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第8話 ゴローちゃんと路地(ろうじ)の誘惑
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「ねえ、久しぶりに晴れたし、朝食べたら散歩行かない?デルタ」
ソファベッドの上のブランケットを片付けてソファ形態に折り畳みながら舞子が言った。
「ええなー。ゴローちゃんも一緒に行こか?」
ボウルで卵と牛乳と砂糖をかき混ぜながら僕がそう言うと、ゴローちゃんが
「にゃー」
と返事をした。
「ゴローちゃんも行きたいって」
そう言いながら、卵液に厚切りのトーストを浸す。
フライパンにはたっぷりのバターを火にかける。
じゅう~!
フライパンに片面30秒浸したトーストを置くと、食欲をそそる音と共に甘い香りが部屋中に広がった。
「ちょっとハルくん!たまらないんだけど!」
「まあ待て待て。あと5分ちょっと」
両面がこんがり黄金色になるまで焼いたら、火を落として弱火で片面ずつじっくり火を通す。
その間にミルクパンにホットミルクを沸かす。
パンが焼けたら3センチ角位に切り分けてお皿に盛り、この前阪急の地下で買ってきた粉糖とシナモンパウダーを振ったら出来上がりだ。
「ほい。できたよ。ホットミルクもできてるからマグに注いで、冷蔵庫からメープルシロップ出して」
「はーい」
ぴょんぴょんと跳ねるように舞子が台所に行って、帰りはこぼさないようにソロリソロリと戻ってきた。
2人で並んでソファに座り、テーブルから立ち上る甘い香りを吸い込みながら
「「いただきます!」」
と手を合わせてフォークを皿に伸ばす。
「うんま!」
僕はフレンチトーストに使うバターは有塩が好きだ。
バターの塩っ気と、卵と牛乳と砂糖の甘さのハーモニー、ふわっと香るシナモン。
パンの、黄金に輝く表面のパリッと感と中のしっとり感。
そこに、メープルを入れたホットミルク。
完璧な朝食だ。
野菜が全くない気はするけど。
◇ ◇ ◇ ◇
「わ。暑い」
アパートの外に出ると、まだ午前中だというのに日差しのせいもあってムッとする暑さだった。
舞子は部屋に日傘を取りに戻り、ついでに僕の帽子も取ってきてくれた。
叔父さんから貰ったお気に入りの白いメッシュのハンチング。
「ね、ゴローちゃんその毛皮暑くないの?」
尻尾をぴんと誇らしげに立てながら僕達の横をトコトコと歩いているゴローちゃんに舞子が話しかける。
ゴローちゃんは一瞬舞子の方を見たが、特に返事はせずにまた前を向いて歩き続けた。
どうやら問題ないらしい。
夏の鴨川デルタは、いつものアブラゼミと最近増えてきたクマゼミ、そして暑っ苦しいミンミンゼミの大合唱と、草いきれの匂い。
川に入って遊ぶ子どもたちの嬌声が橋の欄干にこだましていた。
僕達は木陰になっているベンチの方に上って腰を下ろした。
ここだと少しは暑さもマシだ。
川面を駆け抜ける風も僅かに感じられる。
「はい、ハルくん」
舞子が冷蔵庫の麦茶をスタンレーに入れて持ってきてくれていた。
一口飲むと、キンキンに冷えた麦茶が食道を通っていくのが分かる。
「はぁ~」
思わず声が出た。
ゴローちゃんはベンチの下に入って箱座りになっていた。
穏やかな夏の朝だった。
と。
賀茂大橋の上から突然甲高いブレーキ音と鈍い衝突音が重なって響いた。
鴨川デルタにいたすべての人が動きを止めて橋の上に目を向けた。
──ゴローちゃんを除いて。
音がした瞬間、ゴローちゃんはベンチの下から飛び出し、尻尾を狸のように太く膨らませて走り出した。
人の足元に行っては飛び上がって方向転換し、木にぶつかりそうになり、明らかにパニック状態だ。
「あ!ゴローちゃん!」
僕と舞子もすぐに立ち上がって追いかけたが、危険を感じて全力で駆け出した猫に追いつけるはずがない。
出町橋の方に走っていくのは見えたのだが、すぐに完全に見失ってしまった。
「探さなきゃ。ゴローちゃんパニックでどっか行っちゃった!」
「うん。とりあえず出町橋の方に行ったみたいやし、川の向こう側探しに行こか」
「そうだね。すぐ行こう!」
「いや、これは慌ててもしゃあないで。どこ行ったんかも分からへんし、ゆっくり探したほうがええ。それに、パニクって走り出したとはいえ、そもそも猫の行動範囲ってせいぜい半径500m位らしいし。」
「分かった。でもさっきの大きな音、何だったんだろうね」
「多分、事故やろな。急ブレーキのタイヤの音の後でぶつかった音したし」
「じゃあ、とりあえず賀茂大橋の方から左上の方に探しに行こうよ。ゴローちゃん、橋渡ってアパートの方に戻ってくるかも知れないし」
そう言って僕達は河合橋をいったん東に渡り、賀茂大橋に上った。
橋の上では案の定、2台のセダンが衝突したようで、1台はひっくり返っていた。
一体こんなところで何をどうしたらこんな事故になるのか僕にはさっぱり分からなかった。
◇ ◇ ◇ ◇
「ゴローちゃーん!」
ふと気づけば、僕たちは見知らぬ細い路地に入り込んでいた。
京都の町は、名前の付いた通りの碁盤目だけでできているわけじゃない。
町家は碁盤の目の通り沿いにまず建てられる。
すると、町家の裏にぽつんと空き地ができる。
人はそこへ細い道を引く。
行き止まりなら路地(ろうじ)、突き抜ければ辻子(ずし)。
そうして増えた道の奥にまた家や店が建ち、いつのまにか町が息づいていく。
その呼吸の跡をたどるように、ゴローちゃんの名を呼びながら僕らは歩いていた。
真夏の太陽はどんどんと高度と威力を増し、ジリジリとアスファルトを灼きながら照りつけている。
日傘と帽子をしていても、汗が吹き出してシャツが肌に張り付く。
見知らぬ路地は、その強烈な太陽に照らされた日向と建物でできた日陰がくっきりとしたコントラストを描いて、まるで抽象絵画のように現実感を失っていった。
全部が日陰の細い路地に入ると一瞬真っ暗で何も見えない錯覚に陥り、逆に少し開けた通りに出ると今度は視界全部が真っ白になる。
いかにも猫が好みそうな細道だが、ゴローちゃんはおろか、その他の野良猫も一匹も見なかった。
みんな、立ち並ぶ家々の縁の下に入り込んで涼を取りながら午睡を楽しんでいるのだろうか。
「あ、いい匂い」
ふと舞子が立ち止まった。
僕も足を止めると、コーヒー豆を焙煎する香ばしい匂いが細い路地の向こうから漂ってきた。
一瞬ゴローちゃんを探していることを忘れてふらふらと芳香の元を辿ると、果たしてそこには小さな町家を改装したお店があった。
『焙煎工房 ROUJI』
木彫りの小さな看板が出ている。
中を覗くと小さなカウンターが有り、その奥でオーバーオールに髭面の男性が焙煎機を回しているのが見えた。
「すみません」
思わず扉を開けて声を掛ける。
中はクーラーが効いていて心地よかった。
髭男はその風貌に似合わず腰の低い態度と柔らかな声で応対してくれた。
「どれでもお好きな瓶開けて匂い嗅いでもうて、気に入ったもんあったら言うて下さい。いくつかでもかまいません。そしたらええようにブレンドさせてもろて、お渡しします」
ガラスの小瓶がズラッと並んだカウンターを指さされた僕は、とりあえず色で気になった瓶を開けて匂いを嗅いだ。
豆がガラス越しに光を反射している。
「あ、これはナッツを炒ったような香ばしくて甘い香り」
「わ、この豆、チョコの匂いする!」
「こっちはなんかウッディやな」
舞子と交互に感想を言い合っていると、髭男がニコニコとその様子を眺めていた。
「お好きな豆、言うてくださいね」
「そしたらこれとこれとこれ。僕、コーヒーの酸味苦手で、深煎りの苦いのん好きなんですけど、今選んだのんてどうですか?」
「ばっちりです。お好み通りにブレンドできます」
「ほな、200グラムお願いします」
「はい。ちょっとだけお待ち下さい」
髭男はそう言うと確認するように僕が渡した瓶をクンクンと嗅ぎ、奥に引っ込んだかと思うとすぐに暖簾から顔を出して
「何で淹れはります?それに合わして挽きますよ?」
と言った。
僕が自分で挽くから豆のままでいいと伝えると、奥に引っ込んでゴソゴソと音を立て、満面の笑みとともに薄茶色の紙にセロファンの窓のついた袋を持って現れた。
「おおきに!」
お金を払って外に出る。
クーラーの効いた店内との温度差にクラクラしながらも、鼻の奥に残ったコーヒーの香りで、さっきよりは頭がしゃっきりした。
「あ、コーヒー買うて喜んでる場合ちゃうやん!ゴローちゃん探さんと!」
「ゴローちゃーん!」
また呼びかけながら路地から路地へ。
古都と言いつつ、この毛細血管のように張り巡らされた路地(ろうじ)や辻子(ずし)を歩き回っていると、いつかテレビで見た北アフリカや中東の街の市場を思い出す。
頭の中に久保田早紀の歌声がリピートしていた。
「ゴローちゃーん!」
信号のある少し大きな通りを渡って、次の路地に入ったときだった。
「あ、パンの匂い!」
舞子が足を止めて鼻をひくつかせる。
確かに、どこかから小麦の焼ける甘い香りが漂ってくる。
コーヒーの香りで足を止めたばかりなのに、今度はパンだ。
猫を探しているはずなのに、胃袋を引っ張られてばかりである。
路地の奥に、小さな町家を改装したパン屋があった。
木の格子戸を開けると、焼きたてのパンを並べたガラス棚が迎えてくれる。
近づくと、バゲットの表面がまだ熱を持っているせいで、ガラスにうっすら水滴がついていた。
「見て見て!ほかほかだよ!」
舞子は顔を寄せて、ガラスの曇りに息をかける子どもみたいだ。
棚には丸パン、クリームパン、そしてこんがりとしたあんパン。
どれも派手さはないが、町の人に長く愛されてきた顔ぶれだ。
舞子は迷わずトングを手に取り、焼き立ての丸パンを紙袋に入れてもらった。
「……猫探してたんやけどな」
僕が呟くと、舞子は袋を抱えて笑った。
「だって、絶対ゴローちゃんもパン好きだよ」
完全に論理が破綻している。
けれど、こうして焼きたてのパンを下げて路地を歩くと、不思議と探偵気分ではなく「夏のおやつ散歩」になってしまうのだった。
しかし、この暑さの中ずっと歩き回っていると、さすがにくたびれてきた。
路地独特の石畳すら、ちょっと恨めしく思ってしまう。
ちなみにこの石畳は京都市電が廃止になった時に軌道に使われていたものが払い下げられたものらしい。
なので京都の路地には石畳が多いのだとか。
「そんな蘊蓄、今はいーよー」
舞子が笑いながら日陰にしゃがみ込む。
「せやな。日射病なる前に1回部屋戻って、夕方ちょっと涼しくなってからもう1回探そうか」
「そうだね。とりあえずお腹もペコペコだから、帰ったらその豆でコーヒー淹れて、このパン食べよう」
それはいいが、ここはどこだ?
ずっと細かな路地を猫目線で歩いていたものだからどこなんか、どれくらい離れたのか全然わからない。
おまけに真夏の真っ昼間だから太陽もほぼ真上にあって方角もわからない。
仕方ないので当てずっぽうで大きめの通りに出て、僕は四方を見渡した。
京都で暮らしていると、なんとなく山の形で方角が分かるようになる。
大文字がどこから見えるかなんて曖昧だけれど、稜線を見上げれば、どっちが東だなどはすぐに知れる。
僕達は何となくの方角に見当をつけて、でもまたできるだけ細かな路地を通ってアパートの方角に歩いていった。
「あ、楽器屋」
細い辻子の中ほどに古びた木の扉とショウウィンドウが現れた。
暗がりに飴色のウッドベースがひっそりと佇んでいる。
僕は思わず足を止め、喉が鳴った。
「ハルくん…?」
舞子が訝しげに僕の顔を覗き込む。
「……いや、なんでもない。ゴローちゃん探そ」
そう言いながらも、胸の奥に残った低音の幻を振り払えずにいた。
◇ ◇ ◇ ◇
「ゴローちゃーん!」
「ゴローちゃーん!」
「ゴローちゃーん!」
「ゴローちゃーん!」
僕と舞子は呼びかけながら真夏の炎天下の路地を歩き続けた。
「あかん、もうあかん。クタクタや」
「私も…」
「とりあえず帰ったらアイス食べよう」
「うん…」
2人とも挫けそうになった頃、やっと見覚えのある通りに出た。
「あー!今出川ー!」
「やったー!あ、そこ賀茂大橋だ!」
「よし頑張るぞ舞子!寝るな!寝たら死ぬぞ!」
「この暑さで寝られるわけないでしょー!」
そんなことを言いながら、僕達はアパートにたどり着いた。
妙な達成感があった。
ゴローちゃん探しの路地探検は徒労に終わったけれど。
────にゃーん。
アパートの駐輪場の屋根の下で、箱座りで居眠りしているゴローちゃんを見つけたのは、舞子だった。
ソファベッドの上のブランケットを片付けてソファ形態に折り畳みながら舞子が言った。
「ええなー。ゴローちゃんも一緒に行こか?」
ボウルで卵と牛乳と砂糖をかき混ぜながら僕がそう言うと、ゴローちゃんが
「にゃー」
と返事をした。
「ゴローちゃんも行きたいって」
そう言いながら、卵液に厚切りのトーストを浸す。
フライパンにはたっぷりのバターを火にかける。
じゅう~!
フライパンに片面30秒浸したトーストを置くと、食欲をそそる音と共に甘い香りが部屋中に広がった。
「ちょっとハルくん!たまらないんだけど!」
「まあ待て待て。あと5分ちょっと」
両面がこんがり黄金色になるまで焼いたら、火を落として弱火で片面ずつじっくり火を通す。
その間にミルクパンにホットミルクを沸かす。
パンが焼けたら3センチ角位に切り分けてお皿に盛り、この前阪急の地下で買ってきた粉糖とシナモンパウダーを振ったら出来上がりだ。
「ほい。できたよ。ホットミルクもできてるからマグに注いで、冷蔵庫からメープルシロップ出して」
「はーい」
ぴょんぴょんと跳ねるように舞子が台所に行って、帰りはこぼさないようにソロリソロリと戻ってきた。
2人で並んでソファに座り、テーブルから立ち上る甘い香りを吸い込みながら
「「いただきます!」」
と手を合わせてフォークを皿に伸ばす。
「うんま!」
僕はフレンチトーストに使うバターは有塩が好きだ。
バターの塩っ気と、卵と牛乳と砂糖の甘さのハーモニー、ふわっと香るシナモン。
パンの、黄金に輝く表面のパリッと感と中のしっとり感。
そこに、メープルを入れたホットミルク。
完璧な朝食だ。
野菜が全くない気はするけど。
◇ ◇ ◇ ◇
「わ。暑い」
アパートの外に出ると、まだ午前中だというのに日差しのせいもあってムッとする暑さだった。
舞子は部屋に日傘を取りに戻り、ついでに僕の帽子も取ってきてくれた。
叔父さんから貰ったお気に入りの白いメッシュのハンチング。
「ね、ゴローちゃんその毛皮暑くないの?」
尻尾をぴんと誇らしげに立てながら僕達の横をトコトコと歩いているゴローちゃんに舞子が話しかける。
ゴローちゃんは一瞬舞子の方を見たが、特に返事はせずにまた前を向いて歩き続けた。
どうやら問題ないらしい。
夏の鴨川デルタは、いつものアブラゼミと最近増えてきたクマゼミ、そして暑っ苦しいミンミンゼミの大合唱と、草いきれの匂い。
川に入って遊ぶ子どもたちの嬌声が橋の欄干にこだましていた。
僕達は木陰になっているベンチの方に上って腰を下ろした。
ここだと少しは暑さもマシだ。
川面を駆け抜ける風も僅かに感じられる。
「はい、ハルくん」
舞子が冷蔵庫の麦茶をスタンレーに入れて持ってきてくれていた。
一口飲むと、キンキンに冷えた麦茶が食道を通っていくのが分かる。
「はぁ~」
思わず声が出た。
ゴローちゃんはベンチの下に入って箱座りになっていた。
穏やかな夏の朝だった。
と。
賀茂大橋の上から突然甲高いブレーキ音と鈍い衝突音が重なって響いた。
鴨川デルタにいたすべての人が動きを止めて橋の上に目を向けた。
──ゴローちゃんを除いて。
音がした瞬間、ゴローちゃんはベンチの下から飛び出し、尻尾を狸のように太く膨らませて走り出した。
人の足元に行っては飛び上がって方向転換し、木にぶつかりそうになり、明らかにパニック状態だ。
「あ!ゴローちゃん!」
僕と舞子もすぐに立ち上がって追いかけたが、危険を感じて全力で駆け出した猫に追いつけるはずがない。
出町橋の方に走っていくのは見えたのだが、すぐに完全に見失ってしまった。
「探さなきゃ。ゴローちゃんパニックでどっか行っちゃった!」
「うん。とりあえず出町橋の方に行ったみたいやし、川の向こう側探しに行こか」
「そうだね。すぐ行こう!」
「いや、これは慌ててもしゃあないで。どこ行ったんかも分からへんし、ゆっくり探したほうがええ。それに、パニクって走り出したとはいえ、そもそも猫の行動範囲ってせいぜい半径500m位らしいし。」
「分かった。でもさっきの大きな音、何だったんだろうね」
「多分、事故やろな。急ブレーキのタイヤの音の後でぶつかった音したし」
「じゃあ、とりあえず賀茂大橋の方から左上の方に探しに行こうよ。ゴローちゃん、橋渡ってアパートの方に戻ってくるかも知れないし」
そう言って僕達は河合橋をいったん東に渡り、賀茂大橋に上った。
橋の上では案の定、2台のセダンが衝突したようで、1台はひっくり返っていた。
一体こんなところで何をどうしたらこんな事故になるのか僕にはさっぱり分からなかった。
◇ ◇ ◇ ◇
「ゴローちゃーん!」
ふと気づけば、僕たちは見知らぬ細い路地に入り込んでいた。
京都の町は、名前の付いた通りの碁盤目だけでできているわけじゃない。
町家は碁盤の目の通り沿いにまず建てられる。
すると、町家の裏にぽつんと空き地ができる。
人はそこへ細い道を引く。
行き止まりなら路地(ろうじ)、突き抜ければ辻子(ずし)。
そうして増えた道の奥にまた家や店が建ち、いつのまにか町が息づいていく。
その呼吸の跡をたどるように、ゴローちゃんの名を呼びながら僕らは歩いていた。
真夏の太陽はどんどんと高度と威力を増し、ジリジリとアスファルトを灼きながら照りつけている。
日傘と帽子をしていても、汗が吹き出してシャツが肌に張り付く。
見知らぬ路地は、その強烈な太陽に照らされた日向と建物でできた日陰がくっきりとしたコントラストを描いて、まるで抽象絵画のように現実感を失っていった。
全部が日陰の細い路地に入ると一瞬真っ暗で何も見えない錯覚に陥り、逆に少し開けた通りに出ると今度は視界全部が真っ白になる。
いかにも猫が好みそうな細道だが、ゴローちゃんはおろか、その他の野良猫も一匹も見なかった。
みんな、立ち並ぶ家々の縁の下に入り込んで涼を取りながら午睡を楽しんでいるのだろうか。
「あ、いい匂い」
ふと舞子が立ち止まった。
僕も足を止めると、コーヒー豆を焙煎する香ばしい匂いが細い路地の向こうから漂ってきた。
一瞬ゴローちゃんを探していることを忘れてふらふらと芳香の元を辿ると、果たしてそこには小さな町家を改装したお店があった。
『焙煎工房 ROUJI』
木彫りの小さな看板が出ている。
中を覗くと小さなカウンターが有り、その奥でオーバーオールに髭面の男性が焙煎機を回しているのが見えた。
「すみません」
思わず扉を開けて声を掛ける。
中はクーラーが効いていて心地よかった。
髭男はその風貌に似合わず腰の低い態度と柔らかな声で応対してくれた。
「どれでもお好きな瓶開けて匂い嗅いでもうて、気に入ったもんあったら言うて下さい。いくつかでもかまいません。そしたらええようにブレンドさせてもろて、お渡しします」
ガラスの小瓶がズラッと並んだカウンターを指さされた僕は、とりあえず色で気になった瓶を開けて匂いを嗅いだ。
豆がガラス越しに光を反射している。
「あ、これはナッツを炒ったような香ばしくて甘い香り」
「わ、この豆、チョコの匂いする!」
「こっちはなんかウッディやな」
舞子と交互に感想を言い合っていると、髭男がニコニコとその様子を眺めていた。
「お好きな豆、言うてくださいね」
「そしたらこれとこれとこれ。僕、コーヒーの酸味苦手で、深煎りの苦いのん好きなんですけど、今選んだのんてどうですか?」
「ばっちりです。お好み通りにブレンドできます」
「ほな、200グラムお願いします」
「はい。ちょっとだけお待ち下さい」
髭男はそう言うと確認するように僕が渡した瓶をクンクンと嗅ぎ、奥に引っ込んだかと思うとすぐに暖簾から顔を出して
「何で淹れはります?それに合わして挽きますよ?」
と言った。
僕が自分で挽くから豆のままでいいと伝えると、奥に引っ込んでゴソゴソと音を立て、満面の笑みとともに薄茶色の紙にセロファンの窓のついた袋を持って現れた。
「おおきに!」
お金を払って外に出る。
クーラーの効いた店内との温度差にクラクラしながらも、鼻の奥に残ったコーヒーの香りで、さっきよりは頭がしゃっきりした。
「あ、コーヒー買うて喜んでる場合ちゃうやん!ゴローちゃん探さんと!」
「ゴローちゃーん!」
また呼びかけながら路地から路地へ。
古都と言いつつ、この毛細血管のように張り巡らされた路地(ろうじ)や辻子(ずし)を歩き回っていると、いつかテレビで見た北アフリカや中東の街の市場を思い出す。
頭の中に久保田早紀の歌声がリピートしていた。
「ゴローちゃーん!」
信号のある少し大きな通りを渡って、次の路地に入ったときだった。
「あ、パンの匂い!」
舞子が足を止めて鼻をひくつかせる。
確かに、どこかから小麦の焼ける甘い香りが漂ってくる。
コーヒーの香りで足を止めたばかりなのに、今度はパンだ。
猫を探しているはずなのに、胃袋を引っ張られてばかりである。
路地の奥に、小さな町家を改装したパン屋があった。
木の格子戸を開けると、焼きたてのパンを並べたガラス棚が迎えてくれる。
近づくと、バゲットの表面がまだ熱を持っているせいで、ガラスにうっすら水滴がついていた。
「見て見て!ほかほかだよ!」
舞子は顔を寄せて、ガラスの曇りに息をかける子どもみたいだ。
棚には丸パン、クリームパン、そしてこんがりとしたあんパン。
どれも派手さはないが、町の人に長く愛されてきた顔ぶれだ。
舞子は迷わずトングを手に取り、焼き立ての丸パンを紙袋に入れてもらった。
「……猫探してたんやけどな」
僕が呟くと、舞子は袋を抱えて笑った。
「だって、絶対ゴローちゃんもパン好きだよ」
完全に論理が破綻している。
けれど、こうして焼きたてのパンを下げて路地を歩くと、不思議と探偵気分ではなく「夏のおやつ散歩」になってしまうのだった。
しかし、この暑さの中ずっと歩き回っていると、さすがにくたびれてきた。
路地独特の石畳すら、ちょっと恨めしく思ってしまう。
ちなみにこの石畳は京都市電が廃止になった時に軌道に使われていたものが払い下げられたものらしい。
なので京都の路地には石畳が多いのだとか。
「そんな蘊蓄、今はいーよー」
舞子が笑いながら日陰にしゃがみ込む。
「せやな。日射病なる前に1回部屋戻って、夕方ちょっと涼しくなってからもう1回探そうか」
「そうだね。とりあえずお腹もペコペコだから、帰ったらその豆でコーヒー淹れて、このパン食べよう」
それはいいが、ここはどこだ?
ずっと細かな路地を猫目線で歩いていたものだからどこなんか、どれくらい離れたのか全然わからない。
おまけに真夏の真っ昼間だから太陽もほぼ真上にあって方角もわからない。
仕方ないので当てずっぽうで大きめの通りに出て、僕は四方を見渡した。
京都で暮らしていると、なんとなく山の形で方角が分かるようになる。
大文字がどこから見えるかなんて曖昧だけれど、稜線を見上げれば、どっちが東だなどはすぐに知れる。
僕達は何となくの方角に見当をつけて、でもまたできるだけ細かな路地を通ってアパートの方角に歩いていった。
「あ、楽器屋」
細い辻子の中ほどに古びた木の扉とショウウィンドウが現れた。
暗がりに飴色のウッドベースがひっそりと佇んでいる。
僕は思わず足を止め、喉が鳴った。
「ハルくん…?」
舞子が訝しげに僕の顔を覗き込む。
「……いや、なんでもない。ゴローちゃん探そ」
そう言いながらも、胸の奥に残った低音の幻を振り払えずにいた。
◇ ◇ ◇ ◇
「ゴローちゃーん!」
「ゴローちゃーん!」
「ゴローちゃーん!」
「ゴローちゃーん!」
僕と舞子は呼びかけながら真夏の炎天下の路地を歩き続けた。
「あかん、もうあかん。クタクタや」
「私も…」
「とりあえず帰ったらアイス食べよう」
「うん…」
2人とも挫けそうになった頃、やっと見覚えのある通りに出た。
「あー!今出川ー!」
「やったー!あ、そこ賀茂大橋だ!」
「よし頑張るぞ舞子!寝るな!寝たら死ぬぞ!」
「この暑さで寝られるわけないでしょー!」
そんなことを言いながら、僕達はアパートにたどり着いた。
妙な達成感があった。
ゴローちゃん探しの路地探検は徒労に終わったけれど。
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