四つの犠牲

鈴木 了馬

文字の大きさ
上 下
11 / 19

10

しおりを挟む
 その日の午前中は、気温が低く、霧雨が降っていた。
 隆史は、カルガリーのアウトドアショップで購入した紺のトレーナーと水色のウインドブレーカーを下ろした。
 早朝のせいか、ピラミッド湖に人影はなかった。
 対岸のピラミッド山はガスに煙っていたが、かろうじてその姿を見せていた。
 それほど険しい山ではなさそうだったが、雲が作る陰影の演出で、猛々しく迫って見えていた。
 風はなく、霧雨でも湖面は鏡面のように穏やかだ。
 マスなど居そうにない。
 隆史は半信半疑で、キャストした。
 しかし、すぐに当たった。
 三投目。
 三〇センチくらいのレインボー・トラウト。
 日本のニジマスとは違う気がした。
 隆史は、自分が洋子に釣りの世話をしている姿を想像した。
 湖岸の斜面が歩きづらく、彼女の手を取りながら釣り進む。
 実際にそうしたかのように、リアルに想像できる。
 場所を移動した。
 足元が平らな場所に出た。
 短い草が生え、水際は肌色の砂地が見えていた。
 隆史は、その場所で更に、四匹の鱒を釣り、放した。
 もう十分だ。
 隆史は、キャストを止め、対岸の山に再び目をやった。
 そして、丘に上がろうと湖に背を向けて歩き出した。
 一か所、草がはがれ砂地が見えている場所があった。
 楕円形で、直径は五〇センチほど。
 ふと立ち止まった。
 見覚えがあった。
 いつか見た夢を思い出したのだ。
 あの少年がしゃがんで、砂に何か書いていた。
 どうしたの、と隆史は声を掛けたような気がする。
 少年が、孤独で寂しそうに見えたのだった。
 どうにかしてあげないといけない、と隆史は強く思ったが、足が動かなかった。
 それ以上、掛ける言葉も見つからなかった。
「魚、五匹釣れたね」
 少年は顔を上げて、微笑みながら、そう聞いた。
 確かに、その場所だった。
 不思議な気持ちはなかった。
 ただ、ひどく悲しい気持ちになった。
 何もしてあげられなくてもどかしかった。
 夢の中の気分が蘇った。
 いつ見た夢だろうか、と考えながら隆史は歩き出した。
 隆史はホテルに戻り、朝食を軽めにとり、部屋で旅程の確認をしてから、湖畔のホテルを後にした。

 儀式を実行した場所。

 七月五日(木) アイオワ州デモイン北北西、ビッグ・クリーク湖
 七月六日(金) ネブラスカ州リンカーン北西、ブランチド・オーク湖
 七月七日(土) サウス・ダコタ州スーフォールズのフォールズ・パーク
         サウス・ダコタ州バッドランズ国立公園
 七月八日(日) サウス・ダコタ州ラシュモア山
                 ワイオミング州デヴィルスタワー国立公園
 七月九日(月) ワイオミング州シェリダンの西北西ビッグホーン湖
 七月一〇日(火) イエローストーン湖ブリッジ湾
 七月十一日(水) モンタナ州グレート・フォールズのレインボー・ダム

 国境を越える。

 七月十二日(木) バンフ国立公園内ルイーズ湖
 七月十三日(金) バンフ国立公園内ボウ川、モレーン湖
 七月十四日(土 )バンフ国立公園内ボウ滝、サルファー山
 七月十五日(日) ジャスパー国立公園内ピラミッド湖、マリン湖
 七月十六日(月) ジャスパー国立公園内エンジェル氷河、エディス湖
 七月十七日(火) ジャスパー国立公園内マリーン渓谷、パトリシア湖

 運命のいたずら、というものがあるならば、この日起きたことがまさにそうだ、と隆史は思わずにいられなかった。
 そもそも、その夜のうちにロッキーの大陸分水嶺を超えておこうと、アサバスカ氷河前を昼過ぎに出発してから、半ば意地になって走り続けたのがいけなかったのだろう。
 レベルストークの街に着いた時点で日没近ければ、そこでモーテルを探したに違いなかったが、まだ陽が高かった。
 加えて、天気が回復し、さらに気温が上がったこともあって、まだ行ける、と隆史は判断し、そのまま街を通過したのだった。
 夕闇が迫り、もはや車中泊を覚悟していたが、ロードサイドに車を停めて地図を確認するうちに、もはや、あの場所しかないと隆史は判断を下した。
 午後九時近く、陽が完全に落ちる頃、やっと隆史のレンタカーは、ラスト・スパイク記念モニュメントのあるパーキングエリアに滑り込んだ。
 二〇年前に、そこに到着したのは真夜中だったから、それに比べればだいぶマシかもしれなかった。
 車のエンジンを切ると、あたりの静寂さが際立った。
 隆史は急に空腹を感じた。かといって、調理は無理だと、いつものサンドイッチを作った。
 車内灯の灯りが頼りだ。
 助手席のドアを明け放ち、モニュメントとイーグル川があるだろう方向を向いて、シートに横向きに座って食事をとった。
 気温は十度ぐらいだろうか。
 隆史はトレーナーを上から羽織った。
 ビールは、砂漠の砂に水が浸みこむように食道を落ちて行った。
 彼は、三五〇ミリリッター缶を半分ぐらい飲むと、ウォッカ継ぎ足して飲んだ。今度は、ウオッカのおかげで胃袋が温かくなった。
 そして、かすかに聞こえるイーグル川の音に耳を傾けながら、二〇年前にここを訪れた時のことを思い出していた。
 その時は、パーキングエリアからさらにイーグル川を下流に行った州立公園で車中泊をしているところを、寝入ったタイミングで公園パトロールに発見され、このパーキングへの移動を命じられたのだった。
 眠い眼をこすりながら、なんとかこのパーキングにたどり着き、そのまま寝なおした。
 その夜半過ぎ、隆史と啓一はそこで霊的な体験をしたのだった。
 激しい物音に、二人はほぼ同時に目を覚ました。
 雨、雷、大木が裂けて倒れるような音、そして、逃げまどうような無数の足音。
 隆史が車窓越しに外を懐中電灯で照らしても、ただの暗闇が広がっているだけだった。
 雨も降っていなければ、人の姿もなかった。
 翌朝、二人はパーキング・エリアの全体を見て回り、すぐに前の晩の音の理由を知ることとなった。
 そこは、カナダ大陸横断鉄道の大工事において、枕木の最後の杭(ラスト・スパイク)が打たれた場所だった。
 まさにその場所に、慰霊碑が建てられていた。
 碑には、この大工事で命を落としたおびただしい数の移民労働者の名前が刻まれていた。
 啓一との旅は、ヴァンクーバーからスタートしたので、ここを訪れたのは、旅のほんとうの序盤だった。
 希望だけを胸に抱いていた二人は、そこで洗礼を受けたかたちになった。
 実は、その日の夕方、州立公園近くのイーグル川でも印象的な出来事を経験したばかりの二人だった。
 折しもイーグル川は鮭の遡上シーズン、その真っ只中だった。
 産卵を終えた鮭の多量の死骸が横たわる川原を通り抜け、二人は夕食のための釣りを強行した。
 釣果は、オスの鮭が二匹だった。
 釣り上げて分かったことだが、鮭は生命体としての終わりを告げることを目前に控えた弱った存在だった。
 食べるために釣り上げた鮭。
 二人は意を決して、鮭をソテーにして食べた。
 はっきり言って、肉は弾力を失ったゴムのようで、美味しくは感じなかった。
 それでも二人は何とか最後まで平らげた。
 その晩餐の何とも厳かな感じが蘇ってきた。
 隆史は、サンドイッチを食べ終わると、ウォッカを缶に継ぎ足した。
 少し早いが寝る他にない。
 あたりは真っ暗だった。
 急に寒くなることが予想された。
 隆史はトランクから真新しい赤い寝袋を取り出すと、後部座席に広げ、潜り込んだ。
 ウォッカのおかげか、隆史はすぐに眠りに落ちた。
 覚悟をして寝た隆史だったが、その夜は何もなかった。
 ただ、また夢に少年が出てきた。
 二人は、イーグル川で釣りをしていた。鮭の遡上には、まだまだ季節は早い。
 二人で、合わせて三匹の若々しいトラウトを釣り上げたのだった。
 少年はピラミッド湖の時とは打って変わって、すごく嬉しそうだった。
 その様子に、隆史も嬉しかった。
 心から、良かった、と思うのだった。
しおりを挟む

処理中です...