2 / 15
2
しおりを挟む
新田城の東側、三の丸跡に近い住宅地の中に、明義が寄宿する下宿はあった。
下宿と言っても、いわゆる寮のような、何部屋もあるところではなく、新興住宅地の中にある、割と新し目の一般住宅だった。
家主兼大家、井上修二は、同じ市内の女子高で、化学を教える先生で、歳は四十四歳だった。
下宿生は、彼を先生と呼んでいた。
その妻、留美子は、たまにパートで働いたりもするが、ほぼ専業の主婦で、二十八歳だった。
明義は、先人たちに倣って、彼女のことを留美子さんと呼んだ。
どうもそれは彼女の希望らしかった。まだ二十代であるし、下宿のおばさん、とは流石に呼ばれたくないのだろう。
本人が気にするだけのことはあって、見た目は、若く、知らない人には女子大生くらいにしか見えなかっただろう。
子供は男二人。お父さん似のヒョロヒョロとして色白の長男、裕は六年生。弟の幸二は、全体的に丸っこく色黒で、お母さん似の四年生だった。
上は理知的、冷静で、下は感情的で人懐こい好対照な兄弟だった。
下宿には、すでに近郊の温泉旅館の一人息子で、高校三年生の伊藤正人が寄宿していた。
伊藤は、クロスカントリースキー部に所属していたが、受験間近で、ほとんど部の活動はしなくなっていた。
面倒見がよく、明義が下宿して間もない頃、いろいろ、細々としたことを教えてくれ、また世話を焼いてくれた。
時には、余計なお世話なことも多々あった。
大家夫婦のことをあれこれ教えてくれたのも彼だった。
「留美子さんは、先生の教え子だったんだぜえ」「知らねけべえ」
ある日夕食の後、伊藤が明義の部屋に突然入ってきて、話し出した。
「ええ、そうなんですかあ」
どうでもいい、と思ったが、明義は先輩の顔を立てて興味深げに反応した。それが余計に彼の舌を滑らかにした。
「教え子さ手え出したんだぜえ、あの男」「しかも」
伊藤は、明義の耳に顔を近づけて、声を低くして言った。
「計算すっどお、できちゃった結婚だな」「在学中にできちゃったあ、ひゃっひゃっひゃっ」
伊藤は、特徴的な笑い方をした。
話がそんなに面白くなくても、その笑い声に釣られて、明義は不覚にも笑ってしまうことが多かった。
その話はしかし、下宿したての明義にとって、俄かに笑えるような話ではなく、従って少し引きつった顔を、伊藤に向けた。伊藤は、構わず続けた。
「ヨシくん、先生、朝、たまに留美子さんさ、ものすごく甘えでっ時あってよお」「ひゃっひゃっひゃっ」
明義になんの断りもなく、彼は明義を「ヨシくん」と呼び始めていた。
話は長くなりそうだった。
明義は、へえ、と言いながら立って行き、オーディオのスイッチを入れた。
好きなFMラジオ番組の時間だった。
「ま、そのうぢ分がると思うげんとな」
なんだその先はないのか、と明義は内心毒づいた。
彼はそう言うと、また奇妙な笑い声を響かせながら部屋を出て行った。
伊藤が、その時前振りしたことの中身を、ほどなく明義の知るところとなった。
それがどういうことか分かった朝、正直、明義は自分の目を疑った。
その朝、ダイニングに定刻の七時に明義は入って行った。
「おはようございます」
留美子は、眠そうな顔をして台所にむかっている。
「おはよう、明義くん」「偉いね」
「・・・」
「みんなぜんぜん起きてこないのに、明義くんはちゃんと毎朝自分で起きて」
その日も、明義がダイニングに入って新聞を読みながら待っていたが、一向に誰も現れない。先生や子供たちも同様だった。
そろそろ、伊藤を起こしに行こうか、と明義が席を立ちかけた時だった。
白いTシャツに、白いブリーフの先生が、居間の方から台所に入ってきた。
先生は、いつも朝ごはんを食べなかった。毎晩遅くまで晩酌をしているため、食欲がないのだと、留美子は言っていた。
先生は、挨拶もなしに、ツカツカと留美子のもとに近づき、腕を触ったり、お尻を触ったり、モジモジとちょっかいを出し始めた。
留美子は、小さい声で、止めてとか、止めてくださいとか軽く言うだけで、すでに諦めている風であった。先生の股間は、明らかに膨らんでおり、朝立ちしているのが分かった。
挨拶をしようと、開いた明義の口はそのままで、しばらく軽い金縛り状態だった。
そこへ、勢いよく伊藤が、おはようございます、と入ってきて、何事もないように定位置の椅子に座った。
「おはよう、ヨシくん」
伊藤は、ニヤニヤして、明義の顔を覗き込みながら言った。
この事実を共有できる仲間ができたことが余程嬉しいようだった。
多感な高校男子にとって、この朝の儀式は、何度みても慣れることはないし、ことあるごとに話題になった。
「ヨシくん、先生、留美子さんとやってねえから、欲求不満んねがあ」「ひゃっひゃっひゃっ」
「ボウフラみたいに、フラフラ留美子さんさ付きまどって」
「ボウフラあ」「うめえごと言うなあ、ヨシくん」「ひゃっひゃっひゃっ」
伊藤は、明義が適当に付けたあだ名を大変気に入り、それからは噂話は、そのあだ名で通した。
夕食時に突然耳元で、伊藤が、ボウフラかあ、と囁いたりする。
それで二人で笑いあっているのを、何も知らない留美子は、微笑ましそうに眺めているのだった。
下宿と言っても、いわゆる寮のような、何部屋もあるところではなく、新興住宅地の中にある、割と新し目の一般住宅だった。
家主兼大家、井上修二は、同じ市内の女子高で、化学を教える先生で、歳は四十四歳だった。
下宿生は、彼を先生と呼んでいた。
その妻、留美子は、たまにパートで働いたりもするが、ほぼ専業の主婦で、二十八歳だった。
明義は、先人たちに倣って、彼女のことを留美子さんと呼んだ。
どうもそれは彼女の希望らしかった。まだ二十代であるし、下宿のおばさん、とは流石に呼ばれたくないのだろう。
本人が気にするだけのことはあって、見た目は、若く、知らない人には女子大生くらいにしか見えなかっただろう。
子供は男二人。お父さん似のヒョロヒョロとして色白の長男、裕は六年生。弟の幸二は、全体的に丸っこく色黒で、お母さん似の四年生だった。
上は理知的、冷静で、下は感情的で人懐こい好対照な兄弟だった。
下宿には、すでに近郊の温泉旅館の一人息子で、高校三年生の伊藤正人が寄宿していた。
伊藤は、クロスカントリースキー部に所属していたが、受験間近で、ほとんど部の活動はしなくなっていた。
面倒見がよく、明義が下宿して間もない頃、いろいろ、細々としたことを教えてくれ、また世話を焼いてくれた。
時には、余計なお世話なことも多々あった。
大家夫婦のことをあれこれ教えてくれたのも彼だった。
「留美子さんは、先生の教え子だったんだぜえ」「知らねけべえ」
ある日夕食の後、伊藤が明義の部屋に突然入ってきて、話し出した。
「ええ、そうなんですかあ」
どうでもいい、と思ったが、明義は先輩の顔を立てて興味深げに反応した。それが余計に彼の舌を滑らかにした。
「教え子さ手え出したんだぜえ、あの男」「しかも」
伊藤は、明義の耳に顔を近づけて、声を低くして言った。
「計算すっどお、できちゃった結婚だな」「在学中にできちゃったあ、ひゃっひゃっひゃっ」
伊藤は、特徴的な笑い方をした。
話がそんなに面白くなくても、その笑い声に釣られて、明義は不覚にも笑ってしまうことが多かった。
その話はしかし、下宿したての明義にとって、俄かに笑えるような話ではなく、従って少し引きつった顔を、伊藤に向けた。伊藤は、構わず続けた。
「ヨシくん、先生、朝、たまに留美子さんさ、ものすごく甘えでっ時あってよお」「ひゃっひゃっひゃっ」
明義になんの断りもなく、彼は明義を「ヨシくん」と呼び始めていた。
話は長くなりそうだった。
明義は、へえ、と言いながら立って行き、オーディオのスイッチを入れた。
好きなFMラジオ番組の時間だった。
「ま、そのうぢ分がると思うげんとな」
なんだその先はないのか、と明義は内心毒づいた。
彼はそう言うと、また奇妙な笑い声を響かせながら部屋を出て行った。
伊藤が、その時前振りしたことの中身を、ほどなく明義の知るところとなった。
それがどういうことか分かった朝、正直、明義は自分の目を疑った。
その朝、ダイニングに定刻の七時に明義は入って行った。
「おはようございます」
留美子は、眠そうな顔をして台所にむかっている。
「おはよう、明義くん」「偉いね」
「・・・」
「みんなぜんぜん起きてこないのに、明義くんはちゃんと毎朝自分で起きて」
その日も、明義がダイニングに入って新聞を読みながら待っていたが、一向に誰も現れない。先生や子供たちも同様だった。
そろそろ、伊藤を起こしに行こうか、と明義が席を立ちかけた時だった。
白いTシャツに、白いブリーフの先生が、居間の方から台所に入ってきた。
先生は、いつも朝ごはんを食べなかった。毎晩遅くまで晩酌をしているため、食欲がないのだと、留美子は言っていた。
先生は、挨拶もなしに、ツカツカと留美子のもとに近づき、腕を触ったり、お尻を触ったり、モジモジとちょっかいを出し始めた。
留美子は、小さい声で、止めてとか、止めてくださいとか軽く言うだけで、すでに諦めている風であった。先生の股間は、明らかに膨らんでおり、朝立ちしているのが分かった。
挨拶をしようと、開いた明義の口はそのままで、しばらく軽い金縛り状態だった。
そこへ、勢いよく伊藤が、おはようございます、と入ってきて、何事もないように定位置の椅子に座った。
「おはよう、ヨシくん」
伊藤は、ニヤニヤして、明義の顔を覗き込みながら言った。
この事実を共有できる仲間ができたことが余程嬉しいようだった。
多感な高校男子にとって、この朝の儀式は、何度みても慣れることはないし、ことあるごとに話題になった。
「ヨシくん、先生、留美子さんとやってねえから、欲求不満んねがあ」「ひゃっひゃっひゃっ」
「ボウフラみたいに、フラフラ留美子さんさ付きまどって」
「ボウフラあ」「うめえごと言うなあ、ヨシくん」「ひゃっひゃっひゃっ」
伊藤は、明義が適当に付けたあだ名を大変気に入り、それからは噂話は、そのあだ名で通した。
夕食時に突然耳元で、伊藤が、ボウフラかあ、と囁いたりする。
それで二人で笑いあっているのを、何も知らない留美子は、微笑ましそうに眺めているのだった。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
壊れていく音を聞きながら
夢窓(ゆめまど)
恋愛
結婚してまだ一か月。
妻の留守中、夫婦の家に突然やってきた母と姉と姪
何気ない日常のひと幕が、
思いもよらない“ひび”を生んでいく。
母と嫁、そしてその狭間で揺れる息子。
誰も気づきがないまま、
家族のかたちが静かに崩れていく――。
壊れていく音を聞きながら、
それでも誰かを思うことはできるのか。
靴屋の娘と三人のお兄様
こじまき
恋愛
靴屋の看板娘だったデイジーは、母親の再婚によってホークボロー伯爵令嬢になった。ホークボロー伯爵家の三兄弟、長男でいかにも堅物な軍人のアレン、次男でほとんど喋らない魔法使いのイーライ、三男でチャラい画家のカラバスはいずれ劣らぬキラッキラのイケメン揃い。平民出身のにわか伯爵令嬢とお兄様たちとのひとつ屋根の下生活。何も起こらないはずがない!?
※小説家になろうにも投稿しています。
愛しているなら拘束してほしい
守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
望んでいたわけじゃない。
けれど、逃げられなかった。
生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。
無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。
それでも――彼だけは違った。
優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。
形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。
これは束縛? それとも、本当の愛?
穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる