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お父さん、いい加減・・・
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時々いや、しばしば僕たちは、メールの気安さを呪うことがある。
封書だったら、それが明らかに不幸の手紙だと分かるだろうし、微妙だと想った瞬間に開封を止め、ゴミ箱に直行、そうでなくても不要な書類の塊の上に載っけておけば、そのうちに忘れ去られ、運悪く再び手に取ることになっても、最早手遅れのタイミングになっているはずである。
しかし、メールは、時に、そうはいかない。
しかも、これは、このメールは、しばしばでも、稀にでもない、考えてみれば、恐らくはあの人からの最後の手紙の匂いがする。
それでも、僕は動じない素振りで、そのメールを既読処理し、開かずに放置した。
それからおよそ二日。
メールは次々にやってきて、当該のメールはどんどん下に追いやられ、そのままいけば、期待どおり、無かったこととして埋もれるはずであった。
ところが、今度は別の者から追い討ちのメールが届いた。
このメールは、当該のあの人からのメールに関連した事案であって、どのような類の内容であるか、だいたい想像がついた。
息子が就職をした年であり、娘が中二だったから、今から五年前のことである。
僕は、実の父親と、すぐ上の姉と、内心、縁を切った。
三島の姉が秋田の実家に戻って介護をしてくれるという事に感謝をするどころか、預金を勝手に下ろした(彼曰く、盗んだ)ことで喧嘩し、出禁にした父にほとほと愛想が尽きたのと、そういう父の言動が影響はしただろうが、自分の引きこもりの娘(三十近い)がいよいよ精神が危ないからという理由を引っ張り出してきた姉は、介護を僕に譲りたいと一方的なメール(ライン)を送り付けてきたことに、僕も妻も完全に呆れ果て、仕方なく承諾するなどという選択余地がなかったからである。ちなみに、公明正大に親戚中に「(役立たずの長男に代わって)私が墓を守り、父の面倒を見ます」と触れ回った際には、僕のところへ、郵便封書で宣言書が送られてきた。無論、その封書も、ラインの文面もコピペで文書データにして、証拠として保管している。
さらに、肝心な時には何の役にも立たないくせに、言い易いときだけ長女面をして、取りなしてきた一番上の姉の言葉にも堪忍袋の尾が切れたのであった。
「シンイチあんちゃんが、ずっと雪降ろしに来てくれて、お父さんの面倒を見てきたし、レイちゃんもずっと介護してきてくれたし、もうあと長くないんだから、私も休み取れたら行こうと思ってるんだ」
要するに、僕だけが何もしていない、と言いたいわけである。
「婿養子になって以来、親子の縁を切り、そして、レイと二人でやっていくことを決めたのは親父で、今さら、俺に何を求めるんだよ。自分でやるって啖呵切ったのはレイなんだから、最後まで責任持ってやってもらいたいね。俺にはもう関係ないよ」
そう伝えたら、妻も溜飲が下がったようだった。
考えてみれば、父は僕を何度も見捨てた。簡単に諦めるのが彼の特長であり、そういう性格が災いして、いろんなことが上手く行かず、自動的に追い込まれていく。
そもそも、僕を最初に見捨てたのは父なのだ。実家を捨てて、婿養子に入ったような人間は親でも子でもなく、従って、僕の子どもたちも孫ではない、という態度で、疎遠にし始めたのは、父の方である。
人の親になって初めて、自分の親の気持ちが解るとは良く言う。
戸籍の書類上の関係が親子でなくなったかもしれないが、それによって実際の親子として接することを止めるという態度は、前近代的な話であり、性格の問題を差し引いても、そういう愛情の薄い人間とは、これ以上関わりたくない、と僕は思った。
昔、英国の超有名ロックバンドのギタリストが、雑誌のインタビューで語っていたことを想い出した。
「俺は、自分の娘がドラッグ中毒から立ち直れなくなったとしても、愛していると抱きしめる」
親とは、そういうものなのではないか。
亡くなった祖母、つまり父の母親も、愛の人であった。
若気の至りで最初の結婚に失敗した僕に、祖母は言った。
「悪いオナゴだったな」
僕が何度も、離婚の原因は僕で彼女ではない、縁が無かったんだと説明しても、祖母は自分の考えを曲げるつもりは無いらしかった。
そんな祖母を、父は、学がないとバカにしていたし、夫である祖父は四十代に酒乱となり働かなくなったことで、自分が大学進学できなかったと、生涯恨み、口を利いた例がほとんど無かった。
しかし、僕に子どもができて、子育てをし、養父母の面倒を見ている中で、いろいろ気付いたこともあるし、冷静に考え、振り返ってみると、あの父親には愛がないし、最初に僕を見捨てたのは父だ、と確信するに至ったのだ。
「お母さんが危篤になっても、慌てて帰ってくんじゃないぞ。ゆっくり、落ち着いて、いろいろなことをすっかり片付けてから、それから来るのだぞ。親なんだから構うこと無い。礼服だって全部持ってくるんだよ」
病院内の美容院に行きたいというから車椅子押して連れて行く僕に、母は突然そう言った。
そのおよそ一年後、それはまさに予言どおりにことが運んだ。
台風のために倒木が線路にかかり、東北新幹線は運休していた。僕は会社に連絡し、仕掛りの仕事の得意先、パートナーに連絡を入れ、ニュースで運転再開の目処を自分なりに立てた上で、荷造りを終え、喪服も持って家を出た。
ちょうど運転再開のアナウンスが流れたときに、僕は東京駅の新幹線ホームにたどり着き、偶然にも、どの新幹線に乗れば良いかわからず一人途方に暮れる一番上の姉とばったり遭い、同じ新幹線で、郷里に向かった。後から知ったが、同じ新幹線に真ん中の姉(レイコ)も乗っていたらしい。
僕らが病院に着いてすぐ、母の容態はいよいよ重篤になったのであった。母は正に、家族が皆揃ってから、息を引き取ったのである。
長年看護師として生きてきた母にとって、自分が今どの段階に居るのかということは、一般人以上に分かっていたはずだ。また、過去に担当した臨終に近い患者を多く診てきただろうし、また多くの臨終に直面してきたであろう。良い死に方、あまり好ましくない死に方、死者の心残りなど。
いつか母はこんな話をしたことがあった。
「夜勤明けで帰って、台所に立ち、なんかまな板で切ってる時、ふと、声が聞こえたんだよね。あれ、この声、聞き覚えがあるけど、誰だったかなあ。気のせいか。その時は深く考えなくて、そのまま忘れたんだよ」
その患者は、母の担当ではなかったが、田舎町のこと、病院内で良く会い、母とも親しかった、山間地に住む、六十代の女性だった、と云う。
あれは虫の知らせであった、と母は語った。
翌日、母は病院に出勤して、真っ先に知らされた。その患者は昨晩容態が急変して亡くなった、というのだった。
「あ、その人の歌声だったんだ」
母は、その時やっと気付いたと言う。
母は、その人のお通夜に、山間地まで父に送ってもらい出向いた。そこで、忘れられない体験をしたのだ。
遺族は、母のことを覚えていて、故人も喜ぶから、顔を見てあげてください、と言ってくれた。それで、母は膝を進めて、打ち覆いを外した。その瞬間。死者の顔がぎゅっと顰め面をしたのだ。母は、とっさに仰け反って、後ろに逃れたと云う。科学的には、それは死後硬直の一種ではないのだろうか。
「お母さんが来てくれて、喜んだんじゃないの」
その僕の励ましに母は食い下がった。
「いや、あの顔は、何で報せに行ったのに、来てくれなかったんだ、そういう顔だった。責める顔だ」
死者の『お迎え現象』はよく言われることである。
父の死を目前に控えて、こうして母の事を考えていると、いろいろ想い出す。
母は定年後、本当に親戚や親しい知人を良く見舞っていたものである。六十に成って猛勉強をして自動車免許を取得し、嬉々として、出かけていった。時には、まるで往診でもするかのように。行けば、元看護師のこと、いろいろ世話を焼きたくなるだろう、本人にも家族にとっても。母にとって、看護師はライフワークのようなものだったんだろうな、とつくづく思うのだ。
そんな母は、自分が末期がんとなり、もうほぼ助からない、と聞かされて以降、本当に人が変わったように、物事に対して、全くと言っていいほど、気力を無くしていったものだ。そればかりか、あれほど大らかだった母は、怒りっぽくなり、簡単に悪口を言うようになったのであった。
担当の看護師曰く、末期がんの方にはよくあることなんですよ。無理もない話なので、あまりに真に受けないほうが良いですよ、とのことだったが、正直僕には大きなショックであった。人は、ここまで変わるものなのか、と。
特に父に対しての風当たりは半端ではなかった。
「来たって、何の役にも立たねえ。そこのソファに寝転んで、週刊誌めくってるだけ。居眠りしながら。ほんと、ガサガサうるさいから、来なくて良い」
僕が特別休暇を会社にもらって、帰省し、最初に父と一緒に母の病床を見舞った時、母が開口一番僕に言いつけた事であった。
父は、本当に、次回から僕に同行しなくなった。
ベッドサイドのテーブルの高さが良くない、とか、個室のトイレに立つときに、あのゴミ箱が引っかかるとか、いろいろ僕を当てにして言ってくる母。そんな些細なことでも、不器用な父は何も出来なかった、と母は苦言を言った。
「ほんとに、家の事なんて何にもできない。電球一つ替えられない」
その時、僕は初めてそういう事情を知った。確かに、家の周りの事は、父ではなく、祖父がほとんどすべてやっていた。家事は、祖母と母。
それはやりたくないからやらなかった、と幼いときから当たり前に思っていた僕。違ったのか。出来なかったのか、と。
いや、やらないから出来なかったのだろう。母は、それを咎めているのだと。やらないでこれまで生きてきてしまったから、何も出来ないんだ、と。
想えば、母が亡くなって少しして、僕が帰京しなければならなくなった時、父にご飯の研ぎ方、炊き方。味噌汁の作り方、を僕が教えたのだった。そういうことだったのだ。
あと一つ、言いたくないことだが、母は、父よりも早く逝かなければならない事に、強い理不尽さを感じていたのだと想う。
自殺未遂をしたうつ病の父を長年診てきて、ここまで生かして来た自分が、なぜこんなに早く死ななければならないのか、と。父よりも先に。
母を庇うために、付け加えると、彼女はまたこんな事を言ったことがある。
「お父さんは、先々のことが気にかかっているんだよ。それを考えるとタダでさえも蒙昧しているのに、余計に何もできなくなってるんだよ」
母がこうなってしまったことに酷く動転するあまり、父はもともと不器用なのに相まって、おろおろして何もできなくなっている、と。母なりに、父の内心を分析して、彼をフォローするのだった。
僕は、それを聞いた瞬間に、父がまた精神を病んで、良からぬことをしないと良いが、と案じたものだった。
「お父さん・・・、お父さん、お父さん」
雪に閉ざされた、飯炊き小屋の入口から、白煙が湧き出す小屋の入り口を見つめながら、僕は何度も何度もそう叫んでいた、と想う。
町の消防団が、駄目だな、これは、という言葉を残して、母屋の中に消えていったばかりだった。
(駄目だって言ったよね、今。諦めたってこと)
幼いながらも、僕は直感的に彼らの声を聞き取っていた。小学校三年生の僕は。
でも、他の誰かが、もっと大勢の別の人たちが助けに来てくれるはずだ。そういう期待も捨てていなかった。
しかし、次に現れたのは、祖父一人だった。
二メーター以上ある雪の通路を通って、僕の前を行き過ぎ、小屋の入り口に辿り着いた祖父は、小屋の入り口の立板をどけて、雪の壁に立てかけ、迷うこと無く白煙の中に消えていった。僕は、叫ぶことを止め、祖父が父を助けてくれるのを待った。
無理なんじゃないか。待ちながら正直、消防団が、二人がかりでも断念したことを、老人が一人でできるものか。という疑念を抱いてもいた。
しかし、意外に早く、祖父は小屋から出てきた。父を両腕に抱えて。
そこに、さっきの消防団員が再び現れた。
「おお、担架だ、担架」
そう叫んで、確か、その後に消防士と救急救命士が現れて、父は担架に乗せられて母屋の表の方に運ばれていった。僕は、その後に付いて行った。一方、ここから本格的な消火活動が始まったと想う。
救急救命士は、途中、父に何か話しかけ、父もそれに応えたので、意識あり、と言ったと想う。
母屋の玄関を出ると、大勢の人だかりだった。
その一番近い場所に、見慣れた顔があった。
僕の担任の佐藤先生だった。
「ヒロミくん、なんだって・・・」
僕は、思わず、先生の胸に飛び込んだ。
あの後、祖父の姿は見えなくなったのが、少し心配だったが、おそらく大丈夫だろうと、すぐに考えるのを止めた。
あの時、祖父がそのまま父を抱えて、母屋の玄関まで行っていたなら、映画のワンシーンみたいな救出劇に、人だかりが湧いたことだろう。
しかし、現実は真逆だった。
祖父の救出劇は、僕の記憶の中に留まったのみで、その後誰も知ることはなかったのである。いや何度か、幼い僕は周囲にその事を言ったはずである。しかし、誰も取り合ってくれなかったのだった。
祖父は信用されていなかったのである。
四十に成ってから酒を覚え、酒乱と成り、仕事をしなくなった。父が子供の頃は、叔母たちが何度も酔いつぶれた祖父を迎えにいったものだと聞かされた。
さらに、祖父は結婚前に家出をして大阪の吹田に住んでいたことがある。女性と同棲していたらしい。
これは僕の想像だが、あれは徴兵逃れだったのではないか。そういうことも噂となって、祖父は村八分的な存在だったのではないのか、とも。
それはどうあれ、祖父は僕が赤ん坊のときから、僕をかわいがってくれた。それは写真にも残っている。おんぶ紐で祖父におんぶされた僕の写真。もう少し大きくなると、祖父の大きい自慢の自転車の荷台に載せされて、町中を連れまわし、孫自慢をして歩くような祖父であった。
その祖父が、父を救出したのである。白煙が充満し、火の手も上がっていた二階建ての小屋の二階に横たわっていた父を抱え、梯子段を降りて。どうしてそんな軽業師みたいなことができたのだろうか。父は七十キロはあっただろう。祖父も同じような体重だったと想像する。ほぼ垂直に立てかけられた梯子を、おそらく七段くらいは降りたはずだ。信じられないが、そうしなければ、祖父は帰還できなかった。
結局、この偉大過ぎる救出劇は、誰にも知らされないまま、祖父の葬式まで時は過ぎていったのである。僕は、お通夜の振舞の席で、一人涙に暮れていた。
「ヒロミくん、泣いでんな。爺ちゃんは大往生だがら。悲しんではかえって、駄目だ」
祖父が死んだこと、それだけが悲しいわけではなかった。むしろ、そうではなく、あの事を誰も知らないままに、祖父が逝ってしまったことが悔しかったのである。
その助けられた本人(父)は、病気が回復した後も、祖父のことを邪険にし続け過ごしてきた。そして今、ニコニコ笑いながら、酒を飲んでいる。
更に翌日。
葬儀の喪主の挨拶では、罰当たりにも、祖父を小馬鹿にしたような事を語ったのである。
「死の前日まで、三度三度の飯を食べ、元気だった」
こんな酷いことをよく言えたのだね。
あなたがそこで言うべきは、祖父に対する感謝ですよ。
祖父の死の当日の朝。母は、いつものように、祖父の布団の枕元に座って、スプーンでおかゆを与えていたことを僕はなぜか知っている。母が教えてくれたのだと想う。僕が帰省したときにも同じように母がしていたを見ているので、僕の記憶にもその光景が残っている。
それが最後の晩餐だった。母がもう一度、祖父の様子を見に行ったときには、息をしていなかった、と云う。
「ヒロミ、帰ってきたながあ」
満面の笑みで、祖父は僕の帰省を喜んだものだった。
そんなことも知らずに、父は全てが済んだがごとく、笑って酒を飲んでいた。
何も済んでいない。
僕はそう思っている。思ってきた。
僕が高校生の時、父は、もう大丈夫だと公言していた。だから、母はあの夜、ああいう話を切り出したのである。満を持して。
「お父さんが病気だった時は、大変だったよね、ヒロミ」
「ああ、大変だった」
細心の注意を払った上での、あの些細な言葉に、父は過剰反応した。
「お前たちは、俺の古傷をえぐるつもりか」
父は、何も治っていなかったのである。
役所の仕事が多忙を極め、家にまで持ち帰るようになったある夜、仕事中に寝室の炬燵に入って、仮眠を取っている最中に、母が異変に気づき、救急車を呼んだ。サイレンを鳴らさないで来て下さい、と母は電話口に伝えた。
父が担架で救急車の乗せられた最初の出来事である。
くも膜下出血だった。
母の初動が正しかったため、父は多少の後遺症はあるものの、奇跡的に一命を取り留めた。しかし、その治療過程で、父はうつ病を発症したのだ。
母は、降圧薬(高血圧を下げる薬)の副作用じゃないか、と言っていた。まあ、そういう可能性も考えられるのだろうが、とにかく、父は、重要な仕事を任されていたのに、途中で投げ出す形になり、迷惑をかけた、という気持ちが強く、それがうつ病発症の直接原因となったわけである。
そして、焼身自殺未遂。
事件の翌日、地方紙のトップに、その火災のことが載った。したがって、そのニュースは狭いコミュニティ全体に駆け巡ったのである。
それらの記憶が、父の脳裏から生涯消えることはなかったとしても、全く不思議ではない。
今でも。
あれ以来父が心がけたことは、再び自殺はしない、ということだけだ。実際父はある時それを僕に自慢げに公言した。そのため、親戚中で、一番早く死んでいたかもしれない父は、一番最後まで生きながらえた。そして、ようやくお迎えが来るようなのである。
遂にこの日がくるまで、父は僕たちに一度たりとも謝ることはなかった。本当は、母が生きている間に、母、二人の姉、僕を前に、あの時は大変に迷惑をかけた、と言ってほしかった。いや、少なくとも、あの夜切れるのではなく、大変だったと認めた上で、さらりと、迷惑をかけた、と言うのが、最もハードルが低いやり方だったのではないか。
あなたがやるべきことは、長生きすることではないですよ。完治すること、すなわち、僕たちに謝罪することでした。そんなこともできないまま、あなたは、今、死の淵に立っています。
僕が中学二年生の時だったと思う。当時父は市の教育委員会の係長で、僕の母校にも仕事でときどき顔を見せていた。
父が教務主任に会いに来たある日、父は僕の校内活動を目にしたらしい。夜家で、こんな事を言われた。
「お前って、学校であんなに暗いのか」
父は、自分の自殺未遂が僕の思春期に暗い影を落とさなかった、と心から考えていたのだろうか。落とさなかったはずだと、思いたかっただけなのか。
どちらでも今さらどうでもいいが、僕は長い間、その事に苦しんでいたのだ。
祖父は酒乱、父はうつ病。これらは僕に完全に遺伝するはず。長い事、そう考え、外でしか遊ばなかった僕は徐々に内向的な人間に変わっっていった。それは確かに悪いことばかりではない。その御蔭で読書量が増え、僕の人間形成に良い影響も与えたことは否めない。
しかし、父の自殺未遂は、僕の人格形成に大きな影響を与えた。暗い影響を。
それを漸く振り切れたと想えたのは、大学一年の特別講座での発表の日だ。二十人ほどの選抜の講座で、僕は一年生で唯一合格して入座していた。夏休みの課題として、僕は長編の評論文を書いた。原稿用紙百枚超の。
内容は、僕の内面にも迫る、現代人が抱える生についての考察だった。
『現在、あまねく日常化してしまった「無気力」についての考察』
思いの外、教授の評価が高く、夏休み明けの最初の授業で、発表するように言われ、その後、皆で議論した。
四年生の男性が、意見として、暗い話、という感想を述べたことだけ、今想い出す。教授は、授業の後、僕を呼び出して、大学懸賞論文への投稿を促した。しかし、僕は、それには応じなかった。後にそのことを僕は後悔するが、僕は当時、そういう人間だった。父に似たのかもしれない。すぐに諦める。
でも、自分の中には、この評論文によって、自分の出自、遺伝、血統に対する不安との決別が叶ったことは疑い得ない、という実感があった。それだけで十分だったのだ。
僕の心を救ったのは、父の謝罪ではなかった。この評論文に他ならない。この執筆によって、自ら乗り越えたのだ。
二度目に、父が僕を見捨てたのは、僕が大学を休学して、渡加したときである。時は湾岸戦争の真っ只中だった。そういう心配から、父は僕が事件に巻き込まれて死ぬ可能性があると覚悟したと云う。
だったら、なぜ、そういうことを出発前に僕に言わなかったのだろうか。仮に、死体に成って僕が帰ってきてから、僕に報告するつもりだったのか。
僕には、そういう刹那的な父が理解できない。もっと感情的になっても良い場面なのではないか。一方の母と言えば、そういう悲観的な考えはない人なので、諸々ひっくるめて、腹をくくっていただけだろう。
三度目は、僕が最初の結婚に失敗して、離婚すると切り出したときだ。
父は、僕と縁を切る、と言ってきた。
このように常に、いとも簡単に、別れを告げる人なのである。そういうところは、自殺未遂から、何も変わらなかった。
想い起せば、父は短気な人だった。自殺未遂前の話だ。
常にイライラしていて、幼い僕が飲み物をこぼしたり、何か些細な粗相をすると、舌打ちをして小言を言ったものであった。考えて見れば、僕に対してだけだったような気がする。二人の姉にはそんな対応はしていなかった。一人息子で、長男なので、厳しく育てるつもりだったのか。いや、それなら、母も相当に厳しかった。むしろ、母のほうが厳しかった。馬鹿、の一言で二時間正座をさせられて、説教されたことがあった。でも、母のそれらは教育的指導であることは、子どもながらに感じていた。一方の父は、なんというか、ただヒステリックなのである。あれは、完全に八つ当たりの領域であったろう。
お祭りに家族で出かけた時、かき氷屋に入った。僕はたぶん五歳くらいであったろう。手をすべらせてかき氷をテーブルにぶちまけた。またお前はと父のヒステリー。あるときなど、虐待まがいな事もあった。淀川と雄物川の合流地点に、家族で散策に出かけた時だ。落ち着きがない僕ははしゃいで、川岸をちょろちょろと危なっかしく飛び回っていた。そんなことをしていると落っこちるぞ、と父が注意をしたが、僕は言うことを聞かない。そのうちに、本当に足をすべらせて、川に転落した。と言っても、急な流れではなく、手を伸ばせば届く範囲内をゆっくり流れていく僕を、父は教訓とばかりに、しばし放置したのである。五歳時である。大人が見れば大したことはないと思っても、幼子には恐怖でしかなかった。だから、僕の記憶に残っているのである。
今になって、冷静に父の心境を分析すると、父は小さい頃から周囲から神童と言われるほど、常に書物を読んでいたらしい。野良仕事に行くリアカーの中でも、歩くときも。また、記憶力がすごく、授業で一回聞いたことは全部記憶して、家で復習などしなくとも、テストの成績は常に一番だったと云う。本人が後に僕にそう話したことがあった。
「一回聞けば、忘れないんだよ」
まあ、つまり、天才なんだろう。
そういう父だから、幼い僕を見て、自分とは真逆の人間だと嘆かざるを得なかったのではないか。これでは、勉強も大して出来ない子だろう、と。だから、注意して教育しなければならないし、一回言っても分からない僕に、イライラしていたのだろう。落ち着きがない、落ち着きがない、と良く小言を言われたことを今更ながら、想い出す。幼い男子など、落ち着きがなくて当たり前ではないのか。
そんな父が、突然、叱らなくなった。いや、僕がそう感じただけで、もう少し前から、ずっとそうだったのかもしれない。仕事を家に持ち帰るようになったあたりから。とにかく、僕がそれに気付いたのは、父の自殺未遂の数週間前だった。
僕は当初、父は僕に対して、さじを投げたと感じていた。何回言っても駄目だから。それでも、何故か僕は小言を言われなくなって良かったとは考えずに、父の機嫌を取ろうとした。とにかく感情が無いのである。何を言っても目ぼしい反応なし。
その最たる瞬間が、父が自殺をした日だった。その先日、小学校の体育館に有名な女性歌手がミニ・コンサートにやってきたのだ。市民にサービスで配られたチケットは世帯に一枚。僕は特別に、それを渡されて観に行った。そのコンサートの凄さを父に僕は嬉々として語った。そうすれば、流石の父も喜んでくれるのではないか、と考えたのである。それがあの日の正に午前中だった。
しかし、父は変わらず、無反応で、そうか、と一言言っただけだった。その茶の間の炬燵には、当直の母を除く全員が入っていた。そんな話を父にしたってしょうがないだろう、と姉たちは感じていたのだろうか。僕に助け舟は出さない。僕はまた、落ち着き無く、一人ではしゃいでいる子として、浮いていた。
この話題でも反応が無い、ということは、もう無理だ、と僕はひどく肩を落とした。その矢先である。さっきまで居たはずの父がいない。最初にその異変に気付いたのは、祖母だった。
当然のことだろうが、あの日を堺に、世界が父を見る目が変わったのだ。
腫れ物。
再び、あのようなことが無いように、細心の注意を払わなければならない。それは天命のように降ってきた、家族のミッションだった。父の兄弟である叔母二人を含む、家族全員に課された使命だ。何十年にも渡って。それは今も続いていた。
どうせ、冷酷な息子は、父を一人郷里に残し、末期に際しても、愛情を向けない、と叔母などはきっと非難の目を向けているに違いないのだ。でも、この親子の絶縁を最初に招いたのは父であった。
僕が婿養子に入る、と最初に相談した時、俺は一人だし(母がいないから)、何もしてあげられないから、その方が良いのかもしれない、と。その一言で、事はトントン拍子に進んで、複雑な養子縁組の書類が作成され、父はその書類に捺印したのである。相手方が無理やり事を運んで、ハンコを強要したわけでも何もない。
それが済んでしまって、しばらくして、父は一転、それは間違いだったと反旗を翻したのである。
どうして、そんな事になったか、と振り返れば、妻が母の法事の時に、すぐ上の姉の長女(当時五歳ほど)に、鼻が垂れている、と言った事を叔母たちが咎めたのだ。まあ、その前から、法事の振舞の席で、宿題をしている姉の長男(当時小学二年生ほど)に対して、そんなこと今やる必要があるのか的なことを言ったことが、そもそも、姉の気に触ったのであろう。
この些細な、取るに足らないイザコザは尾を引く。僕らが、母の供養のために家族皆で行こうと企画していた高野山詣でについて、姉家族が不参加、と言ってきたのである。それは、どう考えても、あのイザコザに対する対抗措置以外の何物でもなかった。流石に、これには、企画の言い出しっぺの思いとして、怒り心頭に発した。そんなくだらない事で、大事な供養にケチが付いて良いのか。良い訳がない。それを父に言ってみた。
「供養を台無しにしたのは、お前たちのほうだろ。法事の時に」
完全にノックアウトされた気分だった。
それで、結局、高野山は、僕と妻と父の三人で行くことになった。一番上の姉夫婦とその子達も不参加を表明したからだ。父が、俺も行かない、と言わなかったのは、そこで完全に絶縁状態にしないためだろう。でも、その思いは何の役にも立たなかった。どう取り繕っても、僕の妻サイドと、僕の実家とは完璧な溝は出来てしまったからだ。
僕は、完全に二つの分断の間に挟まってしまった。
この分断を解消できる人は居るとすれば、それは母以外に無かっただろう。しかし、母はこの世にはすでに居ない。
まあ、そもそも、母が生きていれば、婿養子の話は起こっていなかっただろうが。
結論を急げば、僕の家族の崩壊は、母の死によって始まったのである。
母は末期のベッドで僕だけに語った。
「お前に家を取らせるのは可哀想なんだよ。お前は本当は長男じゃないから。もっと自由にいろいろな世界を見る人間なんだよ、本来は。こんな古臭い田舎に縛られずに」
僕が生まれる前、母は子を一人堕ろしている。その時初めて僕はそれを知った。
母の実感では、それは男の子だった、と言う。その子を堕胎して、そんなに時が経っていないのに、僕が生を受けることになったのだ。母は二十九歳で、健康状態が良くなかった。担当医は、危険かもしれない、と診立てた。父は、今回も堕ろしてくれと母に懇願した。
「いや、この子は生む。これはどうしても生まれてきたい命なんだよ。だから、こんなに早く授かったんだよ」
堕胎すると着床しやすくなると言うのは、医学的には常識らしい。でも、母には感じるものがあったのだ。それに、そう何回も命を無駄に出来ない、というシンプルな良心もあったと想像する。
結果、僕はこの世に生を受けた。父の望みどおりに母が決断していたら、僕はこの世には存在しなかったのだ。
医者の診立てどおり、母は産後の肥立ちは酷く悪く、長く入院することになった。僕は、母の姉に預けられた。寮母をしているような面倒見の良い叔母で、その後も大変にお世話になったものだ。その叔母が、母に言った。
「この子は五歳までは生きないよ」
粉ミルクを飲んでも、すぐに吐いた、と云う。飲むのは薄くした重湯のみ。それでは栄養価が足りない。病床の母は母乳など無理なのだ。いろいろな人に相談した結果、脱脂粉乳のような物(豆乳に近いものではないのか)だけは飲んだ。叔母は、それを味見したらしい。
「あんな不味いものを、よく飲んだんだよ、やっと」
その時は笑い話だったが、当時の叔母は必死だったと想う。何とか、この子を生かさないと。
そんな死にかけた子が、こんな五十過ぎのおじさんになって、二人の子が居る。奇跡と言って良い、ありがたい話なんだ。
そんな叔母と、父は晩年諍いを起こしたと云う。何が原因なのか詳しくは聞かなかったが、年寄り同士の事。どちらの言い分も成り立つのだろう。しかし、父は叔母よりも年下であり、長年大変世話になったことを考えれば、叔母を立てるべきなのは、明白である。
そのことだけでは無い。父は晩年、いろんな人と諍いを起こしている。長年の親友とも。
それは、大事な長男を手放した事を引きずって、自暴自棄になったからかもしれない。そんなことが続き、いつの間にか父は孤立していった。
父と言うのは、結局そういう人間なのだ。
困難を前向きに捉えて、力に変える。そういうことが全くできない。
そうでなければ、神童と言われた男。祖父のせいで、大学に進学できなくとも、好きな歴史を独学で極めていったはずである。何も研究というのは、大学で学ばなくては不可能なものではない。そんな人は、世界中、有史以来、銀河系の星の数ほど存在するのだ。
でも、しなかった。
それは父自身に問題があったので、それを、祖父のせいにしたり、父の歴史の授業のライバルだった、僕の高校の恩師を羨み劣等感に苛まれることではない。また、歴史物の書籍や雑誌を片っ端から購入して、それを四六時中読んでいれば、それで良い訳でもないのだ。
父はある日、こんなことをこぼしていた。
「俺は、古文書を読めないんだよ。これさえ読めれば、あいつに負けないのに。大学行けないと、こうなる」
そんな事はない。実際僕は、最初は読めない古文書を今、独学で読めるようになっている。独学と言っても、特別な事は何もしていない。何度も何度も繰り返し読んでいるだけなのだ。
父の言い分は、単なる良い訳に過ぎない。それは一般論としてそうなのだ。
想い返せば返すほどに、僕は父から何を受け継いだのか、と考えてしまう。
ほとんど何も無いのではないか、と思える。考えれば考えるほど。
歳を取って、容姿は似てきたと思う。あとなんだろう。性格とかやっていることは、真逆なのではないだろうか。むしろ、いまやっていることは、祖父がやっていたことに近い。
そして、趣味の志向は、母に近い。子育てには祖母の知恵が役立ってきた。
父親なんて、そんなものだろう、と言うかもしれないが、僕も父親なのだ。僕が今やっていることの一つでも、父は僕にやってくれただろうか。
釣りか。
初めて釣りに父が連れて行った時、何度も糸をコンガラガラせて、父の小言が始まった記憶はある。それも釣りの手ほどきに違いない。
もう、お前は連れてこない、と父は最後に言った。
その後、僕が渓流釣りにハマったのは、親友と、釣りアニメがきっかけである。父がきっかけではない。
スキーか。
まあ、寒くて嫌がる僕を無理やり小学校のグラウンド近くの斜面に連れ出して、スキーの手ほどきをしたのは、確かに父だ。しかし、スキーを楽しんで遊びとしてやり始めたのは、それから五年ほど経った小学生になって、やはり友達との遊びがきっかけである。
勉強か。
父は保育園の時、僕に夕食後、足し算の問題を解かせていた。だから、一年生の頃、僕は算数が良くできた。しかし、二年生になると、全く勉強をしないで、外で遊んでばかりいた僕は、すぐに成績が悪くなった。勉強も好きではない。そんな僕が、友達がみんなやっているからと言ってそろばん塾に通い始めた。その入塾に僕を連れて行ってくれたのは祖母であり、月謝も彼女が年金から出してくれていた。
確かに、とば口はいつも父かもしれない。でも、きっかけは父ではない。冷たい言い方ではあるが、そうなのだ、実際。
父はあまり、物事が長続きしなかった人だった。母も生前、そういうことを何度が口にしていたのを記憶している。
一回聞けば忘れない天才肌は、それだけに、努力の意味を、出来の悪い人ほど知らないのだ。ちょっとやればできるから。
そういうわけで、最初だけ導いてやれば、それで十分だと、あるいは考えてしたのかもしれない。
残念ながら、僕は父のようにはならなかった。しつこい性格である。駄目と分かっても止めない。一回好きだと決めたら、ずっとやり続ける。
そういう所は母に似たのだ。もちろん明確な教えもあった。
「何かをやり遂げるには、何ふり構わない意志が必要なんだからな。覚えておけよ」
やりたいことのためには、周りのことは犠牲にしないといけない、と僕は肌身にしみて、経験上解っている。二兎追うものは一兎も得ず、というのは、意外に重い諺なのだ。
母は、看護師をしながら家事をやり、草月流を習い、ママさんコーラスの練習もしていた。そんな母を、祖母や叔母たちはあまり良くは見ていなかった。実際、そういう事を口にしていたと想う。いや、表面上よりの内心の方が強烈に批判的だったであろう。しかし、母はそんな状況はもろともせず、何事もマイペースに続けた。
それで、草月流は師範を取得し、弟子も養成しはじめたのである。もちろん、その間に、父は病気になり、自殺未遂をした。叔母たちは、母が父の健康管理を怠ったから、そういう事態に陥った、と陰口を言っていた。そういう逆風の中、母は自分の事を続けていたのである。
形振り構わない、ということはそういうことだ。世の成功者を見てほしい。多くは家庭を犠牲にしている。
僕は、それに近い子育てを今している。ちょっとの努力では、それなりにしか成り得ない、と。だた、やるかどうかはあなた次第、と。
さて、お父さん、あらためて訊きます。
あなたは僕に何を授けてくれたのでしょうか。
こんな気持になる前、僕はずっと引け目を感じていたのだと思う。
祖父母が居て、経済的にも普通以上だったため、大学まで行かせてもらって、休学してカナダ、アメリカを旅して、第一志望だった出版業界に入ったものの営業職で、うだつがあがらなく、結婚したもののすぐに離婚して、転職してようやく編集の仕事を手にしても、自分がやりたい企画が通らず、不平が絶えない。そんな自分は何者にも成り得ない、と腐っていた。恵まれているはずなのに、申し訳ない、と。
そんな時に、母が末期がんを宣告されたのである。
僕のせいだ、といい歳して真剣に落ち込んだのである。好き勝手をやって、離婚したせいで、バチが当たった、と。
父がうつ病になったときも、僕が何度やっても落ち着いて行動しないために、父は変になったのではないか。そんなふうに幼ながら感じていた。全く同じ気持ちになっていた。トラウマのように。
でも、今度は、誰も母を助けられない。母は簡単には諦めず、新しい治療法の治験を受けたいと、大阪の大学まで出向いた。しかし、教授の返答は芳しくなかった。
いよいよ駄目だと、母が諦めた時、僕はどうすることも出来なかった。毎日見舞うことぐらいしか。どんなことをしたって、どうにもならないし、今までの自分の親不孝が帳消しになることはないし、母も元には戻らない。
もう危ない、と一報が届いた六月、僕は急いで帰省した。ところが、母は何事もなかったように、ベッドに起き上がって、父と歓談していた。
「なんだか、変なんだよなあ。すっかり元気になって」
そんなことを言って父は笑っている。そして、僕に遠慮してか、父は先に帰ったのだ。
しかし、そんなに甘くはなかった。
風前の灯、とは良く言ったものだ。
僕も、その時明確に、これがそうだなどと、気付いていたわけではない。しかし、母が寝入ったことを確認して、帰る(最終の新幹線で東京の戻る)間際に、何か虫の知らせがあったのかもしれない。僕は、母に手紙を書こうと、カバンの中を物色したが、便箋などあるわけがない。会社からまっすぐ飛んで帰ったのだから。僕は原稿用紙を出して、鉛筆で手紙を書いた。
お母さんへ
たぶんね、お母さんがこういう風になってしまったのは、僕のせいです。
仕事も落ち着かない。ようやく結婚したと思ったら、子どもができないまま、離婚することになったり。
僕がダメだから、いつまでたっても気が休まらずに、心配ばかりかけてきたせいで、お母さんは病気になってしまったのですね。
ごめんなさいね。本当にごめんなさい。
親不孝ばっかりで、何一つ、安心させてあげられなくて。
今夜は、ゆっくり休んでください。
また、来ますので。おやすみなさい。
ヒロミ
翌朝、母の容態は再び急変した。
昨日、母に嗜められた言葉がそのままリアルに蘇った。
「お母さんが危篤になっても、慌てて帰ってくんじゃないぞ。ゆっくり、落ち着いて、いろいろなことをすっかり片付けてから、それから来るのだぞ。親なんだから構うこと無い。礼服だって全部持ってくるんだよ」
僕は言われたとおりに実行することにした。
その朝、普通に会社に出勤した。
電車の中で、早朝の強風のため、倒木があり、東北新幹線が停まっている、というニュース。
まずは、会社で、状況を説明して、再び帰省しなければならず、おそらく、今回はしばらく休みをもらうことを説明した。
関係のパートナーや、クライアントに連絡した上で、仕事を引き継いだ。
そうこうしているうちに、午前中は過ぎていった。
ようやく、東北新幹線が復旧したのは、三時過ぎだったと記憶する。
僕は東京駅に向かい、切符を買うとホームに上っていった。ホームを歩いていると、前を見覚えのある人間が歩いている。
一番上の姉であった。
九州から飛行機で羽田に。羽田から東京駅に来たが、新幹線が停まっていて、右往左往したらしい。結果、偶然にも僕と同じ新幹線だという。ホームの両サイドに下りの新幹線が入ってきていて、どっちに乗ればいいか、迷っていたところだと言う。僕は、左側ね、と教えてあげ、自分の車両に乗った。
後から、姉は、あの偶然は、お母さんが仕向けてくれたんじゃないかな、と言っていた。
病院に着くと、酸素をつけられた母が、病室を移されるところだった。
その時、母は確かに一瞬目を覚ましたのであった。
僕が母の視界に入った時、母は何か僕に言った。声にならなかったが、何か顔をしかめて言ったのだ。でも、その後、再び目を閉じた母が再び目を開けることはなかったのである。
真ん中の姉が到着し、家族が全部揃った夕方、母は息を引き取った。
死にゆく人は、大切な人を待ってから息を引き取る。誰かの言葉だ。母は、正にそのとおりに亡くなった。
あの最後の時、母は、僕に何を言ったのだろうか。あの手紙は読めたのだろうか。
僕は、あの手紙のときの気持ちを、その後そのまま引きずって生きてきた。あのときの気分のまま。
【僕が母を殺したようなもんだ】
本当はやってはいけないことだろうけど、妻の実家に住むことなってからも、自室の一角に母の写真を立て、毎朝祈りを欠かさないできている。
どんなに供養しても、しきれない。そういう気持ちなのだ。
あのメールから一週間ほど経った。
今度はメールではなく、スマホに着信だった。真ん中の姉の名前が表示されている。
はっきりするしかない、と一瞬で腹を括り、受ける。
「はい」
「あ、ヒロミくんが」
「何」
「お父さんよ、入院して。〇〇◯病院さ。そしてよ。もうそろそろだと想うんだ。意識も混濁することが多くて。担当の看護師さんも、今のうち、ご家族を呼んでください、ってよ。お父さんもよ、時々、病室の入口を見でで、ヒロミくんばよ、探してるみたいなんだ。やっぱりよ、ヒロミくんの事が一番好きなお父さんだから」
僕は長い時間、沈黙して答えない。
姉も返事を待っているようだ。一分ほどして、僕はようやく喋った。
「僕は、よく考えて、あなた方と縁を切ったのね。一時的な衝動で、そんなことをしたわけではない。だから、こんな電話で、浪花節を聞かせられたからといって、はいそうですかなんて簡単に言えない。うちの息子や娘も、お父さんの記憶なんて無い。ぜんぜん可愛がってもらってないから。あんたらの子はさんざん目をかけてもらって思い出もあるだろうけど。この間、考え過ぎたけど、そんな愛情の薄い人のために、何ができる。家内だって、何してもらった。息子を盗まれたって、言われ続けてきたんだぞ。こんな電話一本で、それら全部を帳消しになんてできるわけねえだろうが」
今度は、姉のほうがしばらく沈黙。
「そうですか。でも、もう長くないから」
会話はそこまでだった。
感情というのは、しばし、自分が放った言葉を糧に、増幅するものである。
会話を一部始終聞いていた妻。
「ヒロミくんだけ行ったら。私に気を使うこと無いよ」
「気を使ってない。行かない」
「ええ、そんなの変だよ。後悔するんじゃない」
「そうかもしれないけど、行かない」
そう発した言葉のせいで、僕の気持ちが固まったのだと思う。
僕は父から、何を受け継いだのだろうか。
あの電話の後、そのことを繰り返し自問した。しかし、答えはノーだ。
僕が思春期の入口で、あなたは精神を病み、死にかけた。それ以来、あなたと腹を割って話したことがありますか。唯一あったとすれば、僕が離婚すると言って、あなたがそれなら親子の縁を切らなければならない、と言った時だけですよね。
それでも、お陰様で、僕は、ばあちゃんの、じいちゃんの、おかあさんの、おばさんの、おじさんの、大叔母さん、大叔父さんの、彼らの愛情をたっぷり受けて育つことができたので、自分の息子と娘との関係に何ら問題もなく過ごせています。この後も、いろんな困難があると思いますが、何とかやっていけるでしょう。あなたの心配には及びません。
あなたは遂に、一回も謝罪すること無く死んでいくのですね。むしろ僕が薄情な息子だと思いながら死ぬのですね。
僕はこれまで、母が病になったのは自分のせいなのではないか、と実しやかに信じて生きてきましたが、実際はあなたが負うところが大きいのではないでしょうか。なぜならあなたが毎日母とともに暮らしていたのだから。何か兆候とかなかったのですか。気づかなかったのですか。一つも。
【お父さん、いい加減あなたのことは、もう永遠に忘れ去っても良いですか。あなたの呪縛から解放してもらって良いですか。】
そういうわけで、僕はあなたを看取るつもりも、あなたの葬儀へ参列する気もありません。
これから、娘の進学のことで忙しくなりますので、そちらに専念するつもりです。
やっぱりお前は冷たいと、また切れますか。もうそんな生気はないですよね。あと、一週間くらいの命でしょうから。
それでは、こちらで失礼いたします。
今度こそ、本当に、さようなら。
封書だったら、それが明らかに不幸の手紙だと分かるだろうし、微妙だと想った瞬間に開封を止め、ゴミ箱に直行、そうでなくても不要な書類の塊の上に載っけておけば、そのうちに忘れ去られ、運悪く再び手に取ることになっても、最早手遅れのタイミングになっているはずである。
しかし、メールは、時に、そうはいかない。
しかも、これは、このメールは、しばしばでも、稀にでもない、考えてみれば、恐らくはあの人からの最後の手紙の匂いがする。
それでも、僕は動じない素振りで、そのメールを既読処理し、開かずに放置した。
それからおよそ二日。
メールは次々にやってきて、当該のメールはどんどん下に追いやられ、そのままいけば、期待どおり、無かったこととして埋もれるはずであった。
ところが、今度は別の者から追い討ちのメールが届いた。
このメールは、当該のあの人からのメールに関連した事案であって、どのような類の内容であるか、だいたい想像がついた。
息子が就職をした年であり、娘が中二だったから、今から五年前のことである。
僕は、実の父親と、すぐ上の姉と、内心、縁を切った。
三島の姉が秋田の実家に戻って介護をしてくれるという事に感謝をするどころか、預金を勝手に下ろした(彼曰く、盗んだ)ことで喧嘩し、出禁にした父にほとほと愛想が尽きたのと、そういう父の言動が影響はしただろうが、自分の引きこもりの娘(三十近い)がいよいよ精神が危ないからという理由を引っ張り出してきた姉は、介護を僕に譲りたいと一方的なメール(ライン)を送り付けてきたことに、僕も妻も完全に呆れ果て、仕方なく承諾するなどという選択余地がなかったからである。ちなみに、公明正大に親戚中に「(役立たずの長男に代わって)私が墓を守り、父の面倒を見ます」と触れ回った際には、僕のところへ、郵便封書で宣言書が送られてきた。無論、その封書も、ラインの文面もコピペで文書データにして、証拠として保管している。
さらに、肝心な時には何の役にも立たないくせに、言い易いときだけ長女面をして、取りなしてきた一番上の姉の言葉にも堪忍袋の尾が切れたのであった。
「シンイチあんちゃんが、ずっと雪降ろしに来てくれて、お父さんの面倒を見てきたし、レイちゃんもずっと介護してきてくれたし、もうあと長くないんだから、私も休み取れたら行こうと思ってるんだ」
要するに、僕だけが何もしていない、と言いたいわけである。
「婿養子になって以来、親子の縁を切り、そして、レイと二人でやっていくことを決めたのは親父で、今さら、俺に何を求めるんだよ。自分でやるって啖呵切ったのはレイなんだから、最後まで責任持ってやってもらいたいね。俺にはもう関係ないよ」
そう伝えたら、妻も溜飲が下がったようだった。
考えてみれば、父は僕を何度も見捨てた。簡単に諦めるのが彼の特長であり、そういう性格が災いして、いろんなことが上手く行かず、自動的に追い込まれていく。
そもそも、僕を最初に見捨てたのは父なのだ。実家を捨てて、婿養子に入ったような人間は親でも子でもなく、従って、僕の子どもたちも孫ではない、という態度で、疎遠にし始めたのは、父の方である。
人の親になって初めて、自分の親の気持ちが解るとは良く言う。
戸籍の書類上の関係が親子でなくなったかもしれないが、それによって実際の親子として接することを止めるという態度は、前近代的な話であり、性格の問題を差し引いても、そういう愛情の薄い人間とは、これ以上関わりたくない、と僕は思った。
昔、英国の超有名ロックバンドのギタリストが、雑誌のインタビューで語っていたことを想い出した。
「俺は、自分の娘がドラッグ中毒から立ち直れなくなったとしても、愛していると抱きしめる」
親とは、そういうものなのではないか。
亡くなった祖母、つまり父の母親も、愛の人であった。
若気の至りで最初の結婚に失敗した僕に、祖母は言った。
「悪いオナゴだったな」
僕が何度も、離婚の原因は僕で彼女ではない、縁が無かったんだと説明しても、祖母は自分の考えを曲げるつもりは無いらしかった。
そんな祖母を、父は、学がないとバカにしていたし、夫である祖父は四十代に酒乱となり働かなくなったことで、自分が大学進学できなかったと、生涯恨み、口を利いた例がほとんど無かった。
しかし、僕に子どもができて、子育てをし、養父母の面倒を見ている中で、いろいろ気付いたこともあるし、冷静に考え、振り返ってみると、あの父親には愛がないし、最初に僕を見捨てたのは父だ、と確信するに至ったのだ。
「お母さんが危篤になっても、慌てて帰ってくんじゃないぞ。ゆっくり、落ち着いて、いろいろなことをすっかり片付けてから、それから来るのだぞ。親なんだから構うこと無い。礼服だって全部持ってくるんだよ」
病院内の美容院に行きたいというから車椅子押して連れて行く僕に、母は突然そう言った。
そのおよそ一年後、それはまさに予言どおりにことが運んだ。
台風のために倒木が線路にかかり、東北新幹線は運休していた。僕は会社に連絡し、仕掛りの仕事の得意先、パートナーに連絡を入れ、ニュースで運転再開の目処を自分なりに立てた上で、荷造りを終え、喪服も持って家を出た。
ちょうど運転再開のアナウンスが流れたときに、僕は東京駅の新幹線ホームにたどり着き、偶然にも、どの新幹線に乗れば良いかわからず一人途方に暮れる一番上の姉とばったり遭い、同じ新幹線で、郷里に向かった。後から知ったが、同じ新幹線に真ん中の姉(レイコ)も乗っていたらしい。
僕らが病院に着いてすぐ、母の容態はいよいよ重篤になったのであった。母は正に、家族が皆揃ってから、息を引き取ったのである。
長年看護師として生きてきた母にとって、自分が今どの段階に居るのかということは、一般人以上に分かっていたはずだ。また、過去に担当した臨終に近い患者を多く診てきただろうし、また多くの臨終に直面してきたであろう。良い死に方、あまり好ましくない死に方、死者の心残りなど。
いつか母はこんな話をしたことがあった。
「夜勤明けで帰って、台所に立ち、なんかまな板で切ってる時、ふと、声が聞こえたんだよね。あれ、この声、聞き覚えがあるけど、誰だったかなあ。気のせいか。その時は深く考えなくて、そのまま忘れたんだよ」
その患者は、母の担当ではなかったが、田舎町のこと、病院内で良く会い、母とも親しかった、山間地に住む、六十代の女性だった、と云う。
あれは虫の知らせであった、と母は語った。
翌日、母は病院に出勤して、真っ先に知らされた。その患者は昨晩容態が急変して亡くなった、というのだった。
「あ、その人の歌声だったんだ」
母は、その時やっと気付いたと言う。
母は、その人のお通夜に、山間地まで父に送ってもらい出向いた。そこで、忘れられない体験をしたのだ。
遺族は、母のことを覚えていて、故人も喜ぶから、顔を見てあげてください、と言ってくれた。それで、母は膝を進めて、打ち覆いを外した。その瞬間。死者の顔がぎゅっと顰め面をしたのだ。母は、とっさに仰け反って、後ろに逃れたと云う。科学的には、それは死後硬直の一種ではないのだろうか。
「お母さんが来てくれて、喜んだんじゃないの」
その僕の励ましに母は食い下がった。
「いや、あの顔は、何で報せに行ったのに、来てくれなかったんだ、そういう顔だった。責める顔だ」
死者の『お迎え現象』はよく言われることである。
父の死を目前に控えて、こうして母の事を考えていると、いろいろ想い出す。
母は定年後、本当に親戚や親しい知人を良く見舞っていたものである。六十に成って猛勉強をして自動車免許を取得し、嬉々として、出かけていった。時には、まるで往診でもするかのように。行けば、元看護師のこと、いろいろ世話を焼きたくなるだろう、本人にも家族にとっても。母にとって、看護師はライフワークのようなものだったんだろうな、とつくづく思うのだ。
そんな母は、自分が末期がんとなり、もうほぼ助からない、と聞かされて以降、本当に人が変わったように、物事に対して、全くと言っていいほど、気力を無くしていったものだ。そればかりか、あれほど大らかだった母は、怒りっぽくなり、簡単に悪口を言うようになったのであった。
担当の看護師曰く、末期がんの方にはよくあることなんですよ。無理もない話なので、あまりに真に受けないほうが良いですよ、とのことだったが、正直僕には大きなショックであった。人は、ここまで変わるものなのか、と。
特に父に対しての風当たりは半端ではなかった。
「来たって、何の役にも立たねえ。そこのソファに寝転んで、週刊誌めくってるだけ。居眠りしながら。ほんと、ガサガサうるさいから、来なくて良い」
僕が特別休暇を会社にもらって、帰省し、最初に父と一緒に母の病床を見舞った時、母が開口一番僕に言いつけた事であった。
父は、本当に、次回から僕に同行しなくなった。
ベッドサイドのテーブルの高さが良くない、とか、個室のトイレに立つときに、あのゴミ箱が引っかかるとか、いろいろ僕を当てにして言ってくる母。そんな些細なことでも、不器用な父は何も出来なかった、と母は苦言を言った。
「ほんとに、家の事なんて何にもできない。電球一つ替えられない」
その時、僕は初めてそういう事情を知った。確かに、家の周りの事は、父ではなく、祖父がほとんどすべてやっていた。家事は、祖母と母。
それはやりたくないからやらなかった、と幼いときから当たり前に思っていた僕。違ったのか。出来なかったのか、と。
いや、やらないから出来なかったのだろう。母は、それを咎めているのだと。やらないでこれまで生きてきてしまったから、何も出来ないんだ、と。
想えば、母が亡くなって少しして、僕が帰京しなければならなくなった時、父にご飯の研ぎ方、炊き方。味噌汁の作り方、を僕が教えたのだった。そういうことだったのだ。
あと一つ、言いたくないことだが、母は、父よりも早く逝かなければならない事に、強い理不尽さを感じていたのだと想う。
自殺未遂をしたうつ病の父を長年診てきて、ここまで生かして来た自分が、なぜこんなに早く死ななければならないのか、と。父よりも先に。
母を庇うために、付け加えると、彼女はまたこんな事を言ったことがある。
「お父さんは、先々のことが気にかかっているんだよ。それを考えるとタダでさえも蒙昧しているのに、余計に何もできなくなってるんだよ」
母がこうなってしまったことに酷く動転するあまり、父はもともと不器用なのに相まって、おろおろして何もできなくなっている、と。母なりに、父の内心を分析して、彼をフォローするのだった。
僕は、それを聞いた瞬間に、父がまた精神を病んで、良からぬことをしないと良いが、と案じたものだった。
「お父さん・・・、お父さん、お父さん」
雪に閉ざされた、飯炊き小屋の入口から、白煙が湧き出す小屋の入り口を見つめながら、僕は何度も何度もそう叫んでいた、と想う。
町の消防団が、駄目だな、これは、という言葉を残して、母屋の中に消えていったばかりだった。
(駄目だって言ったよね、今。諦めたってこと)
幼いながらも、僕は直感的に彼らの声を聞き取っていた。小学校三年生の僕は。
でも、他の誰かが、もっと大勢の別の人たちが助けに来てくれるはずだ。そういう期待も捨てていなかった。
しかし、次に現れたのは、祖父一人だった。
二メーター以上ある雪の通路を通って、僕の前を行き過ぎ、小屋の入り口に辿り着いた祖父は、小屋の入り口の立板をどけて、雪の壁に立てかけ、迷うこと無く白煙の中に消えていった。僕は、叫ぶことを止め、祖父が父を助けてくれるのを待った。
無理なんじゃないか。待ちながら正直、消防団が、二人がかりでも断念したことを、老人が一人でできるものか。という疑念を抱いてもいた。
しかし、意外に早く、祖父は小屋から出てきた。父を両腕に抱えて。
そこに、さっきの消防団員が再び現れた。
「おお、担架だ、担架」
そう叫んで、確か、その後に消防士と救急救命士が現れて、父は担架に乗せられて母屋の表の方に運ばれていった。僕は、その後に付いて行った。一方、ここから本格的な消火活動が始まったと想う。
救急救命士は、途中、父に何か話しかけ、父もそれに応えたので、意識あり、と言ったと想う。
母屋の玄関を出ると、大勢の人だかりだった。
その一番近い場所に、見慣れた顔があった。
僕の担任の佐藤先生だった。
「ヒロミくん、なんだって・・・」
僕は、思わず、先生の胸に飛び込んだ。
あの後、祖父の姿は見えなくなったのが、少し心配だったが、おそらく大丈夫だろうと、すぐに考えるのを止めた。
あの時、祖父がそのまま父を抱えて、母屋の玄関まで行っていたなら、映画のワンシーンみたいな救出劇に、人だかりが湧いたことだろう。
しかし、現実は真逆だった。
祖父の救出劇は、僕の記憶の中に留まったのみで、その後誰も知ることはなかったのである。いや何度か、幼い僕は周囲にその事を言ったはずである。しかし、誰も取り合ってくれなかったのだった。
祖父は信用されていなかったのである。
四十に成ってから酒を覚え、酒乱と成り、仕事をしなくなった。父が子供の頃は、叔母たちが何度も酔いつぶれた祖父を迎えにいったものだと聞かされた。
さらに、祖父は結婚前に家出をして大阪の吹田に住んでいたことがある。女性と同棲していたらしい。
これは僕の想像だが、あれは徴兵逃れだったのではないか。そういうことも噂となって、祖父は村八分的な存在だったのではないのか、とも。
それはどうあれ、祖父は僕が赤ん坊のときから、僕をかわいがってくれた。それは写真にも残っている。おんぶ紐で祖父におんぶされた僕の写真。もう少し大きくなると、祖父の大きい自慢の自転車の荷台に載せされて、町中を連れまわし、孫自慢をして歩くような祖父であった。
その祖父が、父を救出したのである。白煙が充満し、火の手も上がっていた二階建ての小屋の二階に横たわっていた父を抱え、梯子段を降りて。どうしてそんな軽業師みたいなことができたのだろうか。父は七十キロはあっただろう。祖父も同じような体重だったと想像する。ほぼ垂直に立てかけられた梯子を、おそらく七段くらいは降りたはずだ。信じられないが、そうしなければ、祖父は帰還できなかった。
結局、この偉大過ぎる救出劇は、誰にも知らされないまま、祖父の葬式まで時は過ぎていったのである。僕は、お通夜の振舞の席で、一人涙に暮れていた。
「ヒロミくん、泣いでんな。爺ちゃんは大往生だがら。悲しんではかえって、駄目だ」
祖父が死んだこと、それだけが悲しいわけではなかった。むしろ、そうではなく、あの事を誰も知らないままに、祖父が逝ってしまったことが悔しかったのである。
その助けられた本人(父)は、病気が回復した後も、祖父のことを邪険にし続け過ごしてきた。そして今、ニコニコ笑いながら、酒を飲んでいる。
更に翌日。
葬儀の喪主の挨拶では、罰当たりにも、祖父を小馬鹿にしたような事を語ったのである。
「死の前日まで、三度三度の飯を食べ、元気だった」
こんな酷いことをよく言えたのだね。
あなたがそこで言うべきは、祖父に対する感謝ですよ。
祖父の死の当日の朝。母は、いつものように、祖父の布団の枕元に座って、スプーンでおかゆを与えていたことを僕はなぜか知っている。母が教えてくれたのだと想う。僕が帰省したときにも同じように母がしていたを見ているので、僕の記憶にもその光景が残っている。
それが最後の晩餐だった。母がもう一度、祖父の様子を見に行ったときには、息をしていなかった、と云う。
「ヒロミ、帰ってきたながあ」
満面の笑みで、祖父は僕の帰省を喜んだものだった。
そんなことも知らずに、父は全てが済んだがごとく、笑って酒を飲んでいた。
何も済んでいない。
僕はそう思っている。思ってきた。
僕が高校生の時、父は、もう大丈夫だと公言していた。だから、母はあの夜、ああいう話を切り出したのである。満を持して。
「お父さんが病気だった時は、大変だったよね、ヒロミ」
「ああ、大変だった」
細心の注意を払った上での、あの些細な言葉に、父は過剰反応した。
「お前たちは、俺の古傷をえぐるつもりか」
父は、何も治っていなかったのである。
役所の仕事が多忙を極め、家にまで持ち帰るようになったある夜、仕事中に寝室の炬燵に入って、仮眠を取っている最中に、母が異変に気づき、救急車を呼んだ。サイレンを鳴らさないで来て下さい、と母は電話口に伝えた。
父が担架で救急車の乗せられた最初の出来事である。
くも膜下出血だった。
母の初動が正しかったため、父は多少の後遺症はあるものの、奇跡的に一命を取り留めた。しかし、その治療過程で、父はうつ病を発症したのだ。
母は、降圧薬(高血圧を下げる薬)の副作用じゃないか、と言っていた。まあ、そういう可能性も考えられるのだろうが、とにかく、父は、重要な仕事を任されていたのに、途中で投げ出す形になり、迷惑をかけた、という気持ちが強く、それがうつ病発症の直接原因となったわけである。
そして、焼身自殺未遂。
事件の翌日、地方紙のトップに、その火災のことが載った。したがって、そのニュースは狭いコミュニティ全体に駆け巡ったのである。
それらの記憶が、父の脳裏から生涯消えることはなかったとしても、全く不思議ではない。
今でも。
あれ以来父が心がけたことは、再び自殺はしない、ということだけだ。実際父はある時それを僕に自慢げに公言した。そのため、親戚中で、一番早く死んでいたかもしれない父は、一番最後まで生きながらえた。そして、ようやくお迎えが来るようなのである。
遂にこの日がくるまで、父は僕たちに一度たりとも謝ることはなかった。本当は、母が生きている間に、母、二人の姉、僕を前に、あの時は大変に迷惑をかけた、と言ってほしかった。いや、少なくとも、あの夜切れるのではなく、大変だったと認めた上で、さらりと、迷惑をかけた、と言うのが、最もハードルが低いやり方だったのではないか。
あなたがやるべきことは、長生きすることではないですよ。完治すること、すなわち、僕たちに謝罪することでした。そんなこともできないまま、あなたは、今、死の淵に立っています。
僕が中学二年生の時だったと思う。当時父は市の教育委員会の係長で、僕の母校にも仕事でときどき顔を見せていた。
父が教務主任に会いに来たある日、父は僕の校内活動を目にしたらしい。夜家で、こんな事を言われた。
「お前って、学校であんなに暗いのか」
父は、自分の自殺未遂が僕の思春期に暗い影を落とさなかった、と心から考えていたのだろうか。落とさなかったはずだと、思いたかっただけなのか。
どちらでも今さらどうでもいいが、僕は長い間、その事に苦しんでいたのだ。
祖父は酒乱、父はうつ病。これらは僕に完全に遺伝するはず。長い事、そう考え、外でしか遊ばなかった僕は徐々に内向的な人間に変わっっていった。それは確かに悪いことばかりではない。その御蔭で読書量が増え、僕の人間形成に良い影響も与えたことは否めない。
しかし、父の自殺未遂は、僕の人格形成に大きな影響を与えた。暗い影響を。
それを漸く振り切れたと想えたのは、大学一年の特別講座での発表の日だ。二十人ほどの選抜の講座で、僕は一年生で唯一合格して入座していた。夏休みの課題として、僕は長編の評論文を書いた。原稿用紙百枚超の。
内容は、僕の内面にも迫る、現代人が抱える生についての考察だった。
『現在、あまねく日常化してしまった「無気力」についての考察』
思いの外、教授の評価が高く、夏休み明けの最初の授業で、発表するように言われ、その後、皆で議論した。
四年生の男性が、意見として、暗い話、という感想を述べたことだけ、今想い出す。教授は、授業の後、僕を呼び出して、大学懸賞論文への投稿を促した。しかし、僕は、それには応じなかった。後にそのことを僕は後悔するが、僕は当時、そういう人間だった。父に似たのかもしれない。すぐに諦める。
でも、自分の中には、この評論文によって、自分の出自、遺伝、血統に対する不安との決別が叶ったことは疑い得ない、という実感があった。それだけで十分だったのだ。
僕の心を救ったのは、父の謝罪ではなかった。この評論文に他ならない。この執筆によって、自ら乗り越えたのだ。
二度目に、父が僕を見捨てたのは、僕が大学を休学して、渡加したときである。時は湾岸戦争の真っ只中だった。そういう心配から、父は僕が事件に巻き込まれて死ぬ可能性があると覚悟したと云う。
だったら、なぜ、そういうことを出発前に僕に言わなかったのだろうか。仮に、死体に成って僕が帰ってきてから、僕に報告するつもりだったのか。
僕には、そういう刹那的な父が理解できない。もっと感情的になっても良い場面なのではないか。一方の母と言えば、そういう悲観的な考えはない人なので、諸々ひっくるめて、腹をくくっていただけだろう。
三度目は、僕が最初の結婚に失敗して、離婚すると切り出したときだ。
父は、僕と縁を切る、と言ってきた。
このように常に、いとも簡単に、別れを告げる人なのである。そういうところは、自殺未遂から、何も変わらなかった。
想い起せば、父は短気な人だった。自殺未遂前の話だ。
常にイライラしていて、幼い僕が飲み物をこぼしたり、何か些細な粗相をすると、舌打ちをして小言を言ったものであった。考えて見れば、僕に対してだけだったような気がする。二人の姉にはそんな対応はしていなかった。一人息子で、長男なので、厳しく育てるつもりだったのか。いや、それなら、母も相当に厳しかった。むしろ、母のほうが厳しかった。馬鹿、の一言で二時間正座をさせられて、説教されたことがあった。でも、母のそれらは教育的指導であることは、子どもながらに感じていた。一方の父は、なんというか、ただヒステリックなのである。あれは、完全に八つ当たりの領域であったろう。
お祭りに家族で出かけた時、かき氷屋に入った。僕はたぶん五歳くらいであったろう。手をすべらせてかき氷をテーブルにぶちまけた。またお前はと父のヒステリー。あるときなど、虐待まがいな事もあった。淀川と雄物川の合流地点に、家族で散策に出かけた時だ。落ち着きがない僕ははしゃいで、川岸をちょろちょろと危なっかしく飛び回っていた。そんなことをしていると落っこちるぞ、と父が注意をしたが、僕は言うことを聞かない。そのうちに、本当に足をすべらせて、川に転落した。と言っても、急な流れではなく、手を伸ばせば届く範囲内をゆっくり流れていく僕を、父は教訓とばかりに、しばし放置したのである。五歳時である。大人が見れば大したことはないと思っても、幼子には恐怖でしかなかった。だから、僕の記憶に残っているのである。
今になって、冷静に父の心境を分析すると、父は小さい頃から周囲から神童と言われるほど、常に書物を読んでいたらしい。野良仕事に行くリアカーの中でも、歩くときも。また、記憶力がすごく、授業で一回聞いたことは全部記憶して、家で復習などしなくとも、テストの成績は常に一番だったと云う。本人が後に僕にそう話したことがあった。
「一回聞けば、忘れないんだよ」
まあ、つまり、天才なんだろう。
そういう父だから、幼い僕を見て、自分とは真逆の人間だと嘆かざるを得なかったのではないか。これでは、勉強も大して出来ない子だろう、と。だから、注意して教育しなければならないし、一回言っても分からない僕に、イライラしていたのだろう。落ち着きがない、落ち着きがない、と良く小言を言われたことを今更ながら、想い出す。幼い男子など、落ち着きがなくて当たり前ではないのか。
そんな父が、突然、叱らなくなった。いや、僕がそう感じただけで、もう少し前から、ずっとそうだったのかもしれない。仕事を家に持ち帰るようになったあたりから。とにかく、僕がそれに気付いたのは、父の自殺未遂の数週間前だった。
僕は当初、父は僕に対して、さじを投げたと感じていた。何回言っても駄目だから。それでも、何故か僕は小言を言われなくなって良かったとは考えずに、父の機嫌を取ろうとした。とにかく感情が無いのである。何を言っても目ぼしい反応なし。
その最たる瞬間が、父が自殺をした日だった。その先日、小学校の体育館に有名な女性歌手がミニ・コンサートにやってきたのだ。市民にサービスで配られたチケットは世帯に一枚。僕は特別に、それを渡されて観に行った。そのコンサートの凄さを父に僕は嬉々として語った。そうすれば、流石の父も喜んでくれるのではないか、と考えたのである。それがあの日の正に午前中だった。
しかし、父は変わらず、無反応で、そうか、と一言言っただけだった。その茶の間の炬燵には、当直の母を除く全員が入っていた。そんな話を父にしたってしょうがないだろう、と姉たちは感じていたのだろうか。僕に助け舟は出さない。僕はまた、落ち着き無く、一人ではしゃいでいる子として、浮いていた。
この話題でも反応が無い、ということは、もう無理だ、と僕はひどく肩を落とした。その矢先である。さっきまで居たはずの父がいない。最初にその異変に気付いたのは、祖母だった。
当然のことだろうが、あの日を堺に、世界が父を見る目が変わったのだ。
腫れ物。
再び、あのようなことが無いように、細心の注意を払わなければならない。それは天命のように降ってきた、家族のミッションだった。父の兄弟である叔母二人を含む、家族全員に課された使命だ。何十年にも渡って。それは今も続いていた。
どうせ、冷酷な息子は、父を一人郷里に残し、末期に際しても、愛情を向けない、と叔母などはきっと非難の目を向けているに違いないのだ。でも、この親子の絶縁を最初に招いたのは父であった。
僕が婿養子に入る、と最初に相談した時、俺は一人だし(母がいないから)、何もしてあげられないから、その方が良いのかもしれない、と。その一言で、事はトントン拍子に進んで、複雑な養子縁組の書類が作成され、父はその書類に捺印したのである。相手方が無理やり事を運んで、ハンコを強要したわけでも何もない。
それが済んでしまって、しばらくして、父は一転、それは間違いだったと反旗を翻したのである。
どうして、そんな事になったか、と振り返れば、妻が母の法事の時に、すぐ上の姉の長女(当時五歳ほど)に、鼻が垂れている、と言った事を叔母たちが咎めたのだ。まあ、その前から、法事の振舞の席で、宿題をしている姉の長男(当時小学二年生ほど)に対して、そんなこと今やる必要があるのか的なことを言ったことが、そもそも、姉の気に触ったのであろう。
この些細な、取るに足らないイザコザは尾を引く。僕らが、母の供養のために家族皆で行こうと企画していた高野山詣でについて、姉家族が不参加、と言ってきたのである。それは、どう考えても、あのイザコザに対する対抗措置以外の何物でもなかった。流石に、これには、企画の言い出しっぺの思いとして、怒り心頭に発した。そんなくだらない事で、大事な供養にケチが付いて良いのか。良い訳がない。それを父に言ってみた。
「供養を台無しにしたのは、お前たちのほうだろ。法事の時に」
完全にノックアウトされた気分だった。
それで、結局、高野山は、僕と妻と父の三人で行くことになった。一番上の姉夫婦とその子達も不参加を表明したからだ。父が、俺も行かない、と言わなかったのは、そこで完全に絶縁状態にしないためだろう。でも、その思いは何の役にも立たなかった。どう取り繕っても、僕の妻サイドと、僕の実家とは完璧な溝は出来てしまったからだ。
僕は、完全に二つの分断の間に挟まってしまった。
この分断を解消できる人は居るとすれば、それは母以外に無かっただろう。しかし、母はこの世にはすでに居ない。
まあ、そもそも、母が生きていれば、婿養子の話は起こっていなかっただろうが。
結論を急げば、僕の家族の崩壊は、母の死によって始まったのである。
母は末期のベッドで僕だけに語った。
「お前に家を取らせるのは可哀想なんだよ。お前は本当は長男じゃないから。もっと自由にいろいろな世界を見る人間なんだよ、本来は。こんな古臭い田舎に縛られずに」
僕が生まれる前、母は子を一人堕ろしている。その時初めて僕はそれを知った。
母の実感では、それは男の子だった、と言う。その子を堕胎して、そんなに時が経っていないのに、僕が生を受けることになったのだ。母は二十九歳で、健康状態が良くなかった。担当医は、危険かもしれない、と診立てた。父は、今回も堕ろしてくれと母に懇願した。
「いや、この子は生む。これはどうしても生まれてきたい命なんだよ。だから、こんなに早く授かったんだよ」
堕胎すると着床しやすくなると言うのは、医学的には常識らしい。でも、母には感じるものがあったのだ。それに、そう何回も命を無駄に出来ない、というシンプルな良心もあったと想像する。
結果、僕はこの世に生を受けた。父の望みどおりに母が決断していたら、僕はこの世には存在しなかったのだ。
医者の診立てどおり、母は産後の肥立ちは酷く悪く、長く入院することになった。僕は、母の姉に預けられた。寮母をしているような面倒見の良い叔母で、その後も大変にお世話になったものだ。その叔母が、母に言った。
「この子は五歳までは生きないよ」
粉ミルクを飲んでも、すぐに吐いた、と云う。飲むのは薄くした重湯のみ。それでは栄養価が足りない。病床の母は母乳など無理なのだ。いろいろな人に相談した結果、脱脂粉乳のような物(豆乳に近いものではないのか)だけは飲んだ。叔母は、それを味見したらしい。
「あんな不味いものを、よく飲んだんだよ、やっと」
その時は笑い話だったが、当時の叔母は必死だったと想う。何とか、この子を生かさないと。
そんな死にかけた子が、こんな五十過ぎのおじさんになって、二人の子が居る。奇跡と言って良い、ありがたい話なんだ。
そんな叔母と、父は晩年諍いを起こしたと云う。何が原因なのか詳しくは聞かなかったが、年寄り同士の事。どちらの言い分も成り立つのだろう。しかし、父は叔母よりも年下であり、長年大変世話になったことを考えれば、叔母を立てるべきなのは、明白である。
そのことだけでは無い。父は晩年、いろんな人と諍いを起こしている。長年の親友とも。
それは、大事な長男を手放した事を引きずって、自暴自棄になったからかもしれない。そんなことが続き、いつの間にか父は孤立していった。
父と言うのは、結局そういう人間なのだ。
困難を前向きに捉えて、力に変える。そういうことが全くできない。
そうでなければ、神童と言われた男。祖父のせいで、大学に進学できなくとも、好きな歴史を独学で極めていったはずである。何も研究というのは、大学で学ばなくては不可能なものではない。そんな人は、世界中、有史以来、銀河系の星の数ほど存在するのだ。
でも、しなかった。
それは父自身に問題があったので、それを、祖父のせいにしたり、父の歴史の授業のライバルだった、僕の高校の恩師を羨み劣等感に苛まれることではない。また、歴史物の書籍や雑誌を片っ端から購入して、それを四六時中読んでいれば、それで良い訳でもないのだ。
父はある日、こんなことをこぼしていた。
「俺は、古文書を読めないんだよ。これさえ読めれば、あいつに負けないのに。大学行けないと、こうなる」
そんな事はない。実際僕は、最初は読めない古文書を今、独学で読めるようになっている。独学と言っても、特別な事は何もしていない。何度も何度も繰り返し読んでいるだけなのだ。
父の言い分は、単なる良い訳に過ぎない。それは一般論としてそうなのだ。
想い返せば返すほどに、僕は父から何を受け継いだのか、と考えてしまう。
ほとんど何も無いのではないか、と思える。考えれば考えるほど。
歳を取って、容姿は似てきたと思う。あとなんだろう。性格とかやっていることは、真逆なのではないだろうか。むしろ、いまやっていることは、祖父がやっていたことに近い。
そして、趣味の志向は、母に近い。子育てには祖母の知恵が役立ってきた。
父親なんて、そんなものだろう、と言うかもしれないが、僕も父親なのだ。僕が今やっていることの一つでも、父は僕にやってくれただろうか。
釣りか。
初めて釣りに父が連れて行った時、何度も糸をコンガラガラせて、父の小言が始まった記憶はある。それも釣りの手ほどきに違いない。
もう、お前は連れてこない、と父は最後に言った。
その後、僕が渓流釣りにハマったのは、親友と、釣りアニメがきっかけである。父がきっかけではない。
スキーか。
まあ、寒くて嫌がる僕を無理やり小学校のグラウンド近くの斜面に連れ出して、スキーの手ほどきをしたのは、確かに父だ。しかし、スキーを楽しんで遊びとしてやり始めたのは、それから五年ほど経った小学生になって、やはり友達との遊びがきっかけである。
勉強か。
父は保育園の時、僕に夕食後、足し算の問題を解かせていた。だから、一年生の頃、僕は算数が良くできた。しかし、二年生になると、全く勉強をしないで、外で遊んでばかりいた僕は、すぐに成績が悪くなった。勉強も好きではない。そんな僕が、友達がみんなやっているからと言ってそろばん塾に通い始めた。その入塾に僕を連れて行ってくれたのは祖母であり、月謝も彼女が年金から出してくれていた。
確かに、とば口はいつも父かもしれない。でも、きっかけは父ではない。冷たい言い方ではあるが、そうなのだ、実際。
父はあまり、物事が長続きしなかった人だった。母も生前、そういうことを何度が口にしていたのを記憶している。
一回聞けば忘れない天才肌は、それだけに、努力の意味を、出来の悪い人ほど知らないのだ。ちょっとやればできるから。
そういうわけで、最初だけ導いてやれば、それで十分だと、あるいは考えてしたのかもしれない。
残念ながら、僕は父のようにはならなかった。しつこい性格である。駄目と分かっても止めない。一回好きだと決めたら、ずっとやり続ける。
そういう所は母に似たのだ。もちろん明確な教えもあった。
「何かをやり遂げるには、何ふり構わない意志が必要なんだからな。覚えておけよ」
やりたいことのためには、周りのことは犠牲にしないといけない、と僕は肌身にしみて、経験上解っている。二兎追うものは一兎も得ず、というのは、意外に重い諺なのだ。
母は、看護師をしながら家事をやり、草月流を習い、ママさんコーラスの練習もしていた。そんな母を、祖母や叔母たちはあまり良くは見ていなかった。実際、そういう事を口にしていたと想う。いや、表面上よりの内心の方が強烈に批判的だったであろう。しかし、母はそんな状況はもろともせず、何事もマイペースに続けた。
それで、草月流は師範を取得し、弟子も養成しはじめたのである。もちろん、その間に、父は病気になり、自殺未遂をした。叔母たちは、母が父の健康管理を怠ったから、そういう事態に陥った、と陰口を言っていた。そういう逆風の中、母は自分の事を続けていたのである。
形振り構わない、ということはそういうことだ。世の成功者を見てほしい。多くは家庭を犠牲にしている。
僕は、それに近い子育てを今している。ちょっとの努力では、それなりにしか成り得ない、と。だた、やるかどうかはあなた次第、と。
さて、お父さん、あらためて訊きます。
あなたは僕に何を授けてくれたのでしょうか。
こんな気持になる前、僕はずっと引け目を感じていたのだと思う。
祖父母が居て、経済的にも普通以上だったため、大学まで行かせてもらって、休学してカナダ、アメリカを旅して、第一志望だった出版業界に入ったものの営業職で、うだつがあがらなく、結婚したもののすぐに離婚して、転職してようやく編集の仕事を手にしても、自分がやりたい企画が通らず、不平が絶えない。そんな自分は何者にも成り得ない、と腐っていた。恵まれているはずなのに、申し訳ない、と。
そんな時に、母が末期がんを宣告されたのである。
僕のせいだ、といい歳して真剣に落ち込んだのである。好き勝手をやって、離婚したせいで、バチが当たった、と。
父がうつ病になったときも、僕が何度やっても落ち着いて行動しないために、父は変になったのではないか。そんなふうに幼ながら感じていた。全く同じ気持ちになっていた。トラウマのように。
でも、今度は、誰も母を助けられない。母は簡単には諦めず、新しい治療法の治験を受けたいと、大阪の大学まで出向いた。しかし、教授の返答は芳しくなかった。
いよいよ駄目だと、母が諦めた時、僕はどうすることも出来なかった。毎日見舞うことぐらいしか。どんなことをしたって、どうにもならないし、今までの自分の親不孝が帳消しになることはないし、母も元には戻らない。
もう危ない、と一報が届いた六月、僕は急いで帰省した。ところが、母は何事もなかったように、ベッドに起き上がって、父と歓談していた。
「なんだか、変なんだよなあ。すっかり元気になって」
そんなことを言って父は笑っている。そして、僕に遠慮してか、父は先に帰ったのだ。
しかし、そんなに甘くはなかった。
風前の灯、とは良く言ったものだ。
僕も、その時明確に、これがそうだなどと、気付いていたわけではない。しかし、母が寝入ったことを確認して、帰る(最終の新幹線で東京の戻る)間際に、何か虫の知らせがあったのかもしれない。僕は、母に手紙を書こうと、カバンの中を物色したが、便箋などあるわけがない。会社からまっすぐ飛んで帰ったのだから。僕は原稿用紙を出して、鉛筆で手紙を書いた。
お母さんへ
たぶんね、お母さんがこういう風になってしまったのは、僕のせいです。
仕事も落ち着かない。ようやく結婚したと思ったら、子どもができないまま、離婚することになったり。
僕がダメだから、いつまでたっても気が休まらずに、心配ばかりかけてきたせいで、お母さんは病気になってしまったのですね。
ごめんなさいね。本当にごめんなさい。
親不孝ばっかりで、何一つ、安心させてあげられなくて。
今夜は、ゆっくり休んでください。
また、来ますので。おやすみなさい。
ヒロミ
翌朝、母の容態は再び急変した。
昨日、母に嗜められた言葉がそのままリアルに蘇った。
「お母さんが危篤になっても、慌てて帰ってくんじゃないぞ。ゆっくり、落ち着いて、いろいろなことをすっかり片付けてから、それから来るのだぞ。親なんだから構うこと無い。礼服だって全部持ってくるんだよ」
僕は言われたとおりに実行することにした。
その朝、普通に会社に出勤した。
電車の中で、早朝の強風のため、倒木があり、東北新幹線が停まっている、というニュース。
まずは、会社で、状況を説明して、再び帰省しなければならず、おそらく、今回はしばらく休みをもらうことを説明した。
関係のパートナーや、クライアントに連絡した上で、仕事を引き継いだ。
そうこうしているうちに、午前中は過ぎていった。
ようやく、東北新幹線が復旧したのは、三時過ぎだったと記憶する。
僕は東京駅に向かい、切符を買うとホームに上っていった。ホームを歩いていると、前を見覚えのある人間が歩いている。
一番上の姉であった。
九州から飛行機で羽田に。羽田から東京駅に来たが、新幹線が停まっていて、右往左往したらしい。結果、偶然にも僕と同じ新幹線だという。ホームの両サイドに下りの新幹線が入ってきていて、どっちに乗ればいいか、迷っていたところだと言う。僕は、左側ね、と教えてあげ、自分の車両に乗った。
後から、姉は、あの偶然は、お母さんが仕向けてくれたんじゃないかな、と言っていた。
病院に着くと、酸素をつけられた母が、病室を移されるところだった。
その時、母は確かに一瞬目を覚ましたのであった。
僕が母の視界に入った時、母は何か僕に言った。声にならなかったが、何か顔をしかめて言ったのだ。でも、その後、再び目を閉じた母が再び目を開けることはなかったのである。
真ん中の姉が到着し、家族が全部揃った夕方、母は息を引き取った。
死にゆく人は、大切な人を待ってから息を引き取る。誰かの言葉だ。母は、正にそのとおりに亡くなった。
あの最後の時、母は、僕に何を言ったのだろうか。あの手紙は読めたのだろうか。
僕は、あの手紙のときの気持ちを、その後そのまま引きずって生きてきた。あのときの気分のまま。
【僕が母を殺したようなもんだ】
本当はやってはいけないことだろうけど、妻の実家に住むことなってからも、自室の一角に母の写真を立て、毎朝祈りを欠かさないできている。
どんなに供養しても、しきれない。そういう気持ちなのだ。
あのメールから一週間ほど経った。
今度はメールではなく、スマホに着信だった。真ん中の姉の名前が表示されている。
はっきりするしかない、と一瞬で腹を括り、受ける。
「はい」
「あ、ヒロミくんが」
「何」
「お父さんよ、入院して。〇〇◯病院さ。そしてよ。もうそろそろだと想うんだ。意識も混濁することが多くて。担当の看護師さんも、今のうち、ご家族を呼んでください、ってよ。お父さんもよ、時々、病室の入口を見でで、ヒロミくんばよ、探してるみたいなんだ。やっぱりよ、ヒロミくんの事が一番好きなお父さんだから」
僕は長い時間、沈黙して答えない。
姉も返事を待っているようだ。一分ほどして、僕はようやく喋った。
「僕は、よく考えて、あなた方と縁を切ったのね。一時的な衝動で、そんなことをしたわけではない。だから、こんな電話で、浪花節を聞かせられたからといって、はいそうですかなんて簡単に言えない。うちの息子や娘も、お父さんの記憶なんて無い。ぜんぜん可愛がってもらってないから。あんたらの子はさんざん目をかけてもらって思い出もあるだろうけど。この間、考え過ぎたけど、そんな愛情の薄い人のために、何ができる。家内だって、何してもらった。息子を盗まれたって、言われ続けてきたんだぞ。こんな電話一本で、それら全部を帳消しになんてできるわけねえだろうが」
今度は、姉のほうがしばらく沈黙。
「そうですか。でも、もう長くないから」
会話はそこまでだった。
感情というのは、しばし、自分が放った言葉を糧に、増幅するものである。
会話を一部始終聞いていた妻。
「ヒロミくんだけ行ったら。私に気を使うこと無いよ」
「気を使ってない。行かない」
「ええ、そんなの変だよ。後悔するんじゃない」
「そうかもしれないけど、行かない」
そう発した言葉のせいで、僕の気持ちが固まったのだと思う。
僕は父から、何を受け継いだのだろうか。
あの電話の後、そのことを繰り返し自問した。しかし、答えはノーだ。
僕が思春期の入口で、あなたは精神を病み、死にかけた。それ以来、あなたと腹を割って話したことがありますか。唯一あったとすれば、僕が離婚すると言って、あなたがそれなら親子の縁を切らなければならない、と言った時だけですよね。
それでも、お陰様で、僕は、ばあちゃんの、じいちゃんの、おかあさんの、おばさんの、おじさんの、大叔母さん、大叔父さんの、彼らの愛情をたっぷり受けて育つことができたので、自分の息子と娘との関係に何ら問題もなく過ごせています。この後も、いろんな困難があると思いますが、何とかやっていけるでしょう。あなたの心配には及びません。
あなたは遂に、一回も謝罪すること無く死んでいくのですね。むしろ僕が薄情な息子だと思いながら死ぬのですね。
僕はこれまで、母が病になったのは自分のせいなのではないか、と実しやかに信じて生きてきましたが、実際はあなたが負うところが大きいのではないでしょうか。なぜならあなたが毎日母とともに暮らしていたのだから。何か兆候とかなかったのですか。気づかなかったのですか。一つも。
【お父さん、いい加減あなたのことは、もう永遠に忘れ去っても良いですか。あなたの呪縛から解放してもらって良いですか。】
そういうわけで、僕はあなたを看取るつもりも、あなたの葬儀へ参列する気もありません。
これから、娘の進学のことで忙しくなりますので、そちらに専念するつもりです。
やっぱりお前は冷たいと、また切れますか。もうそんな生気はないですよね。あと、一週間くらいの命でしょうから。
それでは、こちらで失礼いたします。
今度こそ、本当に、さようなら。
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