり、壁は崩れ、鉄骨は骨のように曲がり、
祈り機の残骸があちこちで倒れている。
どれも沈黙しているのに、沈黙の“質”が変わっていく。
死んだ機械の沈黙ではない。
目を開ける直前の沈黙。
呼吸を始める直前の沈黙。
「……兄さん」
タケルが呼んだ。
アキトは返事をしようとしたが、声が出なかった。
胸の中の圧が、言葉を押し戻していた。
タケルが不安そうに振り返る。
「兄さん、また痛むのか?」
違う。痛みではない。
アキトはわずかに首を振った。
深層の呼吸がまたひとつ、壁を押し広げた。
灰が舞い、空気が膨らむ。
音ではなく、圧だけが襲ってくる。
リタの赤い拍がその圧に反応して揺れ、光の端で波紋のように広がる。
タケルがリタを見て、眉を寄せた。
「さっきから、リタ……変じゃない?」
アキトはリタに視線を向けた。
リタはゆっくりと歩いている。
ただ歩いているだけのはずなのに、足跡が残らない。
身体の輪郭が、時々、背景と溶け合うように揺れる。
その揺れが“恐怖”ではなく、“迷い”の揺れであることが分かった。
アキトはようやく声を出した。
「リタ」
リタは立ち止まらない。
顔を上げない。
呼ばれたことに“気づいていない”……?
「リタ」
もう一度。
今度は少し強く。
リタは歩調を変えず、通路の奥を見たまま。
その横顔は、塔で見たものとも、街で見たものとも違っていた。
タケルが焦った声で言う。
「兄さん……リタ、聞いてない」
アキトの胸が沈む。
――気づいていないのか。
――それとも、気づけないのか。
深層がまた呼吸する。
赤い拍が激しく震え、リタの身体の輪郭が一瞬だけ歪んだ。
タケルが駆け寄ろうとして、アキトが腕を掴んだ。
「タケル、待て」
「でもリタが——」
「違う。今触ると……壊れる」
リタの揺れ方は、“内側から”の崩壊ではなかった。
深層の脈が、リタの持つ記憶の層を“別の順番で並べ替えようとしている”。
塔の記憶、街路の記憶、兄弟の声——
それらが層になって押し寄せ、順番を失った記憶が“現在”に割り込んでくる。
リタがふいに、立ち止まった。
何もない空間をじっと見つめる。
アキトは慎重に近づいた。
リタの肩が、微かに震えた——。
「アキト……」
声にならない声。
だが、その形だけは確かにそう呼んだ。
アキトは胸が詰まりそうになった。
だが、次の瞬間。
リタの顔がゆっくりこちらを向き——
目の焦点が、アキトの“横”を通り過ぎた。
名前を呼んだ“次の瞬間に”、アキトを見失った。
タケルが小さく息を呑む。
「兄さん……今、リタ……」
「ああ」
アキトは唇を噛んだ。
「俺を……思い出せなかった」
赤い拍が強く光り、次の瞬間には淡い光に戻る。
その変化は脈ではなく、
記憶が「消える」でも「戻る」でもなく、
“別の場所に滑っていく”動きだった。
リタはまた前を向き、歩き出した。
タケルが不安げに言う。
「兄さん……リタ、迷ってるんじゃなくて……」
アキトは続けた。
「……記憶の“順番”を失ってる」
深層が呼吸する。
リタはその呼吸に合わせ、かすかに身体を揺らした。
塔で崩れたときの記憶が、ふとアキトをよぎる。
リタの最後の視界。
赤い拍が砕け、祈りの海へ吸われていく瞬間。
あの瞬間、アキトは確かに手を伸ばした。
届かなかった。
その“届かなかった記憶”が、今また胸を締め付けた。
タケルが言う。
「どうすれば……戻るの?」
アキトは答えられなかった。
祈りの回路に残った記憶がどの順番で組み上がるのか、
そもそも“順番”という概念が通用するのか、
誰にも分からない。
リタが突然、足を止めた。
胸に手を当てる。
赤い拍が、深層の脈と逆方向に震える。
正反対のリズム。
ぶつかった拍同士が互いを削り合い、赤い光が裂ける。
アキトは駆け寄ろうとした。
「リタ!」
タケルが叫ぶ。
「兄さん、待っ——」
だが、アキトは止まれなかった。
脇腹の痛みが警告のように走る。
それでも手を伸ばした。
リタがアキトの方へ顔を向けた。
その瞳に宿るのは、
“知らない誰かを見ている”視線だった。
塔の心臓層で、崩れ落ちていった瞬間の記憶。
祈り機の断片に沈んでいく記憶。
アキトとタケルと初めて出会った、遠い街角の記憶。
どれもリタの中で混線していた。
リタがかすかに動いた唇で、
声にならない声を漏らす。
——あなたは……誰?
アキトの胸が崩れた。
タケルが震える声を絞り出す。
「兄さん……リタ、兄さんを……」
アキトは息を吸い込んだ。
肺の奥が痛む。
だが声を絞り出した。
「……大丈夫だ。揺れてるだけだ」
嘘だった。
心の底からの嘘だった。
深層の呼吸が、ゆっくりと膨張する。
通路全体が押し広げられ、灰が巻き上がる。
リタの身体が、深層の呼吸に呼応し、後ろへ引かれた。
アキトは必死に手を伸ばす。
タケルが反対側で支えるように腕を伸ばす。
だが、リタの輪郭は深層へ滑っていく。
足跡を残さず、音もなく。
その瞳は、まだアキトを“知らない”。
赤い拍が、裂けるように揺れた。
深層の影が、ゆっくりと首を向けた。
祈り機が首を揃えたのと同じ角度。
同じ滑らかさで。
アキトとタケルとリタの方へ。
深層が、三人を撫でるように震えた。
これはもう呼吸ではなく、
“選択の開始”でもなく、
“記憶を奪う予告” だった。
リタの拍が砕ける寸前の光で震えた。
――そして。
深層のどこかで、
骨の裏側を擦るような低い音が一度だけ鳴った。
それは“始まりの音”だった。
鳴りきる前に、深層そのものがその音を吸い込む。
響きの残り香だけを残して、空気は急激に静まり返った。
アキトは息を止めた。
深層が音を消した瞬間だった。
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