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うらにわのこどもたち2 それから季節がひとつ、すぎる間のこと
case1.眠兎(1/2)
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窓の外は、今日も雨。
最近は雨の日が多い。薄暗い窓の外を、頬杖をついて眺める。段々と蒸し暑くなって、うっすらと汗ばんだ僕の腕が、机に張り付くことも増えた。「別の世界」でいうところの梅雨、というやつなんだろう。きっと、もっと湿度が上がれば、屋内の空調が本領を発揮しだす。最後に太陽を見たのは何日前だったか。カレンダーの無い世界って不便だなあと思う。先生達の部屋にはあるのかもしれないけれど(そして、あったとしても小さな卓上のものだろう。壁に日付を見た記憶はない)、少なくとも僕達「こども」の部屋には無い。意図は、よく分からない。
特に何をするでもない、退屈な午後。誰かで「遊ぶ」のも、今は自粛中だ。ほとぼりが冷めるまではと心に決めているが、余りに退屈だったら、我慢出来なくて猫の首でも跳ね飛ばすかもしれない。あれ、退屈で死ぬのは猫だったっけ、神様だったっけ。どちらにしても、僕が死ぬわけではないから別にいいけれど。
「あの」日。
白雪で遊んでいるのが日野尾先生にバレて、先生達と懲罰室で「遊んだ」日。
とにかく痛かったことだけは覚えている。日野尾先生は終始ちっとも笑っていない瞳で微笑みながら、「困ったなぁ、これくらいじゃ全然痛くないよねぇ」と繰り返していたし、後からやってきた大規先生は気絶することすら許してくれなかった。意識を手放そうとする度に無理矢理引き戻されるから、僕の意識は少しでも苦痛から逃れようともがき続けていた。せめて空想の世界に逃避できれば良かったのだけど、そうしようとする度に振るわれる痛みが自分に起きている現実を直視させる。自分の叫び声を、他人事のように聞いた。およそ人の声とは思えないような不快な音。自分の喉からこんな音が出るのを初めて知った。僕が言うのもおかしな話だけど、鬼畜の所業ってこういうことを言うんじゃないだろうか。多分。
なんていうんだっけ。「あっちの世界」の僕か、「こっちの世界」の僕か、どっちの記憶だったか忘れたけれど、本で見かけた気がする。そうそう、人間の持つ防衛機制。心が自分を守るために行う心理メカニズム。そのおかげか、具体的に何をされたか、後半になるにつれて記憶が断続的だ。後から蒼一郎に聞いた話だと、僕はまる二日ほど部屋には戻らず、更にもう七日ほど部屋への立ち入りが禁止されていたらしい。日数は大体だろうから、もっと長かったかもしれないし、短かったかもしれない。やっぱりカレンダーがないって不便だ。
その間、僕の身体がどうなっていたかは知らない。とりあえず、あちこちに包帯やガーゼが巻かれていたし、その下の傷跡はくっきりと残っていた。服で見えないところは特に顕著で、今でもまだ、いくつかはしっかり「遊び」の名残を主張している。
それに、右腕に残っていた、小さな注射痕。
(……やっぱり、僕にも投与されてるんだろうな、あの薬)
蒼一郎の点滴パックの中身や、白雪が飲まされていた錠剤。それらと同じか、それに準ずる何らかの薬。あれが何の薬なのかは知らないが、まさかあの先生達が「栄養剤だけ投与しました」とは考えにくい。そして多分、投与されていたのは前々からだ。
(日野尾先生は、「自分の記憶に聞いてみたらいいんじゃん?」って言ってた)
含みのある言い方だった。記憶にないところで自分の身体に何かされているかも知れない、というのはどうにも気分が良くない。嘘。最悪。
僕の気付かない投与方法。水や食事。あとは。
投与されている記憶自体が消されている可能性。
(いやいや、考えすぎ……と楽観視できないあたりが実に不愉快)
大規先生の目を思い出す。僕で遊びながら、じっと何かを観察しているような眼差し。日野尾先生の残酷さとは違う、凍てつくような冷酷さを宿した、研究者としての温度のない瞳。
皆は大規先生を優しいとかかっこいいとか言って懐いているけれど、それは懲罰室での先生を見たことがないからだ。僕にはどうも、「優しくてかっこいい大規先生」というイメージの方が作られたもののように思える。
僕には分からない。どうして先生達は、僕を「こども」として採用したんだろう。どうして僕を処分せずに生かしているんだろう。
扱いやすいわけでも、大人しいわけでもない、客観的に見て問題だらけの僕を。
*
そろそろ夕食の時間に差し掛かる頃、蒼一郎が部屋を訪ねてきた。蒼一郎は模範生すぎて時々癇に障るけれど、「こども」の中では一番マシに話ができる相手だ。
「あれ、珍し。十歌は?」
「先生達に呼ばれてたよ」
「ふーん」
十歌が来てからこっち、同室ということもあってか、蒼一郎は大抵十歌と一緒にいる。初めこそ十歌はぼんやりしていて無反応なことが多かったが、最近はぽつりぽつりと話すことも増えた。こいつ喋れたんだな、と思ったのは内緒だ。
考えてみると、僕が「こども」としてここに来て、真白が増えて、蒼一郎が増えて、十歌が増えて。随分と、この「はこにわ」も賑やかになった。時々そうやって「こども」が増える変化はあったが、僕自身も含めて、個人の変化は少なかったように思う。真白は初めからあのまんま馬鹿だったし、蒼一郎は、……ここに来たばかりの頃は、時折暴れることはあったけれど、基本的な性格はずっとこうだった気がする。そういうものなのだと、特に疑問に思うこともなかった。今思えば、疑問に思わなかった自分が不思議だ。
短期間で一番変化があったのは十歌、あいつだ。あいつだけが、明確に変わった。
「それで、用事は?」
「ああ、うん。また眠兎くんに本を借りようと思って」
「いいけど。あ、僕にも貸してよ、前に君が読んでたやつ」
「……え?」
ぽかん、とした顔で、蒼一郎がこちらを見る。
「自分の本?」
「ほら、蒼一郎の部屋のさ、星の――」
言いかけて、言葉を引っこめる。何だ、この反応は。
様子がおかしい。
「待って。確認したいんだけど。蒼一郎さ、自分の部屋の本、どうした?」
「え……僕の部屋に、本なんてないよ?」
は? 一瞬、思考が停止する。
「いつから?」
「いつからって……ずっとだよ。だからいつも、眠兎くんに本を貸してもらってるじゃないか」
どうしたの?と、心配そうに、蒼一郎は聞いてくる。どうしたの、はこっちの台詞だった。蒼一郎の部屋の、古びた本棚と大量の本。古書の香り。それが、初めからなかったと、そう言うのか? 僕の記憶が、蒼一郎の言葉と噛み合わない。
おかしい。僕の知らないところで、僕の知らない何かが、少しづつ変わりつつあるのか?
僕の記憶がおかしいのか?
それとも、蒼一郎の記憶が、おかしくなってしまったのか?
最近は雨の日が多い。薄暗い窓の外を、頬杖をついて眺める。段々と蒸し暑くなって、うっすらと汗ばんだ僕の腕が、机に張り付くことも増えた。「別の世界」でいうところの梅雨、というやつなんだろう。きっと、もっと湿度が上がれば、屋内の空調が本領を発揮しだす。最後に太陽を見たのは何日前だったか。カレンダーの無い世界って不便だなあと思う。先生達の部屋にはあるのかもしれないけれど(そして、あったとしても小さな卓上のものだろう。壁に日付を見た記憶はない)、少なくとも僕達「こども」の部屋には無い。意図は、よく分からない。
特に何をするでもない、退屈な午後。誰かで「遊ぶ」のも、今は自粛中だ。ほとぼりが冷めるまではと心に決めているが、余りに退屈だったら、我慢出来なくて猫の首でも跳ね飛ばすかもしれない。あれ、退屈で死ぬのは猫だったっけ、神様だったっけ。どちらにしても、僕が死ぬわけではないから別にいいけれど。
「あの」日。
白雪で遊んでいるのが日野尾先生にバレて、先生達と懲罰室で「遊んだ」日。
とにかく痛かったことだけは覚えている。日野尾先生は終始ちっとも笑っていない瞳で微笑みながら、「困ったなぁ、これくらいじゃ全然痛くないよねぇ」と繰り返していたし、後からやってきた大規先生は気絶することすら許してくれなかった。意識を手放そうとする度に無理矢理引き戻されるから、僕の意識は少しでも苦痛から逃れようともがき続けていた。せめて空想の世界に逃避できれば良かったのだけど、そうしようとする度に振るわれる痛みが自分に起きている現実を直視させる。自分の叫び声を、他人事のように聞いた。およそ人の声とは思えないような不快な音。自分の喉からこんな音が出るのを初めて知った。僕が言うのもおかしな話だけど、鬼畜の所業ってこういうことを言うんじゃないだろうか。多分。
なんていうんだっけ。「あっちの世界」の僕か、「こっちの世界」の僕か、どっちの記憶だったか忘れたけれど、本で見かけた気がする。そうそう、人間の持つ防衛機制。心が自分を守るために行う心理メカニズム。そのおかげか、具体的に何をされたか、後半になるにつれて記憶が断続的だ。後から蒼一郎に聞いた話だと、僕はまる二日ほど部屋には戻らず、更にもう七日ほど部屋への立ち入りが禁止されていたらしい。日数は大体だろうから、もっと長かったかもしれないし、短かったかもしれない。やっぱりカレンダーがないって不便だ。
その間、僕の身体がどうなっていたかは知らない。とりあえず、あちこちに包帯やガーゼが巻かれていたし、その下の傷跡はくっきりと残っていた。服で見えないところは特に顕著で、今でもまだ、いくつかはしっかり「遊び」の名残を主張している。
それに、右腕に残っていた、小さな注射痕。
(……やっぱり、僕にも投与されてるんだろうな、あの薬)
蒼一郎の点滴パックの中身や、白雪が飲まされていた錠剤。それらと同じか、それに準ずる何らかの薬。あれが何の薬なのかは知らないが、まさかあの先生達が「栄養剤だけ投与しました」とは考えにくい。そして多分、投与されていたのは前々からだ。
(日野尾先生は、「自分の記憶に聞いてみたらいいんじゃん?」って言ってた)
含みのある言い方だった。記憶にないところで自分の身体に何かされているかも知れない、というのはどうにも気分が良くない。嘘。最悪。
僕の気付かない投与方法。水や食事。あとは。
投与されている記憶自体が消されている可能性。
(いやいや、考えすぎ……と楽観視できないあたりが実に不愉快)
大規先生の目を思い出す。僕で遊びながら、じっと何かを観察しているような眼差し。日野尾先生の残酷さとは違う、凍てつくような冷酷さを宿した、研究者としての温度のない瞳。
皆は大規先生を優しいとかかっこいいとか言って懐いているけれど、それは懲罰室での先生を見たことがないからだ。僕にはどうも、「優しくてかっこいい大規先生」というイメージの方が作られたもののように思える。
僕には分からない。どうして先生達は、僕を「こども」として採用したんだろう。どうして僕を処分せずに生かしているんだろう。
扱いやすいわけでも、大人しいわけでもない、客観的に見て問題だらけの僕を。
*
そろそろ夕食の時間に差し掛かる頃、蒼一郎が部屋を訪ねてきた。蒼一郎は模範生すぎて時々癇に障るけれど、「こども」の中では一番マシに話ができる相手だ。
「あれ、珍し。十歌は?」
「先生達に呼ばれてたよ」
「ふーん」
十歌が来てからこっち、同室ということもあってか、蒼一郎は大抵十歌と一緒にいる。初めこそ十歌はぼんやりしていて無反応なことが多かったが、最近はぽつりぽつりと話すことも増えた。こいつ喋れたんだな、と思ったのは内緒だ。
考えてみると、僕が「こども」としてここに来て、真白が増えて、蒼一郎が増えて、十歌が増えて。随分と、この「はこにわ」も賑やかになった。時々そうやって「こども」が増える変化はあったが、僕自身も含めて、個人の変化は少なかったように思う。真白は初めからあのまんま馬鹿だったし、蒼一郎は、……ここに来たばかりの頃は、時折暴れることはあったけれど、基本的な性格はずっとこうだった気がする。そういうものなのだと、特に疑問に思うこともなかった。今思えば、疑問に思わなかった自分が不思議だ。
短期間で一番変化があったのは十歌、あいつだ。あいつだけが、明確に変わった。
「それで、用事は?」
「ああ、うん。また眠兎くんに本を借りようと思って」
「いいけど。あ、僕にも貸してよ、前に君が読んでたやつ」
「……え?」
ぽかん、とした顔で、蒼一郎がこちらを見る。
「自分の本?」
「ほら、蒼一郎の部屋のさ、星の――」
言いかけて、言葉を引っこめる。何だ、この反応は。
様子がおかしい。
「待って。確認したいんだけど。蒼一郎さ、自分の部屋の本、どうした?」
「え……僕の部屋に、本なんてないよ?」
は? 一瞬、思考が停止する。
「いつから?」
「いつからって……ずっとだよ。だからいつも、眠兎くんに本を貸してもらってるじゃないか」
どうしたの?と、心配そうに、蒼一郎は聞いてくる。どうしたの、はこっちの台詞だった。蒼一郎の部屋の、古びた本棚と大量の本。古書の香り。それが、初めからなかったと、そう言うのか? 僕の記憶が、蒼一郎の言葉と噛み合わない。
おかしい。僕の知らないところで、僕の知らない何かが、少しづつ変わりつつあるのか?
僕の記憶がおかしいのか?
それとも、蒼一郎の記憶が、おかしくなってしまったのか?
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