「瀧」 ―横川の小さなバーに棲む気の話―

バーガヤマスター

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第二部 タキさんのいる夜 4

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第十章 ユウとタキさん②

その日、ユウはギターケースを持って来なかった。
「瀧」に入る時、いつも肩にある重さがなかった。それだけで、今日の自分が普通じゃないことがわかった。ギターを持たないでここに来たのは、初めてだった。
三月の終わりだった。年度替わりの時期で、街がなんとなくそわそわしている感じがした。新しいことを始める人たちの気配があちこちにあった。ユウにはそれが、少し遠いものに感じた。
その日の午前中、実家から電話があった。父からだった。父はあまり電話をしてこない。だから珍しいと思って出た。
内容は短かった。来月から、仕送りを止める。二十四歳にもなって、いつまでも親に頼るな。就職しろとは言わないが、音楽だけで食えないなら、食える仕事を作りながらやれ。お前がいつまでも決断できないのは、後ろに俺たちがいると思っているからだ。そういうことだ。
電話を切って、ユウはしばらく部屋の床に座っていた。
怒っていたのか、悲しかったのか、よくわからなかった。父の言っていることは、間違っていないと思った。間違っていないと思うことが、余計しんどかった。
バイト先にも同じ日に、嫌なことを言われた。同じシフトの年上の男が「お前ずっとこのままか」と言った。悪意があったわけではないのかもしれない。でも言った。「ずっとこのままか」。
この日、ユウは初めて「ギターをやめてもいいかもしれない」と思った。今まで何度もしんどいことはあったが、やめようとは思わなかった。でもこの日は、思った。思ってしまったことが、怖かった。
夜、「瀧」に来た。ギターを置いてきた。持ってくる気になれなかった。
カウンターに座ると、タキさんがいた。他には誰もいなかった。沖田がジンジャーエールを出した。
ユウは何も言わずにそれを飲んだ。
「今日はギターがないんですね」とタキさんが言った。
ユウは「ええ」と答えた。
「どうかしましたか」とは聞かれなかった。「今日はギターがないんですね」というただの観察だった。
ユウは少し間を置いて「もう弾かないかもしれないです」と言った。
声に出してから、自分でもびっくりした。誰かにそう言うつもりはなかった。でも言ってしまった。
タキさんは何も言わなかった。
ユウは続けた。「親から仕送りが止まるって言われて。バイトだけじゃ、練習する時間も取れなくなるし。そうなったら、なんのためにやってるのかって」
タキさんはまだ何も言わなかった。
ユウは「続けるべきか、やめるべきか、わかんないです」と言った。
タキさんがゆっくり言った。
「あなたの音、好きでしたよ」
ユウは「え」と言って、タキさんを見た。
「好きでした」タキさんはもう一度言った。過去形だった。
ユウはその「でした」に引っかかった。「好きです」ではなく「好きでした」。聞き間違いかと思ったが、違った。確かに過去形だった。
「あの、もう聞かないってことですか」とユウは聞いた。
タキさんは答えなかった。ただ、ハイボールを一口飲んだ。
ユウはその沈黙の意味を考えた。
もう聞かない。なぜ。ここに来なくなるからか。それともユウが弾かなくなるからか。どちらかはわからなかった。でもどちらにしても、「好きでした」という過去形は、「もう聞けないのが残念だ」という意味に取れた。同時に、それを決めるのはお前だ、という意味にも取れた。残念だと言いながら、どうしろとは言わない。どうするかは自分で決めろ、という静けさがあった。
ユウはジンジャーエールを飲み終えて、しばらく黙っていた。
「また持ってきます」と、気づいたら言っていた。
タキさんは「そうですか」と言った。
その夜、ユウは「瀧」を出て、一度部屋に帰って、ギターを取り出した。深夜、消音して、静かに弾いた。あの夜タキさんの前で弾いた曲を弾いた。自分で作った曲だ。まだ誰にも聞かせていない曲。
翌日、ユウはギターを持って「瀧」に来た。開店と同時の時間だったから、客はまだ誰もいなかった。タキさんも来ていなかった。
沖田だけがいた。
「弾いてもいいですか」とユウは聞いた。
沖田が「どうぞ」と言った。
ユウは昨夜弾いた曲を、今度はアンプなしで、静かなバーの中で弾いた。沖田は手を止めて聞いていた。
弾き終えて、ユウが「どうでしたか」と聞いた。
沖田が少し間を置いて「よかったですよ」と言った。「続けなさい」とは言わなかった。「いい曲だ」とも言わなかった。ただ「よかったですよ」と言った。
ユウはそれで十分だった。
帰り道、春の空気が少し暖かかった。ユウは肩のギターケースの重さを確かめるように、ストラップを握った。重かった。でも今日はその重さが、嫌じゃなかった。
第十一章 坂口とタキさん

つづく
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