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外国から見た日本
F研究
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F研究
1942年6月のミッドウェー海戦の惨敗以来、主力艦船のほとんどを失った海軍は危機感を募らせ艦政本部の主導で原子爆弾の研究開発の再開を企てた。
1940年頃、ドイツの“ニトロチェルローゼ”という火薬の専門誌に火薬の権威シュテットバッハーが『アメリカの超爆薬』という題の論文を発表していた。
海軍火薬廠の村田勉少佐がこの論文を翻訳し、艦政本部、火薬廠、各工廠の幹部に配った。この論文には「約1グラムのウラニウム235に緩速中性子をあて核分裂をさせると、当時日本で作っていた松印ダイナマイト13,500トン相当のエネルギーが出る」とあった。艦政本部の千藤三千造大佐、磯恵(いそめぐむ) 大佐 (海兵41期)、三井再男(みついまたお) 大佐 (海兵49期)(いずれも火薬の専門家) はこの論文に着目し、ぜひ海軍で研究しなければならない、という話になった。三井の回想によれば1941年10月、磯大佐からもちかけられた[26]。
しかし海軍には人材も設備もないので、磯大佐の出身校である京都帝国大学理学部の荒勝文策教授に研究を依頼することになった[1][8][26]。千藤大佐は、もちろん核物理応用研究委員会が出した結論を知っていた[1]。
荒勝教授へ協力依頼をするため磯大佐が荒勝研究室を訪問した。
これがF研究の始まりである。
その日時については、戦後読売新聞社のインタビューに対し「着ていた背広が冬服だったので、昭和17年(1942年)10月過ぎだったろうね」と答えている。
しかし、戦後GHQのマンソン大佐に提出した公式の報告書には「1943年5月、本研究を海軍の研究として荒勝教授に委託することになり…」と記載されている。
荒勝研の木村毅一助教授は「僕が聞いたのは、もっとおそく18年(1943年)の終わりではなかったか」と述べている。
同研究室の清水栄講師は「20年(1945年)のはじめごろではないか」と述べている。原爆研究の理論面を担当した小林稔教授は「19年(1944年)の9月か10月だと思う」と述べている。
荒勝教授自身は次のように述べている。
京大の『原爆研究』- そのような言葉が適当かどうかわからぬが、ともかく、海軍が原子爆弾製造の可能性について、ぼく(荒勝)の研究室に研究を委託してきたのは、もう戦争も終わりに近いころで、それも、海軍側から直接にではなく、理学部化学教室の堀場新吉教授を通じてだったと記憶している。
磯恵君の話だと、ぼくに会って研究を依頼したそうだが、それはさっぱり覚えがない。そういわれれば、そういうことがあったかなあ、という程度だ。
このように各人の見解がばらばらなのは、荒勝教授が依頼を受けてからいろいろと可能性を検討するのに時間を要し、個々の研究者にそのときどきに役割を付したためと考えられている。
三井は、他の研究も含めて海軍側が絶えず出入りしていたため「いつ頼んだかわからないぐらい密接だった」と回想している[26]。つまりF研究がいつ始まったかは特定できない[1][26]。
荒勝研究室(海軍側)ではウラン235を分離する方法として、理研と同じ熱拡散法では意味がないので、次に可能性がある遠心分離法を採用することにした[27]。
遠心分離法は、六フッ化ウランガスを入れた円筒形の容器を高速回転させることにより重いウラン238は外側に、軽いウラン235は中心付近に溜まることを利用する方法である。
概算してみると、回転数は毎分10万回転以上の超高速が必要であることがわかった。当時高速回転するものとしては船舶用ジャイロが知られていた。当時船舶用ジャイロは北辰電機と東京計器が製造していたので、両社に協力を要請し、分離装置の試作を依頼した。これとは別に荒勝研究室でも独自に研究を進めた。ジャイロの回転数は数千回転くらいであり、当時の技術で実現可能なのはせいぜい3 - 4万回転くらいが限界と考えられていた。
高速回転で一番の問題は軸受けの摩擦であり、超高速回転を実現するにはこれまでとはまったく別の仕組みを考えなければならなかった。東京計器が考えたのは、目標を15万回転とし、回転体を圧縮空気で浮かせ誘導モーターで回転させる方法である。ただ、回転体を宙に浮かせると回転にブレが出てしまう。ブレを防ぐには心棒がなくてはならない。しかし心棒が太いと摩擦が大きくなるので、注射針くらい細いものを考えた。これは設計図の前の下書きの段階で終わっている[1]。
荒勝研究室で考案したものは、空気で浮かせる点で東京計器のものと似ているが少し違う。それはお椀を半分にしたような形の容器の外側の横腹に刻みを付け、これに向けて空気を吹き付ける。すると容器と受けの間に空気が入ってエアクッションになると同時に刻みの角度によって吹き込まれた空気で容器が高速回転する。ブレが出ると電気的に検出して正しい位置に戻す。超高速回転をすると、容器には10万Gくらいの遠心力が掛かることが予想され、普通の材料では振り切れてちぎれてしまう。荒勝の知り合いが名古屋の住友金属工業にいて、航空機に使う超々ジュラルミンを作っていることがわかり、サンプルを少し貰ったが、工場はその後すぐ爆撃されて入手できなくなった。この装置も設計前の下書き[注 10]の段階で終わっている[1]。
1944年2月13日、海軍大佐高松宮宣仁親王(昭和天皇弟宮)以下、迫水久常(内閣参事官)、仁科存(東北大)、湯川秀樹(京大)、菊池正士(技研)、中野秀五郎(東大)、仁科芳雄(理研)、西谷啓治(京大)、水島三一郎(東大)、仁田勇(阪大)、渋沢敬三(日銀副総裁)、水間一郎(技研)、深川修吉(日本無電)が集まり会合を開催[28]。
1945年7月21日
琵琶湖ホテルで京大と海軍の第一回合同会議が開かれた。
出席者は京大から荒勝文策、湯川秀樹、小林稔、佐々木申二、海軍から北川敬三少佐、三井再男大佐、東京計器顧問の新田重治であった。そしてこれが最初で最後の会議となった。荒勝は戦後になってから「あんな会合やったってしょうがないですわ。だけどやらないとかっこうがつかない」と述べている。荒勝は終戦後もF研究と関係なく回転体の研究をしばらく続けた。F研究以前から関心のあるテーマだったからである。
1949 - 1950年ころ、直径0.3ミリメートル、高さ1.5センチメートルくらいのクギ状の鉄の棒を真空中で毎分 1,716,000回転させることに成功した。遠心力は 4,930,000Gであった[1]。
F研究に何も成果がなかったわけではない。
京大工学部の岡田辰三が、日本で初めての金属ウランの製造に成功した(3センチメートル角、厚さ1ミリメートル)。理研では粉末状のウランしか作れなかった。理研の木越が試しに粉末状のウランにフッ素を作用させたところ、試験管が破裂して木越は危うく失明するところだった。そのため理研では六フッ化ウランを作るのに別の方法を探さなければならなかった。岡田が作った記念すべき金属ウランは京大に長く保存すべきものだったが、行方不明になってしまった。 もう一つの成果は、湯川研究室の小林稔がウラン235の臨界量を理論的に算出したことである。
ウラン235の原子核に中性子が当たるとエネルギーとともに2個以上の中性子が放出される。その中性子が他の原子核に当たると4個、さらに8個、16個、32個という具合に幾何級数的に中性子が増加して連鎖反応が起こり、短時間で一挙に巨大なエネルギーが放出される。しかし、現実の原子は隙間だらけで、多くの中性子は原子核に当たらないまま外に逃げてしまう。ウラン235の塊がある程度以上の大きさがあれば、中性子は外に出る前にいずれかの原子核にあたり、連鎖反応が起こる。この量が臨界量である。小林は手回し計算機で二晩くらいかけて拡散方程式を解いて、半径10センチメートルから20センチメートルくらいの塊があれば連鎖反応が起こって爆弾になるという結果を得た[1]。
また日本海軍としては連合軍側が原爆を実戦投入した際の防御(対策)研究という側面もあり[29]、広島原爆投下では日本側原爆研究関係者が現地調査に赴いている[30][31]。
1942年6月のミッドウェー海戦の惨敗以来、主力艦船のほとんどを失った海軍は危機感を募らせ艦政本部の主導で原子爆弾の研究開発の再開を企てた。
1940年頃、ドイツの“ニトロチェルローゼ”という火薬の専門誌に火薬の権威シュテットバッハーが『アメリカの超爆薬』という題の論文を発表していた。
海軍火薬廠の村田勉少佐がこの論文を翻訳し、艦政本部、火薬廠、各工廠の幹部に配った。この論文には「約1グラムのウラニウム235に緩速中性子をあて核分裂をさせると、当時日本で作っていた松印ダイナマイト13,500トン相当のエネルギーが出る」とあった。艦政本部の千藤三千造大佐、磯恵(いそめぐむ) 大佐 (海兵41期)、三井再男(みついまたお) 大佐 (海兵49期)(いずれも火薬の専門家) はこの論文に着目し、ぜひ海軍で研究しなければならない、という話になった。三井の回想によれば1941年10月、磯大佐からもちかけられた[26]。
しかし海軍には人材も設備もないので、磯大佐の出身校である京都帝国大学理学部の荒勝文策教授に研究を依頼することになった[1][8][26]。千藤大佐は、もちろん核物理応用研究委員会が出した結論を知っていた[1]。
荒勝教授へ協力依頼をするため磯大佐が荒勝研究室を訪問した。
これがF研究の始まりである。
その日時については、戦後読売新聞社のインタビューに対し「着ていた背広が冬服だったので、昭和17年(1942年)10月過ぎだったろうね」と答えている。
しかし、戦後GHQのマンソン大佐に提出した公式の報告書には「1943年5月、本研究を海軍の研究として荒勝教授に委託することになり…」と記載されている。
荒勝研の木村毅一助教授は「僕が聞いたのは、もっとおそく18年(1943年)の終わりではなかったか」と述べている。
同研究室の清水栄講師は「20年(1945年)のはじめごろではないか」と述べている。原爆研究の理論面を担当した小林稔教授は「19年(1944年)の9月か10月だと思う」と述べている。
荒勝教授自身は次のように述べている。
京大の『原爆研究』- そのような言葉が適当かどうかわからぬが、ともかく、海軍が原子爆弾製造の可能性について、ぼく(荒勝)の研究室に研究を委託してきたのは、もう戦争も終わりに近いころで、それも、海軍側から直接にではなく、理学部化学教室の堀場新吉教授を通じてだったと記憶している。
磯恵君の話だと、ぼくに会って研究を依頼したそうだが、それはさっぱり覚えがない。そういわれれば、そういうことがあったかなあ、という程度だ。
このように各人の見解がばらばらなのは、荒勝教授が依頼を受けてからいろいろと可能性を検討するのに時間を要し、個々の研究者にそのときどきに役割を付したためと考えられている。
三井は、他の研究も含めて海軍側が絶えず出入りしていたため「いつ頼んだかわからないぐらい密接だった」と回想している[26]。つまりF研究がいつ始まったかは特定できない[1][26]。
荒勝研究室(海軍側)ではウラン235を分離する方法として、理研と同じ熱拡散法では意味がないので、次に可能性がある遠心分離法を採用することにした[27]。
遠心分離法は、六フッ化ウランガスを入れた円筒形の容器を高速回転させることにより重いウラン238は外側に、軽いウラン235は中心付近に溜まることを利用する方法である。
概算してみると、回転数は毎分10万回転以上の超高速が必要であることがわかった。当時高速回転するものとしては船舶用ジャイロが知られていた。当時船舶用ジャイロは北辰電機と東京計器が製造していたので、両社に協力を要請し、分離装置の試作を依頼した。これとは別に荒勝研究室でも独自に研究を進めた。ジャイロの回転数は数千回転くらいであり、当時の技術で実現可能なのはせいぜい3 - 4万回転くらいが限界と考えられていた。
高速回転で一番の問題は軸受けの摩擦であり、超高速回転を実現するにはこれまでとはまったく別の仕組みを考えなければならなかった。東京計器が考えたのは、目標を15万回転とし、回転体を圧縮空気で浮かせ誘導モーターで回転させる方法である。ただ、回転体を宙に浮かせると回転にブレが出てしまう。ブレを防ぐには心棒がなくてはならない。しかし心棒が太いと摩擦が大きくなるので、注射針くらい細いものを考えた。これは設計図の前の下書きの段階で終わっている[1]。
荒勝研究室で考案したものは、空気で浮かせる点で東京計器のものと似ているが少し違う。それはお椀を半分にしたような形の容器の外側の横腹に刻みを付け、これに向けて空気を吹き付ける。すると容器と受けの間に空気が入ってエアクッションになると同時に刻みの角度によって吹き込まれた空気で容器が高速回転する。ブレが出ると電気的に検出して正しい位置に戻す。超高速回転をすると、容器には10万Gくらいの遠心力が掛かることが予想され、普通の材料では振り切れてちぎれてしまう。荒勝の知り合いが名古屋の住友金属工業にいて、航空機に使う超々ジュラルミンを作っていることがわかり、サンプルを少し貰ったが、工場はその後すぐ爆撃されて入手できなくなった。この装置も設計前の下書き[注 10]の段階で終わっている[1]。
1944年2月13日、海軍大佐高松宮宣仁親王(昭和天皇弟宮)以下、迫水久常(内閣参事官)、仁科存(東北大)、湯川秀樹(京大)、菊池正士(技研)、中野秀五郎(東大)、仁科芳雄(理研)、西谷啓治(京大)、水島三一郎(東大)、仁田勇(阪大)、渋沢敬三(日銀副総裁)、水間一郎(技研)、深川修吉(日本無電)が集まり会合を開催[28]。
1945年7月21日
琵琶湖ホテルで京大と海軍の第一回合同会議が開かれた。
出席者は京大から荒勝文策、湯川秀樹、小林稔、佐々木申二、海軍から北川敬三少佐、三井再男大佐、東京計器顧問の新田重治であった。そしてこれが最初で最後の会議となった。荒勝は戦後になってから「あんな会合やったってしょうがないですわ。だけどやらないとかっこうがつかない」と述べている。荒勝は終戦後もF研究と関係なく回転体の研究をしばらく続けた。F研究以前から関心のあるテーマだったからである。
1949 - 1950年ころ、直径0.3ミリメートル、高さ1.5センチメートルくらいのクギ状の鉄の棒を真空中で毎分 1,716,000回転させることに成功した。遠心力は 4,930,000Gであった[1]。
F研究に何も成果がなかったわけではない。
京大工学部の岡田辰三が、日本で初めての金属ウランの製造に成功した(3センチメートル角、厚さ1ミリメートル)。理研では粉末状のウランしか作れなかった。理研の木越が試しに粉末状のウランにフッ素を作用させたところ、試験管が破裂して木越は危うく失明するところだった。そのため理研では六フッ化ウランを作るのに別の方法を探さなければならなかった。岡田が作った記念すべき金属ウランは京大に長く保存すべきものだったが、行方不明になってしまった。 もう一つの成果は、湯川研究室の小林稔がウラン235の臨界量を理論的に算出したことである。
ウラン235の原子核に中性子が当たるとエネルギーとともに2個以上の中性子が放出される。その中性子が他の原子核に当たると4個、さらに8個、16個、32個という具合に幾何級数的に中性子が増加して連鎖反応が起こり、短時間で一挙に巨大なエネルギーが放出される。しかし、現実の原子は隙間だらけで、多くの中性子は原子核に当たらないまま外に逃げてしまう。ウラン235の塊がある程度以上の大きさがあれば、中性子は外に出る前にいずれかの原子核にあたり、連鎖反応が起こる。この量が臨界量である。小林は手回し計算機で二晩くらいかけて拡散方程式を解いて、半径10センチメートルから20センチメートルくらいの塊があれば連鎖反応が起こって爆弾になるという結果を得た[1]。
また日本海軍としては連合軍側が原爆を実戦投入した際の防御(対策)研究という側面もあり[29]、広島原爆投下では日本側原爆研究関係者が現地調査に赴いている[30][31]。
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