「瀧」 ―横川の小さなバーに棲む気の話―

バーガヤマスター

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第一部 常連たちの夜 5

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第五章 坂口の月曜日

月曜日の夜だけは、坂口光は必ず「瀧」に来る。
理由を聞かれれば、「考えるために」と答える。実際そうだ。「瀧」の静かなカウンターに座って、コーラかジンジャーエールを飲みながら、一週間の始まりを整理する。頭の中を棚卸しするような時間が、月曜日の夜に必要だった。
坂口は四十三歳で、IT系の会社を経営している。広島市内にオフィスを持って、従業員が十二人いる。規模は小さいが、数年前までは順調だった。あの頃は確かに、すべてが自分のコントロール下にある気がしていた。
今は違う。
メインのクライアントが半年前に離れた。売上の四割を占めていたクライアントだ。理由は「内製化を進めることになった」。丁寧な言い方だったが、意味は明確だった。次を探したが、同じ規模のクライアントはなかなか見つからない。資金繰りが少しずつ苦しくなっていた。
誰にも言っていない。従業員には「再構築の時期だ」と言っている。妻には「先行投資が多い時期だ」と言っている。どちらも嘘ではないが、全部でもない。
坂口はカウンターに座って、コーラを受け取りながら、スマホを開いた。数字を確認する。来月の支払い。再来月の見込み。数字を見ているようで、実際には見えていない。頭が疲れていると、文字が記号になる。
「今日もお仕事ですか」と沖田が言った。
「まあ」と坂口は答えた。
端の席を見ると、タキさんがいた。月曜日にタキさんがいることは、そんなに多くないが、たまにある。今夜はいた。
「坂口さん、最近どうですか」とタキさんが言った。
坂口はスマホから目を上げた。タキさんに名前を教えた記憶があるような、ないような。でも「坂口さん」と呼ばれることに、違和感はなかった。
「まあ」と坂口は答えかけた。「まあ、普通です」と言おうとした。でも言葉が止まった。
なぜかわからない。タキさんに対する時だけ、「まあ、普通です」という言葉が出てこない。いつもの言葉が、喉の手前で引っかかる。
「正直、しんどいです」と坂口は言った。
声に出してから、驚いた。そんなことを言うつもりはなかった。でも出てしまった。
タキさんは「そうですか」と言った。それ以上は聞かなかった。何がしんどいのか、なぜしんどいのか、どうすればいいのか、何も聞かなかった。
坂口は少しの間待ったが、タキさんは何も続けなかった。ただ自分のハイボールを持って、前を向いていた。
坂口は「会社が、少し難しい時期で」と自分から言った。「売上が落ちてて。誰にも言ってないんですけど」
「そうですか」とタキさんはまた言った。
「妻にも言えてなくて」
「うん」
「このまま続けられるかどうか、正直わからなくて」
タキさんが「大丈夫ですよ」と言った。
坂口は少し間を置いた。「何が大丈夫なんですか」とは聞かなかった。この時は聞けなかった。でも「大丈夫ですよ」という言葉が、不思議と根拠のない言葉に聞こえなかった。会社が大丈夫という意味ではない、という気がした。でもそれ以上は考えなかった。
その夜、坂口はコーラをもう一杯飲んで、帰った。
帰り道、空が少し晴れていた。月が出ていた。坂口は少しの間、月を見た。理由はわからないが、帰れる気がした。今夜は眠れそうな気がした。
「大丈夫ですよ」という言葉が、まだ耳の奥にあった。

つづく
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