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第八章
第四部 警察を降りる日
しおりを挟む辞表は、一枚だった。
封筒に入れることもしなかった。
折り目も、ない。
天川黎人は、それを手にしたまま、
警察署の廊下を歩いていた。
靴音が、やけに大きく響く。
署内は、いつも通りだった。
忙しそうな声。
電話のベル。
キーボードを叩く音。
事故も、事件も、
今日もどこかで起きている。
それでも――
自分は、そこに行かない。
後藤直次のデスクは、
いつもと同じ場所にあった。
書類の山。
古い写真立て。
表情の消えた横顔。
天川が立つと、
後藤はすぐに気づいた。
だが、
声はかけない。
天川が、
辞表を置くまで。
紙の音が、
小さく鳴った。
後藤は、
それを見た。
見ただけで、
内容を理解した。
「……そうか」
それだけだった。
上司としての言葉は、
なかった。
引き止めも、
叱責も、
説得も。
それらは、
すべて無意味だと
分かっていた。
「警察を、
嫌いになったか」
後藤が、
ゆっくり尋ねる。
天川は、
首を振った。
「……嫌いじゃないです」
「なら、なぜだ」
天川は、
一拍置いた。
「……信じてるからです」
後藤は、
わずかに眉を動かした。
「信じてるから、
ここにいられない」
後藤は、
それ以上、
何も聞かなかった。
聞く必要が、
なかった。
天川の目を見れば、
十分だった。
「……救えなかったな」
後藤が、
ぽつりと言う。
天音梨花。
杉原。
名もない犠牲者。
そして――
選ばれた、あの人。
天川は、
視線を落とした。
「……はい」
「お前のせいじゃない」
「分かってます」
「それでも、
辞めるのか」
天川は、
顔を上げた。
「……だから、です」
守れなかったこと。
それを、
なかったことにしないために。
事故という言葉で、
覆わないために。
後藤は、
椅子から立った。
ゆっくりと。
刑事としてではない。
上司としてでもない。
一人の人間として。
「……場所がある」
後藤が言う。
「警察じゃない」
「だが、
警察より、
事故を見ている」
天川は、
何も言わず、
聞いた。
「表には出ない」
「看板もない」
「だが、
“消されたもの”が、
流れ着く」
後藤は、
一枚の紙を差し出した。
住所。
それだけ。
「そこに行け」
「……誰がいるんですか」
後藤は、
一瞬、迷った。
そして、
言った。
「……俺の娘と」
天川の指が、
わずかに止まる。
「……天音の、
妹もだ」
天川は、
紙を受け取った。
重かった。
責任の重さではない。
繋がりの重さだ。
「刑事としての縁は、
ここで終わりだ」
後藤は、
そう言った。
だが、
目は、違うことを言っている。
「……はい」
天川は、
敬礼しなかった。
それは、
もう必要ない。
警察署を出たとき、
空は、
やけに高かった。
自由ではない。
ただ、
拘束が、
なくなっただけだ。
住所の場所は、
下町だった。
細い道。
古い建物。
人の気配は、
ある。
だが、
何かを隠すには、
ちょうどいい場所。
天川は、
立ち止まった。
目の前の建物を見て、
首を傾げる。
一階。
駄菓子屋。
色褪せた暖簾。
木製の引き戸。
探偵事務所の
「た」の字もない。
――ここか?
本当に?
その瞬間。
戸の向こうから、
声がした。
「あんたかね?
天川ってのは」
穏やかで、
柔らかい声。
だが、
芯がある。
「いつまで、
そこで突っ立ってるんだい」
引き戸が、
少し開く。
畳の部屋。
その奥に、
小さな背中。
「中にお入り」
「話は、
入ってからだよ」
天川は、
一瞬、迷い――
そして、
靴を脱いだ。
事故の外側へ、
足を踏み入れる。
大川千代子。
通称、
ちよばあちゃん。
この日、
天川黎人は、
警察を降り、
探偵の世界に
足を踏み入れた。
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