「瀧」 ―横川の小さなバーに棲む気の話―

バーガヤマスター

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第三部 綻びの始まり 1

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第十二章 端の席が空いている

最初に気づいたのは、律子だった。
ただし律子はそれを、誰にも言わなかった。
十月の初めだったと思う。その夜「瀧」に来ると、端の席が空いていた。灰皿だけが置いてあって、タキさんの姿がなかった。律子はカウンターに座りながら、さりげなく一度だけその席を見て、それから自分のジントニックに目を戻した。
今夜は来ていないのだな、と思った。それだけだった。
次の週も、空いていた。
その次の週も。
律子は来るたびに、席に座る前に一度だけ端の席を確認した。毎回、灰皿だけがあった。タキさんはいなかった。でも律子は一度も口に出さなかった。
来なくなった人のことを口に出すと、来なくなった事実が確定してしまう気がした。言葉にしてしまえば、もうそれは「いなくなった」という話になる。言わないでいれば、まだ「たまたま来ていない」でいられる。それが正しい考え方かどうかはわからなかった。でも律子にはそういう習慣があった。
長い教師生活の中で、律子は何十人もの子どもを見送ってきた。転校する子ども、卒業する子ども、そして何人かは、来なくなった子どもがいた。家庭の事情で学校に来られなくなった子どもを、律子は何人か知っていた。そういう子どもの椅子が教室に空いている朝、律子はしばらくそれを誰にも指摘しなかった。指摘してしまうと、クラス全体がそちらへ向いてしまう。向いてしまってから、何も解決できない時の空気が、律子は苦手だった。
だから黙っていた。でも見ていた。
「瀧」でも同じだった。
十一回、端の席を確認した。十一回、タキさんはいなかった。律子はその数を、数えるつもりもなく、でも数えていた。
その夜、美咲が来た。堀内も来た。ユウも来た。珍しく四人が揃った夜だった。坂口も少し遅れて来た。
しばらくそれぞれが飲んでいて、会話が途切れた時間があった。
「タキさんって、最近来ないよね」と美咲が言った。
律子はグラスを持ったまま、少し止まった。
「そういえば」と堀内が言った。「いつ以来だ」
「私も気になってた」とユウが言った。「一か月くらい?」
「もう少し経つかもしれない」と美咲が言った。
律子は何も言わなかった。十一回確認していた、とは言わなかった。
「連絡先、知ってる人いる?」と美咲が続けた。
誰も答えなかった。
堀内が「俺は知らない」と言った。
ユウが「自分も」と言った。
美咲が「私も知らない」と言って、「住所は?」と聞いた。
「知らない」と堀内が言った。
「どこで働いてる人だっけ」とユウが言った。
また誰も答えなかった。
坂口が「私も知りません」と静かに言った。「何をされてる方か、聞いたことがあったような気もするんですが、思い出せなくて」
美咲がため息をついた。「知り合いって思ってたのに、何も知らないね」
「名前も、タキさんとしか呼んでないし」とユウが言った。「フルネームも知らない」
その言葉が、場にしんと落ちた。
よく知っていると思っていた人のことを、実は何も知らなかった、という気づきが、じわじわと広がった。連絡先も、住所も、仕事も、フルネームも知らない。それでも「知っている人」だと思っていた。それがどういうことなのか、誰もうまく言えなかった。
沖田がグラスを磨きながら、何も言わなかった。
「マスター」と美咲が言った。「タキさんのこと、何か知ってますか」
沖田は少し間を置いた。「さあ」と言った。
「さあ、って」と堀内が言った。「長い付き合いでしょう」
「ええ」と沖田は認めた。「でも、プライベートのことはあまり」
「連絡先は?」
「持っていないですね」
堀内が「なんで」と言った。少し不満そうに。
「必要なかったので」と沖田は言った。それきり、何も付け加えなかった。
美咲が「なんか、変な感じがする」と言った。「こんなに知らなかったっけ、と思って」
「常連ってそんなもんじゃないか」と堀内が言った。「俺だってお前らのこと、名前と顔くらいしか知らんぞ」
「それは言い過ぎです」と美咲が笑った。「でも、確かに」
会話はそこで自然に別の方向へ流れていった。でも、端の席の空いている感じが、その夜はずっとそこにあった。
律子はジントニックを飲みながら、端の席を一度だけ見た。灰皿がある。誰もいない。
十二回目の確認だった。

つづく
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