うらにわのこどもたち

深川夜

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うらにわのこどもたち2 それから季節がひとつ、すぎる間のこと

番外 スプートニクの孤独(2/2)

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 夜、仕事の終わりに、私は彼の履歴書を眺めていた。れたてのラベンダーティーの香りが室内に漂う。

 彼の本採用まで、あと一週間。

 どうせ続かないと思っていたのに。履歴書に貼られた彼の顔写真を指先で触る。理想を捨てきれないと言った彼。平然と自分を偽る彼。嘆かわしいと怒った彼。三週間で見た、彼という人間の側面。
 もしかしたら、と期待している。もしかしたら、彼なら此処ここでやっていけるのではないだろうか。何もかもを知っても、この場所に留まってくれるのではないだろうか。

 そう思う自分を、不快に思った。

 どうして、私は不快なのだろう。この不快感の正体は何なのだろう。
 がりがりと、胸の内を爪で引っかいているような感じがする。みみず腫れになった所から、血がにじむ。べたべたした体液の奥からぷつり、ぷつりと血の玉が浮かんで流れるイメージが頭に浮かぶ。胸の奥からがりがりという音がする。がりがり、がりがり。嫌な音があふれる。苛々する。爪を立てられている不快感。気持ち悪い、と吐き捨てたかった。

 私は自分に問いかける。

 何がそんなに嫌なの?
 何がそんなに怖いの?

 分からない。

 *

 研修期間終了まで、あと三日。
 私は彼を連れて、研究区画の奥にいた。いくつかのセキュリティを解除して、冷たい金属製のドアハンドルを握る。
 あのがりがりとした不快感はまだ続いていた。

此処ここから先はね、世間様の言う道徳や倫理から最も遠く離れた場所だよ。人間が本能的に遠ざけようとも、本能的に求めようともすることが詰め込まれた場所」

 重い扉に手をかけたまま、私は呟く。

「だけどね、私は思うんだ。作り出した以上、最後まで責任を持つべきだって。理解は得られたためしがない。理解できないなら、此処ここではやっていけないし、要らない」
「……此処ここは、何をする場所ですか」
「処理室だよ」

 振り返ることなく、私は答える。

「出来損ないの物語を、処理する場所さ」


 重い扉を二つくぐり、すぐ脇にあるスイッチに手を伸ばす。青白く照らされた室内。リノリウムの床と、クリーム色の壁。中央に鎮座する鉄製の手術台。いくつかの棚、その横に並ぶ大型の刃物。部屋の奥には鉄格子がはまり、その中で実験体が一体、横になっている。少し痩せた、十代前半の人間の子供の姿。私は施錠していた鉄格子を開けて中に入り、実験体の腕を掴む。そのままずるずると引き摺って鉄格子の外へと出す。実験体は抵抗しない。すやすやと、愛らしい顔で寝息を立てたままだ。それを、無理矢理手術台へと乗せる。

「生きているのですか」
「生体反応はある。でも、もうずっと眠ったままだよ。これはもう起きない。物語を紡ぐことなく終わってしまった。だから最後に、私の研究と娯楽に役立ってもらう。例えば、この個体はどこまでやったら死ぬのか、とかね」

 そう言って、私は引き出しから使い捨てのメスを一本、取り出す。

「ねえ、君はどう思う?」

 手にしたメスが、照明を反射してぎらりと光る。

「安楽死させないのは残酷だって思う? でもさ、私は思うんだよねえ。それって綺麗事じゃない? 結局、処分することに変わりはないのに。殺し方だけを切り取って問題提起するのは間違ってる。でも、どうしたって処分は避けられない」

 返事はない。手元のメスを見つめる。彼の顔を見ることは出来なかった。

「君には記録をお願いするけど、……耐えられなかったら出て行ってもらって構わない。邪魔になるから」

 手術台で眠る実験体の、右手の小指の根元に、メスを当てる。

「まずは一本」

 じわりと滲む赤は台の上に血溜まりを作る。ぴっとはねた血液が、私の頬や白衣にかかる。鮮やかな赤色。大好きで大嫌いな色。この色を見ると気分が高揚するような、落ち着くような、逃げ出したいような、愛おしいような、不思議な気分になる。

 実験体に変化はない。

「二本目」

 薬指を切断する。あふれた血液は実験体を赤く染め、手術台から床へと伝う。転がった指が白い。そうやって、一本一本、指を切断していく。実験体に変化はない。目覚めることも、痛がることも、苦悶くもんの声を上げることも無く、すやすやと眠っている。
 作業を行いながら、彼はどんな顔をしているだろうと考えた。あの冷めた瞳に浮かぶのは、嫌悪だろうか。軽蔑だろうか。どちらでもいい。さっさと見切りをつけて、この場所から立ち去ればいい。すりきれた借り物の道徳心で、私を断罪すればいい。
 右手の指が全て無くなったところで、私は背後を振り返った。
 彼は黙々と、記録を続けていた。夜を切り取った瞳に、血まみれの私と実験体が映り込む。その瞳に喜びも哀しみも見い出せなかった。

「どう? 感想は?」

 私の言葉に、凄いですね、と彼は言う。

「これは人間の血液と同じですか?」
「限りなく近い、と言って差し支えないかな」

 彼は興味深く、手元のクリップボードにペンを走らせながら、実験体を観察する。人のかたちをした実験体。それを見る目は、実験用のマウスを見る目と変わらなかった。

「後で体液を分析させて頂いても構いませんか? ああ、断面の撮影の許可も」
「……いいけど」

 そこに、恐怖も、嫌悪も、なかった。あるのは、純粋な研究欲。
 ただただ、ひとりの研究者がそこにいた。

「……あのさ。今日は静かな実験体だけど、毎回こうとは限らない。泣きわめくだけになったものを相手にすることもあるし、状況を理解していない、一見人間の子供とほとんど変わらないものを処理することもある。君はそれでも、耐えられる?」

 私の言葉に、彼はくすりと笑う。

「優しいですね」
「な、……っ」
「先程から、所長は僕を気遣って下さってばかりのように思います」
「別に気遣ってる訳じゃないよ。事実を伝えた上で、君の意志が揺らがないかどうか確認してるだけ」

 言い訳じみた言い方になってしまった。だけど事実だ。大抵は耐えられない。そう、普通の人間なら。光の下を歩けるような、真っ当な人間なら耐えられるはずがないのだ。耐えられるとしたら、それは。

「平気ですよ」

 どうということはない、という声で、彼は言う。

「僕の理想は、道徳や倫理の先にありますから」

 ああ。

「君は……」
「どうしました?」

 呆然とたたずむ私に、彼は訊ねる。眉一つ動かすことなく。

「いいや」

 それはとても嬉しいけれど。

「何でもないよ」

 とても悲しいと思った。

 借り物の道徳を持ち出すこともない。正義を振りかざす人間とも、異常を個性と履き違えた人間とも違う。
 彼は倫理の外にいる人間だ。私と同じく。
 自分の理想の為に何もかも置き去りに出来る人間。
 自分の願望の為に何もかも利用することに躊躇ちゅうちょしない人間。
 ずっと、理解者を求めていた。同時に、理解者なんて現れなければいいと思っていた。

 私と同じ。

 それはつまり、人として世界からつまはじきにされたような、救いようのない人間なのだと、きちんと分かっている。そんな人間は、自分ひとりで十分だと思った。
 気付けば、胸のがりがりとした不快感は消えていた。代わりに、無性に泣きたくなった。
 きっとどうしようもなく取り返しのつかない場所に、私達は居るんだ。

 *

 一ヶ月の研修期間を終え、私は彼に訊ねる。

「それで、改めて聞くけど。君は此処ここでやっていく覚悟はあるかい?」

 真っ直ぐに彼を見つめた。夜を映した彼の瞳はぶれることなく私を見つめ返す。

「はい。この場所で――僕の理想と、貴女の理想の為に、貢献させて下さい」

 私は頷いて、彼に手を差し出す。彼は私の手を取る。低い体温。私の手を振り払わなかった彼の手を、緩く握る。

「……よろしく。大規おおきくん」
「よろしくお願いします。日野尾ひのお所長」
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