川底の鍵

滝川 魚影

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 新田城の東側、三の丸跡に近い住宅地の中に、明義が寄宿する下宿はあった。
 下宿と言っても、いわゆる寮のような、何部屋もあるところではなく、新興住宅地の中にある、割と新し目の一般住宅だった。
 家主兼大家、井上修二は、同じ市内の女子高で、化学を教える先生で、歳は四十四歳だった。
  下宿生は、彼を先生と呼んでいた。
  その妻、留美子は、たまにパートで働いたりもするが、ほぼ専業の主婦で、二十八歳だった。
  明義は、先人たちに倣って、彼女のことを留美子さんと呼んだ。
  どうもそれは彼女の希望らしかった。まだ二十代であるし、下宿のおばさん、とは流石に呼ばれたくないのだろう。
 本人が気にするだけのことはあって、見た目は、若く、知らない人には女子大生くらいにしか見えなかっただろう。
  子供は男二人。お父さん似のヒョロヒョロとして色白の長男、裕は六年生。弟の幸二は、全体的に丸っこく色黒で、お母さん似の四年生だった。
 上は理知的、冷静で、下は感情的で人懐こい好対照な兄弟だった。
 下宿には、すでに近郊の温泉旅館の一人息子で、高校三年生の伊藤正人が寄宿していた。
 伊藤は、クロスカントリースキー部に所属していたが、受験間近で、ほとんど部の活動はしなくなっていた。
 面倒見がよく、明義が下宿して間もない頃、いろいろ、細々としたことを教えてくれ、また世話を焼いてくれた。
 時には、余計なお世話なことも多々あった。
 大家夫婦のことをあれこれ教えてくれたのも彼だった。
「留美子さんは、先生の教え子だったんだぜえ」「知らねけべえ」
 ある日夕食の後、伊藤が明義の部屋に突然入ってきて、話し出した。
「ええ、そうなんですかあ」
 どうでもいい、と思ったが、明義は先輩の顔を立てて興味深げに反応した。それが余計に彼の舌を滑らかにした。
「教え子さ手え出したんだぜえ、あの男」「しかも」
 伊藤は、明義の耳に顔を近づけて、声を低くして言った。
「計算すっどお、できちゃった結婚だな」「在学中にできちゃったあ、ひゃっひゃっひゃっ」
 伊藤は、特徴的な笑い方をした。
 話がそんなに面白くなくても、その笑い声に釣られて、明義は不覚にも笑ってしまうことが多かった。
 その話はしかし、下宿したての明義にとって、俄かに笑えるような話ではなく、従って少し引きつった顔を、伊藤に向けた。伊藤は、構わず続けた。
「ヨシくん、先生、朝、たまに留美子さんさ、ものすごく甘えでっ時あってよお」「ひゃっひゃっひゃっ」
 明義になんの断りもなく、彼は明義を「ヨシくん」と呼び始めていた。
 話は長くなりそうだった。
 明義は、へえ、と言いながら立って行き、オーディオのスイッチを入れた。
 好きなFMラジオ番組の時間だった。 
「ま、そのうぢ分がると思うげんとな」
 なんだその先はないのか、と明義は内心毒づいた。
 彼はそう言うと、また奇妙な笑い声を響かせながら部屋を出て行った。
 伊藤が、その時前振りしたことの中身を、ほどなく明義の知るところとなった。
 それがどういうことか分かった朝、正直、明義は自分の目を疑った。
 その朝、ダイニングに定刻の七時に明義は入って行った。
「おはようございます」
 留美子は、眠そうな顔をして台所にむかっている。
「おはよう、明義くん」「偉いね」
「・・・」
「みんなぜんぜん起きてこないのに、明義くんはちゃんと毎朝自分で起きて」
 その日も、明義がダイニングに入って新聞を読みながら待っていたが、一向に誰も現れない。先生や子供たちも同様だった。
 そろそろ、伊藤を起こしに行こうか、と明義が席を立ちかけた時だった。
 白いTシャツに、白いブリーフの先生が、居間の方から台所に入ってきた。
 先生は、いつも朝ごはんを食べなかった。毎晩遅くまで晩酌をしているため、食欲がないのだと、留美子は言っていた。
 先生は、挨拶もなしに、ツカツカと留美子のもとに近づき、腕を触ったり、お尻を触ったり、モジモジとちょっかいを出し始めた。
 留美子は、小さい声で、止めてとか、止めてくださいとか軽く言うだけで、すでに諦めている風であった。先生の股間は、明らかに膨らんでおり、朝立ちしているのが分かった。
 挨拶をしようと、開いた明義の口はそのままで、しばらく軽い金縛り状態だった。
 そこへ、勢いよく伊藤が、おはようございます、と入ってきて、何事もないように定位置の椅子に座った。
「おはよう、ヨシくん」
 伊藤は、ニヤニヤして、明義の顔を覗き込みながら言った。
 この事実を共有できる仲間ができたことが余程嬉しいようだった。
 多感な高校男子にとって、この朝の儀式は、何度みても慣れることはないし、ことあるごとに話題になった。
「ヨシくん、先生、留美子さんとやってねえから、欲求不満んねがあ」「ひゃっひゃっひゃっ」
「ボウフラみたいに、フラフラ留美子さんさ付きまどって」
「ボウフラあ」「うめえごと言うなあ、ヨシくん」「ひゃっひゃっひゃっ」
 伊藤は、明義が適当に付けたあだ名を大変気に入り、それからは噂話は、そのあだ名で通した。
 夕食時に突然耳元で、伊藤が、ボウフラかあ、と囁いたりする。
 それで二人で笑いあっているのを、何も知らない留美子は、微笑ましそうに眺めているのだった。 
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