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うらにわのこどもたち3 空中楼閣
WHEEL of FORTUNE
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「少し、落ち着きましたか?」
「……うん」
宵闇の広がり始めた部屋の中、日野尾はソファーに座り、じっと膝の上の手元を見つめる。地平線へ沈んだ夕日の赤と夜の闇が混じり合い、古びて薄汚れたカーテンの隙間から紫色の光が差し込んでいる。
蒼一郎が、十歌を殺した。
初めに気付いたのは眠兎だった。異変に気付いた眠兎は日野尾を探し、事の次第を伝えた。
眠兎の言う事だ。初めは悪趣味な冗談だと思った。眠兎の顔は僅かに青ざめていた。状況を確認しようと二人の部屋へ向かうと、室内は確かに赤く汚れていた。血塗れの蒼一郎が振り返る。日野尾の顔を見て嬉しそうに笑った。
「先生。これでもっと、この世界は幸せになりますか?」
朗らかな声。目の前の光景にあまりに不釣り合いな蒼一郎の態度。もう動かない十歌の死体。
狂ったように蝉が鳴いていた。冗談ならばどんなに良かったか。夢だと思いたくても現実は変わらない。現実は、現実だ。
「……大体、ナイフなんて何処で……」
「……それが、」
日野尾の傍らに立ち、大規は言いにくそうに目を逸らす。
「作業用のナイフが一本。危ないので厳重に保管していたのですが……一体いつどうやって見つけたのか……迂闊でした」
「……そう……」
「……申し訳ありません」
「いや……いいよ。君のせいじゃない……」
今は、こどもたちはそれぞれの部屋に待機させている。蒼一郎は研究区画の一室に拘束して眠らせた。十歌の死体は処理室へと運んだ。
「……こどもがこどもを……しかもよりによって、蒼一郎が十歌を殺すなんて……」
「完全に想定外でした。最近の様子も落ち着いていましたし……」
大規が沈痛な面持ちでファイルを開く。
「……何か、引き金になる事があったのでしょうか。蒼一郎くんが十歌くんを憎んだり、排除しようとするような……」
「まさか。だってあの二人、すごく仲良くして――……」
そう言いかけてはっとした。
日野尾の脳裏に、スイカ割りの後の会話が蘇る。確かに十歌に問題があると言ったのは自分だ。しかし、まさかそんな些細な事がこのような自体を引き起こすなんて。
「……所長?」
「ううん。……ううん。何でもない……」
指先が冷たい。微かに震える指先を、両手で抑えるように握る。
この事態は自分のせいで引き起こされたものなのだろうか。うつくしく完成しつつあった楽園を、自らの手で壊してしまったというのか。
……まさか。自分のせいで。自分の。
「ごめん、大規くん。一人にしてもらっていいかな。少し……ゆっくり考えたい」
「……承りました」
大規は恭しく一礼する。部屋を出る前にこちらを振り返った。
「所長。……あまり、ご自身を責めないで下さいね」
「分かってる。ありがと」
ぱたん、と扉が閉まる音が聞こえる。
落ち込んでいる暇などない。蒼一郎の対処、他のこどもたちへの対応、今後のはこにわのこと――考えなければならない事は沢山ある。まずは自分がもっと冷静にならなければと思ったが、気分転換に紅茶を淹れる気にはとてもならなかった。
*
朝からずっと付きまとっていた嫌な予感。思えばあの夢の異変は予兆だったのかもしれない。十歌との情報共有も今となっては叶わない。彼のつけていた日記も回収できないままとなった。
〝こども〟が〝こども〟を殺した。それは眠兎ですら犯さない禁忌。
待機を命じられた自室で日記をめくる。薄く開いたドアから見えたあの赤い光景がまざまざと瞼に浮かぶ。部屋から流れ出す血臭。ぐっしょりと赤く濡れた床。背を向けた蒼一郎の顔は分からなかった。その手がナイフを振り下ろす度、青ざめた十歌の手足が衝撃で揺れていた。
ここから先は自分ひとりでどうにかするしかない。十歌が遺した知恵と変化、自分の機転を使って。
「くそっ――……」
滑り落ちたカード。自分の立っている場所すら見えない。
……それとも、これはこれで好機なのだろうか。〝こども〟を殺した蒼一郎が処分を免れるとも思えない。優等生の蒼一郎が消えれば自分も含めてこどもは四人。今回の事態を伝えた自分を日野尾は悪く思わないだろう。日野尾が庇えば、大規も迂闊に手を出せない。
一瞬、窓に映った自分の口元が引き攣ったように笑った。
しかし自分は白雪の身体に触れている。桜色のくちびるに。溶けてしまいそうな白く柔らかな肢体に。
日野尾は何も言って来ない。何も言わないのは知らないからなのか、それとも既に何らかの決定を下しているのか。後者ならば間違いなく処分される。
(どうして――……)
眠兎は窓に映る自分に問いかける。
(どうして僕等は創り出されたんだろう……)
答えのない問い。暮れゆく空は眠兎の問いには答えず、ただただ眠兎を照らしている。
知らず指先に込めた力で、白いノートは僅かに皺を寄せた。
*
自室のドアを閉め、大規は椅子に身体を預ける。口元を覆うマスクを片耳に引っ掛け、デスクに肩肘をついた。役割を失ったマスクが視界の端で所在なさげに揺れる。髪をかきあげた拍子に分けている前髪が崩れた。
痛々しい日野尾の様子を思い浮かべる。傷ついた瞳。沈痛な面持ち。今にも崩れ落ちそうな虚勢――自然と笑みが零れた。
胸が痛い。彼女の哀しみを痛みとして認識している。胸が詰まる。可哀想だと感じる。もどかしいと感じる。助けてあげたいと感じる。守りたいと感じる。大切だと感じる。愛おしいと感じる。心が動く。動く心を認識する。
彼女にひとつ、嘘をついた。
凶器となったナイフは盗まれたのではない。大規自身が蒼一郎に手渡したのだ。いつか蒼一郎と約束した通り、自分の仕事を手伝ってもらう為に。
そして蒼一郎はその役割を遂行した。
パソコンを起動させ、長い文字列を打ち込む。煌々と光るモニターに表示した資料を、彼はどこか愉しげに、どこか慈しむように眺める。
此処から、彼女の築いた箱庭は崩壊を始めるだろう。偽物の楽園が粉々に砕けたその先に――きっと彼女は失っていた真実を見つける。これはその些細で決定的な綻びに過ぎない。世界の分岐点。やっと回り始めた運命の輪。
「役割を果たしてくれて有難う。七二四一六番」
これは僕の問題だ。僕と、彼女の。
誰に理解されようとも思わない。そんな時期はとうに過ぎてしまった。誰が僕を裁こうとも誰が僕を誹ろうともそんな事はもうどうでもいい。あの頃の中途半端で覚悟が足りなかった自分とは違う。
自分が正しいとは思わない。そして世界が正しいとも思わない。
僕は二度と神になど祈らない。二度と神になど縋らない。全ては自らの手で取り戻してみせる。その為に自分は今此処に立っているのだから。
――ねえ、そうでしょう?愛々ちゃん。
大規は胸の内で呟き、在りし日に思いを馳せる。
今度こそ幸福になるのだ。僕と、彼女は。
「……うん」
宵闇の広がり始めた部屋の中、日野尾はソファーに座り、じっと膝の上の手元を見つめる。地平線へ沈んだ夕日の赤と夜の闇が混じり合い、古びて薄汚れたカーテンの隙間から紫色の光が差し込んでいる。
蒼一郎が、十歌を殺した。
初めに気付いたのは眠兎だった。異変に気付いた眠兎は日野尾を探し、事の次第を伝えた。
眠兎の言う事だ。初めは悪趣味な冗談だと思った。眠兎の顔は僅かに青ざめていた。状況を確認しようと二人の部屋へ向かうと、室内は確かに赤く汚れていた。血塗れの蒼一郎が振り返る。日野尾の顔を見て嬉しそうに笑った。
「先生。これでもっと、この世界は幸せになりますか?」
朗らかな声。目の前の光景にあまりに不釣り合いな蒼一郎の態度。もう動かない十歌の死体。
狂ったように蝉が鳴いていた。冗談ならばどんなに良かったか。夢だと思いたくても現実は変わらない。現実は、現実だ。
「……大体、ナイフなんて何処で……」
「……それが、」
日野尾の傍らに立ち、大規は言いにくそうに目を逸らす。
「作業用のナイフが一本。危ないので厳重に保管していたのですが……一体いつどうやって見つけたのか……迂闊でした」
「……そう……」
「……申し訳ありません」
「いや……いいよ。君のせいじゃない……」
今は、こどもたちはそれぞれの部屋に待機させている。蒼一郎は研究区画の一室に拘束して眠らせた。十歌の死体は処理室へと運んだ。
「……こどもがこどもを……しかもよりによって、蒼一郎が十歌を殺すなんて……」
「完全に想定外でした。最近の様子も落ち着いていましたし……」
大規が沈痛な面持ちでファイルを開く。
「……何か、引き金になる事があったのでしょうか。蒼一郎くんが十歌くんを憎んだり、排除しようとするような……」
「まさか。だってあの二人、すごく仲良くして――……」
そう言いかけてはっとした。
日野尾の脳裏に、スイカ割りの後の会話が蘇る。確かに十歌に問題があると言ったのは自分だ。しかし、まさかそんな些細な事がこのような自体を引き起こすなんて。
「……所長?」
「ううん。……ううん。何でもない……」
指先が冷たい。微かに震える指先を、両手で抑えるように握る。
この事態は自分のせいで引き起こされたものなのだろうか。うつくしく完成しつつあった楽園を、自らの手で壊してしまったというのか。
……まさか。自分のせいで。自分の。
「ごめん、大規くん。一人にしてもらっていいかな。少し……ゆっくり考えたい」
「……承りました」
大規は恭しく一礼する。部屋を出る前にこちらを振り返った。
「所長。……あまり、ご自身を責めないで下さいね」
「分かってる。ありがと」
ぱたん、と扉が閉まる音が聞こえる。
落ち込んでいる暇などない。蒼一郎の対処、他のこどもたちへの対応、今後のはこにわのこと――考えなければならない事は沢山ある。まずは自分がもっと冷静にならなければと思ったが、気分転換に紅茶を淹れる気にはとてもならなかった。
*
朝からずっと付きまとっていた嫌な予感。思えばあの夢の異変は予兆だったのかもしれない。十歌との情報共有も今となっては叶わない。彼のつけていた日記も回収できないままとなった。
〝こども〟が〝こども〟を殺した。それは眠兎ですら犯さない禁忌。
待機を命じられた自室で日記をめくる。薄く開いたドアから見えたあの赤い光景がまざまざと瞼に浮かぶ。部屋から流れ出す血臭。ぐっしょりと赤く濡れた床。背を向けた蒼一郎の顔は分からなかった。その手がナイフを振り下ろす度、青ざめた十歌の手足が衝撃で揺れていた。
ここから先は自分ひとりでどうにかするしかない。十歌が遺した知恵と変化、自分の機転を使って。
「くそっ――……」
滑り落ちたカード。自分の立っている場所すら見えない。
……それとも、これはこれで好機なのだろうか。〝こども〟を殺した蒼一郎が処分を免れるとも思えない。優等生の蒼一郎が消えれば自分も含めてこどもは四人。今回の事態を伝えた自分を日野尾は悪く思わないだろう。日野尾が庇えば、大規も迂闊に手を出せない。
一瞬、窓に映った自分の口元が引き攣ったように笑った。
しかし自分は白雪の身体に触れている。桜色のくちびるに。溶けてしまいそうな白く柔らかな肢体に。
日野尾は何も言って来ない。何も言わないのは知らないからなのか、それとも既に何らかの決定を下しているのか。後者ならば間違いなく処分される。
(どうして――……)
眠兎は窓に映る自分に問いかける。
(どうして僕等は創り出されたんだろう……)
答えのない問い。暮れゆく空は眠兎の問いには答えず、ただただ眠兎を照らしている。
知らず指先に込めた力で、白いノートは僅かに皺を寄せた。
*
自室のドアを閉め、大規は椅子に身体を預ける。口元を覆うマスクを片耳に引っ掛け、デスクに肩肘をついた。役割を失ったマスクが視界の端で所在なさげに揺れる。髪をかきあげた拍子に分けている前髪が崩れた。
痛々しい日野尾の様子を思い浮かべる。傷ついた瞳。沈痛な面持ち。今にも崩れ落ちそうな虚勢――自然と笑みが零れた。
胸が痛い。彼女の哀しみを痛みとして認識している。胸が詰まる。可哀想だと感じる。もどかしいと感じる。助けてあげたいと感じる。守りたいと感じる。大切だと感じる。愛おしいと感じる。心が動く。動く心を認識する。
彼女にひとつ、嘘をついた。
凶器となったナイフは盗まれたのではない。大規自身が蒼一郎に手渡したのだ。いつか蒼一郎と約束した通り、自分の仕事を手伝ってもらう為に。
そして蒼一郎はその役割を遂行した。
パソコンを起動させ、長い文字列を打ち込む。煌々と光るモニターに表示した資料を、彼はどこか愉しげに、どこか慈しむように眺める。
此処から、彼女の築いた箱庭は崩壊を始めるだろう。偽物の楽園が粉々に砕けたその先に――きっと彼女は失っていた真実を見つける。これはその些細で決定的な綻びに過ぎない。世界の分岐点。やっと回り始めた運命の輪。
「役割を果たしてくれて有難う。七二四一六番」
これは僕の問題だ。僕と、彼女の。
誰に理解されようとも思わない。そんな時期はとうに過ぎてしまった。誰が僕を裁こうとも誰が僕を誹ろうともそんな事はもうどうでもいい。あの頃の中途半端で覚悟が足りなかった自分とは違う。
自分が正しいとは思わない。そして世界が正しいとも思わない。
僕は二度と神になど祈らない。二度と神になど縋らない。全ては自らの手で取り戻してみせる。その為に自分は今此処に立っているのだから。
――ねえ、そうでしょう?愛々ちゃん。
大規は胸の内で呟き、在りし日に思いを馳せる。
今度こそ幸福になるのだ。僕と、彼女は。
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