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シナノマチシマイ
しおりを挟む三上寛へのオマージュとして
「今度会ったら言ってやんな。今でも好きだって」(三上寛「ハチ公前」より)
たぶん朝から降っていた雨が、雪に変わったのは何時からか。
薄いシャーベットに覆われた路面に、足跡は一つもない。
人はどこにいってしまったのだろうか。
象牙色の徳利セーターにジーパン。
すっかり直毛ではない長い髪は背中まで達して、その天辺には赤い毛糸の帽子。
肩から羽織った濃灰色のケープが妙に似合っていて、それがあるおかげで、この女が何者であるかを人々に知らしめるだろう。
「ミャア」
我に返り、うつむくと、足元に子猫が居て、女を見上げていた。
灰色が元からの色なのか、雪のせいか、すぐには分からない。
女はしゃがんで猫を抱き上げた。
「お前も誰かを待っているのかい」
そう独り言ちて、女は無意識に微笑んだ。
それは慈悲なる心か、それとも自分への嘲笑か。
どちらでも構わないが、結果として、その笑いが女にもたらした感情に女は後悔した。
やっぱりこんなところに来るんじゃなかった、と。
昨夜までは、ハチ公前に居たのに。
自暴自棄がそうさせたのか、今の成れの果ての運命の出発点に向けられた八つ当たりに近い恨みか。
子猫の背中を擦りながら、一瞬暗くなりかけた表情を再び緩めたが、無駄だった。
瀟洒な二階建ての邸宅の裏手だった。
信濃町駅の北東側。
駅からはそれほど遠くなかった。
そこで、妹が待っていた。
もう二十年ほど前のことだった。
文子は十六歳、妹の咲子が十二。
血は繋がっていなかったが、そのことを知っているのは文子だけで、妹は知らない。
仲の良い姉妹だった。
妹のほうが母親譲りの色白の美人で、姉は浅黒いが、これも美人だった。
その美貌が、幸か不幸か、姉妹の母親は女中兼色女として、その邸宅に住み込みで仕えていた。
時々、文子のほうが裏口からこっそり、母を尋ねた。
少しばかりの給金と、パンなどの保存の効く食べ物。
それが姉妹の生命線。
それがその事件の一年ほど前、母の突然の死で絶たれた。
訃報は誰かが知らせてくれたわけではない。
いつものように裏口から忍び込んだ文子が気付いたのだ。
母の不在を。
だから厳密には、死んでいないかもしれないが、知るすべがない以上、死んだも同然だった。
「姉ちゃん」
咲子が姉の背中をぽんっと押した。
強盗放火。
しかし、誰が咎めよう。誰が気付こう。
母が畳の下に溜め込んだ金は、大金だった。
姉妹には、それで一生困らない、と思えた。
しかし、金は数年ともたなかった。
それでも、何かにつけて行動力の豊かな咲子が母と同じ立場を手に入れることには役立った。
そして、姉妹は奇しくも、この信濃町の駅前通りで別れた。
時に、妹が十六。姉、文子が二十歳。
黒塗りの車の車窓越しの顔だけが、その面影だけが姉の脳裏に残った。
あとのことはすっかり忘れてしまった。
いや、忘れてしまったことにしていた。
「ねえ、何とか言いなよ。お前も待ちぼうけかい」
幸太郎は、もう何年も文子の行方を探していた。
新宿のあの店から文子が居なくなって以来。
それが、久しぶりに会った学友の一人が彼に彼女の目撃を伝えた。
しかし、教えてくれたことに感謝感激することなく、幸太郎はすぐにその学友を問い詰めた。
「何で、お前がそんなことを知っているんだ」
それは暗にお前がその女を買ったということか、という詮索であった。
学友は言下に否定して、追及はそれまでとなった。
幸太郎がすぐに冷静になったからだ。
それは、長年の文子への執拗な未練と裏腹の態度だったが、すぐにでも会いたいという気持ちが極度に上回ったのだろう。
「それは、どこだ」
「ハチ公前だよ」
「ふっ」
それは強がりか、自分に向けられた嘲りか。
笑い事か。
そうするしかないのか。
それは宣告だった。
『お前が抱いた女は今、ハチ公前で客を待っている』
あの時、妹は自分の名を呼んだのだろうか。
あの車窓越しに。
「ねえ、もう帰ろうか。今夜は無理だね」
雪は本降りになるらしかった。
文子は猫を地面に置くと歩き出した。
子猫は後をついていく。
出来たばかりの雪原に、二種類の足跡がついた。
しかし、そのことに誰かが気付く前に、足跡は消えてしまうはずだった。
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