うらにわのこどもたち

深川夜

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うらにわのこどもたち3 空中楼閣

THE EMPRESS(2/3)

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 蒼一郎そういちろうの点滴が外れて数日。
 その日、業者の青年が仕事終わりに差し出したのは、見事な大きさのスイカだった。

「いやー、実家が送ってくれたんですけどね。流石に一人じゃ食べきれなくて!」

 バスケットボール大程の大きさだろうか。青年が軽く叩くと、べん、と低い音が鳴った。深い緑にくっきりと黒の縦縞が入っている。

「皆さんで食べて頂けませんか? えーと、そう、あれ! 僕からのお中元! って事で!」
「いや、有難いけど……本当にいいのかい?」

 いいんですいいんです! と気前よく青年は笑う。青年の首元に掛けたタオルに、頬を伝った汗がぽたりと落ちた。外は蒸し暑く、本格的な夏の様相ようそうていしている。

「じゃあ、遠慮なく」

 受け取ったスイカは想像していたよりずしりと重い。クーラーボックスにでも入れてきたのか、ひんやりと冷たく、随分と実入りも良さそうだ。それを落とさないよう両手で抱える。

「それじゃ! お疲れ様ですー! 大規おおきさんにもよろしくお伝え下さいー!」

 被っていた帽子を片手に、青年はぺこりと頭を下げた。後ろで一括りにした短いしっぽのような髪が揺れる。その髪も汗で濡れているのが分かった。

「お疲れ様。スイカ有難うねぇ」

 去っていく業者の車を見送り、日野尾ひのおも施設の中へと戻る。青年を見送る僅かな間外へ出ただけだというのに、うっすらと汗ばんでいるように感じる。腕に張り付く白衣。抱えたスイカの冷たさと、空調の効いた室内が心地良い。
 スイカを持って歩いていると、廊下の向こうに大規おおきの姿を見た。おーい、と声をかける。彼はこちらに気が付くと、小走りで近付いてきた。

「どうしたんですか?その西瓜」
「業者くんがお中元だって」

 そう言って、大規おおきにスイカを手渡す。代わりに、彼が持っていたファイルを引き受ける。

「意外と重いですね」
「そうなの。立派なスイカ貰って驚いちゃった」
「切り分けましょうか?」
「うーん、それもいいんだけどね。あんまり見事だから、普通に切り分けるのも味気ない気がして」

 涼しい室内で食べるスイカも勿論美味しいだろう。だが、折角ならもっと楽しみたい気がする。どうしようかと考え、ぴんと思いつく。

「ねえ、蒼一郎そういちろうの点滴も外れたし……お祝いも兼ねてスイカ割りしない? ほら、庭にビニールシート敷いてさ」

 にひひ、と自分の顔が綻ぶのが分かる。日野尾ひのおの提案に、大規おおきも「いいですね」と返した。

「……僕、西瓜割りってした事ないんですよね」
「実は私も。夏の定番! って感じはあっても、なかなかする機会って無いよねぇ」
「ではビニールシートを用意しましょうか」
「じゃあ私はこどもたちに声掛けてくるね」

 あっという間に役割分担が決まり、二人は機嫌良く言葉を交わし別れる。
 ……結局、本人達が楽しみたいというのが本当のところなのだ。


 *


 日野尾ひのおがこどもたちを連れて中庭に出ると、丁度大規おおきがバケツに水を張っているところだった。大きめのポリバケツの中に先程のスイカが鎮座して、ホースの先から流れる水を浴びている。直前まで冷やしておくつもりだったのだろう。少し離れた場所にまだ折り畳まれたままのブルーシートや手拭いが置いてある。

「よーし、皆、ブルーシート広げてー!」

 日野尾ひのおの声に率先して真白ましろが動く。それにのんびりと眠兎みんと十歌とうたが続いた。

蒼一郎そういちろうも、行っておいで」
「はい」

 遠慮がちな蒼一郎そういちろうに声を掛け、皆の輪に加わるよう促す。それぞれが楽しそうにブルーシートを広げる様子を、白雪しらゆきの手を繋いだまま見守る。周囲の空気を察しているのか、白雪しらゆきは可愛らしい声でハミングしている。

「そうだ、スイカ割りの棒に良さそうなものってあった?」
「それが、どうやらしたものかと思ったのですが」

 大規おおきはホースの水を止めると、施設の壁に立てかけてあった物干し竿を持って来る。普段は洗濯に使っている、ステンレス製の伸縮ができるものだ。

「伸縮性なので、長さを短くすれば扱いやすいかと思いまして」
「……流石にバールのようなものでスイカ割りは物騒だもんねぇ」

 くすくすと笑う。確かに、これなら強度といい重さといいスイカ割りには向いていそうだ。スイカ割りといえば木の棒の印象が強いが、あれはどこに置いているのだろう。一般家庭には存在するのだろうか。イベント事には縁のない生活を送っていると謎が多いなぁ、などと考えていると、真白ましろがこちらに向けて手を振った。

「せんせー! できたぜー!」

 広がったブルーシートを見て、日野尾ひのおも手を振り返す。

「おっけー! じゃあスイカ割り始めるよー!」

 大規おおきがバケツの中のスイカを取り出す。濡れたスイカが光を反射し鈍く光った。


 *


 何度目かの公平なジャンケンの末、順番が決まる。一番初めは真白ましろだ。自分の身体に物干し竿を立てかけ、手拭いを目元できつく結ぶ。

「いっくぞー!」

 意気込んで物干し竿を握る。周囲の右、左、という声を聞きながら歩き出したものの、スイカまではなかなか辿り着かない。目隠しをする前はほんの少し先にあった筈なのに。今自分がどの辺りにいるのかすら分からない。次第にどちらが右でどちらが左なのか分からなくなり、混乱したまま物干し竿を振り下ろした。勢いでバランスを崩し、その場で転んでしまう。

「わ、……っと!」

 手拭いを外すと、すぐ前方には芝生が広がっている。きょろきょろと周囲を見渡す。スイカは真白ましろより数歩後方にあった。

「なんだよー! くやしー!」
真白ましろは周囲に耳貸しすぎなんだよ」

 次の眠兎みんとへ物干し竿と手拭いを渡す。スタート位置に立った眠兎みんとは、自分の位置とスイカの位置を確認する。勝負事には負けたくない。眼鏡を外すと、それを日野尾ひのおへと託した。

「先生、預かってて下さい」
「任せな。応援してるよ」

 励ますように背中を叩かれ、眠兎みんとは再度、ぼやけた視界でスイカの位置を確認する。手拭いで目隠しをすると、物干し竿を構えた。

「うわ、これ本当に方向感覚失う」

 自分が普段どれだけ視力に頼って生活しているかが分かる。一歩踏み出すごとに、この方向で本当に合っているのか迷いが生じた。極力周囲の声に耳を貸さず、目隠しをする前の記憶を頼りにスイカを目指す。

「確かこの辺りだった……はず」

 物干し竿を思い切り振り下ろす。一瞬、手応えがあったように感じた。目隠しを外すと、竿はスイカの左側をかすり、すぐ横へとずれていた。スイカに僅かな亀裂が走っている。周囲の惜しいという声。くそ。スイカの分際で。

「惜しかったじゃん」

 近付いてきた日野尾ひのおから眼鏡を受け取る。はっきりとした視界の中日野尾ひのおが笑っていた。

蒼一郎そういちろう、任せる」
「うん。頑張るね」

 三番目の蒼一郎そういちろうへと物干し竿と手拭いを渡す。蒼一郎そういちろうは目を覆うと、竿を持とうとしてよろめいた。とっさに誰かが自分の腕を掴んだ。

「大丈夫か?」
「あ、……ありがとう。大丈夫」

 近くにいた十歌とうたが助けてくれたらしい。視覚情報が無くなっただけで眩暈めまいのような感覚を覚える。不思議だな、と蒼一郎そういちろうは思う。点滴が外れる前、点滴が無くなりそうになるとよく倒れかけたのを思い出した。あの頃自分を支えた点滴と同じくらい、目からの情報は大事なものなのかもしれない。
 頼りない足取りで、蒼一郎そういちろうはスイカを目指す。ふらふらとよろめきながらも声を頼りに場所を探り、物干し竿を振り上げる。振り下ろすと何かを砕く手応えがあった。わあっと歓声が上がる中、目隠しを外す。目の前に割れたスイカが散らばっていた。熟れたスイカは鮮やかに赤い。

「そーいちろう、すげーじゃん!!」
「今日の主役だな」
「悔しいけど、おめでと」
「ありがとう、みんな」

 褒められるのは照れくさかったが、とても誇らしいような、嬉しい気持ちがこみ上げる。日野尾ひのお大規おおきもブルーシートの端で拍手を送っていた。蒼一郎そういちろうはそれを見つけて、嬉しそうに微笑む。
 大規おおきが割れたスイカを食べやすい大きさに切り分ける。ブルーシートの上、皆で食べるスイカは瑞々しく甘い。不参加だった白雪しらゆきも、日野尾ひのおの膝の上に座り、大人しくスイカを食べさせて貰っている。
 まだ夕暮れには遠く、太陽は高い。夏の空は光にきらめき、熱された空気で草木の香りが強く香る。
 うんざりするような暑さ。なのに、不思議と心は踊る。

「……十歌とうたくんの出番、取っちゃったね」
「勝負は時の運。別の機会に挽回ばんかいするからいいさ」
「でもすげーよな。どうしてスイカのばしょ、分かったんだ?」

 蒼一郎そういちろう真白ましろの言葉に、

「内緒」

 とだけ答えて、ふふっと微笑む。

「何だよ。まさかズルしてないよな?」

 からかう眠兎みんとに、

「それだけ蒼一郎そういちろうが健康になったという事だろう」

 十歌とうたが答えて、持っているスイカをかじっている。

「そうそう。いい事だよ」

 こどもたちの会話に日野尾ひのおが口を挟んだ。

「……楽しかった?」

 日野尾ひのおの瞳が真夏の太陽にきらめく。リチア雲母の瞳に宿る、柔らかな微笑み。
 こどもたちはお互いに顔を見合わせ、それから頷く。

「楽しかったねぇ。またやろうねぇ」

 嬉しそうに彼女は笑う。夏の光を体現したような、鮮やかで晴れやかな、眩しい笑顔だった。


 *


 外に出て疲れてしまったのか、白雪しらゆきはすっかり夢の中だ。日野尾ひのお大規おおきはスイカ割りの片付け中、眠兎みんと十歌とうた真白ましろのサッカーに付き合わされている。蒼一郎そういちろうは夢の住人になってしまった白雪しらゆきの頭を膝に乗せ、木陰でぼんやりと皆の様子を眺めている。

「ごめんねぇ、助かったよ」

 片付けを終えた日野尾ひのお白雪しらゆきを起こさないよう、そっと蒼一郎そういちろうの隣に座る。

「全然。僕こそ、先生達のお手伝いができなくてごめんなさい」
「いいのいいの。君だって疲れたでしょ。点滴外れてから初めてこんなに遊んだんだから」

 日野尾ひのおは笑うと、よいしょ、と白雪しらゆきの頭を自分の膝へと移す。んん、と白雪しらゆきは声を上げるが、それもすぐに寝息へと変わる。

「……でも、折角点滴が外れたんだから、僕はもっと先生達のお手伝いがしたいです」
「真面目だなぁ蒼一郎そういちろうは」

 のんびりと日野尾ひのおは言う。気遣ってくれているのが分かった。蒼一郎そういちろうはそれをもどかしく感じる。もっと目に見える形で手伝える何かが欲しかった。
 僕は先生達の天使になりたいのに。
 日野尾ひのお先生だって、私の天使くんって言ったのに。

「いいんだよ。蒼一郎そういちろうには今までだっていっぱい助けて貰ってるんだから。……十歌とうたの事だって初めは戸惑ったでしょ」

 十歌とうたと初めて会った時の事を思い出す。大規おおきに連れられてやって来た日。無口で、無表情で、少し薄汚れた服を着ていた。その後二人で何かを話した気がする。あの時は確か。
 思い出す必要はない。そうだ、思い出さなくていい。それは要らない情報だから。

「確かに……初めて会った時は、ちょっとびっくりしました。でも今は大切な友達です」

 うん、と日野尾ひのおは頷く。

「私は正直、十歌がやって行けると思ってなかった。だけど、蒼一郎そういちろうがいっぱい助けてくれたから、今はこうして他の子とも仲良くできてる。蒼一郎そういちろうのお陰なんだよ」

 蒼一郎そういちろう日野尾ひのおの横顔を見る。日野尾ひのおの瞳はボールを蹴る十歌とうたを見ていた。その表情に僅かな苛立ちを感じ取る。

「先生、十歌とうたくんのこと……」
「まぁ、問題はいくつか残ってるけどね。大半は蒼一郎そういちろうや他の子のお陰でどうにかなってるから大丈夫。どうにかなってないところは先生達が頑張らなきゃいけないところだから。蒼一郎そういちろうが気にする事じゃないよ」

 日野尾ひのおは肩をすくめ、片手で蒼一郎そういちろうの頭を抱き寄せる。肩の辺りに顔が当たる形になり、蒼一郎そういちろうはそっと日野尾ひのおを見上げた。腕の中、日野尾ひのおの濃い茶色の髪が、日に透けてきらきらと光る。

「有難う。蒼一郎そういちろうが手伝ってくれるなら、きっともっと素敵な世界になるよ。このはこにわは」

 日野尾ひのおの優しい声に、蒼一郎そういちろうは微笑む。
 そうなればいい。今日はとても楽しかった。今までの「点滴と一緒の生活」では絶対に味わえなかった体験。
 スイカ割りの時、大規おおきの声を頼りに歩いた。その通りにした結果、スイカは見事に割れた。先生達の言う事は正しい。正しい。だから先生達の役に立ちたい。
 白雪しらゆきが寝返りを打つ。柔らかい彼女の髪を、日野尾ひのおは愛おしそうに撫でる。
 今、胸の中にある温かな気持ち。そんな気持ちがはこにわを満たしていったらいい。そう思いながら、蒼一郎そういちろうはそっと目を閉じた。


 足元でサッカーボールを止め、眠兎みんとはそんな三人を見つめる。

「……眠兎みんと?」
「あ、うん」

 十歌とうたに声をかけられ、ボールを蹴る。心に巣食った黒い苛立ち。勢いのついたボールは弾みながら、芝の上を駆けてゆく。
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