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おばあちゃんと、まぐ
しおりを挟む母なる女性たちへ
飯炊き小屋からの香ばしい匂いが、谷あいに広がっていった。
山際がようやく少し白んできたばかり。
ばあさまは、茅葺きの母屋を出て、小屋に歩いていく。
手には、古い杉の御櫃。
若い頃は、お釜ごと一人で母屋に運んだものだが、米寿を過ぎたマサコばあさんには無理だ。
小屋に入ると、漆喰の竈の籾殻は燃え切り、釜の蓋は落ち着いていた。
蓋を取ってみる。
一気に、湯気が立ち上がる。
お釜用の大シャモジで、釜の淵をさらい、ご飯を切って、ひっくり返す。
そして、少し時を待つ。
何度かこれを繰り返し、湯気が静まってくれば、小さなシャモジを使って御櫃にご飯を取り分ける。
これを数回繰り返さないといけない。
それでも、それしきのことは、マサコばあさんには少しも苦ではない。
最後のおこげは、マサコばあさんの朝食になり、それでも食べきれないから夕餉になる。
一粒も無駄にできない、大切な米なのだ。
家の田んぼは、とっくの昔に売った。
じいさま(夫)が亡くなる十年ほど前だったろうか。
売ったと言っても、じいさまは売った先の家に年に二、三回は田んぼの手伝いに行っていた。
その手間賃として、収穫された米一俵が毎年届く。
マサコばあさんも、数年前までは田んぼの手伝いに行っていたが、膝を悪くしてからは行けなくなった。
それでも、米は届く。
有り難い。
そういう、大切な御米なのである。
今日は田植えの朝。
マサコばあさんは、お弁当のお重を差し入れする。
それが今では、毎年の仕事である。
皆の喜ぶ顔が見たい。
「マサコさんも、ほら、こごさ座って」
そうやって、皆のお昼に呼ばれるのが楽しみだ。
食も細くなった。
自分が食べる量など、たかが知れている。
買い物も、ほとんど必要ない。
貰い物で事足りるのだ。
野菜は自分でも少し作っているが、近所の人たちが、白菜だ、大根だと持ってきてくれる。
タンパク質は、飼っている軍鶏の卵。ハヤ、鮎などの川魚。そして、たまに獲れる鴨、クマ。
野菜はすぐに食べきれないものは漬物にする。
ハヤは、炭火で焼いて、串ごと乾燥すれば保存食になる。
それらは料理され、完成すれば皆に返される。
「マサコさんの料理は美味い。なんたって漬物博士だがらね」
美味しいの声、皆の食べっぷりが、マサコばあさんのやりがい。
生きがい。
漬物博士、というのも、実は少しも誇張ではない。
もう、二十年ほど前の話だが、町から「漬物博士」の称号を貰い表彰された。
隣の市にある漬物工場の職人たちは、毎年、マサコばあさんのところに研修にやってきたものだ。
そんなマサコばあさんの、腕の見せ所が、田植えのお重だ。
献立はすでに決まっている。
忘れることはないが、半紙に筆で品書きもしてある。
マサコばあさんは、筆まめでもあった。
一の重
大根、茄子、胡瓜のやたら漬け
ゼンマイとツキコン、黒胡麻の白和え
カラカイ(カスベ)の甘露煮
ミズと油揚げの煮物
二の重
おいなりさん
三の重
おにぎり
うめぼし、しおびき
前の日から仕込んだ油揚げは、ちょうど良い味加減だ。
最初の御櫃は、いなり寿司用である。
三杯酢で味を整え、マサコばあさんの場合は、それに黒ごま。
黒ごまは、予め少し炒っておく。
丸々二日掛かりのお重である。
揚げに、酢飯を入れながら、マサコばあさんは、孫の太郎のことを想いだず。
太郎は、マサコばあさんのいなり寿司が大好きだ。
男の子にしては、とマサコばあさんは思う。
料理に興味がある子だ、と。
マサコばあさんのやっていることが気になる。
付いて回り、手伝う、手伝いたいとせがむ。
太郎の母ならば、そんなことはいいからおまえは勉強しなさい、としか言わない。
しかし、マサコばあさんは、何でもやらせてみる。
ーー 包丁で切る時は、左手を猫の手にすんだ。
ーー 軍鶏の卵ば探してきてけろ。
ーー 商店で、糸こんにゃく買ってこれっか。「イドコンニャクって何」
ーー 新聞紙の燃えさしを竈にくべでみろ。
「にゃあ」
飼い猫の「まぐ」が近寄ってきて、催促の鳴き声を上げ、マサコばあさんは我に返った。
黒に、少ない白斑。
何となく、クマに似ているから、マサコの長女がクマを逆さまにして、呼びやすいように濁点を付けた。
まぐ。
「お前も、腹減ったなが」
「にゃあにゃあ、にゃあ」
「わがた、ちょっと待ってろな」
まぐは、その言葉をまるで理解でもしたかのように、下がっていき、飯台の横に座った。
「太郎君、それでは読んでください。みんな聞いてね、とっても良く書けているので」
「は、はい」
太郎は緊張している。
こんなことは初めてだ。
それでも、こういう時は大きな声で読まないと、かっこ悪いよ、とママがいつも言っているのを思い出し、立ち上がった。
「おばあちゃん、二ねん一くみ、あおきたろう」
大きな声で言えた。
その声の大きさで、おしゃべりしていた子たちの声が止んだ。
「ぼくのおばあちゃんは、すごいです。なにがすごいかというと、一人でなんでもできちゃうところです。
おばあちゃんは、山がたのいなかに一人ですんでいます。おじいちゃんがなくなってから一人ですんでいます。せいかくには、ネコの「まぐ」もいるので一人と一ぴきです。おばあちゃんは、一人でもさみしそうに見えません。それはたぶん、おばあちゃんが人きもので、きんじょの人がよくたずねてくるからかもしれません。
なぜ、おばあちゃんのところにみんながくるかというと、おりょうりがじょうずだからです。みんな、うまいうまい、といってたべては、おちゃをのんでかえります。ぼくも、つけものはにがてだけど、にものはおいしくてたべます。大こんのにもの。ちくわのあまからに、などです。
でも、一ばんすきなのは、いなりずしです。ぜつみょうなしおかげんと、いりごまのかおりがしてとてもおいしいです。
ほんとうは、そのいなりずしをうんどう会でたべられたらいいのですが、おばあちゃんしかそのあじはだせないので、とてもざんねんですがむりです。
でも、お正月になったら山がたにかえるので、またおばあちゃんのおりょうりがたべられるから、それまでのがまんです。
おりょうりじょうずで、いろいろおしえてくれるおばあちゃん。それが、ぼくのおばあちゃんです。
大好きなおばあちゃん。ぼくの自まんのおばあちゃんです」
「あら、マサコさん、早いんねが。ないだず、ますこす待ってだら、迎えにいったべしたあ」
十一時を少し過ぎた頃に、畦に姿を見せたマサコに、田んぼの持ち主のタニオが声をかけた。
実際、タニオは、もう少ししたら軽トラを出して、マサコの家に向かうところだった。
「あにちゃん、ほしたら、あねちゃんば迎えさ行ってきたらいいんねが」
タニオの家内は、午前中は家事で、家に居り、昼のタイミングで弁当を持ってくる予定になっている。
「んだがやあ。マサコさん持ってきてけだがら、いいんねがした(持ってきてくれたから、もう弁当なんか他にいらないだろ)」
そう、冗談でタニオが返したのへ、妹のカズエはすかさず。
「ほがいなごと、言ったら、あねちゃんさ聞こえんぜ(聞こえるよ)」
「ほがいなごと、ないべした。なんぼ地獄耳だがらて」
「地獄耳あど、ひどいにゃあ」
皆声を出して笑う。
「マサコさん、こごさ、ねまてけりゃっしゃい(休んで下さい)」
タニオが慌てて茣蓙を引いて、マサコに勧めた。
「ないだず、マサコさん、こがいいっぱい作ってきてけだながあ。いづも有難うさんなあ。重だいけべしたあ」
「なんのなんの」
「マサコさんの、お重ねえごんたら、はずまんねもんなあ(無かったら、始まらないものねえ)」
「ほやあ、あにちゃん、聞こえんぜ」
「あははは」
笑い声が広がる。
「ありゃ、まぐんねがあ(まぐじゃないか)」
「おや、まぐちゃん、マサコさんさ、付いできたながあ」
まぐはそれに答えて。
「にゃあ」
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