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飛べない雲雀
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ねえ、雲雀(スカイラーク)。
私に何か伝えることはなくって?
ねえ教えて。私の恋人となる人がどこにいるのか。
霧に煙る草原で、口づけを待っている、その人は居なかったかしら。
(skylarkより)
・・・・・・・・・・・・・・・・
「どうして、コザクラインコを飼うことになったの」
琴代は、その質問に背中がゾクゾクした。
質問の内容への反応ではない。
その声、眼差し、そして熱にである。
それでも、落ちた、とは素直に思えない自分がいる。
病気のせいである。
CFS。慢性疲労症候群。
どうして突然この病に罹ってしまったのか。
彼女にも分からないし、かかりつけの専門医にも分からない。
原因不明の疾患であるのだ。
早い人なら、半年で何事も無かったように治癒する、と聞いていたが、もう一年を過ぎている。
琴代は、元は小学校の教諭であった。
離婚を期に、塾講師をしばらくしていたが、それも過労でやめることになり、知り合いのつてで、とある不動産会社の受付をしていた。
そしてしばらく過ぎ、こういう仕事は、やはり性に合わない、と思っている矢先の発病であった。
会社側が、病気のことも考慮して、非常勤で席を置いてくれたが、半年しても病気は改善どころか、悪化していったため、琴代の方から辞表を出した。
このまま治らずに、何年も過ぎていくのだろうか。
その恐怖と底知れぬ不安が彼女をすべてにおいて消極的にした。
現に、朝起きることもままならない日の頻度が高くなっているように思う。
「本当は、猫が欲しかったの。でも今のマンションは、猫も犬も禁止だから」
「同じペットなのにね。猫とインコって、真逆じゃない。捕食か、」
言いかけて、和宏は口をつぐんだ。
そういうところ好きかも、と琴代はなんとなく思っていた。
別れた夫なら全部言ってしまっただろうし、ましてや、そもそもペットのことなど興味を示さずに、コトちゃんの好きなようにしたら良い、というような、寛容とも思える無関心を決め込んだに違いない。
付き合っている頃は、そういう細かい所を気にせず、自由放任してくれる性格を、男らしさとして認め、それなら一生暮らせるかもしれない、と考えたことである。
そんなことを思いながら、琴代ははっとした。
別れた夫のことなど、と。
「猫って好き」
「うん、僕も猫がいいかな、飼うなら。犬も好きだけど。犬は、猟犬が良い。セッターとか。そうすると猟銃の免許なんかを取得しないといけなくなるし」
「何でそんなことになるの」
二人は笑い合う。
前の回が終わって、扉が開き、琴代の想像以上の観客がぞろぞろと出てきた。
年配の人が多い。
時々、近くの大学の学生たちが混じっている。
琴代が和宏と出会ったのは、この映画館だった。
病気のせいで、外出することが本当に億劫になり、放って置くと全く外界との関係がなくなるという危機感から、レディースデーを狙って、映画館に映画を観に行く、と決めた琴代であった。
あの日あの時間帯、この映画館では、「ミツバチのささやき」が上映されていた。
前々から観ようと思っていた映画だった。
しかし、どうせなら家ではなく映画館で観たいと琴代は願っていて、その機会がようやく巡ってきた。
仕事をしていたら、また観ることも無く過ぎていったに違いなかった。
十二時二十分の開演だった。
和宏は狭いロビーの右端のテーブルでサンドイッチにむしゃぶりついていた。
何の変哲もないグレイのスーツを小奇麗に着こなしている。
営業系だろうか。
琴代は、コーヒーの紙コップを持って、テーブルの横の待合ソファに腰掛けた。
立っているのが辛かったからである。
そこなら、角度的に、スーツの男と目が合わない。
ただ至近距離ではあった。
座る時、琴代は、すみませんと小さく言った。
それだけだった。
普通は、それまでだろう。
もう二度と合わない通りすがりの不特定多数の中の二人である。
それが、その後二度も、二人は別の映画館で会う。
一箇所は、有楽町、もう一箇所は池袋。
声をかけてきたのは和宏の方だった。
上映後、琴代は疲労感が強くなり、映画館のロビーの椅子に深く腰掛け、呼吸を整えていた。
その隣の椅子に和宏が来て、膝の上でノートパソコンを広げたのである。
こんなところで仕事か、と琴代は訝り、ふと男の横顔を見やった。
はっとなった。
また会った。
その不信感というか不快感が和宏に伝わったのか、独り言のように話しかけてきたのである。
「今日の映画は、三角」
後から聞いたことだが、和宏は観た映画の情報、感想そして評価を、毎回記録している、ということだった。
「どうでした。今日の映画」
琴代にとって、映画の後、感想を求められる事が、世の中で嫌いなことの三本の指に入る。
しかし、あまりにも疲れていたので、そういう感覚も鈍っていたのかもしれない。
「正直、期待はずれでした」
「うん、僕もです」
和宏は、そう言うと、パソコンの画面から目を離し、無防備な琴代を見つめてきた。
強い視線だった。
その時の琴代には、威圧でしかない眼力であった。
やめて。
放って置いて。
「なんか、顔色が悪いですね。大丈夫」
琴代は、答えることもままならず、うなずくのが精一杯であった。
それで、和宏はすっかり困惑してしまったようだった。
「すみません、お構いなしに話しかけたりして」
和宏は暫く、どうすればいいか考えていた。
しかし、策が思いつかず、とりあえずノートパソコンを閉じてカバンに仕舞った。
しかし、そのまま去るわけにもいかないらしい。
「私は大事ありませんから、お気になさらずに。いつものことなので」
それはある意味、無理な相談であった。
「何か、お薬でもお持ちじゃないんですか、水を買って来ましょう」
「いや、本当に大丈夫」
それでも和宏は立ち去りそうになかった。
琴代は仕方なく言った。
そうすれば、彼は気が済んで帰ってくれると思ったのである。
しかし、それは逆効果だった。
「コーヒーを買って来てもらえますか。これで」
自動販売機の紙コップのコーヒー。
和宏は、琴代が渡した小銭も受け取らず、急いで自動販売機まで飛んでいき、二つのホットコーヒーを買ってきた。
「こっちがブラック。こっちはミルクと砂糖が入ってます」
どっちがいいと訊いてくるのであった。
琴代は、思わず軽く吹き出してしまった。
そして、もう、何を言っても駄目だろうと、半ば観念した。
それでも自分の好みはしっかり言わせてもらったのである。
「ブラックのほうで」
和宏は、根拠もなく少し安心したように、しかもその場に居座ったまま、患者の付添人のように前かがみに座り、コーヒーを啜っている。
琴代の方は、コーヒーのお陰か、少し容態が好転してきた。
「本当は、ブラックがよろしかったのではないのですか」
笑いを堪えながら、琴代は尋ねた。
「はい、コーヒーはブラックです。いつも」
「さっきの話の続きなんだけど、猟銃、ほんとはやりたいんじゃない」
件の映画館がある商店街の先にある、小さなイタリアンレストランだった。
前菜が運ばれて来る前に、琴代は映画の前の話題をぶり返した。
「うーん、ちょっとね。半年ぐらい前に、神奈川の伊勢原にある射撃場で初心者講習会に参加してみた」
「ちょっとじゃないじゃん。やるきじゃん」
「いやいや、県の鳥獣被害への対策でハンターを増やそうとしていて、狩猟について知ってもらおう、という取り組み。猟銃の免許の取り方とか、そういうことを無料で学べる講習だったんだ」
「だから、取りたいんでしょ」
「いや、結構いろいろ面倒で、簡単にはいかない」
ビアグラスと、グリーンのボトルに入ったモルトビールが運ばれてきた。
琴代はお酒が飲めないのでクラブソーダ。
その後すぐに前菜の三点盛りが運ばれてきた。
エビとアボガドのサラダ、トマトと生ハムのタルティーヌ、桜えびのキッシュ。
琴代にとって、誘われて、男性と二人きりで食事に出かけるということ自体、もう十年以上もなかったことだ。
そして、これまでの経緯から考えて、この関係は深まることはあれ、収束する可能性は限りなくゼロに近いと、琴代には思えた。
それは和宏も同じだったろう。
唯一最大の障害は、今のところ琴代の病気だが、それも和宏は十分に分かっていて、そしてこの食事ですら、琴代のコンディションが悪く、何度も延期された末に、ようやく叶ったのである。
和宏は、焦るでも急かすでもなく、辛抱強く待ち、いや待っているということも感じさせないほど、自然に琴代に接してくれたし、何よりも、和宏は自分の生活のペースを変えること無く暮らしていたので、それが琴代には有難かった。
時折送られてくるLINEのペースですら、今の琴代にはしっくりくるのだった。
「この間送ってくれた曲、スカイラーク、ありがとう」
「スタンダードだけど、レイチェル・プライスの、あのスカイラークが一番好きなんだ」
「わたし、ハードコアしか聞かなかったから、新鮮」
「というか、それも不思議なんだよね。なんかイメージにハードコアがない」
「そうなの。じゃあ、どんなイメージ」
和宏は、改めて、琴代を見た。
ワイン色のモヘアのニットにジーンズ。
「ていうか、ジーンズていうのが、そもそも意外だったんだよね、今日」
「よく穿いてるよ。好きで」
「そうだろうね。よく似合ってる。大学の時に付き合ってた彼女も、ニットとジーンズを良く着てた。それはその年代の人が合わせるスタイルだよね」
「ええ、そうなの。わたし、和宏くんより、六歳も年下だけど」
「うん、でも、そういうイメージ」
「それで」
琴代は話を軌道修正した。質問に答えて、と。
「猫みたいだなあ」
「なにそれ」
「なんか、喋り方のスピードとか、雰囲気とか、インコが好きなところとか」
「ちょっと、それ残酷じゃない」
「ごめんごめん」
そんな表面上のやりとりの背後で、琴代はまったく別のことを考えていた。
猫、は和宏の隠れた願望だろうか、と。
わたしに猫になってほしい、のだろう。
いや、むしろそれは、自分の願望だろうか。
しかし、今のわたしには、普通の男女の営みなど、できるのだろうか。
無理だろう。
そんなことを考えながら、CFSの自分が、こんなことを想うなんて、そういう欲望が少しは残っていることの現れなのか、と意外だった。
「和宏くんもバツイチだったよね」
「うん、もう十年になるよ、別れて」
「結婚は、もうしないの」
「無理でしょ。そうじゃない。経験者なら同意してくれると思うけど、相当な労力でしょ。離婚て」
「そう。わたしは、やっと別れられると、ほっとしたけど」
そう言いかけて、やっぱりそうか、と琴代は、訂正した。
「そんなに嫌だったの」
「嫌じゃないなら別れなくない」
「そうだけど。僕の場合は、嫌というより、なんかずっとこのままなのは耐えられない、という言い方のほうが正確かもしれない。嫌というより」
「一番嫌なことをされちゃったからなあ」
「そうなんだ」
え、それだけ、と琴代は思った。
そこ掘らないんだ、と。
話したくも無いけど。
「先生だったんだよね。彼も」
「そう」
「先生同士の夫婦って多いのかな」
「そんなこともないんじゃない」
和宏が頼んだリブロースが運ばれてきた。
琴代は、前菜で十分にお腹がいっぱいということで、後でパスタを和宏とシェアしたい、と言う。
「グラスワインの赤を。あとクラブソーダおかわり」
和宏が追加オーダーした。
「和宏くんのほうは、奥さん会社員だったの」
「いや、なんていうか、社長秘書っていうか、ちょっと特殊というか。なんだろう、小さな会社で、電気設備系の、ほとんど社長と同伴で営業してたみたい、片腕となって」
「へえ、やり手じゃない」
「そうなのかなあ、まあ、仕事しなくていいくらい貯金があった人だから」
「どこぞのご令嬢」
「ま、そんなとこ」
あのタイミングでどうして、あの質問をしたのか。
後で思い返しても、その理由が、琴代には分からない。
女の勘、ていうの。
「子どもは」
「女の子、彼女が引き取った」
あのデートの後、本当に琴代の容態は悪くなった。
このまま、インコと戯れながら、眠るように死んでいくのでは、と真剣に考えたくらいだ。
和宏のLINEにも返信する気力が無くなった。
病気のせいだ、と琴代は思った。
思いたかった。
「ねえ、サクラ」
コザクラインコのサクラは、琴代の人差し指の爪をかじっている。
「お前も飛べないのか」
その時、スマートフォンのバイブレーションが鳴った。
和宏からだろうか。
後で、LINEのアプリ自体を削除してしまおう、と琴代は思った。
そうすれば、終わる。
もう必要もない。
「いい男は、真っさらでは居ないの」
そう口に出してみると、琴代は可笑しくて少し笑った。
その笑顔に反応して、サクラが鳴いた。
しかし、自分の気持や、三十五年以上生きてきた経験から、琴代はよく分かっている。
これは、そんな簡単な出会いではない。
この先、和宏のような人は現れないだろう、ということを。
それでも、これだけは譲れないのであった。
「わたしはあなたの猫にはなれない。わたしは飛べない雲雀」
私に何か伝えることはなくって?
ねえ教えて。私の恋人となる人がどこにいるのか。
霧に煙る草原で、口づけを待っている、その人は居なかったかしら。
(skylarkより)
・・・・・・・・・・・・・・・・
「どうして、コザクラインコを飼うことになったの」
琴代は、その質問に背中がゾクゾクした。
質問の内容への反応ではない。
その声、眼差し、そして熱にである。
それでも、落ちた、とは素直に思えない自分がいる。
病気のせいである。
CFS。慢性疲労症候群。
どうして突然この病に罹ってしまったのか。
彼女にも分からないし、かかりつけの専門医にも分からない。
原因不明の疾患であるのだ。
早い人なら、半年で何事も無かったように治癒する、と聞いていたが、もう一年を過ぎている。
琴代は、元は小学校の教諭であった。
離婚を期に、塾講師をしばらくしていたが、それも過労でやめることになり、知り合いのつてで、とある不動産会社の受付をしていた。
そしてしばらく過ぎ、こういう仕事は、やはり性に合わない、と思っている矢先の発病であった。
会社側が、病気のことも考慮して、非常勤で席を置いてくれたが、半年しても病気は改善どころか、悪化していったため、琴代の方から辞表を出した。
このまま治らずに、何年も過ぎていくのだろうか。
その恐怖と底知れぬ不安が彼女をすべてにおいて消極的にした。
現に、朝起きることもままならない日の頻度が高くなっているように思う。
「本当は、猫が欲しかったの。でも今のマンションは、猫も犬も禁止だから」
「同じペットなのにね。猫とインコって、真逆じゃない。捕食か、」
言いかけて、和宏は口をつぐんだ。
そういうところ好きかも、と琴代はなんとなく思っていた。
別れた夫なら全部言ってしまっただろうし、ましてや、そもそもペットのことなど興味を示さずに、コトちゃんの好きなようにしたら良い、というような、寛容とも思える無関心を決め込んだに違いない。
付き合っている頃は、そういう細かい所を気にせず、自由放任してくれる性格を、男らしさとして認め、それなら一生暮らせるかもしれない、と考えたことである。
そんなことを思いながら、琴代ははっとした。
別れた夫のことなど、と。
「猫って好き」
「うん、僕も猫がいいかな、飼うなら。犬も好きだけど。犬は、猟犬が良い。セッターとか。そうすると猟銃の免許なんかを取得しないといけなくなるし」
「何でそんなことになるの」
二人は笑い合う。
前の回が終わって、扉が開き、琴代の想像以上の観客がぞろぞろと出てきた。
年配の人が多い。
時々、近くの大学の学生たちが混じっている。
琴代が和宏と出会ったのは、この映画館だった。
病気のせいで、外出することが本当に億劫になり、放って置くと全く外界との関係がなくなるという危機感から、レディースデーを狙って、映画館に映画を観に行く、と決めた琴代であった。
あの日あの時間帯、この映画館では、「ミツバチのささやき」が上映されていた。
前々から観ようと思っていた映画だった。
しかし、どうせなら家ではなく映画館で観たいと琴代は願っていて、その機会がようやく巡ってきた。
仕事をしていたら、また観ることも無く過ぎていったに違いなかった。
十二時二十分の開演だった。
和宏は狭いロビーの右端のテーブルでサンドイッチにむしゃぶりついていた。
何の変哲もないグレイのスーツを小奇麗に着こなしている。
営業系だろうか。
琴代は、コーヒーの紙コップを持って、テーブルの横の待合ソファに腰掛けた。
立っているのが辛かったからである。
そこなら、角度的に、スーツの男と目が合わない。
ただ至近距離ではあった。
座る時、琴代は、すみませんと小さく言った。
それだけだった。
普通は、それまでだろう。
もう二度と合わない通りすがりの不特定多数の中の二人である。
それが、その後二度も、二人は別の映画館で会う。
一箇所は、有楽町、もう一箇所は池袋。
声をかけてきたのは和宏の方だった。
上映後、琴代は疲労感が強くなり、映画館のロビーの椅子に深く腰掛け、呼吸を整えていた。
その隣の椅子に和宏が来て、膝の上でノートパソコンを広げたのである。
こんなところで仕事か、と琴代は訝り、ふと男の横顔を見やった。
はっとなった。
また会った。
その不信感というか不快感が和宏に伝わったのか、独り言のように話しかけてきたのである。
「今日の映画は、三角」
後から聞いたことだが、和宏は観た映画の情報、感想そして評価を、毎回記録している、ということだった。
「どうでした。今日の映画」
琴代にとって、映画の後、感想を求められる事が、世の中で嫌いなことの三本の指に入る。
しかし、あまりにも疲れていたので、そういう感覚も鈍っていたのかもしれない。
「正直、期待はずれでした」
「うん、僕もです」
和宏は、そう言うと、パソコンの画面から目を離し、無防備な琴代を見つめてきた。
強い視線だった。
その時の琴代には、威圧でしかない眼力であった。
やめて。
放って置いて。
「なんか、顔色が悪いですね。大丈夫」
琴代は、答えることもままならず、うなずくのが精一杯であった。
それで、和宏はすっかり困惑してしまったようだった。
「すみません、お構いなしに話しかけたりして」
和宏は暫く、どうすればいいか考えていた。
しかし、策が思いつかず、とりあえずノートパソコンを閉じてカバンに仕舞った。
しかし、そのまま去るわけにもいかないらしい。
「私は大事ありませんから、お気になさらずに。いつものことなので」
それはある意味、無理な相談であった。
「何か、お薬でもお持ちじゃないんですか、水を買って来ましょう」
「いや、本当に大丈夫」
それでも和宏は立ち去りそうになかった。
琴代は仕方なく言った。
そうすれば、彼は気が済んで帰ってくれると思ったのである。
しかし、それは逆効果だった。
「コーヒーを買って来てもらえますか。これで」
自動販売機の紙コップのコーヒー。
和宏は、琴代が渡した小銭も受け取らず、急いで自動販売機まで飛んでいき、二つのホットコーヒーを買ってきた。
「こっちがブラック。こっちはミルクと砂糖が入ってます」
どっちがいいと訊いてくるのであった。
琴代は、思わず軽く吹き出してしまった。
そして、もう、何を言っても駄目だろうと、半ば観念した。
それでも自分の好みはしっかり言わせてもらったのである。
「ブラックのほうで」
和宏は、根拠もなく少し安心したように、しかもその場に居座ったまま、患者の付添人のように前かがみに座り、コーヒーを啜っている。
琴代の方は、コーヒーのお陰か、少し容態が好転してきた。
「本当は、ブラックがよろしかったのではないのですか」
笑いを堪えながら、琴代は尋ねた。
「はい、コーヒーはブラックです。いつも」
「さっきの話の続きなんだけど、猟銃、ほんとはやりたいんじゃない」
件の映画館がある商店街の先にある、小さなイタリアンレストランだった。
前菜が運ばれて来る前に、琴代は映画の前の話題をぶり返した。
「うーん、ちょっとね。半年ぐらい前に、神奈川の伊勢原にある射撃場で初心者講習会に参加してみた」
「ちょっとじゃないじゃん。やるきじゃん」
「いやいや、県の鳥獣被害への対策でハンターを増やそうとしていて、狩猟について知ってもらおう、という取り組み。猟銃の免許の取り方とか、そういうことを無料で学べる講習だったんだ」
「だから、取りたいんでしょ」
「いや、結構いろいろ面倒で、簡単にはいかない」
ビアグラスと、グリーンのボトルに入ったモルトビールが運ばれてきた。
琴代はお酒が飲めないのでクラブソーダ。
その後すぐに前菜の三点盛りが運ばれてきた。
エビとアボガドのサラダ、トマトと生ハムのタルティーヌ、桜えびのキッシュ。
琴代にとって、誘われて、男性と二人きりで食事に出かけるということ自体、もう十年以上もなかったことだ。
そして、これまでの経緯から考えて、この関係は深まることはあれ、収束する可能性は限りなくゼロに近いと、琴代には思えた。
それは和宏も同じだったろう。
唯一最大の障害は、今のところ琴代の病気だが、それも和宏は十分に分かっていて、そしてこの食事ですら、琴代のコンディションが悪く、何度も延期された末に、ようやく叶ったのである。
和宏は、焦るでも急かすでもなく、辛抱強く待ち、いや待っているということも感じさせないほど、自然に琴代に接してくれたし、何よりも、和宏は自分の生活のペースを変えること無く暮らしていたので、それが琴代には有難かった。
時折送られてくるLINEのペースですら、今の琴代にはしっくりくるのだった。
「この間送ってくれた曲、スカイラーク、ありがとう」
「スタンダードだけど、レイチェル・プライスの、あのスカイラークが一番好きなんだ」
「わたし、ハードコアしか聞かなかったから、新鮮」
「というか、それも不思議なんだよね。なんかイメージにハードコアがない」
「そうなの。じゃあ、どんなイメージ」
和宏は、改めて、琴代を見た。
ワイン色のモヘアのニットにジーンズ。
「ていうか、ジーンズていうのが、そもそも意外だったんだよね、今日」
「よく穿いてるよ。好きで」
「そうだろうね。よく似合ってる。大学の時に付き合ってた彼女も、ニットとジーンズを良く着てた。それはその年代の人が合わせるスタイルだよね」
「ええ、そうなの。わたし、和宏くんより、六歳も年下だけど」
「うん、でも、そういうイメージ」
「それで」
琴代は話を軌道修正した。質問に答えて、と。
「猫みたいだなあ」
「なにそれ」
「なんか、喋り方のスピードとか、雰囲気とか、インコが好きなところとか」
「ちょっと、それ残酷じゃない」
「ごめんごめん」
そんな表面上のやりとりの背後で、琴代はまったく別のことを考えていた。
猫、は和宏の隠れた願望だろうか、と。
わたしに猫になってほしい、のだろう。
いや、むしろそれは、自分の願望だろうか。
しかし、今のわたしには、普通の男女の営みなど、できるのだろうか。
無理だろう。
そんなことを考えながら、CFSの自分が、こんなことを想うなんて、そういう欲望が少しは残っていることの現れなのか、と意外だった。
「和宏くんもバツイチだったよね」
「うん、もう十年になるよ、別れて」
「結婚は、もうしないの」
「無理でしょ。そうじゃない。経験者なら同意してくれると思うけど、相当な労力でしょ。離婚て」
「そう。わたしは、やっと別れられると、ほっとしたけど」
そう言いかけて、やっぱりそうか、と琴代は、訂正した。
「そんなに嫌だったの」
「嫌じゃないなら別れなくない」
「そうだけど。僕の場合は、嫌というより、なんかずっとこのままなのは耐えられない、という言い方のほうが正確かもしれない。嫌というより」
「一番嫌なことをされちゃったからなあ」
「そうなんだ」
え、それだけ、と琴代は思った。
そこ掘らないんだ、と。
話したくも無いけど。
「先生だったんだよね。彼も」
「そう」
「先生同士の夫婦って多いのかな」
「そんなこともないんじゃない」
和宏が頼んだリブロースが運ばれてきた。
琴代は、前菜で十分にお腹がいっぱいということで、後でパスタを和宏とシェアしたい、と言う。
「グラスワインの赤を。あとクラブソーダおかわり」
和宏が追加オーダーした。
「和宏くんのほうは、奥さん会社員だったの」
「いや、なんていうか、社長秘書っていうか、ちょっと特殊というか。なんだろう、小さな会社で、電気設備系の、ほとんど社長と同伴で営業してたみたい、片腕となって」
「へえ、やり手じゃない」
「そうなのかなあ、まあ、仕事しなくていいくらい貯金があった人だから」
「どこぞのご令嬢」
「ま、そんなとこ」
あのタイミングでどうして、あの質問をしたのか。
後で思い返しても、その理由が、琴代には分からない。
女の勘、ていうの。
「子どもは」
「女の子、彼女が引き取った」
あのデートの後、本当に琴代の容態は悪くなった。
このまま、インコと戯れながら、眠るように死んでいくのでは、と真剣に考えたくらいだ。
和宏のLINEにも返信する気力が無くなった。
病気のせいだ、と琴代は思った。
思いたかった。
「ねえ、サクラ」
コザクラインコのサクラは、琴代の人差し指の爪をかじっている。
「お前も飛べないのか」
その時、スマートフォンのバイブレーションが鳴った。
和宏からだろうか。
後で、LINEのアプリ自体を削除してしまおう、と琴代は思った。
そうすれば、終わる。
もう必要もない。
「いい男は、真っさらでは居ないの」
そう口に出してみると、琴代は可笑しくて少し笑った。
その笑顔に反応して、サクラが鳴いた。
しかし、自分の気持や、三十五年以上生きてきた経験から、琴代はよく分かっている。
これは、そんな簡単な出会いではない。
この先、和宏のような人は現れないだろう、ということを。
それでも、これだけは譲れないのであった。
「わたしはあなたの猫にはなれない。わたしは飛べない雲雀」
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