川底の鍵

滝川 魚影

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 谷川の雪解け水も、ようやく落ち着く五月末のある土曜日だった。
 お昼頃、明義が実家に帰ると、鈴木良子が来ていて、昼食の支度や、洗濯物などをしていた。
 それだけならまだしも、さらに明義の父、俊夫に家事を教えたりなど、まるで家政婦のように忙しく立ち働いていた。
「あれ、良子、来でだな」
「うん、今日は、うちの親、花山に買い物に出かけだがら」
 洗濯物を裏庭で干していた俊夫が戻ってきた。
「お、明義、早ぇっけなあ」
「うん、ちょうどいいバスがあって」
「手伝いなあ、いいって言ったのによお、良子ちゃんなあ、がってすねえ」
 良子が家の手伝いをすることを父は強く断ったらしかったが、良子が頑として聞かなかった、と言うのだった。
「アキちゃん、引っ張りうどんでいいがあ」
「ああ、俺は何でもいい、手伝う」
  俊夫は、散らかしっぱなしの茶の間の座卓の上を、口笛を吹きながら片付け始めた。
「はい、出来上がり」
 明義が、うどんが入った大きな鍋を座卓の新聞紙の上に置いて、良子が丼を運んできた。
 引っ張りうどん、は、郷土の定番料理で、いわゆる釜揚げうどんに近く、同じ鍋から各人が引っ張ってつけ汁に漬けて食べることから、そういう呼び名になったらしい。
 つけ汁は家庭によって様々だが、青木家は、玉子とかつお節、ネギ、醤油だった。
「お、今日は鈴木家風があ」
 つけ汁は、納豆とかつお節、麺つゆだった。
「玉子は、お好みでな」
「おやおや、んだら、俺は玉子もらうがな」
 俊夫は、玉子を割り入れ、早速食べ始めた。食べ始めたが、勢い良く啜り過ぎて、むせ返った。
 自分の無作法に自分で笑う俊夫に、明義と良子も釣られて笑った。
「明義、飯食って、落ぢ着いだら、徳田湖さ送っていぐさげ、良子ちゃんと行って来い」
 明義が、良子の方を見ると、良子は恥ずかそうにしながらも、嬉しそうに見返した。
 昼御飯の片付けが終わると、良子がインスタントコーヒーでアイスコーヒーを作り水筒に入れ、途中の商店でスナック菓子を調達し、三人は車で徳田湖に向かった。
 徳田湖は、農業用水確保のために、大正時代に造られた人造湖だった。
  工事にあたった労働者たちが唄った土突き歌という、掛け声を兼ねた歌が起源となり、昭和に入ってから有名な郷土民謡、徳田音頭が作られた。
 徳田湖は、市の東部にある尾羽山を越えたところにあった。
 尾羽山を上がっていく途中には市営プールがあった。
 そこは中学時代に、明義と友人たちがよく通った場所だった。
 丘の上は、ホップやたばこ、とうもろこしなど、畑が広がっていたが、その季節はまだ、作物がなく、畝上げされて間もない広大な畑を見渡すことができた。
 俊夫は、湖の右側を周るように車を進め、湖の東岸の松林の手前に車を停めた。
「こっから、湖の方さ行ぐど、バーベキュー場みだいになってで、木のテーブルど椅子あっから」「何時ごろ迎えに来っどいいや」
 明義は、午後四時ごろに迎えにきてほしいことを俊夫に伝えた。
 バーベキュー場は、湖の東側の小さな入り江に隣接していた。
 一番水辺に近いテーブルに、水筒とスナック菓子の入った手提げ袋を置くと、二人は水際まで歩いて行った。
 良子は、湖に来たのは三回目だ、と言った。
 明義は、小学校の時に釣りによく来た、と言った。
 湖には、鯉、銀鮒、鯰、ワカサギなどが生息していた。だから、オールシーズン釣りが楽しめた。
「下宿、どう」
「うん、普通の家」「大家が学校の先生で、小学生の男の子が二人」
「ふうん」
 良子はしゃがんで、地面の松の葉っぱを取り上げ、湖に投げた。
 良子の、水色の綿のニットから出ている二の腕の白さに、明義は一瞬ドキッとした。
 BCGの跡があり、何故か自分のものと違う、と明義は思った。
 クリーム色の長めのスカートは、少し地面に付いていた。
「学校、楽しいが」
 今度は、明義が質問をした。
「女子高って変」「私も北高にすっどいがったなあ」「アキちゃんにも会えねし、おもしゃぐない」
 最後の言葉は、小さくなった。
 継ぐ言葉がなく、明義は、石を探し、水切りを始めた。
 良子も、明義の真似をしたが上手くいかなかった。
 風はほとんどなく、湖の水面は鏡面になり、空と雲、そして松の大木を映していた。
 二人は木のテーブルに戻り、コーヒーを飲もうとして、紙コップを忘れたことに気付いた。
「私は気にすねよお、アキちゃんだがら」
 良子が明義のために、水筒の蓋にコーヒーを注いでくれた。
 それから、取り留めのない中学時代の話などをしながら、スナック菓子を食べた。
「まだ、時間だいぶあっから、あっちさ行ってみっべ」
 二人は、湖の北側の岸を歩いて行った。
「アキちゃん、大学さ行ぐの」
「まだ分がんね」「でも、下宿の先輩が、大学さ行ぐなら、一年がら勉強しておがねど駄目だって」
「ふうん」
「良子は行ぐつもりが」
「行ぎだくね」「もう勉強すっだぐねえ」
「もったいねえなあ、西高まで行って」
 良子が進学した女子高は、県庁所在地の花山市にある高校で、県では三本の指に入るレベルの学校だった。
「まあ、んでも、まだ先だがら」
 明義は、良子を気遣って言った。
 ほどなくして、二人は湖の北側に到着した。
 そこには、昔、売店があり、釣りの餌やちょっとした食料品を売っていたので、明義たちはよく利用していた。
 今は、売店は建物ごとなくなり、新設されたらしい屋根のある休憩所と自動販売機があるだけだった。
 休憩所のベンチからの景色は、昔とほとんど変わらなかった。
 ベンチに並んで座ると、良子が明義に寄りかかってきた。そして、鼻歌を歌った。
 それは流行りの男性グループの曲だった。 
 明義が鼻歌に合わせて歌うと、今度は良子が伴奏の楽器の音を口真似したりした。
 錆の部分に差し掛かった時、勢い余ったのか、良子の肩が滑り、明義の太股の上に倒れ込んだ。
 明義が彼女を起こしてあげようとすると、良子はこのままにしておいて、と言った。
 二人はしばらく、そのままの状態でいた。
 風が少し出てきて、雨雲が流れてきていた。
「アキちゃん」
「うん」
「好ぎな人出来だら、正直に言って」
「うん」
 そう言って、明義は視線を落とすと、良子は明義を見上げ、見つめていた。
 良子の表情には、どこか諦めの表情が浮かんでいる、と明義は思った。
 明義は、右手を良子の左頬に添えて、ゆっくり撫でた。子供のような柔らかい肌だと、明義は思った。
 それから、手を頭に動かし、髪の毛に触れた。天然パーマの黒髪は、見た目に反して柔らかくフワフワしていた。
「今年も、祭り行げっかなあ」
 少し心配そうに言う良子に、明義は即答した。
「行くべ」
 それで、良子はキラキラした笑顔になって起き上がった。
 二人は、来た道を戻って歩き始めた。
 早めに着き過ぎた俊夫が運転席のシートを倒して居眠りをしていた。
 二人のために、バーベキュー場に行くことを遠慮したのだろう。
 明義には、そういう俊夫の気遣いが、何故か痛かった。
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