「瀧」 ―横川の小さなバーに棲む気の話―

バーガヤマスター

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第四部 崩壊と証言 3

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第十八章 それぞれの動揺

最初に声を出したのは、堀内だった。
「ちょっと待ってくれ」と堀内は言った。「整理させてくれ」
美咲が「うん」と言った。
「タキさん、というのは」と堀内は言った。「俺たちが呼んでたタキさんというのは、その……」
言葉が続かなかった。
堀内は合理的な人間だ。目に見えないものより、目に見えるものを信じる。数字と事実を積み重ねてきた。だから今、自分の頭の中で何かが軋む音がするような感覚が、堀内には不快だった。信じたいものと、信じたくないものが、同じ重さで両側にある。そういう状態が、堀内は苦手だった。
「俺たちが見ていたのは、何だったんだ」と堀内は言った。声が少し低くなっていた。
「でも」と美咲が言った。「みんなで見てたじゃないですか。私だけが見てたなら、まだわかる。でも、みんなで見てた」
「それが余計おかしい」と堀内が言った。「一人が見てるなら幻でもいい。でも全員が同じものを見てたなら、何だ」
「気のせいが重なった、ということはないですか」と坂口が静かに言った。
「全員が同じ人物に、同じ席で会った記憶を持ってるのが、気のせいの重なりか」と堀内は言った。
坂口は答えなかった。
ユウが「俺、弾いたんですよ」と言った。少し震えた声で。「その人の前で、ギターを弾いた。ありがとうって言ってもらった」
「私も話しました」と美咲が言った。「あの夜、限界だった時に、隣に来てくれた。今夜決めることはない、って言ってもらった。あの言葉がなかったら、私はもっとひどいことになってたと思う」
「俺は」と堀内が言って、少し詰まった。「俺は、二十年以上誰にも言えなかったことを、あの人にだけ話せた。なんで話せたのか、今でもわからないけど」
坂口が「大丈夫ですよ、と言ってもらいました」と静かに言った。「あなたが、大丈夫、と。会社ではなく、私自身が大丈夫だと言ってもらった。あの言葉がなければ、あの夜を乗り越えられなかった」
奈緒が常連たちを見ていた。戸惑いと、何か別のものが混じった顔で。
「祖父は」と奈緒が言った。「生前も、そういう人でした」
全員が奈緒を見た。
「理由を聞かずに話を聞く人でした。何かを押しつけることをしない人でした。でも、隣にいると落ち着く、と言っていた人が、祖父の周りには多くて」奈緒は少し間を置いた。「私も、子どもの頃に何かあると、祖父のそばに行ってました。何も言ってくれないんですけど、でも一緒にいると、自分で答えが出てくる感じがして」
美咲が「そうです」と言った。「そういう感じ。答えを教えてくれるんじゃなくて、自分で答えが出てくる感じ」
「それは」と律子が静かに言った。「この場所がそうさせているのかもしれないし」少し間を置いた。「あの人がそうさせていたのかもしれないし。どちらかは、わからないけれど」
堀内が「律子さん」と言った。「あんたは動揺しないのか」
律子は少し考えた。「動揺していないわけじゃないですよ」と言った。「でも、怖くはないんです」
「なんで」
「わからない」律子は正直に答えた。「ただ、あの人がいた夜は、ここが温かかった。それは変わらない事実だから」
堀内はその言葉を聞いて、何か言いかけて、止めた。
沖田が静かに新しいグラスを出した。全員分、水を注いで並べた。
誰も何も言わなかったが、誰も帰らなかった。

つづく
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