「瀧」 ―横川の小さなバーに棲む気の話―

バーガヤマスター

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第一部 常連たちの夜 6

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第六章 律子の火曜日

夕方の部屋は、静かすぎる。
田代律子は窓の外を見た。空がゆっくりと暗くなっていた。マンションの四階から見える景色は、変わり映えがない。向かいのビル、駐車場、遠くに見える山の稜線。夫が生きていた頃も同じ景色だった。今も同じだ。景色は変わらないのに、その景色の重さが、夫がいた頃とは違う気がした。
律子は立ち上がって、台所でお湯を沸かした。お茶を飲もうと思ったが、カップを出したところで気が変わった。今夜はここでお茶を飲む気分ではない。
コートを着た。小さなバッグを持った。
横川の路地に入る頃には、空がすっかり暗くなっていた。足元の石畳に、街灯の光が落ちている。律子はその光を踏むようにして歩いた。
「瀧」のドアを開ける時、律子はいつも少し息を整える。大げさなことではない。ただ、外の空気と中の空気が違うから、その切り替えを体がしたがる。
「いらっしゃい」と沖田が言った。
店内を見渡した。美咲がカウンターの真ん中あたりにいた。ユウが端の方に座っていた。右端の席には、タキさんがいた。
律子はカウンターの美咲の隣に座った。
「こんばんは」と美咲が言った。
「こんばんは」と律子は答えた。
「ジントニックですね」と沖田が言って、作り始めた。聞かれなかった。でも聞かれる必要もない。
律子は三十年間、教師をしていた。小学校で国語を担当した。クラスの担任も長くやった。毎年三十人以上の子どもたちと向き合って、名前を覚えて、顔を覚えて、一人ひとりの変化を見続けた。それが当たり前だった。その当たり前が、五年前の定年退職でなくなった。
退職した翌日の朝、律子は目が覚めて、今日どこへ行けばいいのかがわからなかった。場所があった。役割があった。必要とされる文脈があった。それが一度に消えた。夫はその翌年に逝った。子どもは大阪にいる。孫もいるが、会うのは年に二、三回だ。
今の律子には、自分を呼ぶ名前がない。先生でも、妻でも、母でもない名前で自分を呼べる場所が、「瀧」だけだった。ここでは律子は「律子さん」でも「田代さん」でも、ただの「あの人」でもいい。何者でもなくていい。それがどれだけ楽かを、退職するまで律子は知らなかった。
ジントニックが来た。一口飲んだ。
美咲が仕事の話をしていた。律子は聞きながら、相槌を打った。沖田がほとんど返さずに聞いていた。ユウがスマホを見ながら、時々会話に入ってきた。
タキさんは端の席で静かにしていた。
律子はふと、タキさんの方を見た。白髪。静かな横顔。ハイボールのグラスを持って、前を向いている。いつも同じ席で、いつも同じように。
いつからあの人はここに来ているのだろう、と律子は思った。私が最初に「瀧」に来た時には、もうあの席にいた気がする。でも最初に来たのがいつだったか、律子はうまく思い出せなかった。三年前、いや四年前だったか。そのどちらでも、タキさんはいた。
「律子さんは、最初にここに来たのっていつ頃ですか」と美咲が聞いた。
「そうね」律子は考えた。「四年くらい前かしら。友人に教えてもらって」
「その友人は今も来てるんですか」
「来てないわね。一度一緒に来ただけ」律子は少し笑った。「でも私だけ来続けてる」
「なんで続けて来るようになったんですか」
律子はジントニックを見た。「なんでかしら」と言って、少し考えた。「来ると、自分がここにいる、って感じがするから、かな」
美咲が「どういう意味ですか」と聞いた。
「うまく言えないけど」律子は言葉を選んだ。「普段、自分がどこかに溶けてしまう気がするの。部屋にいても、外を歩いていても。でもここに来ると、私はここにいる、ってわかる気がして」
美咲が「なんとなくわかります」と言った。「私もそういう感覚、ある」
沖田は何も言わなかった。でも律子は、沖田がちゃんと聞いていることを知っていた。
しばらくして、律子が帰る準備をした。財布を出してお勘定を済ませる。バッグからハンカチを取り出す。自分の前のカウンターを、そっと拭く。
「いいですよ」と沖田が言った。
「習慣なんです」と律子は言った。笑いながら。
「先生は、きれい好きですね」とタキさんが言った。
律子は手を止めた。振り返って、タキさんを見た。タキさんは前を向いたまま、ハイボールを持っていた。
「先生、って」と律子は言った。「どうして」
タキさんが少しこちらを向いた。静かな目だった。
「なんとなく、そういう気がしたので」とタキさんは言った。
それだけだった。
律子はしばらくタキさんを見ていたが、タキさんはもう前を向いていた。
律子はハンカチをバッグにしまって、「おやすみなさい」と言って「瀧」を出た。
路地の石畳を歩きながら、律子は少し考えた。教師だと話した記憶は、ない。確かにない。退職した後の話で、ここに来る時に「元教師の田代律子です」と自己紹介したことは一度もなかった。美咲にも、堀内にも、沖田にも、話した記憶がない。
では、なぜタキさんは知っていたのか。
律子は少し立ち止まった。川の音がかすかに聞こえた。夜の空気が冷たかった。
わからなかった。でも怖いとは思わなかった。むしろ、なぜだかわからないが、温かい気持ちがした。見えていた、と思った。私のことを、あの人は見えていた。
律子は歩き始めた。マンションへ向かって。今夜は少し、眠れる気がした。

第一部 了

第二部へつづく
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