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二十二 十三
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とさ
「おかっちゃ、どうした」
船着き場に下りて、緩やかな坂を上がり、地面が平らになった場所で、ハマはふと立ち止まって、動かなくなった。
タケは、母が具合でも悪くなったのかと、声をかけたのだ。
「着いただね。ここだね。ここに暮らすだね」
傾きかけた陽が湊を照らしていた。
暮六つに入っていただろう。
喜三郎も、二人を心配そうに振り返って立ち止まる。
ハマは、まるで降り立った地面から何かを吸収するかのように、足を踏ん張っていた。
「はい、ごめんなさい。もういい。ご挨拶が済んだ」
ハマはそう言い終わると、また歩み始めた。
「こごがらすぐだはんで、佐渡屋さんは」
船着き場から一番近い、かつての奉行所前の通りを進み、町家の表通りに出ると、その左角が佐渡屋であった。
喜三郎は、佐渡屋の表戸を入り、訪った。
「喜三郎だっす。いまお連れすた」
女中の一人が喜三郎に気づき、会釈をしてすぐ奥に下がっていった。
間もなく、佐渡屋利兵衛が出てきた。その後ろから着いてきたのは、女将のヤエである。
「はいはい、喜三さん、ご苦労さんですた」
利兵衛は、そう労った。
今年、五十五になり、もはや三代目に家督を譲っているが、まだ健在で隠居はせず、主人で通っている。
「海も荒れずに、見込み通りに着いだっす」
そこまでを報告すると、喜三郎は表戸まで戻り、ハマとタケを導き入れた。
タケはハマの手を引き、喜三郎の後に続いて進んだ。
「あれ、おタケぢゃんは、うぢのユキど同ずぐらいだね。こったらに小さぇどは思わがなった」
そう声を発したのは、ヤエである。
実際、佐渡屋の孫娘ユキとタケは、今年ともに五つ(満五歳)の同い年であった。
「遠ぇどごろよぐ。さあさ、座って、一息入れでけ」
玄関の間に通され、まず畳に座るように勧められた。
「今日は、もう日暮れ近ぇはんで、明日いろいろ説明すますが、今日のどごは、まず名主さんにだげ挨拶すてもらで、それがら、二人の泊まるどごろさ、案内すてもらうさげ。まずはわんつか休んで」
利兵衛は、そう言いながら、自分も畳に座った。
「ハマだ。どうぞよろしゅうお願い申します。こちらは、娘のタケ。よろしゅうお願いします」
「よろしゅうお願いします」
ハマに続き、タケがそう言って頭を下げた。
「ほんに遠ぇどご、よぐござった。わー二代目の利兵衛だ。こぢらごそ、よろすくお願いすます。先代、今町の弥平さんと親戚でな。うぢは弥平さんとごろには昔がら世話になってな」
佐渡屋は、その名のとおり、初代の出身地、佐渡ヶ島に由来し、初代の妻ウメは、弥平の親戚筋であった。そういう縁で、ハマとタケは佐渡屋を頼ることになったのである。
それでなくとも、かつて「三津七湊」に数えられた今町湊(直江津)と十三湊は、西廻り航路でつながっており、海産物などの交易でも繋がっていた。
十三湊は、その昔は津軽一の湊であった。岩木川舟運とともに、弘前と上方を西廻り航路でつなぐ、重要港であったのだ。それ以前の「十三湊」は、古代より栄えた天然港であり、毛人が住む未開の地、大和の力が及ばない「出羽柵」の外の世界であった。しかし、中央政権側からみればそうであっても、さらに北の渡島(北海道の旧名)と交易でつながっていたし、人的交流もあった。
そもそも、「津軽」とは十三湊の辺りを指したと考えられ、「津軽」という地名ですら、毛人が「津=港」を借りて住んだ、「津借」が転じたとも云われているのだ。
その十三湊は、鎌倉時代、この地の豪族、安東氏の支配下で繁栄を極めたが、安東氏の没落とともに、衰退していったのである。
それ以来、十三湊が西廻り航路の貿易港として、返り咲くことはなかった。江戸時代に入っても、南の鰺ヶ沢湊にその座を明け渡したままとなったのである。
それでも、岩木川舟運は廃れるわけもなく、十三湊は「中継港」として重要な役割を果たしていくわけだが、鎌倉以前の繁栄には遠く及ぶわけもなく、湊に付属する村の賑わいもかつてのようなわけにはいかなかった。当然、主要な旅籠なども、泊まり客が減っていくのである。また、舟運だけでなく街道も整備され、人や物の流れも川から陸に変わっていった。そういう運命を辿った場所であるのだ。
さらに、この頃の岩木川とその流域においては、度重なる洪水の被害と、何年か置きに発生する冷害によって、村々は窮乏していた。
洪水の原因は二つ。
岩木川の氾濫と、もう一つ。十三潟の水戸口の閉塞による水の逆流である。
水戸口の閉塞は、強い西風が運んでくる飛砂、いわゆる砂の堆積が原因である。この飛砂こそが津軽の長年の難題であり、かつては、飛砂の丘が津軽西浜の南北に連なっていた。この飛砂が内陸に及ばないように弘前藩は四代目藩主、津軽信政が一六八一年から植林事業を始め、およそ二百年かけて完成した。そうしてできた、鰺ヶ沢湊から十三湊までのおよそ南北約三十キロメートル、東西約五キロの植林の丘が、飛砂から津軽を守る「屏風山」なのである。
しかし、屏風山が完成しても、岩木川の治水事業は道半ばであり、相変わらず何年か置きに大川(岩木川)は必ず氾濫する。そして、冷夏による作物の不作、凶作もなくなるわけはなかった。
ハマとタケが十三湊にやってきたのは、そういう大変な時代であった。
いや、大変な時代ではあったが、いわゆる大きな転換の始まりの時代であり、明治が明け、まさに近代化へ邁進し始める前夜であった。
逗留先として佐渡屋が決まった時、ハマが出した条件とは、こうだった。
「どんげな粗末な部屋でも、住まわせてもらえたら給金は要りません。食べるものは残り物いただければ。このタケも、少しなら炊事場でも何でも手伝う。あとは、お客さんのご祝儀だけいただければ」
利兵衛は、ひと目見て、そのことは本当だったと、確信した。
またこの翌日、試しに演じてもらったハマの芸は、まさに本職の芸で、利兵衛は思わず、歓喜の笑みをこぼしたのであった。
(こぃは、神様の贈り物だ)
言ってみれば、ただ同然で芸姑を雇い入れられるのだから。しかも、誰がどう見ても、流れ者のだるま芸者風情ではなく、身元もはっきりしている。
これに対してハマもまた、佐渡屋利兵衛の気さくな人柄と、店の雰囲気の良さに、ほっと胸をなでおろしたのであった。
女中が白湯を運んできてくれ、タケはお椀をハマの手に渡した。
「白湯でも飲んで、それがらゆっくり宿まで案内すますはんで。その前さ、名主さんとごろにだげ寄っていぎますか。ご紹介ど、それに名主の能登屋さんも旅籠で、ハマさんのごど話すたっきゃ、うぢでも座持ってもらうがね、て言ってますた」
「能登屋さんですか」
利兵衛の話に耳を傾けていたハマが、その部分は聞き逃さなかった。能登屋でも芸の仕事ができるか知れない。
「そう、町一番の旅籠で、あの、測量の伊能忠敬さんも泊まった宿だ」
伊能忠敬が能登屋金右衛門の旅籠に当泊したのは享和二年(一八〇二年)八月二十一日のことで、この時伊能は、十三潟の潟縁を測量したのであった。
そんな由緒ある旅籠だが、江戸の頃に比べても、さらに逗留客が少なくなり、芸姑が座を持つことなどもほとんど無くなり、今では、抱えの芸姑すら町にはおらず、弘前城下の方に移ってしまっていた。
しかし、全く居なくなってしまうと、それはそれで、お偉方などの宴会があっても、芸の座持ちすらできないので、不調法であった。
だから、ハマが町に来ると聞きつけた能登屋金右衛門にしてみれば、思いもかけない朗報だったのである。
「座の話はまだ改めで。今日のどごろは挨拶だげで十分だ。そろそろ行ぎますか」
喜三郎が、ハマの背負い荷を持ちかけたが、ハマが制した。
「ありがとござんす。だども、荷持つは私らが持つすけ」
その時、奥からヤエが孫娘のユキを連れて現れた。
「もう、行ぎなさるのだが」
「うん、日落ぢる前にな」
「おタケぢゃん、こぃがうぢのユキ。よろすくお願いすますね」
「おお、おユキちゃんという子が居なさるのか」
ハマが顔を向けて、尋ねた。
「ユキは五づだばって、おタケぢゃんは」
「おやおや、同い年だね。それは良かった。ね、タケ」
「おユキちゃん、よろしゅうお願いします」
そう、タケが如才なく挨拶すると、ユキのほうは言葉を発せず、照れ笑いを浮かべた。
ハマとタケは、そのあと、名主でもある能登屋金右衛門に挨拶し、逗留先、いやこの後の住まいとなる佐渡屋別館に行き、草鞋を脱いだ。
明治十八年(一八八五年)五月十三日の夕暮れのことであった。
「おかっちゃ、どうした」
船着き場に下りて、緩やかな坂を上がり、地面が平らになった場所で、ハマはふと立ち止まって、動かなくなった。
タケは、母が具合でも悪くなったのかと、声をかけたのだ。
「着いただね。ここだね。ここに暮らすだね」
傾きかけた陽が湊を照らしていた。
暮六つに入っていただろう。
喜三郎も、二人を心配そうに振り返って立ち止まる。
ハマは、まるで降り立った地面から何かを吸収するかのように、足を踏ん張っていた。
「はい、ごめんなさい。もういい。ご挨拶が済んだ」
ハマはそう言い終わると、また歩み始めた。
「こごがらすぐだはんで、佐渡屋さんは」
船着き場から一番近い、かつての奉行所前の通りを進み、町家の表通りに出ると、その左角が佐渡屋であった。
喜三郎は、佐渡屋の表戸を入り、訪った。
「喜三郎だっす。いまお連れすた」
女中の一人が喜三郎に気づき、会釈をしてすぐ奥に下がっていった。
間もなく、佐渡屋利兵衛が出てきた。その後ろから着いてきたのは、女将のヤエである。
「はいはい、喜三さん、ご苦労さんですた」
利兵衛は、そう労った。
今年、五十五になり、もはや三代目に家督を譲っているが、まだ健在で隠居はせず、主人で通っている。
「海も荒れずに、見込み通りに着いだっす」
そこまでを報告すると、喜三郎は表戸まで戻り、ハマとタケを導き入れた。
タケはハマの手を引き、喜三郎の後に続いて進んだ。
「あれ、おタケぢゃんは、うぢのユキど同ずぐらいだね。こったらに小さぇどは思わがなった」
そう声を発したのは、ヤエである。
実際、佐渡屋の孫娘ユキとタケは、今年ともに五つ(満五歳)の同い年であった。
「遠ぇどごろよぐ。さあさ、座って、一息入れでけ」
玄関の間に通され、まず畳に座るように勧められた。
「今日は、もう日暮れ近ぇはんで、明日いろいろ説明すますが、今日のどごは、まず名主さんにだげ挨拶すてもらで、それがら、二人の泊まるどごろさ、案内すてもらうさげ。まずはわんつか休んで」
利兵衛は、そう言いながら、自分も畳に座った。
「ハマだ。どうぞよろしゅうお願い申します。こちらは、娘のタケ。よろしゅうお願いします」
「よろしゅうお願いします」
ハマに続き、タケがそう言って頭を下げた。
「ほんに遠ぇどご、よぐござった。わー二代目の利兵衛だ。こぢらごそ、よろすくお願いすます。先代、今町の弥平さんと親戚でな。うぢは弥平さんとごろには昔がら世話になってな」
佐渡屋は、その名のとおり、初代の出身地、佐渡ヶ島に由来し、初代の妻ウメは、弥平の親戚筋であった。そういう縁で、ハマとタケは佐渡屋を頼ることになったのである。
それでなくとも、かつて「三津七湊」に数えられた今町湊(直江津)と十三湊は、西廻り航路でつながっており、海産物などの交易でも繋がっていた。
十三湊は、その昔は津軽一の湊であった。岩木川舟運とともに、弘前と上方を西廻り航路でつなぐ、重要港であったのだ。それ以前の「十三湊」は、古代より栄えた天然港であり、毛人が住む未開の地、大和の力が及ばない「出羽柵」の外の世界であった。しかし、中央政権側からみればそうであっても、さらに北の渡島(北海道の旧名)と交易でつながっていたし、人的交流もあった。
そもそも、「津軽」とは十三湊の辺りを指したと考えられ、「津軽」という地名ですら、毛人が「津=港」を借りて住んだ、「津借」が転じたとも云われているのだ。
その十三湊は、鎌倉時代、この地の豪族、安東氏の支配下で繁栄を極めたが、安東氏の没落とともに、衰退していったのである。
それ以来、十三湊が西廻り航路の貿易港として、返り咲くことはなかった。江戸時代に入っても、南の鰺ヶ沢湊にその座を明け渡したままとなったのである。
それでも、岩木川舟運は廃れるわけもなく、十三湊は「中継港」として重要な役割を果たしていくわけだが、鎌倉以前の繁栄には遠く及ぶわけもなく、湊に付属する村の賑わいもかつてのようなわけにはいかなかった。当然、主要な旅籠なども、泊まり客が減っていくのである。また、舟運だけでなく街道も整備され、人や物の流れも川から陸に変わっていった。そういう運命を辿った場所であるのだ。
さらに、この頃の岩木川とその流域においては、度重なる洪水の被害と、何年か置きに発生する冷害によって、村々は窮乏していた。
洪水の原因は二つ。
岩木川の氾濫と、もう一つ。十三潟の水戸口の閉塞による水の逆流である。
水戸口の閉塞は、強い西風が運んでくる飛砂、いわゆる砂の堆積が原因である。この飛砂こそが津軽の長年の難題であり、かつては、飛砂の丘が津軽西浜の南北に連なっていた。この飛砂が内陸に及ばないように弘前藩は四代目藩主、津軽信政が一六八一年から植林事業を始め、およそ二百年かけて完成した。そうしてできた、鰺ヶ沢湊から十三湊までのおよそ南北約三十キロメートル、東西約五キロの植林の丘が、飛砂から津軽を守る「屏風山」なのである。
しかし、屏風山が完成しても、岩木川の治水事業は道半ばであり、相変わらず何年か置きに大川(岩木川)は必ず氾濫する。そして、冷夏による作物の不作、凶作もなくなるわけはなかった。
ハマとタケが十三湊にやってきたのは、そういう大変な時代であった。
いや、大変な時代ではあったが、いわゆる大きな転換の始まりの時代であり、明治が明け、まさに近代化へ邁進し始める前夜であった。
逗留先として佐渡屋が決まった時、ハマが出した条件とは、こうだった。
「どんげな粗末な部屋でも、住まわせてもらえたら給金は要りません。食べるものは残り物いただければ。このタケも、少しなら炊事場でも何でも手伝う。あとは、お客さんのご祝儀だけいただければ」
利兵衛は、ひと目見て、そのことは本当だったと、確信した。
またこの翌日、試しに演じてもらったハマの芸は、まさに本職の芸で、利兵衛は思わず、歓喜の笑みをこぼしたのであった。
(こぃは、神様の贈り物だ)
言ってみれば、ただ同然で芸姑を雇い入れられるのだから。しかも、誰がどう見ても、流れ者のだるま芸者風情ではなく、身元もはっきりしている。
これに対してハマもまた、佐渡屋利兵衛の気さくな人柄と、店の雰囲気の良さに、ほっと胸をなでおろしたのであった。
女中が白湯を運んできてくれ、タケはお椀をハマの手に渡した。
「白湯でも飲んで、それがらゆっくり宿まで案内すますはんで。その前さ、名主さんとごろにだげ寄っていぎますか。ご紹介ど、それに名主の能登屋さんも旅籠で、ハマさんのごど話すたっきゃ、うぢでも座持ってもらうがね、て言ってますた」
「能登屋さんですか」
利兵衛の話に耳を傾けていたハマが、その部分は聞き逃さなかった。能登屋でも芸の仕事ができるか知れない。
「そう、町一番の旅籠で、あの、測量の伊能忠敬さんも泊まった宿だ」
伊能忠敬が能登屋金右衛門の旅籠に当泊したのは享和二年(一八〇二年)八月二十一日のことで、この時伊能は、十三潟の潟縁を測量したのであった。
そんな由緒ある旅籠だが、江戸の頃に比べても、さらに逗留客が少なくなり、芸姑が座を持つことなどもほとんど無くなり、今では、抱えの芸姑すら町にはおらず、弘前城下の方に移ってしまっていた。
しかし、全く居なくなってしまうと、それはそれで、お偉方などの宴会があっても、芸の座持ちすらできないので、不調法であった。
だから、ハマが町に来ると聞きつけた能登屋金右衛門にしてみれば、思いもかけない朗報だったのである。
「座の話はまだ改めで。今日のどごろは挨拶だげで十分だ。そろそろ行ぎますか」
喜三郎が、ハマの背負い荷を持ちかけたが、ハマが制した。
「ありがとござんす。だども、荷持つは私らが持つすけ」
その時、奥からヤエが孫娘のユキを連れて現れた。
「もう、行ぎなさるのだが」
「うん、日落ぢる前にな」
「おタケぢゃん、こぃがうぢのユキ。よろすくお願いすますね」
「おお、おユキちゃんという子が居なさるのか」
ハマが顔を向けて、尋ねた。
「ユキは五づだばって、おタケぢゃんは」
「おやおや、同い年だね。それは良かった。ね、タケ」
「おユキちゃん、よろしゅうお願いします」
そう、タケが如才なく挨拶すると、ユキのほうは言葉を発せず、照れ笑いを浮かべた。
ハマとタケは、そのあと、名主でもある能登屋金右衛門に挨拶し、逗留先、いやこの後の住まいとなる佐渡屋別館に行き、草鞋を脱いだ。
明治十八年(一八八五年)五月十三日の夕暮れのことであった。
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