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第一湯
湯守のいる宿【第一湯・湯守との出会い】
その土地は、豊かな自然を抱き、四季ごとに印象を変える。
夏は緑が青々と茂り、静かに短く去る。
徐々に訪れる秋は紅葉や落葉樹が山々を色づかせた。
冬はしんしんと冷え、降る雪の白さに他の色を忘れてしまいそうになる。
そして春になり、再び自然が色を思い出してゆく。
山の腹を分けたように渓谷に激しく流れる翠色の川は、力強さを感じる。
そんな大自然に囲まれた場所に、ひっそりと佇む一軒の温泉宿がある。
宿に行くまでは、整理された庭と、砂利と石畳で舗装された小道を進む。
瓦屋根の小さな入り口には、提灯と、「翡翠亭」と書かれた暖簾があり、一部硝子がはめ込まれている。
その木造格子引き戸の隣には、木彫りの大きな猫が、お客を迎える。
宿の名前は「翡翠亭」
宿は古くからこの土地で営まれ、よく見ると朽ちてしまいそうな部分もあるが、何度も補修が施され、大切に守られてきた老舗の宿だ。
春に咲いた花が落ち着く頃、一人の青年が翡翠亭を訪れる。
この出会いが、暖かくも儚い結末を迎える事になるのだ。
第一湯【湯守との出会い】
宿の一階。速足で廊下を歩く少女が居た。
彼女の名は、春咲すみれ。翡翠亭で仲居をしている。
女将にお客を出迎えてくるように言われ、彼女は少し急いでいた。
少し茶色がかった、肩まで届かないくらいの艶のある髪を揺らしながら、ギシギシと鳴る木の廊下をバタバタと走り、宿の入り口へ向かう。
一人の青年が宿の入り口に着く。
一言「こんにちは、四之宮です。」そう言って一礼する。
薄い水色のさらさらとした絹のような髪が揺れ、それを紐で結んだ部分が肩を滑り、長い髪をしているのがわかった。
見た目がとても中性的な風貌の四之宮という青年。
すみれは一瞬その姿に驚き、その容姿にしばらく魅入ってしまう。
「あの、どうかされましたか?」
と、四之宮が声をかけ、それを言い切る前にすみれはハッとする。
「よ、ようこそお越しくださいました!お部屋へご案内する前に、番台へ!どうぞこちらです。」
なんとか言えた。久々の客が容姿端麗な若い男性だったのだ。十八歳のすみれらしい反応だった。
「有難うございます。今日はお世話になりますね。」
四之宮はじっくりと辺りを眺め、宿の空気を味わうように、ゆっくりと番台へと向かう。
年季のある太い木で作られた番台。屋台のような造りで、暖簾がかかっていた。
そこには、ぼってりとした大きな身体の猫「なつまる」と、すみれより歳が二つ上の番台、秋元実が居た。
秋元は番帳に何かを書きながら、時折筆の尻で短めのもみあげをガリッと押し付ける様に掻く。
すみれに連れられた四之宮に気付くと、コホン、と軽く咳ばらいをした。
「ようこそおいでくださいました。こちらでお名前を頂戴致します。」
秋元は余り表情を変えず、四之宮を出迎える。
彼はどの客に対してもそういう態度で、特別珍しい事ではない。
「はい、わかりました。筆をお借りしますね。」
「どうぞ、お使いください。」
筆と、墨の入った瓶を四之宮に勝手に使え、と言わんばかりの態度の秋元。
彼は仕事は出来るが、少しクールな部分があり、実は接客には余り向いていない性格なのだ。
「どんなお部屋か、楽しみです」
「あ、ええ。」
秋元はやたらと話しかけてくる四之宮を、ちょっと不思議に思っていた。
四之宮はゆっくりと丁寧に筆を走らせ、名前を番帳に書く。
それを見ていた秋元が、珍しく口を開けた。
「珍しい漢字のお名前、ですね。」
「ふふ、よく言われます。あと、こちらの猫は何というお名前なんですか?随分大きな猫ですね。」
「ああ、コイツは「なつまる」です。滅多にここから動かないんで、安心してください。
なつまるは番台の机の横に鎮座し、自分の話をされているが、微動だにしない。
「…では、こちらが部屋の鍵になります。ごゆっくりお過ごしください。」
秋元は手馴れた様子で四之宮へ鍵を渡し、そのまま、また何かを書き始める。
ありがとうございます、と四之宮は鍵を受け取り、部屋の名前を確認する。
鍵には木の板がついており、紫陽花の花が描かれていて、とても可愛らしい見た目だった。
どこか流れ作業のように感じるが、きちんと仕事をこなす。それが秋元実という人物だ。
客や目上の者以外に対しては、ぶっきらぼうな話し方をする。
見た目に関しては背が高く、熟れた紅葉色の短髪。小豆色の着物の上に、市松模様の羽織を着ている。
「それでは四之宮様、二階の紫陽花の間へご案内します!」
横からすみれが元気な声で言う。どうやら少し、四之宮の容姿に見慣れてきたようだ。
「宜しくお願いします、仲居さん。」
そう言うと四之宮はすみれに対し、にこりと微笑む。
ああ、かっこいい。とても優しそう。すみれはぽうっと顔に熱を帯びるのを感じていた。
すみれの後ろを歩く四之宮は、木の階段の手すりをまるで鍵盤をなぞるように触れたり、高い天井を見上げる。
階段脇の壺や、書が書かれた吊るし巻物、細かな装飾品に目をやったり、きょろきょろとしていた。
なかなか後を付いてこない四之宮に目をやりながら、すみれはまたその仕草に魅入ってしまいそうになる。
気軽に話しかけていいものかと悩むが、そこは若さと勢いのあるすみれ。
思い切って四之宮に声をかける。
「あの…うちの宿、そんなに珍しいですか?」
四之宮は天上の組み木を見上げたまま、何かを考えている様子だった。
その横顔がまた写真を切り取ったような絵面で、すみれは息を飲む。
「いえ…。趣のある、素敵なお宿ですね。」と、四之宮は丁寧に言葉を返す。
趣の意味にはピンとこなかったが、兎に角褒められたに違いない。ありがとうございます、と返した。
そうしながら、二人はゆっくりと階段を登ってゆく。
二階の一番奥にある、四つ目の部屋、紫陽花の間へ到着する。
すみれは四之宮が部屋に入り、窓から外を眺めている姿を確認した後、部屋の入り口、隅っこの畳に手をつき
「後程、女将がお料理の説明に参ります。それまでお部屋で寛いでいてくださいね。」と、一礼する。
「はい。では、お部屋を堪能させてもらいますね。」
にっこり微笑む四之宮の薄めの唇や、揺れる長いサラサラとした髪。
普段滅多に見る事のない、その整った容姿に頬を染めるすみれは、失礼します!とだけ言い、そそくさと部屋を後にする。
気になる。四之宮の存在が。
今まで出会った事のない容姿の見た目、優しい声の若い男性。
年頃のすみれは、その気持ちを誰かに話したくてたまらなくなり、またパタパタと速足になる。
階段を滑るように降り、番台へ向かい、秋元の元へ。
「おお、お疲れさん。さっきの客、珍しいな。あんな若い男が一人でウチに来るなんざ。」
秋元は相変わらず番帳に目をやりながら、すみれに話しかけた。
「そうよね。あー…久々のお客さんだから緊張したぁ…。」
二人とも久々の接客に、多少緊張をしていた。
実はここ最近の翡翠亭は、暇そのものでしかなかったのだ。
客足がどんどん減り、七日間で見たら三日に一度一組。
二組来ればいいほう。まさに閑古鳥が鳴いていたのだ。
「暇なのに潰れねぇこの宿、ほんと、不思議だよなぁ。」
秋元がそう言うと、我慢できない!早く話したい!と言った様子のすみれが、ニヤニヤしながら
「あ、あのさ…今のお客さんさ、なんかさ…。」
うずうずしている様子のすみれを見て、秋元は珍しく真面目に受け応える。
「ん?なんか言われたのか?」秋元はそう、すみれに問う。
ああ、どんな言葉で表そう。
四之宮と云う人物の素晴らしさを!と、考えるも、語彙力がないすみれは
「すっごいカッコよかった!!仕草とかも、上品って云うかさ!」
と、すみれは満面の笑みで言い放った。
深いため息をつく秋元。
真面目に聞いた俺が馬鹿だったと。そして少し呆れたような口調で
「お前…いちいち男の客来るたびに、そういうの言ってんな。」
実際前にもあったのだ。すみれは事情があり、小さい頃から翡翠亭に住み込みで働いている。
そのせいか、若い男性客が一人で訪れると、毎回のように秋元の元へ、のろけに行くのだ。
「だって!あたし、ここに住み込みで働いてるんだよ?出会いって言ったら、お客さん来るの待つしかないでしょ!」
やけに必死なすみれとのこのやり取りも、だいぶ久々の事だった。
「まあ、お前まだ若いもんな。まあその、頑張れ。」
折角話しに来たのに、相手にされていないと感じたすみれ。
つまらない!と云った風に秋元に反論する。
「なによ!アンタなんか年寄り臭いわよ!あたしより、ちょーっと年上なだけじゃん!ねー?なつまるー。」
なつまるは箱型のまま番台に鎮座し、ウトウトしていて返事はない。
いよいよ騒がしくなってきた頃、扇子をパンパン、と手に打ち付ける音が聞こえてきた。
その音を聞きつけたすみれは、ハッとし、振り向く。
そこには翡翠亭の女将、雪野しおりが長い羽織をなびかせ、音も立てず、上品に歩きながら番台へ向かって来ていた。
「はいはい、喧嘩しない。すみれ、アンタ声が大きいよ。」
女将はすらっと背が高く、手にはいつも大き目の扇子を持ち、長い髪は綺麗な形の髪飾りで留め、誰が見ても貫禄のある風貌。
そう言えば女将さんの年齢は良く知らない。
見た目に気を遣っているせいか、年齢不詳の美しさを持っている。
すみれは威圧感のある女将を、少し恐れていた。
話は簡単で、だいだいいつも怒られているからだ。
「お、女将さん!す、すみません…。」
すみれはしゅん、となる。こういう場面はよくある風景だ。
「いや、こいつが客の事をかっこいい、とか言って来たものですから。」
秋元は、あたかも俺は何もしてませんと云う態度。
その言い方に納得がいかないすみれ。
ちょっとアンタ!と、また大声を出してしまう。
「はあ、暇だからって雑談に花を咲かせすぎじゃないかい?全くしょうがないねぇ、アンタ達は。」
やれやれ、といった様子でため息をつく女将。
扇子をパタリ、パタリと、開いたり閉じたりしていた。
すみれも秋元も、少し気まずそうな顔で大人しくなってしまう。
すると、女将にしか懐いていないなつまるが、番台からひょいっと身軽に飛び降り、女将の足元へすり寄って、ゴロゴロと喉を鳴らす。
これもいつもの翡翠亭の光景だ。
そういえば秋元は気がかりな事があった。
客へ料理や風呂の説明をしに行っている筈の女将が今ここに居る。
怒られたばかりだったが、仕事の事だ。秋元が少し気まずそうに口を開く。
「あ、そういえばさっきの紫陽花の間の…ええと、四之宮って客、もう話は終わったんですか?」
すると、思いもよらない返事が返ってくる。
「ああ、あの方かい?いや、話はまだだよ。終わったと云うより、これから面談だね。」
「め、面談!?ウチで働くかも知れないって事ですか?」
こんな暇な状態で人を雇うのかと驚く秋元と、四之宮が翡翠亭で働くという情報に、目がキラキラと輝き始めるすみれ。
「ええー!あの、あんなに顔が整ってるなら、あたしは番台がいいと思いますっ!」
すみれの言葉に、秋元は流石にイラつく。
長年、翡翠亭の顔として番台を務めていたし、それなりのプライドもあるからだ。
「お前な…俺に喧嘩売ってんのか?」
「なによ!だって宿の顔なんだよ!四之宮さんがうってつけでしょ?」
「お前本当に、口の減らない…!」
にらみ合うすみれと秋元。本気で喧嘩が始まりかける空気が漂う。
そんな空気を一瞬で取り払うかの如く、女将が一言放った。
「アンタ達、うるさいよ。」
バチン!と、女将の扇子が鳴る。
声はさほど大きくはないが、その扇子の音は、その場をシーンと静まり返らせた。
女将は客には愛想がいいが、従業員には厳しい人物だ
。ハッキリ物を言うし、最悪扇子で叩かれる。
秋元は場の空気を変えようと、なんとか仕事の話へと軌道修正させる。
「で、ええとその、面談って言ってもウチは今こう、暇ですし…どの場所で働かせるんです?」
今日の女将は機嫌がいいらしい。秋元のその質問にすぐに答えてくれた。
「いや、ちょっとしたツテで湯守を紹介されてねぇ。随分変わった術を使うとやらで。」
「術…?術ってなんですか?あの方なんか、凄い方なんですか?あ…だからあんなにかっこいいのかな…。」
うっとりとしたような声ですみれは呟いた。見た目よし、甘い声もよし。そして何やら凄い人。
すみれの頭の中で、四之宮という人物が、妄想によってどんどん完璧な人物になってゆく。
「湯守、か。…確かに今、ウチの宿には一番必要かも知れませんね。」
少し考えたのち、秋元は話を続ける。思い悩んだのか、ふう、と深いため息をつく。
宿の現状を考え、言わねばならない事は、ハッキリ女将に言わなくてはと。
「温泉宿なのに、湯の評判がいまひとつですからね…。」
「先代から受け継いだ湯の効能が、そろそろ潮時なんでねぇ…困っていたところだったんだよ。」
翡翠亭に客がいない現状を皆が理解している為、すみれも秋元も少し暗い表情になる。
特別、謳い文句になるような物もなく、最近の仕事は専ら掃除や雑用ばかりだった。
このまま宿が潰れてしまうのではないかと、働く誰もがそう思っていた。
静寂が訪れた番台で、秋元がようやく筆を置き、口を開く。
「術…とやらが俺も気になりますが…。面談は、女将さんだけでやるんですか?」
その問いに、にやり、と笑う口元を扇子で隠した女将が答える。
「そうそう、それを伝えにアンタ達の所へ来たのさ。見てみたくないかい?四之宮様の術を。」
四之宮の術が見れる!
術とは…?と、疑問はあったが、今のすみれは四之宮関係の話なら、何でも食いつく状態だった。
「すっごく気になります!あたし、見てみたいです!」
やはりそう来たか、と内心呆れる秋元。
自分は違う。宿の存続がかかっている大事な話だと理解していた。
「どうにも…胡散臭さがありますが…。まあ、現場にゃ数人居た方がいいでしょうね。」
秋元は具体的な案を女将に投げかけた。
いつもこうして解決策をすぐに出す秋元を、女将はたいそう信頼しているのだ。
「そうかい。まあ、今日も客は居ないから丁度いいね。そしたらそうだねぇ…男湯で試そうかね。」
その言葉に安心する秋元。すみれほどじゃないとは言え、まだ彼も二十一歳の若さだ。
「ええ、いいと思います。誰も居なくても、女湯に入るのは気がひけますから。」
「そうかい。」
女将は少し思考を巡らせ、面談までの流れを考えていた。
いくら暇だからと云えど、突然誰かが宿に訪れるかも知れない。
誰も出迎えない宿であってはならないと考えた。
「じゃあ秋元、番台は一応他の奴に任せてからおいで。」
「わかりました、女将さん。」
そのまま女将は、後は任せたよ、という風にその場を立ち去ろうとする。
なつまるもまた、番台の机にひょいっと上り、大きなあくびをし、再び昼寝をしようとしていた。
置いて行かれそうなすみれは、慌てて女将に駆け寄る。
「あの…あたしはすぐに行けますけど、どうしたらいいですか?」
おっと、そういえば忘れていたという様子で、女将は少し考えながら、扇子でぽんぽんと手のひらを叩く。
「すみれは…そうだねぇ。ああ、四之宮さんの部屋にお茶菓子持って行ってくれるかい?」
四之宮の部屋へ行ける。話が出来る。
しかも女将さん公認で。
「わかりました!お安い御用です!」
心躍らせたとびっきりの笑顔で、すみれはいい返事を女将にする。
ああ、どうしよう。緊張するけど話したい。
あんなにかっこいい四之宮がどんな人か知りたい。
そんな思いばかりを巡らせるすみれの思考は、そのまま顔に出るので、女将にはとっくにバレていた。
「じゃあ、二人とも、きちんと、頼んだからね。」
そう言って女将は二人の元を去る。
残された秋元とすみれは、それぞれ仕事が与えられ、動き出すのだった。
「忍野さん、ちょっと番台変わってくれませんか?俺、女将さんに用事頼まれたんですよ。」
そう言われた忍野竜司は、番台の奥で木彫りのなつまるを一生懸命彫っていた。
歳は三十だが、いまいち仕事が出来ない人物で、翡翠亭では主に雑用をしている。
草むしりや、洗濯、そしてお土産でもある、木彫りのねこまるを彫る彫刻師でもあった。
秋元の方が上司のような関係で、忍野はいつも秋元に指示された用事をこなしていた。
「あれ?秋元君どこか行っちゃうのかい?そっか、わかったよ。いいよ、僕がやっとくから。」
「有難うございます、忍野さん。宜しく頼んます。」
軽くお辞儀をする秋元をにこにこしながら、大丈夫と背中を押し
はいはい、いってらっしゃい。と、ひらひらと手を振った。
にこやかに秋元を見送る忍野は、作業着に付いた木くずをささっと払いのける。
きっと誰もこないだろう、なんて思いながら、番台へ立つ準備を始めた。
一方すみれは四之宮へ持っていくお茶菓子を、ごそごそと箱から取り出し、浅い小さな黒いお盆に乗せる。
「気に入ってくれるかな…。」
まるで片思いの相手に、初めての贈り物でもするかのような気合いで、すみれは菓子選びをしていた。
落とさないよう、崩れないよう、ゆっくりと歩き、階段を登って紫陽花の間へと向かう。
コンコン、と二回、紫陽花の間、木の扉を叩く。
すみれはここまで来て緊張し始めていた。
しかし、お茶菓子を届けるだけ。
そう言い聞かせ、いつも通りにと、気持ちを切り替える。
「失礼します。お茶菓子をお持ちしました。」
緊張したまま何か声や音が聞こえてこないかと、すみれは耳を澄ませていた。
少し間があったが、どうぞ。と云う声が聞こえてくる。
すみれは襖をゆっくりと開け、深くお礼をする。
「ああ、先ほどの仲居さんじゃないですか。わざわざありがとうございます。どうぞ、こちらへ」
思いもよらない四之宮の言葉に、困惑する。
お茶菓子を置いて去るだけの仕事だったはずが、どうぞこちらへと呼ばれたのだ。
「えっ!い、いいんですか?」
すみれは思わず、四之宮の言葉に食いついてしまう。
四之宮は部屋の真ん中にある大きめの机の座椅子に腰かける。
そのゆっくりとした動作と、指先の動きまでなめらかな所作に、再び目が離せなくなるすみれ。
「ええ。どうぞ。丁度、話相手が欲しかった所だったので。」
そう言って微笑む四之宮の言葉に、すみれは素直に答えた。
「えっと、じゃあ…失礼します。」
緊張しつつも、四之宮に誘われるまま、対面の座椅子の横に正座する。
流石にすみれは座椅子には座らなかった。彼女の中ではまだ、四之宮は客なのだ。
脇に置いていた菓子の入った小さなお盆を机に乗せる。
「これ、是非食べてみてください。お茶にとっても合うので。」
星のような形や、鉱石のような形のカラフルなお茶菓子を見て、四之宮は少し驚いた様子。
女性らしい可愛らしさもあり、初めて口にするような物だった。
「わあ、これは砂糖菓子、ですか?色鮮やかで綺麗ですね。」
一かけら、口の中で砂糖菓子を転がす四之宮。
美味しいです、と告げ、そのままお茶をすする。
「あたしもこれ、いつも食べるの勿体ないな~って思いながら食べてるんです。」
「くっ、ふふふ…」
ふいに四之宮が口元を隠しながら笑い出し、すみれは少し焦った様子。
知らないうちに変な言葉を口走ってしまったかな?と、次の言葉を必死に探す、すみれ。
「あ…えっとその。味も美味しいですから!ねっ?」
「ふふ、いえ、違うんです。食べちゃってるんですね、仲居さんは。」
しまった!という顔になっていただろう。
お茶菓子のつまみ食いを、あろう事か、かっこいい顔のこの人にうっかり話してしまったのだ。
恥ずかしさで顔を真っ赤にしたすみれは、更に慌てた。
「ああっ!その…ウチはそのー…最近あまりお客さんが来ないので、腐らせてしまう前にって、思って…。」
必死に見振り手振りをしながら説明しようとするが、今のすみれは軽い混乱状態だった。
「確かに。腐ってしまっては勿体ない。」
四之宮はしっかりとした口調でそう告げると、次の瞬間、少し切なそうな顔になる。
「…この宿も、どこか勿体ない。」
四之宮の表情の変化に気付いたすみれは、その言葉の意味を知りたくなる。
どこか勿体ない、と。まるで宿がなくなってしまうかのような話し方だったから。
「四之宮…さま?」
少しの間、天上や窓の方を見ていた四之宮は、その後真っ直ぐすみれの方を向いた。
改めて対面になり、すみれはまた緊張し始めた。
「僕に出来る事があれば、と思って来たのです。この宿はとてもいい。無くなってしまうのは、勿体ないです。」
その言葉を聞いたすみれの表情が曇る。
やはり翡翠亭はなくなってしまうのかと、不安がよぎった。
きっと女将と四之宮は、何かを知っている。
けれど自分には話せない事情があるのではないかと、更に不安な気持ちがすみれを支配した。
「あたしも。あの…もしここが、この宿がなくなったら、行く場所がないんです。」
すみれは少しの願いを込めるように、四之宮に告げる。
表情は固く、まるでさっきまでのすみれではないようだ。
「そうでしたか。…色々と事情があるのですね。」
下を向き、ぎゅっと拳を握りしめるすみれ。
「はい、色々とあって。」
話を聞くべきかどうか、四之宮は悩んだが、今日会ったばかりの自分に何が出来るのかを考えた。
ただ、この目の前に居る少女は、大きな重りを背負っているのだろうという確信は得た。
どんどん明るさが消えるすみれを、何とか元気づけようと、四之宮は明るい口調で一言を放つ。
「それでは尚更、僕が頑張らないといけませんね。」
ふふ、っと笑顔を向ける四之宮に、すみれは「この人が宿を救ってくれる」と云う思いを抱いた。
ただの直感のようなものだとしても、そう信じたかったのだ。
女将が呼んだ、この四之宮という男は一体、翡翠亭になにをしてくれるのだろうと。
「あの、四之宮様は湯守で、術を使うんだって、女将さんから聞きました。」
すみれは番台で女将から少し聞いていた情報を、四之宮に直接聞いてみる事にした。
すると、四之宮は特別迷う様子もなく、語り始めた。
「そうですよ。僕の家系は、古くから湯守をしているんです。
稀に湯に術をかけられる者が生まれます。…僕も、そのうちの一人なんです。」
真っ直ぐな視線でそう話す四之宮の言葉に、すみれはいくつかの疑問を抱いた。
生まれて初めて聞くような台詞に、頭が追い付かない。
「お湯に…術?それってどんな術をかけるんですか?あたし、初めて聞いたから、想像がつかなくって!」
すみれは机に両手をつき、身を乗り出し、四之宮の次の言葉を待った。
「それはまあ…実際に見て貰わないと。僕にも上手く説明できないんです。」
実際、その通りだった。どんな言葉を組み合わせても、術を具体的に説明するのはとても難しい。
すみません、と云うような表情で、どこか笑顔のまま、四之宮はもう一口、お茶をすすった。
「あたしもそれ、見せてもらえるみたいなんで、楽しみにしてますね!」
この人がこれから何をして、どう翡翠亭に関わってくれるのだろうと、すみれの期待は大きく膨れてゆく。
そんなすみれの気持ちを、表情で悟った四之宮は少し不安だった。
それでも期待には応えたい。
この少女が抱えている重りを、少しでも取り払えたらと、四之宮は思うのだった。
「楽しみ、ですか?ふふ、仲居さんは好奇心旺盛なのですね。
では、僕もきちんとお伝え出来るよう、頑張らせて頂きますね。」
何を自分に見せて、それを伝えてくれるのだろうと、すみれは期待いっぱいの声で「はい!」と、四之宮の目を見て返事をする。
話が丁度落ち着いた頃、扉を叩く音が聞こえてくる。
「失礼いたします。」
という言葉と共にすうっと襖が開き、しゃんとした美しい正座の姿勢で現れたのは女将だった。
「ひゃ!お、女将さんだ!」
すみれはマズイ!と云った表情で混乱していた。
「ああ、女将さん。いま丁度こちらの仲居さんとお話をしていました。」
お菓子を持っていくだけだったはずが、客室で長話をしてしまった。
これは怒られる。すみれはそう思った。
「それは失礼致しました。何か粗相はなかったでしょうか?」
すみれを見つめる女将のじっとりとした視線。
焦り出すすみれは、あわあわとし、何も言葉が出てこなかった。
「いえいえ、綺麗なお茶菓子を頂きました。それに…明るくて可愛らしい方ですね。いい仲居さんです。」
四之宮が庇ってくれた。助かった。すみれはほっとして、ふう、っとため息をついた。
「…左様でしたか。それでは四之宮さま、お支度が整いましたので、お風呂へご案内致します。」
「ええ、わかりました。」
全員立ち上がり、部屋を後にしようとした時、女将がすみれに向かって
「すみれ、アンタも一緒にね」と言葉を続けた。
言い方に少し威圧感があった。
これは後で怒られるのか?と、すみれはぎこちない動きになる。
「はっ、はい!わかりました!」
変な汗をかきながら、すみれも二人の後について行く。
三人は紫陽花の間を出ると、四之宮が部屋にきちんと鍵をかける。
女将が先頭を歩き、その後に四之宮、すみれが縦一列のように歩き出す。
向かっているのは翡翠亭の男湯だ。
「お名前、すみれさんと云うのですね。」
「あ、はい。春咲すみれです。」
女性らしい素敵な名だと、四之宮は褒めた。
「普段からお転婆なんですよ、この子は。」
そこへ横やりを入れるのは、女将だった。
あれもこれも、数々の失敗談を話されたらたまらない!と、すみれは必死で言葉を探す。
「あはは。ちょっとわかる気がします。」
意外だった。意外な一言だった。
部屋で話し、少し打ち解けたせいのか、四之宮はすみれをからかってきたのだ。
「し、四之宮さん!?」
すみれは少しショックを受けた。いや、だいぶショックだった。もう終わった。
このかっこいい人は、自分を好きになってなんかくれない。
複雑な乙女心が、勝手に加速し、人知れず終息した。
四之宮に乗せられた女将も容赦なくすみれに駄目出しを続ける。
「なんだい、アンタが大人しくしている姿を、あたしゃあまり見たことがないけどねぇ。」
お願いです、もう私の話はやめてください。
すみれは心の中で何度も願った。
「もう…女将さん…。恥ずかしいですってば…。」
あはは、と、三人の談笑が続いた。
そろそろ階段を下り切る頃に、四之宮は気になっていたことを女将に尋ねた。
「そう言えば、誰か他にも術を見に来られるのですか?」
「ああ、それはほら、あそこに居る…」
女将の指さす方向に、番台の秋元実が立っていた。
「ああ、女将さん、用意出来てます。」
男湯の入り口に「清掃中」と書かれた木の看板があり、秋元はそこで三人を待っていたようだった。
すると、すっと女将の背中を通りすがり、四之宮は歩みを早め、秋元の所へと向かう。
「番台さん、改めまして。僕は湯守の四之宮と申します。今日は宜しくお願いしますね。」
突然の四之宮の自己紹介に困惑する秋元。
「は、はあ、こちら、こそ。」
そして秋元は相変わらず四之宮を疑っていた。
急に距離を縮めてきたこの男は、一体何者だろうと、今もずっと疑っていた。
「…しかし女将さん、湯が変わったかどうか、どうやって調べたり、確かめるんですか?」
その言葉にも四之宮は素早く反応した。
「ああ、そこは僕に説明させてください。」
女将の手を煩わせないよう、四之宮は申し出た。
が、かえってそれは秋元の不信感を募らせたようだった。
一体なんなんだこの男は。怪しい。
女将が悪い情報に引っかかって四之宮を呼んだのではないかと、更に疑いは濃くなった。。
女将は少し考えたが、実際術をかける四之宮に説明を受けた方が、二人に伝わりやすいだろうと結論を出した。
「四之宮様、お願いしても?」
視線を交わす女将と四之宮の間には、何故か信頼の距離感があり、秋元は不思議そうにそのやり取りを見ていた。
わかりましたと、四之宮はにっこりと微笑んだ。
四之宮を先頭に、四人は歩きながら、生ぬるい空気が漂う脱衣所を抜け、大浴場へと向かった。
「皆さん、術を見るのは初めてでしょうし。簡単に流れを説明しますね。」
四之宮の声が響く。
すみれはワクワクしながら四之宮の話を聞いている。
その傍ら、相変わらず疑いの目を向ける秋元。
そして皆を見守るような女将の姿があった。
「まずは僕が湯に術をかけます。そのあと、足湯でもいいので、皆さん湯に触れてみてください。」
「足湯、ですか?それだけで、何か変わったってわかるんですか?」
術をかけた湯に触れるだけ。
四之宮の説明はとても単純で、すみれは思わず質問してしまう。
「効能だとか、そんなモンまで、触れただけでわかる…?そんな話、聞いた事ないですけどねぇ。」
秋元は言いながら女将の方に目をやり、こいつを本当に信じていいのか?という態度だ。
二人がそれぞれ四之宮に疑問の目を向け始めている事を察した女将は、ふふっと口元を緩ませる。
そう。女将は湯守の術を過去に見ているのだ。
初めて術を見た時の自分を思い返して、二人を安心させるような言葉で話す。
「まあまあ、アンタ達の言いたい事もわかるよ。でもまずはほら、試してみな。
術を見たいって言ってたじゃないか。」
確かに言った。見て見たいですと。
「ま、まあそうですけど…。何が起こるのかちょっとあたし怖くなってきたって云うか…。」
女将は目をとじて、ゆっくり一呼吸する。その顔はどこか懐かしいものを思い出すかのようだった。
何も怖い事なんてないさ。と、笑顔で答える。
そんな女将を見て、すみれはますます不思議な気持ちになっていた。
女将さんは何かを知っている。そんな思いがすみれに芽生えた。
じっくりと辺りを見ながら、外の露天風呂へ向かう四之宮。
何かに気付いた様子で、立ち止まる。
「女将さん、あそこの一番大きい露天の湯を使ってみてもいいですか?」
「ええ、お好きに使ってくれて構いませんよ。」
きちんと女将に確認し、四之宮は広めの露天風呂をじっと見る。
「ありがとうございます。…どうやら、あの露天の湯は、まだ生きている湯のようで…。」
四之宮の眼差しは、至って真剣そのもの。
しかし、言っている言葉の意味が秋元には理解できなかった。
「生きてる湯」その言葉を聞いた秋元は、すみれの肩を叩きながら、ヒソヒソと話しかける。
「お、おい。生きてる湯って…なんだ?」
「あ、あたしが知るわけないでしょ!」
四之宮が放つ、謎の言葉に二人は困惑していた。
「一体何が起こるんだ…?」
女将はああ言ったものの、実際何かが始まるとなると、秋元は居てもたってもいられないような気持ちに支配される。
四之宮は一人、露天の湯に近づき、着物の袖を捲る。
左手をゆっくり湯に浸け、呪文のような言葉を紡ぎ出す。
「満ちろや、流るる、水流の糸―」
すると、指先から光の波紋が広がり、湯に蛍色の光が走った。
そして四之宮を取り囲むように、小さな玉ような光が散らばった。
「い、今なんかお湯が光ったよ!何だろう、あの光!」
「嘘だろ…?祈祷やらの類じゃなく、本当に術、なのか?」
すみれはただただ驚き、キラキラと漂う光を目で追っている。
秋元は想像していた光景とまるで違う事が目の前で起こり、すみれ同様驚きを隠しきれないでいた。
散らばる光が消える頃、女将はゆっくりと、少し離れていたすみれ達の元へ歩き出す。
「ほう…四之宮家の新しい術者の力は、本物だったようだね。」
完全に安心しきった声で、女将はそう呟いた。
露天の湯に術をかけ終えた四之宮は、ゆっくり立ち上がり、三人の元へ歩き出す。
表情は穏やかだが、術を見られた後の反応を少し恐れているような気配もあった。
異質。異業。そういった言葉が、今までずっと四之宮に重く、辛く、のしかかって来たのだ。
そう思われても仕方ない。そうして自分を慰めるように言い聞かせ、すみれ達に近づいた。
「こ、こっち来るよ!お湯、なんか変わったのかな?」
「しらねぇよ…。あ、すみれ。お前行ってこい。」
「なんであたしだけなのよぉ!」
小声で喧嘩を始めたすみれと秋元、そして女将の元へ来た四之宮は、爽やかな笑顔を見せる。
「試しに今、水質を柔らかくしてみました。完全に劣化してしまう前で良かったです。」
穏やかに、先ほどと変わらない様子で、四之宮は話し始める。
すみれと秋元は何も言えなかった。
まだ二人の中で先ほどの光景が信じられないと言った様子だ。
だが、女将だけは違った。
優しくそっと四之宮に微笑みかける。
女将のこんな表情はとても珍しい。
「有難うございます、四之宮様。この湯は、先代が残した源泉から流れている湯なので」
なるほど、と、納得したような表情を浮かべる四之宮。
「そうでしたか。道理で…。」
女将とゆったり会話をしているのを、じっと見つめるすみれと秋元の視線に、四之宮は気付く。
こういう反応は慣れている。仕方のない事だ。
二人とも自分を恐れているのだろうと思った。
しかし翡翠亭がなくなっては困る。
行く場所がないという、先ほどのすみれの言葉を思い出し、恐る恐る口を開ける。
「ええと、あの…。皆さん、良かったら湯に触ってみてくれませんか?」
誰も返事をしなかった。やはり…と思った矢先、女将が口を出す。
「すみれ、行っておいで。」
女将の言葉に驚くすみれ。けれど知りたかった。何が起きたのかを。
「えっ!あ、あの…手で触るだけでもいいですか…?」
術を見て少し怖気付いたすみれは、何か一人で変な想像をしているようだった。
やはり怖がらせてしまったようだ。
その言葉に少し寂しそうな顔で、四之宮は答える。
「ええ、構いませんよ。しっかり術はかかっているので、試しに触ってみてください。」
困惑したすみれの表情は少し辛かったが、きっと分かってくれるはずだと、四之宮は思い直す。
「わ、わかりました。」
すみれは露天風呂へ向かい、恐る恐る手を湯に浸けてみる。
変に想像していた怖い事は何も起こらない。だが、湯の変化に気付いた。
「あれ…なに、これ。とってもお湯が滑らかで、柔らかい…!ずっと触っていたくなるような
…色も少し変わってる。キラキラしてて綺麗…。」
すみれが笑顔になる。四之宮はそれが嬉しかった。
さっきまで抱えていた後ろめたい気持ちが消え去る。
この少女はきっとわかってくれる。実は最初に少し期待をしていた。結果、その通りになったのだ。
「ふふ、伝わったようで何よりです。」
切ない笑顔が、嬉しい笑顔に変わり、四之宮は次の風呂を選別し始める。
ゆっくり向かった先には屋根がある露天。看板には「檜の湯」と書かれている。
「では、次はこちらの檜風呂を…。」
再び四之宮は檜風呂の湯にそっと左手を浸け、呪文のような言葉を紡ぐ。
「満ちろや、香り―」
先ほどと同じく、閃光が一瞬走り、光の玉が散らばる。
その光景は短く儚いながらも、何度見ても美しく、そして不思議なものだった。
「な、なんであいつが湯に触ると、ほのかに湯が光るんだ!?」
秋元は術を信じたが、ハッキリ目に見える光景の答えを探っているようだった。
生まれて初めて見るその光は、現実主義の秋元からすれば、どう飲み込んでいいのか解らないものだった。
「他人の目からハッキリと「見える術」を使える者は、十数年に一度くらいの逸材らしい。
四之宮家でも、そうそう生まれないそうだ。」
「なんでそんな奴が、ウチの湯守を…?」
とても凄い人物が、潰れそうな翡翠亭の湯守をする。
今まで女将が宿に連れてきたどの人物よりも、印象が深く残った。
秋元は未だ信じられない様子だが、女将の助言もあり、徐々に現状を飲み込もうとしていた。
「まあ、後でちゃんと話すさ。さあ、秋元。次はアンタが行って確かめて来な。」
女将の言葉には逆らわない秋元は、まっすぐ檜風呂へ向かい、袖をまくって湯に手を入れる。
湯に触れる前から漂う檜の新鮮な香りにも、驚いていた。
「これは…!屋外なのに、檜の香りがどこにも逃げていない…!
次から次へと、湯から香りが生まれているみたいだ…!こんな事、あんのかよ…。」
何度も湯の香りを嗅ぎ、確かめる秋元の傍に来た四之宮は、少し躊躇いはしたものの、そっと話しかける。
「気に入って頂けましたか?秋元さん。」
どう言葉を返していいか解らない。
ただ、こうしていま触れている湯からは、絶え間なく檜の香りがする。
本物なのだ。秋元はそう確信した。
「あ、ああ。なんだかまだ不思議な気分だ。」
その言葉を聞き、ふふ、と微笑む四之宮。
すると四之宮は、今度は女将のほうを向き、話しかける。
どうやらまだ術をかけるようだ。
「さて、女将さん。今、どこか身体に不調はありますか?」
そう聞かれ、女将は少し考えたあと
「そうですねぇ。最近医者にリウマチだと言われまして。」
女将はそっと手を差し出し、指を動かすものの、その動きはどこかぎこちないものだった。
それを確認した四之宮は、口元に指を添えて少し考える。
何かを考え終えた四之宮は、女将の方に目をやる。
「なるほど…わかりました。では、屋内の大浴場をお借りしますね。」
女将がお願いします、と言うと、三人は四之宮の後をゆっくりと付いて歩く。
再び行われる湯守の術をもう一度、その目に刻もうと、すみれと秋元は目を凝らす。
先ほどの術と全く同じ姿勢。しかし、目つきは更に真剣なものになり、キンっと空気が張り詰める。
四之宮は、すうっと大きく息を吸い込み
「満ちろや、病を浄化せし、水流の糸―」
はっきりと、全員に届く大きさの声で呪文のようなものを繰り出す。
すると湯全体が光り、今まで以上に眩しい光を放つ。
「わっ!眩しい!」
「こ、これは…!さっきのなんて比じゃない光だ!」
大浴場の湯から、光の玉があちこちに現れ、フワフワと漂っては消えてゆく。
もう一度すうっと息を吸い込む四之宮は、今度はゆっくりと息を吐く。
そして立ち上がり、女将に優しい笑みを見せた。
「女将さん、良かったら手足どちらも湯に浸けてみてください。」
何も疑わない女将は、四之宮に言われるがまま、着物をたくし上げ、足をゆっくりと大浴場の湯へと沈める。
時折、手で湯を泳がせるよう、じっくりと味わうかのように、術のかかった湯に触れる。
「ああ…いい湯だ。足から伝わる熱で、身体全体が暖かいねぇ。そして…ああ、指が思い通りに動く。」
滑らかに動く女将の指を見て、秋元は思わず叫んだ。
「ほ、本当ですか?女将さん!?」
どうだい?と言わんばかりの余裕の表情で、女将は笑って見せた。
「はは、こりゃあもう、アンタでも疑う余地はないんじゃないかい?秋元。」
確かに疑う余地はない。リウマチが進行し始めている女将の手伝いを、秋元はよくしていた。
女将の指が痛み、思い通りに動かない。その事を誰よりも知っているのは秋元だったからだ。
「す、すげぇ…。」
思わず言葉が漏れてしまう。
「僕の湯守の術は、他にも様々な病や、怪我を癒す効果があります。
さっきのように、湯から香りを生み出す事も可能なんです。」
「最初は疑ってたけど、アンタすげぇな…。」
ふふ、良かった。と呟く四之宮。それは本心だった。
少なくとも、今ここに居る人物は、全員理解してくれた。
変な誤解をされずに済んだと、四之宮は安堵の表情だ。
「どうだい?秋元。ウチで働いてもらうには、勿体ないくらいのお人じゃないかい?」
突然の女将の投げかけに、はっとする秋元。
何をどう言えば伝わるか少し悩んだが、あんな術を見せられ、実際、女将のリウマチに効いている。
ごちゃごちゃ考えそうにはなったが、今は素直な言葉しか出てこなかった。
「はい。俺もそう思いました。実際他には真似できない、凄い物のような
…上手く言えませんが、この湯を売りにすれば、宿も安泰になりそうです!」
ぽかんと見ていただけだったすみれも、四之宮の術を完全に信じ、怖いものではないと理解した。
そして希望が生まれたんだと、確信したのだ。
「あたしも!初めてあんなの見たし、言葉がでてこないけど
、四之宮さんとこれから一緒にこの宿で働けるなんて、とっても嬉しいです!」
「これから…一緒に、ですか。」
苦笑いをして、少し俯いたあと、四之宮は次の言葉を探していた。
これから、一緒に。真っ直ぐなすみれの言葉が、ちくりと四之宮の胸を刺す。
すると、それを察した女将が話し始める。
「色々あってねぇ、四之宮様の家の事は。だからずっと一緒って訳にはいかないのさ。」
すみれはどうして?という表情で、女将に問いかけようとする。
「えっ…でも…。」
苦笑したような表情で、四之宮はゆっくりと語り始める。
「…僕のこの術は、本来ならば四之宮家のみで使う、言わば門外不出の術でして。
それでも…家に背いてでも、僕のこの力で、少しでも多くの人を癒したり、治したりしたいのです。
それに…僕はまだ修行中の身なので、他の宿を見て周ったりもしたいんですよ。」
ずっと一緒には居られない。
女将がはっきり言った。そして事情も今、説明された。
「四之宮さん…。」
それでもすみれの寂しいと思う気持ちは、声色にも顔にも出てしまっていた。
随分期待させてしまったようで、言いにくい事ではあるが、はっきりと告げなければならない。
「ですからその、ずっとここには居られないのですよ。」
一瞬静まり返ったのを気にして、女将が静かに話し始める。
「ウチも客足が遠のいているじゃないか。それは知ってるだろう?
そこでね、古いツテに頼って、こうして四之宮様の事を紹介されたのさ。」
何か言葉を繋げなくてはと、頭を回す四之宮。
そう、どうか前向きに捕らえて欲しかった。
術の効果が確かな物であるのは、もう信じて貰えた。
毎日顔を合わせるような関係にはなれないけれど、翡翠亭の湯守は自分であると、そう皆に伝えたかったのだ。
「僕がかけた術は、三月に一度かけ直しに来れば、湯の効能は守られるんです。」
「つまり…三月に一度しか、ここには来ないって事か?」
察しのいい秋元が、わかりやすい言葉で返事をする。
「はい、そういう事になりますね。」
四之宮を一目見て気に入ったすみれは、そう簡単に割り切れない思いを抱いていた。
すみれには事情があり、離れ離れだの、会えないという言葉には、過剰に寂しがる傾向があった。
「そうなんですね…。せっかく仲良く一緒に働けると思ったのに…。」
しょんぼりと肩を落としたすみれに近づき、四之宮は優しく微笑んだ。
「そんなに寂しそうな顔をしないでください、すみれさん。三月など、あっという間ですから。」
三月。そう言われればそうなのかも知れない。丁度季節が変わる頃。
今までは宿は暇だった。だからか三月は長く感じていたが、これから変わるのだ。
かっこよくて凄いこの人が言うのだから、きっと間違いないんだろう。
すみれは、はい、と小さく返事をし、信頼の目で四之宮を見つめる。
「ウチとしては、三月に一度、湯守をしてもらって、あとはもう風の噂で今よりずっと宿は忙しくなるからねぇ。」
「ええ、僕が必ず湯を守ります。」
今までで一番頼もしい言葉に、全員が頷く。
男らしくもあるその言葉に、すみれの表情は明るくなる。
「四之宮様がこの条件でよければ、お願いしたいよ。ああ、その時は好きな部屋に泊まってくださいねぇ。」
珍しいにこやかな女将と、一仕事終え、安堵の表情の四之宮。
「ありがとうございます、女将さん。」
四之宮は今日ここへ来る前に、紫陽花の間を女将に文で指定していた。
皆が嫌う雨の季節の花。四之宮は雨が好きなのだ。
そして実際部屋を見て、紫陽花の間をとても気に入っていた。
女将の扇子が、パンパン、っと大浴場に鳴り響く。
皆がはっとし、女将に目線をやる。
「そういう訳だからほら、アンタ達。これから翡翠亭は忙しくなるよ。覚悟しときな!」
その一言で、皆笑顔になり、明るい雰囲気が生まれた。
「そっか、えへへ。四之宮さんの湯守の力で、大繁盛間違いなし!ですね?」
すみれは四之宮に、確認するような眼差しを向ける。
にこやかに、ええ、と笑う四之宮は、心に宿していた不安が消え去ったようだった。
「やっぱり宿は、お客さんあってこそ、ですからね!」
秋元は女将さんを見ながら、信頼の眼差しを向けた。
いつだって頼りになるのは、秋元にとっては、女将だけだった。
「ふふ。皆さん、どうぞこれから宜しくお願いしますね。」
その後、四之宮は少し休みたいと皆に告げ、一人、紫陽花の間へ戻る。
女将は料理長や従業員に、これから訪れる忙しさに備えるようにと伝え周る。
秋元は番台に戻り、忍野達に湯守の術の話をする。
そして四之宮と出会ったすみれは、心の片隅で四之宮への小さな想いが芽生えつつあった。
「また夏になる頃、伺います。それまでどうか、お元気で」
そう言って翌日、皆に見送られ、また旅に出た四之宮と会える事を心待ちにすると、皆は口を揃えて言った。
帰り際に四之宮は翡翠亭から少し離れた場所で、静かに呟いた。
「この宿に、幸せが訪れますように」
と。人知れず、慈しむように。
その頃すみれは、お茶菓子を褒められた事を思い出し、次の休みに街へ下りて新しい菓子を買おう、など
心の中から次々と喜びと希望が溢れ出していた。
湯守との初めての出会い。一目見た瞬間に恋に落ちるような感覚。
ただ、この気持ちが本当に恋であるかどうかは、まだ誰にも分らないのであった。
(第一話・完)
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