山椒大夫なんか知らん。陸奥でスローライフ始めます。

希臘楽園

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百万本の薔薇より一枚の絵を

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 私が前の世界での記憶を持ったまま、この世界に生まれ落ちたのは、どうやら事故のせいらしかった。

 美術大学の三年生だった私は、夜の帰り道に車に撥ねられ、気がつくとこの世界の貧乏画家、ミハイル・ヴァレンコフの身体に収まっていた。十九世紀の東欧、くすんだ石畳と煤けた煙突が並ぶ小さな町。前世と比べれば不便極まりないが、絵を描くことだけは変わらず好きだったので、何とかやっていけた。

 ただ一つ、この世界に来て最初に思ったことがある。

 百万本の薔薇の話を、私は知っていた。前世の世界で有名な歌として伝わっていた物語だ。貧しい画家が歌姫に恋をして、家も絵も全て売り払い、百万本の薔薇で広場を埋め尽くした。名も告げずに。

 学生の頃から、私はその話が胡散くさくて仕方なかった。

 百万本の薔薇など、この時代の流通事情で一体どうやって揃えるというのか。産地から運ぶだけで大半は枯れてしまう。仮に揃えられたとしても、薔薇はいずれ枯れる。枯れた後に残るのは膨大なゴミの山だ。広場を片付けさせられる町の人々の迷惑を、画家は考えたことがあるのか。そもそも匿名で贈るというのは、歌姫からすれば突然見知らぬ誰かから大量の花束を押し付けられるようなものだ。現代で言えば、推し活を通り越して迷惑なストーカー行為に近い。

 純粋な愛の美談のつもりだろうが、私の目には自己満足の迷惑行為にしか映らなかった。

 そしてある秋の日、その歌姫が私の町にやって来た。


 トーキ・カトワ。

 その名前は町中に貼り出されたポスターで知った。各地を巡業する歌手で、この町の劇場でも三日間の公演を行うという。私もチケットを買って初日の公演に足を運んだ。画家の端くれとして、美しいものには素直に触れておきたかった。

 舞台に現れたトーキ・カトワは、確かに息を呑むほど魅力的な女性だった。

 黒髪に深みのある声、観客を包み込むような歌い方。彼女が歌い始めると劇場全体が静まり返り、私もしばらくの間、筆を持つことも忘れて聴き入った。公演が終わった後も、その歌声が耳の奥に残り続けた。

 魅力的な人だと思った。好きだと思った。

 しかし私はそこで止まった。

 家を売るつもりはない。絵を売り払うつもりもない。ましてや百万本の薔薇で広場を埋め尽くして、町中に迷惑をかけるつもりなど微塵もない。彼女はこの町に三日間滞在して、それから次の町へ去っていく。私は画家で、彼女は歌姫だ。今の私には、彼女に釣り合う何も持っていない。

 想いがあるなら、まず自分が変わるべきだ。

 私はそう決めて、アトリエに戻った。

 トーキ・カトワは三日後、静かに町を去った。広場には薔薇の花びら一枚残っていなかった。町の人々は何事もなかったように日常に戻り、私も黙々と絵を描き続けた。


 前世の記憶は、画家としての私に奇妙な武器を与えてくれた。

 十九世紀のこの世界では、絵画といえば写実的な風景画や肖像画が主流だった。しかし前世の美術大学で学んだ私の頭の中には、印象派、表現主義、キュビズム、抽象画と、この世界にはまだ存在しない無数の技法と表現が詰まっていた。

 最初は戸惑った。前世の技法をそのまま持ち込んでいいものかと。しかし考えてみれば、私はこの世界のミハイル・ヴァレンコフとして生きている。前世の記憶は私の一部だ。それを使わない手はない。

 私は少しずつ、自分の絵に前世の感性を混ぜ始めた。

 写実的な下地に、印象派の光の表現を重ねる。人物画に表現主義の歪みを加えて、内面の感情を滲み出させる。この世界の画壇には存在しない手法だったが、それが逆に新鮮に映ったらしい。

 最初に注目してくれたのは、地元の画商だった。

「ヴァレンコフ、これは一体何だ。見たことがない絵だが、目が離せない」

 画商は私の絵を数点買い取り、都市部の画廊に持ち込んだ。反応は予想以上だった。斬新だ、革新的だ、新しい時代の絵だという評判が広まり、注文が来るようになった。貧乏画家だった私の生活は、少しずつ変わり始めた。

 トーキ・カトワが町を去ってから、五年が経っていた。


 個展の話が持ち上がったのは、私が三十代になった頃だ。

 首都の大きな画廊から声がかかり、半年かけて新作を描き下ろした。会期は二週間。初日から多くの人が訪れ、画廊は連日賑わった。私は毎日会場に立って、訪れた人々と言葉を交わした。

 五日目の午後だった。

 画廊の入口に、見覚えのある黒髪の女性が立っていた。

 五年の歳月は彼女を少し変えていた。あの頃より落ち着いた雰囲気になっていたが、深みのある目は変わっていなかった。トーキ・カトワは会場をゆっくりと歩きながら、一枚一枚の絵を丁寧に見ていた。

 私はしばらく離れた場所から眺めていた。声をかけるべきか迷いながら。

 彼女が足を止めたのは、五年前描き始めた一枚の前だった。あの秋の夜、劇場から帰ってアトリエに戻り、彼女の歌声を思い出しながら描き始めた絵だ。黒髪の女性が舞台に立っている、ただそれだけの絵だが、私が持てる全ての感性を注ぎ込んだ一枚だった。題名はつけていない。

 トーキはその絵の前で、長い時間立ち尽くしていた。

 私は覚悟を決めて、近づいた。

「気に入っていただけましたか」

 彼女が振り返った。私の顔を見て、少し首を傾げた。

「画家のヴァレンコフ様ですか」

「そうです。五年前、あなたの公演を観に行きました」

 トーキは絵と私を交互に見てから、静かに言った。

「この絵の女性は、私ですか」

 私は頷いた。隠すつもりはなかった。

「あの夜、劇場から帰って描き始めました。あなたの歌声を思い出しながら。それから五年間、描き加え続けました。完成したのはつい最近です。題名をつけられなかったのは、あなたの名前を書いてしまったら、それだけで完結してしまう気がしたからです」

 トーキはしばらく黙っていた。画廊の喧騒が、二人の間だけ遠のいたような気がした。

「五年前、あの町にいらしたのですね」と彼女は言った。

「はい」

「あの公演の後、広場に薔薇が一輪も落ちていなかった。いつもどこかの町で、誰かが花を贈ってくるのに」

 私は苦笑した。

「百万本の薔薇を贈えるほどの財産も甲斐性も、当時の私にはありませんでした。それに正直に申し上げると、百万本の薔薇で広場を埋め尽くすのは、町の方々への迷惑だと思っていて」

 トーキは少し目を丸くしてから、声を立てて笑った。

「まあ。それは正直な方ですね」

「ただ、あなたのことは忘れられなかった。だから絵を描きました。いつかあなたに釣り合う画家になれたら、その時に想いを伝えようと。絵で伝えようと、そう思っていました」

 トーキはもう一度、絵に目を向けた。長い沈黙の後、静かに言った。

「五年間、この一枚を描き続けてくださっていたのですか」

「そうです。描き加えるたびに、あの夜の歌声を思い出しました。五年分の気持ちが、この一枚に全て入っています」

 トーキは絵から私へ、ゆっくりと視線を移した。その目に、何か柔らかいものが宿っていた。

「ヴァレンコフ様、今夜お時間はありますか。あなたのお話を、もっと聞かせていただきたい」

 画廊の窓から、秋の夕陽が差し込んでいた。五年前のあの夜と同じ、深い金色の光だった。

 百万本の薔薇は要らなかった。枯れない想いを、一枚の絵に込めるだけで十分だった。
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