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第四部 崩壊と証言 4
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第十九章 律子が口を開く
しばらく、「瀧」の中が静かだった。
外の風が時折、窓を揺らした。川の音がかすかに聞こえた。レコードはいつの間にか終わっていた。沖田は新しい盤を載せなかった。その静けさのまま、全員がそれぞれのグラスを前に黙っていた。
奈緒は自分が何かとんでもないものを持ち込んでしまったのではないかと、少し縮んでいた。「来ない方がよかったですか」と聞こうとして、でも聞けなかった。
堀内がグラスを置いた音がした。
「じゃあ、俺たちは何を見てたんだ」と堀内は言った。もう一度、同じ問いを出した。今度は怒りではなく、ただの問いとして。答えを求めている声だった。
誰も答えなかった。
美咲が「幽霊、ということになるのか」と小さく言った。
「幽霊という言葉が正しいかどうか」と坂口が言った。「でも、説明がつかないのは確かで」
ユウが「でも助けてもらったのは本当だし」と言った。「それが幽霊だったとしても、助けてもらった事実は変わらないし」
「そうだよ」と美咲が言った。「変わらない」
堀内が「でもな」と言った。「腑に落ちないのも確かで。俺は、見えないものを信じない人間で。それが、自分がはっきり会話したと思っていた人間が、実は……」
言葉が途切れた。
その時、律子が口を開いた。
「私ね」と律子は言った。
全員が律子を見た。
「タキさんが実在したかどうか、どっちでもいいと思ってるの」
場が静まった。
堀内が「どっちでもいい、って」と言いかけた。
「だって」と律子は続けた。「あの人がいた夜は、みんないい顔してたでしょう。それは本当のことじゃないの」
美咲が小さく息を吸った。
「幽霊でも、気のせいでも、なんでもいいの」律子は静かに、でもはっきりと言った。「私ね、ここに来るたびに、自分がちゃんとここにいるって思えた。退職してから、自分がどこにいるのかわからない時期が長かった。先生でも、妻でも、母でもなくなって、自分が透明になっていく気がしていた。でもここに来ると、私はここにいる、ってわかった。それを誰かのせいにする必要はないでしょう」
堀内が「でも——」と言いかけた。
律子は続けた。
「タキさんが本物かどうかより、あなたたちが本物だって、私にはわかる。美咲さんが仕事を続けたこと。堀内さんが二十年分の話をできたこと。ユウさんがギターをやめなかったこと。坂口さんが自分で決断できたこと。それは全部、あなたたちがやったことでしょう。タキさんが何かをしてくれたとしても、最後にそうしたのはあなたたち自身だ。それで十分じゃないの」
誰も何も言わなかった。
美咲の目が少し赤くなっていた。
ユウが下を向いた。
堀内が水割りのグラスを両手で持って、じっと見ていた。
坂口が「そうですね」と静かに言った。「そうだと思います」
奈緒が律子を見ていた。見ながら、目に涙が溜まっていた。
「あなたのお祖父さん」と律子は奈緒に向かって言った。「いい人だったんでしょうね」
奈緒が「はい」と言った。声が少し震えた。「いい人でした」
「ここに来てよかった。あなたが来てくれて、よかった」
奈緒が「ありがとうございます」と言った。声にならなかった。
沖田が、何も言わずにジントニックをもう一杯作った。律子の前に置いた。
律子は受け取った。端の席の方を見た。
灰皿がある。誰もいない。
でも律子には、そこがただの空席には見えなかった。三十年間、一人の人間がそこに座り続けた場所。その時間が、まだそこに残っている気がした。
律子はジントニックを一口飲んだ。
その夜の「瀧」は、それからしばらく、誰も帰らなかった。
つづく
しばらく、「瀧」の中が静かだった。
外の風が時折、窓を揺らした。川の音がかすかに聞こえた。レコードはいつの間にか終わっていた。沖田は新しい盤を載せなかった。その静けさのまま、全員がそれぞれのグラスを前に黙っていた。
奈緒は自分が何かとんでもないものを持ち込んでしまったのではないかと、少し縮んでいた。「来ない方がよかったですか」と聞こうとして、でも聞けなかった。
堀内がグラスを置いた音がした。
「じゃあ、俺たちは何を見てたんだ」と堀内は言った。もう一度、同じ問いを出した。今度は怒りではなく、ただの問いとして。答えを求めている声だった。
誰も答えなかった。
美咲が「幽霊、ということになるのか」と小さく言った。
「幽霊という言葉が正しいかどうか」と坂口が言った。「でも、説明がつかないのは確かで」
ユウが「でも助けてもらったのは本当だし」と言った。「それが幽霊だったとしても、助けてもらった事実は変わらないし」
「そうだよ」と美咲が言った。「変わらない」
堀内が「でもな」と言った。「腑に落ちないのも確かで。俺は、見えないものを信じない人間で。それが、自分がはっきり会話したと思っていた人間が、実は……」
言葉が途切れた。
その時、律子が口を開いた。
「私ね」と律子は言った。
全員が律子を見た。
「タキさんが実在したかどうか、どっちでもいいと思ってるの」
場が静まった。
堀内が「どっちでもいい、って」と言いかけた。
「だって」と律子は続けた。「あの人がいた夜は、みんないい顔してたでしょう。それは本当のことじゃないの」
美咲が小さく息を吸った。
「幽霊でも、気のせいでも、なんでもいいの」律子は静かに、でもはっきりと言った。「私ね、ここに来るたびに、自分がちゃんとここにいるって思えた。退職してから、自分がどこにいるのかわからない時期が長かった。先生でも、妻でも、母でもなくなって、自分が透明になっていく気がしていた。でもここに来ると、私はここにいる、ってわかった。それを誰かのせいにする必要はないでしょう」
堀内が「でも——」と言いかけた。
律子は続けた。
「タキさんが本物かどうかより、あなたたちが本物だって、私にはわかる。美咲さんが仕事を続けたこと。堀内さんが二十年分の話をできたこと。ユウさんがギターをやめなかったこと。坂口さんが自分で決断できたこと。それは全部、あなたたちがやったことでしょう。タキさんが何かをしてくれたとしても、最後にそうしたのはあなたたち自身だ。それで十分じゃないの」
誰も何も言わなかった。
美咲の目が少し赤くなっていた。
ユウが下を向いた。
堀内が水割りのグラスを両手で持って、じっと見ていた。
坂口が「そうですね」と静かに言った。「そうだと思います」
奈緒が律子を見ていた。見ながら、目に涙が溜まっていた。
「あなたのお祖父さん」と律子は奈緒に向かって言った。「いい人だったんでしょうね」
奈緒が「はい」と言った。声が少し震えた。「いい人でした」
「ここに来てよかった。あなたが来てくれて、よかった」
奈緒が「ありがとうございます」と言った。声にならなかった。
沖田が、何も言わずにジントニックをもう一杯作った。律子の前に置いた。
律子は受け取った。端の席の方を見た。
灰皿がある。誰もいない。
でも律子には、そこがただの空席には見えなかった。三十年間、一人の人間がそこに座り続けた場所。その時間が、まだそこに残っている気がした。
律子はジントニックを一口飲んだ。
その夜の「瀧」は、それからしばらく、誰も帰らなかった。
つづく
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