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第9話 ウッドベースとジャズ餃子
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「んじゃ行ってくるねー」
「気ぃ付けてなー」
ゴローちゃん探索から帰還して、思わぬ戦利品となったコーヒー豆で淹れたコーヒーと焼きたてパンで遅い昼食を摂った後、僕と舞子とゴローちゃんはクーラーの効いた部屋で穏やかな午睡に落ちていた。
ジリリリリリリ
目覚まし時計のベルが鳴り、気が付けばもうあっという間に舞子がバイトに出かける時間。慌てて身支度をしてパタパタと出かけた舞子を見送った後、僕はどうにも落ち着かない気分になった。
さっき路地裏で見かけた楽器屋のウインドウにあったウッドベース。あれが頭から離れない。
炎天下の路地を歩き回った末に、細い辻子の中ほどに唐突に現れた楽器屋。
古びた木の扉。
庇を上手く使って楽器に直射日光が当たらないように配慮されたショウウィンドウには、校長室の大時計のように鈍く深く光るウッドベースが陳列されていた。
色っぽいとしか形容しようのない曲線、飴色の艶めかしいボディ、黒く光を吸い込むローズウッドの指板。
あの時はゴローちゃんを探すという最上の命題があったから後ろ髪を引かれながらも通り過ぎたが、どうしても気になる。
この時間にまだ空いているのかも分からないけれど、僕はもう一度1人で行ってみる事にした。
うろ覚えだが、あの辻子から出た大きめの通りの位置は何となく覚えている。あの通りまで車で行こう。
そう考えた裏には、既に大きな楽器を積んで帰るという無意識の決断があったのかも知れない。
値段は見ていなかったが、とりあえずお祖母ちゃんからもらった内定祝いから鰻を食べた残りのお金をポケットに突っ込む。
まあ、頭金くらいにはなるだろう。あの店が学生にローンを組ませてくれるとしたならば、の話だが。
見当をつけた辺りに車を停めて、覚えのある路地に入ると、果たしてその楽器屋はあった。
まだ店は空いているようだ。ベースもまだ店頭に鎮座している。
「良かったー」
小さく呟いて値段を見ると、なんとゼロが2つくらい足りないんじゃないかと思える金額。
これなら、今持ってきたお金で充分買える。
僕は思い切って扉をくぐった。
「すみません」
声を掛けると、店の奥から出てきたのは、コーヒー豆屋さんと同じくまたもやオーバーオールにヒゲモジャの親父。
なんなんだ?この辺のクセモノの店はこういうドレスコードでもあるのか?
「何?」
愛想の悪さだけがコーヒー屋さんとは真反対だったけど。
「ベースが気になって。ちょっと見せてもろてもええですか?」
「見るだけで分かるんか?音も出さんと?」
「弾かせてもろてもええんですか?」
「弾きもせんと何が分かるねん」
本当に愛想の悪い親父だ。
よくこれで店なんかやってられるな。
などと思いながら、僕はベースを手に取り弦を一本弾いてみた。
『ボン』と、強いアタックと短くも深いサステインの低音が響く。
低い方から4本鳴らし、何となくの耳チューニングでE-A-D-Gにペグを巻く。
もう一度順番に鳴らすと、どの弦も深く悲しげな音がして、ビビリ音などは全くしない。
心の奥の深い部分を震わせる音だった。
「このウッドベース、本当にこの値段なんですか?」
「書いたあるやろ?」
「なんでまたこんなに安く?」
「気に入らんのやったらゼロ足そか?」
親父の後ろの壁にかけられたギブソンのレスポールがギラリと睨んできた気がした。
「いえいえ、気に入らんなんてとんでもない!ほな、ホンマにこの値段で売ってもらえるんですね?」
「しつこいな。そうや言うてるやろ」
なんとも業の深そうな親父の視線を躱しながら、僕は慎重に次の言葉を考えた。
「えーっとですね、このベース、ぜひ買わせて欲しいんですけど、このまま持って帰ってもええですか?」
「ええで。それ、安すぎてみんな警戒して売れへんねん。あんた、そんな気に入ったんか?」
急に親父の態度が軟化した。
「値段やのうて、楽器そのものを見て気に入ってくれたみたいやな。最近の奴らは高かったらええ楽器や思とる。そういうもんやないやろ?なあ?」
「そうですね。僕はこれが欲しいです」
「ほな、持って帰ったらええ」
「ありがとうございます!表に車停めてるんで、なんか運ぶ台車とかありますか?」
「そんなもんない」
そう言うと親父は、カウンターの奥からチャリチャリと鍵束を取り出し、片手に毛布を抱え、慣れた手つきでウッドベースを片手で持ち上げて器用に扉の外に出て店に鍵をかけた。
「車どっちや?」
「そっちです」
「ちゃんと大きい車やろな?」
「ステーションワゴンの後ろ倒してきてます」
「ん」
親父は短く頷くと軽々と通りに向かって細い路地を歩いていく。
通りに出て、僕がハッチを開けると親父はそこに抱えた毛布を広げてその上にベースをゆっくりと下ろした。
「ありがとうございます」
僕が差し出したお金を受け取ると数えもせずに無造作にオーバーオールの尻ポケットに突っ込み、続いて胸のポケットから薄い紙袋を4つ取り出して僕に向かって突き出した。
「え?これは?」
「弦。大分へたってるから、替えたげて」
え?ウッドベースの弦なんか、下手したら4本でこのベースの値段の半分くらいいってしまう。
「ええんですか?」
「なんや?気に入らんのやったら…」
「いえいえいえいえ!ありがとうございます!!!いただきます!」
慌てて親父の言葉を遮って弦を受け取った。
「分かってる思うけど、直射日光には当てんように。洗剤で拭いてもあかんで。」
「分かりました。ありがとうございます」
「大事にしたってや」
親父はそう言って、すぐに踵を返して路地に消えていった。
アパートに向かう道すがら、対向車が僕を見たらさぞ気味が悪かった事だろう。
新しい宝物を手に入れた僕は、ずっとニヤニヤしながらハンドルを切った。
◇ ◇ ◇ ◇
「何これ?ハルくん?」
バイトから帰ってきた舞子の第一声は、もちろん予想通りだった。
「ウッドベース」
「いやそれは見たら分かるよ。なんで部屋にこれがあるの?」
半笑いでそう訊く舞子にあの後の事を説明すると、無愛想な親父の話で笑い出して止まらなくなってしまった。
「すごいねー。良かったじゃん!」
「うん。ちょっと部屋で圧迫感あるけどな」
「大丈夫だよそれくらい。でもハルくん、こんなのも弾けるんだねー。すごいなー」
舞子のその言葉で我に返った。
「あ、弾いたことない。縦やし、ネックの長さも太さも違うし、何よりフレットがない。多分、弾けへん」
「えー?どうするのそれ?」
「誰か教えてくれる人探さんとなあ」
心当たりを考えてみる。が、ウッドベースを教えてくれる人なんて思いつかない。
しばし考えて、ふと思い出した。花見小路のジャズバー「フラミンゴ」。あそこのマスターのやってるバンドのベースの人が、確かウッドベースで演奏してるビデオを店で観せてもらった事がある。マスター経由であの人に頼めないだろうか。
「舞子、今から祇園まで行かへん?」
「えー?もう遅いし、お風呂行って寝ようよー。次の日曜日、私のバイト休みの日の夜に行こう?」
「そうやな。分かった。そうしよう」
そう言って僕と舞子はお風呂の用意をして、自転車で百万遍に向かった。
◇ ◇ ◇ ◇
日曜日、僕達は自転車を漕いで祇園花見小路まで遠征し、ガタガタと音を立てるエレベーターに乗った。
(どうか香織はいませんように)
心の中で手を合わせながらドアを開ける。
「おー!ハルヒトくん、久しぶりやな!元気か?お。今日は彼女連れか?」
薄暗い店の中には誰も客がいなかった。僕はほっとしてカウンターに座った。
「こんばんは。はじめまして」
舞子もぺこりと頭を下げて隣に座る。
とりあえずシャンディガフとオレンジジュースを注文して、僕はマスターにベースを習いたいことを説明した。
「うん。確か教えてたと思う。ちょっと待ってな。家いるかな?」
マスターはそういうと電話のダイヤルを回した。
「ああ、ショウちゃん?今日はいたね?実はね…」
マスターが話をしてくれている間、舞子はキョロキョロと店内を見回していた。
エラ・フィッツジェラルド、ルイ・アームストロング、レッド・ガーランド、そしてもちろんジョン・コルトレーン。名だたるミュージシャンのLPジャケットが壁に所狭しとかけられている。
天井のスピーカーから響いていたマイルスのクールなトランペットが終わって、店が静寂に包まれた頃にマスターの電話が終わった。
「OK。教えてくれるって」
ハンク・ジョーンズのレコードをターンテーブルに置いて針を落としながらマスターがそう言った。
一回1時間3000円、場所はここ。ベースは持ってくる事。名前はショウちゃん、電話はこれ。
電話で日と時間決まったらマスターに連絡する。
マスターはまだ酔っ払っていないらしく、テキパキと用件をまとめてくれた。
「ありがとうございます」
「ええよー」
マスターがタバコに火をつけて、今日の口切りのスコッチをロックグラスに注いだ。
と、舞子が
「ね、ハルくん、お腹空かない?食べ物頼もうよ」
と耳元で囁いた。
「あー、ここ、食べ物ないねん。ねえ、マスター?」
「うん。せやから、下の餃子屋から出前取って。」
出前?バーに出前?しかも餃子?いつの間にそんなシステムができたんだ?
僕と舞子が面食らっていると、マスターは
「ハルヒトくんが来てくれてへん間に一階にオープンしたんやけどな、エラい人気で、来る時も行列あったやろ?」
確かに、今までこのビルではみたことのない行列ができていた。道にまで列が溢れてて、何事かと思った。
「そんでな、話してみたらそこのオーナーも元ミュージシャンでな、仲良うなって話してたら、出前してくれる事になってな」
「そんなんええんですか?」
「ええのんええのん。ここから注文した分はパーセントでキックバックしてくれることになってるから。はいこれ」
なんとメニューまで備え付けられていた。写真付きのメニューを見ると、これは美味そうだ。
焼き餃子、水餃子、チーズ揚げ餃子、餃子のハンバーグ、餃子の雑炊…オーソドックスなものからかなり攻めたものまで、バリエーション豊富で、値段はどれもかなり手頃だ。
「そしたら、とりあえず普通の焼き餃子と水餃子を一つずつと、舞子なんか食べたいのある?」
「この餃子の雑炊ってどんなんだろ?すごい気になる!」
「あー、それかなり美味いで。ただ、水餃子が同じ味やから、それ頼むんやったら、水餃子の代わりにチーズ揚げ餃子がおすすめやね」
「ほな、マスターのおすすめ通りで、焼き餃子、チーズ揚げ餃子、雑炊でお願いします」
マスターが電話をかけて注文すると、10分ほどで黒いTシャツの袖を捲り上げた元気なお兄さんが木のお盆に乗せて僕たちの注文を持ってきた。
「焼きは、このタレで。チーズは、この塩ちょんちょんと付けて食べてください。雑炊は、ちょっと蓋したまま置いといてから食べてもろた方がおすすめです。ポン酢かけても美味しいです」
お勘定はお兄さんに直接渡す仕組みらしい。
さて、初チャレンジ。まずは焼き餃子。
小ぶりな餃子は皮が香ばしく色づいて、でも半透明でとてもきれいだ。
タレを付けて口に運ぶと、カリッとした食感のあとでニラの香りと豚の肉汁が口の中に溢れ出した。
最後に大葉の香りが鼻に抜けて、爽やかな後味だ。
「うんま!」
舞子が思わず声を出した。
次にチーズ揚げ餃子。
ゴマの付いた皮がプツプツと泡立って固まった後が見て取れ、見るからにカリカリだ。
言われた通り塩をちょんちょんと付けて一口。
カリッ!香ばしい音がしてゴマ塩味の皮が口の中で砕ける。
そこに、ネットリとしたチーズが絡み付いて、一体になって喉に落ちるときの快感と旨みがすごい。
「あ、僕はこれめっちゃ好きかも」
「私もこれ好き!」
さてお次は謎の餃子雑炊だ。
1人用サイズの土鍋の蓋を開けると、湯気と一緒にさっきの焼き餃子をマイルドにした香りが立ち上る。
添えられたレンゲでスープとご飯と餃子を掬って一口。
「う…わ」
「どうしたんハルくん?」
「舞子もこれ一口食べてみ?すごいで」
「うん。──わ!」
「な?」
正直、お粥や雑炊の類はあまり好きではないのだが、この餃子の雑炊は別格だった。
複雑な中華出汁のスープを吸い込んだご飯は柔らかすぎず硬すぎず、旨味の爆弾になっている。
そこに、さっきの焼き餃子と同じものだがそれがこのスープで煮込まれてお互いに味を吸い合った餃子の美味いこと。
ピラピラぷるぷるの皮の食感も、今まで味わったことのないものだ。
飲み下すと、後味にゴマ油とかすかな香菜(シャンツァイ)の香りが余韻に残る。
「わ。わ。」
「うま。うま。」
舞子と交互にレンゲを動かし、あっという間に土鍋は空になった。
「「はぁ~!美味しかった!ごちそうさま!」」
2人で声が揃う。
「よろしおあがり。ていうか、ラブラブやなハルヒトくん」
マスターが茶化す。
「いや、そういうんじゃないんです」
「え?そうなん?めっちゃ仲良えし息合うてるし、てっきり新しい彼女かと」
「いや…まあ…」
僕が困って舞子を見ると、舞子はニコニコしていた。
ほっぺたにご飯粒が一粒付いている。
それを指でつまんで自分の口に入れる。
「ああ美味しかった1マスター、ありがとうございます!じゃ、ショウさんに連絡します。お勘定を」
そう言って、店を出た。
ひとまず、練習の段取りは付いた。
頑張ろう。
◇ ◇ ◇ ◇
「ハルヒト~!ちょっと困ったことになったねん!帰ってきてこれ聞いたら電話くれ~!」
アパートに戻って留守電の赤いランプがピコピコしていたので再生すると、そんなメッセージが入っていた。
タカトモの声だった。
「気ぃ付けてなー」
ゴローちゃん探索から帰還して、思わぬ戦利品となったコーヒー豆で淹れたコーヒーと焼きたてパンで遅い昼食を摂った後、僕と舞子とゴローちゃんはクーラーの効いた部屋で穏やかな午睡に落ちていた。
ジリリリリリリ
目覚まし時計のベルが鳴り、気が付けばもうあっという間に舞子がバイトに出かける時間。慌てて身支度をしてパタパタと出かけた舞子を見送った後、僕はどうにも落ち着かない気分になった。
さっき路地裏で見かけた楽器屋のウインドウにあったウッドベース。あれが頭から離れない。
炎天下の路地を歩き回った末に、細い辻子の中ほどに唐突に現れた楽器屋。
古びた木の扉。
庇を上手く使って楽器に直射日光が当たらないように配慮されたショウウィンドウには、校長室の大時計のように鈍く深く光るウッドベースが陳列されていた。
色っぽいとしか形容しようのない曲線、飴色の艶めかしいボディ、黒く光を吸い込むローズウッドの指板。
あの時はゴローちゃんを探すという最上の命題があったから後ろ髪を引かれながらも通り過ぎたが、どうしても気になる。
この時間にまだ空いているのかも分からないけれど、僕はもう一度1人で行ってみる事にした。
うろ覚えだが、あの辻子から出た大きめの通りの位置は何となく覚えている。あの通りまで車で行こう。
そう考えた裏には、既に大きな楽器を積んで帰るという無意識の決断があったのかも知れない。
値段は見ていなかったが、とりあえずお祖母ちゃんからもらった内定祝いから鰻を食べた残りのお金をポケットに突っ込む。
まあ、頭金くらいにはなるだろう。あの店が学生にローンを組ませてくれるとしたならば、の話だが。
見当をつけた辺りに車を停めて、覚えのある路地に入ると、果たしてその楽器屋はあった。
まだ店は空いているようだ。ベースもまだ店頭に鎮座している。
「良かったー」
小さく呟いて値段を見ると、なんとゼロが2つくらい足りないんじゃないかと思える金額。
これなら、今持ってきたお金で充分買える。
僕は思い切って扉をくぐった。
「すみません」
声を掛けると、店の奥から出てきたのは、コーヒー豆屋さんと同じくまたもやオーバーオールにヒゲモジャの親父。
なんなんだ?この辺のクセモノの店はこういうドレスコードでもあるのか?
「何?」
愛想の悪さだけがコーヒー屋さんとは真反対だったけど。
「ベースが気になって。ちょっと見せてもろてもええですか?」
「見るだけで分かるんか?音も出さんと?」
「弾かせてもろてもええんですか?」
「弾きもせんと何が分かるねん」
本当に愛想の悪い親父だ。
よくこれで店なんかやってられるな。
などと思いながら、僕はベースを手に取り弦を一本弾いてみた。
『ボン』と、強いアタックと短くも深いサステインの低音が響く。
低い方から4本鳴らし、何となくの耳チューニングでE-A-D-Gにペグを巻く。
もう一度順番に鳴らすと、どの弦も深く悲しげな音がして、ビビリ音などは全くしない。
心の奥の深い部分を震わせる音だった。
「このウッドベース、本当にこの値段なんですか?」
「書いたあるやろ?」
「なんでまたこんなに安く?」
「気に入らんのやったらゼロ足そか?」
親父の後ろの壁にかけられたギブソンのレスポールがギラリと睨んできた気がした。
「いえいえ、気に入らんなんてとんでもない!ほな、ホンマにこの値段で売ってもらえるんですね?」
「しつこいな。そうや言うてるやろ」
なんとも業の深そうな親父の視線を躱しながら、僕は慎重に次の言葉を考えた。
「えーっとですね、このベース、ぜひ買わせて欲しいんですけど、このまま持って帰ってもええですか?」
「ええで。それ、安すぎてみんな警戒して売れへんねん。あんた、そんな気に入ったんか?」
急に親父の態度が軟化した。
「値段やのうて、楽器そのものを見て気に入ってくれたみたいやな。最近の奴らは高かったらええ楽器や思とる。そういうもんやないやろ?なあ?」
「そうですね。僕はこれが欲しいです」
「ほな、持って帰ったらええ」
「ありがとうございます!表に車停めてるんで、なんか運ぶ台車とかありますか?」
「そんなもんない」
そう言うと親父は、カウンターの奥からチャリチャリと鍵束を取り出し、片手に毛布を抱え、慣れた手つきでウッドベースを片手で持ち上げて器用に扉の外に出て店に鍵をかけた。
「車どっちや?」
「そっちです」
「ちゃんと大きい車やろな?」
「ステーションワゴンの後ろ倒してきてます」
「ん」
親父は短く頷くと軽々と通りに向かって細い路地を歩いていく。
通りに出て、僕がハッチを開けると親父はそこに抱えた毛布を広げてその上にベースをゆっくりと下ろした。
「ありがとうございます」
僕が差し出したお金を受け取ると数えもせずに無造作にオーバーオールの尻ポケットに突っ込み、続いて胸のポケットから薄い紙袋を4つ取り出して僕に向かって突き出した。
「え?これは?」
「弦。大分へたってるから、替えたげて」
え?ウッドベースの弦なんか、下手したら4本でこのベースの値段の半分くらいいってしまう。
「ええんですか?」
「なんや?気に入らんのやったら…」
「いえいえいえいえ!ありがとうございます!!!いただきます!」
慌てて親父の言葉を遮って弦を受け取った。
「分かってる思うけど、直射日光には当てんように。洗剤で拭いてもあかんで。」
「分かりました。ありがとうございます」
「大事にしたってや」
親父はそう言って、すぐに踵を返して路地に消えていった。
アパートに向かう道すがら、対向車が僕を見たらさぞ気味が悪かった事だろう。
新しい宝物を手に入れた僕は、ずっとニヤニヤしながらハンドルを切った。
◇ ◇ ◇ ◇
「何これ?ハルくん?」
バイトから帰ってきた舞子の第一声は、もちろん予想通りだった。
「ウッドベース」
「いやそれは見たら分かるよ。なんで部屋にこれがあるの?」
半笑いでそう訊く舞子にあの後の事を説明すると、無愛想な親父の話で笑い出して止まらなくなってしまった。
「すごいねー。良かったじゃん!」
「うん。ちょっと部屋で圧迫感あるけどな」
「大丈夫だよそれくらい。でもハルくん、こんなのも弾けるんだねー。すごいなー」
舞子のその言葉で我に返った。
「あ、弾いたことない。縦やし、ネックの長さも太さも違うし、何よりフレットがない。多分、弾けへん」
「えー?どうするのそれ?」
「誰か教えてくれる人探さんとなあ」
心当たりを考えてみる。が、ウッドベースを教えてくれる人なんて思いつかない。
しばし考えて、ふと思い出した。花見小路のジャズバー「フラミンゴ」。あそこのマスターのやってるバンドのベースの人が、確かウッドベースで演奏してるビデオを店で観せてもらった事がある。マスター経由であの人に頼めないだろうか。
「舞子、今から祇園まで行かへん?」
「えー?もう遅いし、お風呂行って寝ようよー。次の日曜日、私のバイト休みの日の夜に行こう?」
「そうやな。分かった。そうしよう」
そう言って僕と舞子はお風呂の用意をして、自転車で百万遍に向かった。
◇ ◇ ◇ ◇
日曜日、僕達は自転車を漕いで祇園花見小路まで遠征し、ガタガタと音を立てるエレベーターに乗った。
(どうか香織はいませんように)
心の中で手を合わせながらドアを開ける。
「おー!ハルヒトくん、久しぶりやな!元気か?お。今日は彼女連れか?」
薄暗い店の中には誰も客がいなかった。僕はほっとしてカウンターに座った。
「こんばんは。はじめまして」
舞子もぺこりと頭を下げて隣に座る。
とりあえずシャンディガフとオレンジジュースを注文して、僕はマスターにベースを習いたいことを説明した。
「うん。確か教えてたと思う。ちょっと待ってな。家いるかな?」
マスターはそういうと電話のダイヤルを回した。
「ああ、ショウちゃん?今日はいたね?実はね…」
マスターが話をしてくれている間、舞子はキョロキョロと店内を見回していた。
エラ・フィッツジェラルド、ルイ・アームストロング、レッド・ガーランド、そしてもちろんジョン・コルトレーン。名だたるミュージシャンのLPジャケットが壁に所狭しとかけられている。
天井のスピーカーから響いていたマイルスのクールなトランペットが終わって、店が静寂に包まれた頃にマスターの電話が終わった。
「OK。教えてくれるって」
ハンク・ジョーンズのレコードをターンテーブルに置いて針を落としながらマスターがそう言った。
一回1時間3000円、場所はここ。ベースは持ってくる事。名前はショウちゃん、電話はこれ。
電話で日と時間決まったらマスターに連絡する。
マスターはまだ酔っ払っていないらしく、テキパキと用件をまとめてくれた。
「ありがとうございます」
「ええよー」
マスターがタバコに火をつけて、今日の口切りのスコッチをロックグラスに注いだ。
と、舞子が
「ね、ハルくん、お腹空かない?食べ物頼もうよ」
と耳元で囁いた。
「あー、ここ、食べ物ないねん。ねえ、マスター?」
「うん。せやから、下の餃子屋から出前取って。」
出前?バーに出前?しかも餃子?いつの間にそんなシステムができたんだ?
僕と舞子が面食らっていると、マスターは
「ハルヒトくんが来てくれてへん間に一階にオープンしたんやけどな、エラい人気で、来る時も行列あったやろ?」
確かに、今までこのビルではみたことのない行列ができていた。道にまで列が溢れてて、何事かと思った。
「そんでな、話してみたらそこのオーナーも元ミュージシャンでな、仲良うなって話してたら、出前してくれる事になってな」
「そんなんええんですか?」
「ええのんええのん。ここから注文した分はパーセントでキックバックしてくれることになってるから。はいこれ」
なんとメニューまで備え付けられていた。写真付きのメニューを見ると、これは美味そうだ。
焼き餃子、水餃子、チーズ揚げ餃子、餃子のハンバーグ、餃子の雑炊…オーソドックスなものからかなり攻めたものまで、バリエーション豊富で、値段はどれもかなり手頃だ。
「そしたら、とりあえず普通の焼き餃子と水餃子を一つずつと、舞子なんか食べたいのある?」
「この餃子の雑炊ってどんなんだろ?すごい気になる!」
「あー、それかなり美味いで。ただ、水餃子が同じ味やから、それ頼むんやったら、水餃子の代わりにチーズ揚げ餃子がおすすめやね」
「ほな、マスターのおすすめ通りで、焼き餃子、チーズ揚げ餃子、雑炊でお願いします」
マスターが電話をかけて注文すると、10分ほどで黒いTシャツの袖を捲り上げた元気なお兄さんが木のお盆に乗せて僕たちの注文を持ってきた。
「焼きは、このタレで。チーズは、この塩ちょんちょんと付けて食べてください。雑炊は、ちょっと蓋したまま置いといてから食べてもろた方がおすすめです。ポン酢かけても美味しいです」
お勘定はお兄さんに直接渡す仕組みらしい。
さて、初チャレンジ。まずは焼き餃子。
小ぶりな餃子は皮が香ばしく色づいて、でも半透明でとてもきれいだ。
タレを付けて口に運ぶと、カリッとした食感のあとでニラの香りと豚の肉汁が口の中に溢れ出した。
最後に大葉の香りが鼻に抜けて、爽やかな後味だ。
「うんま!」
舞子が思わず声を出した。
次にチーズ揚げ餃子。
ゴマの付いた皮がプツプツと泡立って固まった後が見て取れ、見るからにカリカリだ。
言われた通り塩をちょんちょんと付けて一口。
カリッ!香ばしい音がしてゴマ塩味の皮が口の中で砕ける。
そこに、ネットリとしたチーズが絡み付いて、一体になって喉に落ちるときの快感と旨みがすごい。
「あ、僕はこれめっちゃ好きかも」
「私もこれ好き!」
さてお次は謎の餃子雑炊だ。
1人用サイズの土鍋の蓋を開けると、湯気と一緒にさっきの焼き餃子をマイルドにした香りが立ち上る。
添えられたレンゲでスープとご飯と餃子を掬って一口。
「う…わ」
「どうしたんハルくん?」
「舞子もこれ一口食べてみ?すごいで」
「うん。──わ!」
「な?」
正直、お粥や雑炊の類はあまり好きではないのだが、この餃子の雑炊は別格だった。
複雑な中華出汁のスープを吸い込んだご飯は柔らかすぎず硬すぎず、旨味の爆弾になっている。
そこに、さっきの焼き餃子と同じものだがそれがこのスープで煮込まれてお互いに味を吸い合った餃子の美味いこと。
ピラピラぷるぷるの皮の食感も、今まで味わったことのないものだ。
飲み下すと、後味にゴマ油とかすかな香菜(シャンツァイ)の香りが余韻に残る。
「わ。わ。」
「うま。うま。」
舞子と交互にレンゲを動かし、あっという間に土鍋は空になった。
「「はぁ~!美味しかった!ごちそうさま!」」
2人で声が揃う。
「よろしおあがり。ていうか、ラブラブやなハルヒトくん」
マスターが茶化す。
「いや、そういうんじゃないんです」
「え?そうなん?めっちゃ仲良えし息合うてるし、てっきり新しい彼女かと」
「いや…まあ…」
僕が困って舞子を見ると、舞子はニコニコしていた。
ほっぺたにご飯粒が一粒付いている。
それを指でつまんで自分の口に入れる。
「ああ美味しかった1マスター、ありがとうございます!じゃ、ショウさんに連絡します。お勘定を」
そう言って、店を出た。
ひとまず、練習の段取りは付いた。
頑張ろう。
◇ ◇ ◇ ◇
「ハルヒト~!ちょっと困ったことになったねん!帰ってきてこれ聞いたら電話くれ~!」
アパートに戻って留守電の赤いランプがピコピコしていたので再生すると、そんなメッセージが入っていた。
タカトモの声だった。
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