10 / 26
第二部 タキさんのいる夜 4
しおりを挟む
第十章 ユウとタキさん②
その日、ユウはギターケースを持って来なかった。
「瀧」に入る時、いつも肩にある重さがなかった。それだけで、今日の自分が普通じゃないことがわかった。ギターを持たないでここに来たのは、初めてだった。
三月の終わりだった。年度替わりの時期で、街がなんとなくそわそわしている感じがした。新しいことを始める人たちの気配があちこちにあった。ユウにはそれが、少し遠いものに感じた。
その日の午前中、実家から電話があった。父からだった。父はあまり電話をしてこない。だから珍しいと思って出た。
内容は短かった。来月から、仕送りを止める。二十四歳にもなって、いつまでも親に頼るな。就職しろとは言わないが、音楽だけで食えないなら、食える仕事を作りながらやれ。お前がいつまでも決断できないのは、後ろに俺たちがいると思っているからだ。そういうことだ。
電話を切って、ユウはしばらく部屋の床に座っていた。
怒っていたのか、悲しかったのか、よくわからなかった。父の言っていることは、間違っていないと思った。間違っていないと思うことが、余計しんどかった。
バイト先にも同じ日に、嫌なことを言われた。同じシフトの年上の男が「お前ずっとこのままか」と言った。悪意があったわけではないのかもしれない。でも言った。「ずっとこのままか」。
この日、ユウは初めて「ギターをやめてもいいかもしれない」と思った。今まで何度もしんどいことはあったが、やめようとは思わなかった。でもこの日は、思った。思ってしまったことが、怖かった。
夜、「瀧」に来た。ギターを置いてきた。持ってくる気になれなかった。
カウンターに座ると、タキさんがいた。他には誰もいなかった。沖田がジンジャーエールを出した。
ユウは何も言わずにそれを飲んだ。
「今日はギターがないんですね」とタキさんが言った。
ユウは「ええ」と答えた。
「どうかしましたか」とは聞かれなかった。「今日はギターがないんですね」というただの観察だった。
ユウは少し間を置いて「もう弾かないかもしれないです」と言った。
声に出してから、自分でもびっくりした。誰かにそう言うつもりはなかった。でも言ってしまった。
タキさんは何も言わなかった。
ユウは続けた。「親から仕送りが止まるって言われて。バイトだけじゃ、練習する時間も取れなくなるし。そうなったら、なんのためにやってるのかって」
タキさんはまだ何も言わなかった。
ユウは「続けるべきか、やめるべきか、わかんないです」と言った。
タキさんがゆっくり言った。
「あなたの音、好きでしたよ」
ユウは「え」と言って、タキさんを見た。
「好きでした」タキさんはもう一度言った。過去形だった。
ユウはその「でした」に引っかかった。「好きです」ではなく「好きでした」。聞き間違いかと思ったが、違った。確かに過去形だった。
「あの、もう聞かないってことですか」とユウは聞いた。
タキさんは答えなかった。ただ、ハイボールを一口飲んだ。
ユウはその沈黙の意味を考えた。
もう聞かない。なぜ。ここに来なくなるからか。それともユウが弾かなくなるからか。どちらかはわからなかった。でもどちらにしても、「好きでした」という過去形は、「もう聞けないのが残念だ」という意味に取れた。同時に、それを決めるのはお前だ、という意味にも取れた。残念だと言いながら、どうしろとは言わない。どうするかは自分で決めろ、という静けさがあった。
ユウはジンジャーエールを飲み終えて、しばらく黙っていた。
「また持ってきます」と、気づいたら言っていた。
タキさんは「そうですか」と言った。
その夜、ユウは「瀧」を出て、一度部屋に帰って、ギターを取り出した。深夜、消音して、静かに弾いた。あの夜タキさんの前で弾いた曲を弾いた。自分で作った曲だ。まだ誰にも聞かせていない曲。
翌日、ユウはギターを持って「瀧」に来た。開店と同時の時間だったから、客はまだ誰もいなかった。タキさんも来ていなかった。
沖田だけがいた。
「弾いてもいいですか」とユウは聞いた。
沖田が「どうぞ」と言った。
ユウは昨夜弾いた曲を、今度はアンプなしで、静かなバーの中で弾いた。沖田は手を止めて聞いていた。
弾き終えて、ユウが「どうでしたか」と聞いた。
沖田が少し間を置いて「よかったですよ」と言った。「続けなさい」とは言わなかった。「いい曲だ」とも言わなかった。ただ「よかったですよ」と言った。
ユウはそれで十分だった。
帰り道、春の空気が少し暖かかった。ユウは肩のギターケースの重さを確かめるように、ストラップを握った。重かった。でも今日はその重さが、嫌じゃなかった。
第十一章 坂口とタキさん
つづく
その日、ユウはギターケースを持って来なかった。
「瀧」に入る時、いつも肩にある重さがなかった。それだけで、今日の自分が普通じゃないことがわかった。ギターを持たないでここに来たのは、初めてだった。
三月の終わりだった。年度替わりの時期で、街がなんとなくそわそわしている感じがした。新しいことを始める人たちの気配があちこちにあった。ユウにはそれが、少し遠いものに感じた。
その日の午前中、実家から電話があった。父からだった。父はあまり電話をしてこない。だから珍しいと思って出た。
内容は短かった。来月から、仕送りを止める。二十四歳にもなって、いつまでも親に頼るな。就職しろとは言わないが、音楽だけで食えないなら、食える仕事を作りながらやれ。お前がいつまでも決断できないのは、後ろに俺たちがいると思っているからだ。そういうことだ。
電話を切って、ユウはしばらく部屋の床に座っていた。
怒っていたのか、悲しかったのか、よくわからなかった。父の言っていることは、間違っていないと思った。間違っていないと思うことが、余計しんどかった。
バイト先にも同じ日に、嫌なことを言われた。同じシフトの年上の男が「お前ずっとこのままか」と言った。悪意があったわけではないのかもしれない。でも言った。「ずっとこのままか」。
この日、ユウは初めて「ギターをやめてもいいかもしれない」と思った。今まで何度もしんどいことはあったが、やめようとは思わなかった。でもこの日は、思った。思ってしまったことが、怖かった。
夜、「瀧」に来た。ギターを置いてきた。持ってくる気になれなかった。
カウンターに座ると、タキさんがいた。他には誰もいなかった。沖田がジンジャーエールを出した。
ユウは何も言わずにそれを飲んだ。
「今日はギターがないんですね」とタキさんが言った。
ユウは「ええ」と答えた。
「どうかしましたか」とは聞かれなかった。「今日はギターがないんですね」というただの観察だった。
ユウは少し間を置いて「もう弾かないかもしれないです」と言った。
声に出してから、自分でもびっくりした。誰かにそう言うつもりはなかった。でも言ってしまった。
タキさんは何も言わなかった。
ユウは続けた。「親から仕送りが止まるって言われて。バイトだけじゃ、練習する時間も取れなくなるし。そうなったら、なんのためにやってるのかって」
タキさんはまだ何も言わなかった。
ユウは「続けるべきか、やめるべきか、わかんないです」と言った。
タキさんがゆっくり言った。
「あなたの音、好きでしたよ」
ユウは「え」と言って、タキさんを見た。
「好きでした」タキさんはもう一度言った。過去形だった。
ユウはその「でした」に引っかかった。「好きです」ではなく「好きでした」。聞き間違いかと思ったが、違った。確かに過去形だった。
「あの、もう聞かないってことですか」とユウは聞いた。
タキさんは答えなかった。ただ、ハイボールを一口飲んだ。
ユウはその沈黙の意味を考えた。
もう聞かない。なぜ。ここに来なくなるからか。それともユウが弾かなくなるからか。どちらかはわからなかった。でもどちらにしても、「好きでした」という過去形は、「もう聞けないのが残念だ」という意味に取れた。同時に、それを決めるのはお前だ、という意味にも取れた。残念だと言いながら、どうしろとは言わない。どうするかは自分で決めろ、という静けさがあった。
ユウはジンジャーエールを飲み終えて、しばらく黙っていた。
「また持ってきます」と、気づいたら言っていた。
タキさんは「そうですか」と言った。
その夜、ユウは「瀧」を出て、一度部屋に帰って、ギターを取り出した。深夜、消音して、静かに弾いた。あの夜タキさんの前で弾いた曲を弾いた。自分で作った曲だ。まだ誰にも聞かせていない曲。
翌日、ユウはギターを持って「瀧」に来た。開店と同時の時間だったから、客はまだ誰もいなかった。タキさんも来ていなかった。
沖田だけがいた。
「弾いてもいいですか」とユウは聞いた。
沖田が「どうぞ」と言った。
ユウは昨夜弾いた曲を、今度はアンプなしで、静かなバーの中で弾いた。沖田は手を止めて聞いていた。
弾き終えて、ユウが「どうでしたか」と聞いた。
沖田が少し間を置いて「よかったですよ」と言った。「続けなさい」とは言わなかった。「いい曲だ」とも言わなかった。ただ「よかったですよ」と言った。
ユウはそれで十分だった。
帰り道、春の空気が少し暖かかった。ユウは肩のギターケースの重さを確かめるように、ストラップを握った。重かった。でも今日はその重さが、嫌じゃなかった。
第十一章 坂口とタキさん
つづく
0
あなたにおすすめの小説
背徳のミラールージュ(母と子 それぞれが年の差恋愛にのめり込んでいく鏡写し)
MisakiNonagase
恋愛
24歳の市役所職員・中村洋平には、自慢の恋人がいた。2歳年上の小学校教師、夏海。誰もが羨む「正解」の幸せの中にいたはずだった。
しかし、50歳になる母・美鈴が21歳の青年・翔吾と恋に落ちたとき、歯車は狂い出す。
母の恋路を「不潔だ」と蔑んでいた洋平だったが、気づけば自分もまた、抗えない引力に引き寄せられていた。
その相手は、母の恋人の母親であり、二回りも年上の柳田悦子。
純愛か、背徳か。4年付き合った恋人を捨ててまで、なぜ僕は「彼女」を求めてしまうのか。
交差する二組の親子。歪な四角関係の果てに、彼らが見つける愛の形とは――。
横川ガード下探偵団 結成篇 ~あの夏、僕らは名前をつけた~
バーガヤマスター
ライト文芸
広島・横川商店街のJR高架下に、五人の子供たちが集まった。正義感あふれるケンジ、グミ愛あふれるユイ、論理派のショウタ、足の速いテツ、情報通のミク。ある夏、古本屋から消えた一冊の本をめぐり、彼らは「横川ガード下探偵団」を結成する。人情と笑いと、少しの涙が交差する、昭和の香り漂う商店街のハートフルミステリー。
梵珠山に、神は眠らない ―八峰 遥の豪運―
事業開発室長
ミステリー
神の気まぐれか、何かの意思か――
八峰 遥が遭遇する不可思議な出来事と強運の連続。
彼女を呼ぶ声は一体? 現実とオカルトが交錯する、
全10話完結の短編ミステリー。
シリーズ第2弾【十二湖は、今日も蒼い ―八峰 遥の天運―】 公開中
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
『新橋スクランブルと、横川のハイボール』
バーガヤマスター
ライト文芸
突然の東京異動で理不尽な組織の壁にぶつかる53歳の聡子と30歳の結衣。新橋で再会した同郷の二人は、故郷・広島の横川で語り合った夜を胸に会社という鎧を脱ぎ捨てる。数々の裏切りや困難を乗り越え、自分たちだけの居場所である小さなバーを作り上げる。世代を超えた友情と本当の仲間の絆が胸を打つ、痛快な人生逆転ストーリー。
秘められた薫り
La Mistral
恋愛
エブリスタにて、トレンド#恋愛で最高位
55位を獲得した作品です。
「愛しているよ」という夫の言葉が、今の美咲には虚しい空気にしか聞こえない。
欠けていたのは、理性を焼き尽くすような衝動。
クライアントの慎吾と交わす視線。ビジネスという仮面の下で共有される、剥き出しの欲望。
指先が触れる。名前を呼ばれる。ただそれだけで、美咲の積み上げてきた「良き妻」としての世界は音を立てて崩れ去る。
完璧なアリバイ、塗り固めた嘘。
夫の隣で微笑みながら、心は別の男の指先を求めている。
一度知ってしまった濃厚な「薫り」は、もう彼女を元の場所へは戻してくれない。
守るべき家庭と、抗えない本能。
二つの世界の境界線で、美咲が選ぶ「最後の一線」とは――。
欲望の熱に浮かされた女の、美しくも残酷な堕落の記録。
僕がここでカフェを始めた理由
バーガヤマスター
ライト文芸
広島・横川の細い路地に、カウンター八席だけの小さなカフェ「HUIT(ユイット)」がある。オーナーの桐島奏は自分のことを語らないが、その静かな佇まいと一杯のコーヒーが、街の人々を引き寄せてきた。
なぜ北向きなのか。なぜ八席なのか。なぜこの場所を、十年以上かけて探し続けたのか。
ある日、一人の女性がやってくる。彼女の名は宮本さくら。亡き父の手帳を胸に、ある人を探して横川へ来た。
二人の出会いが、二十年越しの縁をほどき始める。ほっこりと、静かに、確かに。
私の作るおにぎりが、騎士団の士気を異常に上げています(犯人は副団長)
星乃和花
恋愛
おにぎりを配っただけで、騎士団の士気が異常値になりました。
団長は警戒、監察部は呪術検査、国まで動きかけるのに――副団長だけが平然と断言。
副団長「彼女のご飯は軍事物資です」
私「えっ重い」
胃袋で落ちた策略家副団長の“最適化溺愛”に巻き込まれ、気づけば専属補給係(=婚約)寸前!?
ほのぼの爆笑&甘々の騎士団ラブコメです。
(月水金21:00更新ー本編16話+後日談6話)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる