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第8章 江戸へ

5 追い詰められる堀田老中

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 京で孝明天皇の勅許を得るのに失敗した堀田備中守は、急ぎ江戸に戻り、その旨を将軍家定に報告していた。
「帝の勅許を得られなかったのは全て私の不徳の致すところで御座います。この備中、上様には一体何とお詫び申し上げたらよいものか、苛まれている次第でございます」
 江戸城本丸の御座之間にて、堀田は平身低頭しながら家定にお詫びをしている。
「顔を上げよ、備中守」
 家定が芯まで凍るような冷たい声で言うと、堀田は恐る恐る頭を上げた。
「そちは以前、京の帝の勅許は儀礼的なものに過ぎず、得るのは容易なことと申しておったな」
 家定の声が一段と低くなる。
「だが蓋を開けてみればどうじゃ。京の公卿共にいいように言いくるめられ、徳川の権威を著しく貶めただけではないか。そちの不届きは本来ならば切腹を申しつけてしかるべき事柄じゃ」
 家定は蔑むような目で堀田を見ながら冷たく言い放つ。
「面目次第もございません! ですがまだ起死回生の策ならば御座いますので、どうかお聞き下され!」
 家定の怒りを感じた堀田備中守は何とか説得しようと躍起になっている。
「ほう、ならば申してみるがよい」
「大老の職を越前の松平慶永公に、上様の継嗣を一橋慶喜公にお決め遊ばすことで御座います。越前の慶永公は西洋の事情によく通じており、また国元においても賢君として誉れ高いお方で御座ります故、この難局を切り抜けるのに必ずや大きな力となりましょう。そして慶喜公は朝廷と繋がりの深い水戸の斉昭公のご子息であり、京の帝や公卿達の覚えも非常によいと聞き及んで御座いまする。もし慶喜公を上様の継嗣にお決め遊ばされれば、斉昭公は勿論のこと、京の帝や公卿達の支持を取り付けることも容易となりましょう。その上で再度条約調印の勅許のお伺いを立てれば、今度こそきっとうまくゆくはずで御座いまする」
 堀田は起死回生の策を全て家定に申し上げた。
「なるほど、それがそちの策であるか」
 家定は相変わらず冷ややかな目で堀田を見ている。
「全くもって話にならぬ! 余は一橋も越前も水戸も皆嫌いじゃ! 大嫌いじゃ! 特に越前や水戸は普段から余のことを陰で芋公方、暗愚と申して憚らぬそうではないか! それにこれらの者達は、余が将軍になった時から病弱で世継ぎもできぬと勝手に決めつけて一橋を余の継嗣に押し立て、そして余が死んだ暁には一橋を介して幕府を牛耳ろうと企んでいる下劣極まりない奴らなのじゃぞ! 余が健在である限り、あれらの者達が幕政に関わることなどは決してありえぬ!」
 ついに我慢がきかなくなった家定が癇癪を起す。
「大老の職は譜代筆頭である彦根の井伊掃部頭こそふさわしいと余は考えておる! そして余の継嗣は余に血筋が近い紀州の徳川慶福にするつもりでおる! まさか備中守が一橋や越前などの肩を持つまでに落ちぶれようとは夢にも思わなかった! もうそちの顔など見たくもない! 下がれ!」
 家定に罵られた堀田備中守は苦い失望を噛みしめながら御座之間を退出した。





 数日後、家定の命により彦根藩主の井伊掃部守直弼が正式に大老に就任することが決まった。
 この出来事が後に堀田を失脚に追い込むと同時に、幕府の命運をも大きく左右することに繋がるのである。
 

 

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