「瀧」 ―横川の小さなバーに棲む気の話―

バーガヤマスター

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第二部 タキさんのいる夜 5

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第十一章 坂口とタキさん

決断しなければならない夜だった。
融資先から返答を求められていた。このまま運転資金を追加で借りるか、あるいは会社を畳む方向で動き始めるか。どちらかを週内に決めてほしい、と担当者から言われていた。柔らかい言い方だったが、意味は明確だった。どちらでも構わないが、決めてくれ、ということだ。
坂口はその日、オフィスに一人で残って数字を見た。何度見ても、同じ数字だった。数字は正直で、感情がない。坂口は数字を信じてきた人間だったが、この夜だけは数字が恨めしかった。数字が全部を語ってしまう。
夜の九時過ぎ、坂口は「瀧」に向かった。
月曜日ではなかった。水曜日だった。いつもの曜日ではないのに、他に行く場所が思い浮かばなかった。
「瀧」に入ると、先客は誰もいなかった。タキさんだけが端の席に座っていた。
坂口は席に座って、「ウイスキーをください」と言った。
沖田が少し間を置いた。坂口がここでウイスキーを頼んだことは一度もなかった。
「ロックでいいですか」と沖田が聞いた。
「はい」と坂口は答えた。
ウイスキーが来た。一口飲んだ。喉が少し焼けた。それが今夜はちょうどよかった。
「今夜は飲まれるんですね」とタキさんが言った。
「ええ」と坂口は答えた。
少し沈黙が続いた。
「少し、聞いてもらえますか」と坂口は言った。タキさんに向かって。
「ええ」とタキさんが答えた。
坂口は話した。会社のこと。メインのクライアントが離れたこと。資金繰りが苦しいこと。融資先から返答を求められていること。このまま続けるか、畳むか、どちらかを選ばなければならないこと。
話しながら、自分がこれほど言葉を持っていたことに驚いた。誰にも言えなかったから、言葉にならずに数字の形で頭の中に溜まっていたのかもしれない。それが言葉として出てきた。
タキさんは聞いていた。途中で何も言わなかった。頷くこともしなかった。ただ、静かに聞いていた。
話し終えた。坂口は少し疲れた気がしたが、同時に軽くなった気もした。
「大丈夫ですよ」とタキさんが言った。
今夜の坂口は、その言葉を流せなかった。
「何が大丈夫なんですか」と聞いた。
タキさんが坂口の方を向いた。静かな目だった。
「あなたが、ですよ」とタキさんは言った。
坂口は黙った。
会社が大丈夫、ではなかった。数字が大丈夫、でもなかった。あなたが、大丈夫。
坂口は長い間、黙っていた。沖田もグラスを磨かずに、ただそこにいた。
坂口の目が、少し熱くなった。泣くつもりはなかった。バーで泣くつもりはなかった。でも、出そうになった。こらえたが、完全にはこらえられなかった。
俯いて、ウイスキーを一口飲んだ。喉の焼ける感覚が、今度は少し違って感じた。
「ありがとうございます」と坂口は小さく言った。タキさんに向かって。
タキさんは「いいえ」とだけ言った。
その夜、坂口はウイスキーを二杯飲んで「瀧」を出た。
帰り道、横川の橋の上で少し立ち止まった。川の音がしていた。夜の川は黒く、街灯だけが水面に反射していた。
会社を畳もう、と坂口はその時決めた。
不思議なことに、決めた瞬間が怖くなかった。怖いものだと思っていた。でも、あなたが大丈夫、という言葉が頭の中にあって、それが何かを支えていた。会社ではなく、自分が大丈夫。それが根拠だった。根拠として十分かどうかはわからないが、その夜の坂口には十分だった。
翌週、坂口は融資先に連絡を入れた。整理する方向で進めたい、と伝えた。
その夜も「瀧」に来た。タキさんがいた。坂口は何も言わなかった。タキさんも何も聞かなかった。二人は並んで、それぞれのグラスを飲んだ。
それで十分だった。

第二部 了

第三部へつづく
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