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第三部 綻びの始まり 2
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第十三章 律子の調査
調査、というほどのことはしていない。
ただ律子は、自分がタキさんについて何を知っているかを、静かに整理しようとした。
まず、タキさんとどんな会話をしたかを思い出した。
命日の夜のこと。「今日は特別な日ですか」と聞いてきたこと。グラスを少し持ち上げた仕草。あれは確かにあった。律子の記憶の中に、はっきりとある。
最初に「先生」と呼ばれた夜のこと。「きれい好きですね」と言われて、「先生」と言われた。「なんとなく、そういう気がしたので」という答え。
他にも何度か言葉を交わしていた。でも、具体的に何の話をしたか、思い出そうとすると、会話の中身より「タキさんが隣にいた」という感覚の方が先に出てきた。話の内容より、その場の温度の記憶の方が強い。
それはおかしいことだろうか。
律子はそう問いかけてみた。でも、考えてみれば人間の記憶というのはそういうものかもしれない。何を話したかより、どんな気持ちだったかの方が残る。特に、大切な時間ほどそうだ。
では、どうやって会話が始まったかを思い出そうとした。
最初に話しかけてきたのは、タキさんの方からだったか、律子の方からだったか。
思い出せなかった。
命日の夜は、タキさんから「今日は特別な日ですか」と聞いてきた。でも、その前の会話は?律子から話しかけたのか、それともまたタキさんから来たのか。思い出せなかった。どの夜も、気づいた時には話していた、という感じだった。
次に、「タキさん」という呼び方の由来を考えた。
誰が最初にそう呼んだのか。
律子はそれを、まったく思い出せなかった。自分が最初に来た時から、すでにみんながタキさんと呼んでいたような気もする。でも確信がなかった。
沖田に聞いてみようと思った。
ある夜、律子は「タキさんって、いつ頃から来てるんですか」と沖田に聞いた。
沖田が少し間を置いた。グラスを磨く手が、わずかに遅くなった。
「ずいぶん前からですね」と沖田は言った。
「どのくらい前から」と律子は続けた。
「そうですね」と沖田は言って、少し考えるような間があった。「私がここを開いた頃から、ですかね」
律子は「三十年くらい前、ということですか」と言った。
「まあ、そのくらい」と沖田は言った。それ以上は言わなかった。
律子はそれ以上は聞かなかった。沖田が何かを知っていて、でも話さない、という感じがした。それを無理に引き出そうとは思わなかった。話す気になれば、話すだろう。
次に、律子は自分のスマホの写真を確認した。
「瀧」で撮った写真は、数枚あった。美咲と一緒に撮ったもの。堀内とユウが並んでいるもの。カウンターのグラスだけを撮ったもの。
タキさんが映っているものを探した。
なかった。
何枚か見返しても、タキさんの姿が映っているものが一枚もなかった。
それ自体は不思議ではないかもしれない、と律子は思った。タキさんは端の席にいることが多い。写真を撮る時、自然と中央付近の人が映る。端の席まで入れるような構図でなければ、映らない。
でも、律子には一度だけ、タキさんも含めた全員で撮ろうとした夜の記憶があった。美咲が「せっかくだから」と言って、スマホを沖田に渡した夜だ。全員がカウンターに並んだ。沖田が「はい」と言って撮った。
その写真を探した。
あった。美咲、堀内、ユウ、坂口、律子が並んでいる写真だった。
タキさんが、いなかった。
律子は写真を拡大した。確かに五人が並んでいる。でも端の席の方向には、誰もいない。
あの夜、タキさんはいたはずだ。律子の記憶の中では、確かにいた。全員で並ぼうとした時、タキさんはどうしたのか。「私はいいですよ」と言って、端の席に残ったのか。それとも、最初からいなかったのか。
律子は記憶を辿った。でも、タキさんが並んだかどうかが、はっきりしなかった。いた、という記憶はある。写真に撮られることを断った記憶も、あるような気がする。でもそれが本当にあったことなのか、記憶が作り出したものなのか、区別できなかった。
律子はスマホを置いた。
奇妙だった。でも怖いとは思わなかった。奇妙だと思いながら、同時に何かを感じていた。その何かを言葉にするのは難しかったが、怖さではなかった。
その夜「瀧」に来ると、端の席は空いていた。灰皿だけがあった。
律子はいつものようにジントニックを飲んで、カウンターを拭いて、帰った。
路地を歩きながら、律子は空を見た。
答えはまだ、どこにもなかった。
つづく
調査、というほどのことはしていない。
ただ律子は、自分がタキさんについて何を知っているかを、静かに整理しようとした。
まず、タキさんとどんな会話をしたかを思い出した。
命日の夜のこと。「今日は特別な日ですか」と聞いてきたこと。グラスを少し持ち上げた仕草。あれは確かにあった。律子の記憶の中に、はっきりとある。
最初に「先生」と呼ばれた夜のこと。「きれい好きですね」と言われて、「先生」と言われた。「なんとなく、そういう気がしたので」という答え。
他にも何度か言葉を交わしていた。でも、具体的に何の話をしたか、思い出そうとすると、会話の中身より「タキさんが隣にいた」という感覚の方が先に出てきた。話の内容より、その場の温度の記憶の方が強い。
それはおかしいことだろうか。
律子はそう問いかけてみた。でも、考えてみれば人間の記憶というのはそういうものかもしれない。何を話したかより、どんな気持ちだったかの方が残る。特に、大切な時間ほどそうだ。
では、どうやって会話が始まったかを思い出そうとした。
最初に話しかけてきたのは、タキさんの方からだったか、律子の方からだったか。
思い出せなかった。
命日の夜は、タキさんから「今日は特別な日ですか」と聞いてきた。でも、その前の会話は?律子から話しかけたのか、それともまたタキさんから来たのか。思い出せなかった。どの夜も、気づいた時には話していた、という感じだった。
次に、「タキさん」という呼び方の由来を考えた。
誰が最初にそう呼んだのか。
律子はそれを、まったく思い出せなかった。自分が最初に来た時から、すでにみんながタキさんと呼んでいたような気もする。でも確信がなかった。
沖田に聞いてみようと思った。
ある夜、律子は「タキさんって、いつ頃から来てるんですか」と沖田に聞いた。
沖田が少し間を置いた。グラスを磨く手が、わずかに遅くなった。
「ずいぶん前からですね」と沖田は言った。
「どのくらい前から」と律子は続けた。
「そうですね」と沖田は言って、少し考えるような間があった。「私がここを開いた頃から、ですかね」
律子は「三十年くらい前、ということですか」と言った。
「まあ、そのくらい」と沖田は言った。それ以上は言わなかった。
律子はそれ以上は聞かなかった。沖田が何かを知っていて、でも話さない、という感じがした。それを無理に引き出そうとは思わなかった。話す気になれば、話すだろう。
次に、律子は自分のスマホの写真を確認した。
「瀧」で撮った写真は、数枚あった。美咲と一緒に撮ったもの。堀内とユウが並んでいるもの。カウンターのグラスだけを撮ったもの。
タキさんが映っているものを探した。
なかった。
何枚か見返しても、タキさんの姿が映っているものが一枚もなかった。
それ自体は不思議ではないかもしれない、と律子は思った。タキさんは端の席にいることが多い。写真を撮る時、自然と中央付近の人が映る。端の席まで入れるような構図でなければ、映らない。
でも、律子には一度だけ、タキさんも含めた全員で撮ろうとした夜の記憶があった。美咲が「せっかくだから」と言って、スマホを沖田に渡した夜だ。全員がカウンターに並んだ。沖田が「はい」と言って撮った。
その写真を探した。
あった。美咲、堀内、ユウ、坂口、律子が並んでいる写真だった。
タキさんが、いなかった。
律子は写真を拡大した。確かに五人が並んでいる。でも端の席の方向には、誰もいない。
あの夜、タキさんはいたはずだ。律子の記憶の中では、確かにいた。全員で並ぼうとした時、タキさんはどうしたのか。「私はいいですよ」と言って、端の席に残ったのか。それとも、最初からいなかったのか。
律子は記憶を辿った。でも、タキさんが並んだかどうかが、はっきりしなかった。いた、という記憶はある。写真に撮られることを断った記憶も、あるような気がする。でもそれが本当にあったことなのか、記憶が作り出したものなのか、区別できなかった。
律子はスマホを置いた。
奇妙だった。でも怖いとは思わなかった。奇妙だと思いながら、同時に何かを感じていた。その何かを言葉にするのは難しかったが、怖さではなかった。
その夜「瀧」に来ると、端の席は空いていた。灰皿だけがあった。
律子はいつものようにジントニックを飲んで、カウンターを拭いて、帰った。
路地を歩きながら、律子は空を見た。
答えはまだ、どこにもなかった。
つづく
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