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第四部 崩壊と証言 5
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第二十章 沖田が話す夜
奈緒がもう一杯ジントニックを飲み終えた頃、沖田が口を開いた。
誰かが「話してくれ」と頼んだわけではなかった。沖田が自分から、静かに話し始めた。
「瀧本さんのことを、少し話してもいいですか」と沖田は言った。
全員が沖田を見た。奈緒も、少し前に乗り出した。
「私がここを開いた年に、初めて来てくれた方です」と沖田は言った。「三十年前のことです」
沖田はグラスを磨くのをやめて、カウンターに布巾を置いた。そのまま話した。
「紺色のジャンパーを着た、五十代の方でした。端の席に座って、ハイボールを頼んで、煙草に火をつけた。その頃はまだ、店内で煙草を吸えた時代でしたから」沖田は少し間を置いた。「帰り際に『いい店ですね』とだけ言って帰って行きました。それが最初でした」
「何年くらい来ていたんですか」と美咲が聞いた。
「十五年ほどです」と沖田は答えた。「週に二、三回。ハイボールを一杯。煙草を一本か二本。それで帰る。多くは話しませんでしたが、話す時はちゃんと話す方でした」
「どんな話をするんですか」と美咲が聞いた。
「私が愚痴をこぼすと、静かに聞いてくれました」と沖田は言った。「仕入れの話、近所の変化の話、客商売の難しさ。そういうことを聞いて、『そうですか』と言う。その『そうですか』が、ただの相槌じゃなかった。ちゃんと聞いてる『そうですか』でした」
堀内が小さく頷いた。
「商売をされていたんですか」と坂口が聞いた。
「小さな卸売の仕事をされていました。取引先が横川の近くにあって、仕事帰りに寄ってくれていたようです。詳しくは聞きませんでした。聞かなくても、その人がどういう人かはわかりましたから」
奈緒が「祖父は、卸売の仕事を長くしていました」と言った。「私が子どもの頃に、一度廃業して。その後は別のことをしていたと思うんですが、詳しくは知らなくて」
「そうですか」と沖田は言った。「それは知りませんでした」
少し間があった。
「来なくなったのは」と堀内が言った。「どういう経緯で」
沖田がゆっくり話した。雨の多い秋だったこと。その頃、瀧本は雨の夜によく来ていたこと。来なくなって一か月後、知人が「瀧」を訪ねてきたこと。その知人から、瀧本が亡くなったと聞いたこと。
「バーに向かう途中で倒れたと聞きました」と沖田は言った。「脳梗塞でした。一人暮らしでしたから、発見されるまでに時間がかかって」
奈緒が「はい」と小さく言った。「そう聞いています」
「七十一歳でした」
「はい」
沖田は少しの間黙った。
「それから、端の席に灰皿を出すようになりました」と沖田は言った。「瀧本さんが来ていた時、その席で煙草を吸っていたから。煙草は吸えなくなりましたが、灰皿だけは出し続けました」
堀内が「毎晩のハイボールも」と言った。
沖田がゆっくり頷いた。「閉店後に、一杯だけ作って置いています。三十年間」
美咲が「三十年間」と繰り返した。
「来てくれるなら、それでいい、と思っていました」と沖田は言った。「来てくれているかどうかは、私にはわかりません。でも、置いておくことが私にできることでしたから」
奈緒が「祖父は」と言った。声が少し震えていた。「この店のことを、好きだったんだと思います。遺品の中に、メモが一枚だけあって。横川の瀧によく行った、と書いてあるだけのメモだったんですけど。他の場所のことは何も書いていなかったのに、ここのことだけ書いていて」
「そうですか」と沖田は言った。
「マスターのこと、書いていなかったんですが」と奈緒は続けた。「場所のことだけ書いていて。祖父にとって、この場所が大事だったんだと思います」
「場所だけじゃないと思いますよ」と律子が静かに言った。「マスターがいたから、この場所はこの場所なんです」
沖田は何も言わなかった。
布巾を手に取って、また静かにグラスを磨き始めた。その手が、いつもより少しゆっくり動いていた。
「お名前を聞いてもいいですか」と奈緒が沖田に聞いた。
「沖田です」と沖田は言った。「沖田正」
「沖田さん」と奈緒は言った。「祖父がお世話になりました」
沖田が「こちらこそ」と言った。
それきり、しばらく誰も何も言わなかった。
「瀧」という店の名前が、バーを開いた時から変わらずそこにあった。その名前の意味を、今夜この場所にいる全員が、初めて知った。
知って、誰も何も言わなかった。
でも、その沈黙は重くなかった。
むしろ、何かが正しい場所に収まった時の、静かな感触があった。
第四部 了
つづく
奈緒がもう一杯ジントニックを飲み終えた頃、沖田が口を開いた。
誰かが「話してくれ」と頼んだわけではなかった。沖田が自分から、静かに話し始めた。
「瀧本さんのことを、少し話してもいいですか」と沖田は言った。
全員が沖田を見た。奈緒も、少し前に乗り出した。
「私がここを開いた年に、初めて来てくれた方です」と沖田は言った。「三十年前のことです」
沖田はグラスを磨くのをやめて、カウンターに布巾を置いた。そのまま話した。
「紺色のジャンパーを着た、五十代の方でした。端の席に座って、ハイボールを頼んで、煙草に火をつけた。その頃はまだ、店内で煙草を吸えた時代でしたから」沖田は少し間を置いた。「帰り際に『いい店ですね』とだけ言って帰って行きました。それが最初でした」
「何年くらい来ていたんですか」と美咲が聞いた。
「十五年ほどです」と沖田は答えた。「週に二、三回。ハイボールを一杯。煙草を一本か二本。それで帰る。多くは話しませんでしたが、話す時はちゃんと話す方でした」
「どんな話をするんですか」と美咲が聞いた。
「私が愚痴をこぼすと、静かに聞いてくれました」と沖田は言った。「仕入れの話、近所の変化の話、客商売の難しさ。そういうことを聞いて、『そうですか』と言う。その『そうですか』が、ただの相槌じゃなかった。ちゃんと聞いてる『そうですか』でした」
堀内が小さく頷いた。
「商売をされていたんですか」と坂口が聞いた。
「小さな卸売の仕事をされていました。取引先が横川の近くにあって、仕事帰りに寄ってくれていたようです。詳しくは聞きませんでした。聞かなくても、その人がどういう人かはわかりましたから」
奈緒が「祖父は、卸売の仕事を長くしていました」と言った。「私が子どもの頃に、一度廃業して。その後は別のことをしていたと思うんですが、詳しくは知らなくて」
「そうですか」と沖田は言った。「それは知りませんでした」
少し間があった。
「来なくなったのは」と堀内が言った。「どういう経緯で」
沖田がゆっくり話した。雨の多い秋だったこと。その頃、瀧本は雨の夜によく来ていたこと。来なくなって一か月後、知人が「瀧」を訪ねてきたこと。その知人から、瀧本が亡くなったと聞いたこと。
「バーに向かう途中で倒れたと聞きました」と沖田は言った。「脳梗塞でした。一人暮らしでしたから、発見されるまでに時間がかかって」
奈緒が「はい」と小さく言った。「そう聞いています」
「七十一歳でした」
「はい」
沖田は少しの間黙った。
「それから、端の席に灰皿を出すようになりました」と沖田は言った。「瀧本さんが来ていた時、その席で煙草を吸っていたから。煙草は吸えなくなりましたが、灰皿だけは出し続けました」
堀内が「毎晩のハイボールも」と言った。
沖田がゆっくり頷いた。「閉店後に、一杯だけ作って置いています。三十年間」
美咲が「三十年間」と繰り返した。
「来てくれるなら、それでいい、と思っていました」と沖田は言った。「来てくれているかどうかは、私にはわかりません。でも、置いておくことが私にできることでしたから」
奈緒が「祖父は」と言った。声が少し震えていた。「この店のことを、好きだったんだと思います。遺品の中に、メモが一枚だけあって。横川の瀧によく行った、と書いてあるだけのメモだったんですけど。他の場所のことは何も書いていなかったのに、ここのことだけ書いていて」
「そうですか」と沖田は言った。
「マスターのこと、書いていなかったんですが」と奈緒は続けた。「場所のことだけ書いていて。祖父にとって、この場所が大事だったんだと思います」
「場所だけじゃないと思いますよ」と律子が静かに言った。「マスターがいたから、この場所はこの場所なんです」
沖田は何も言わなかった。
布巾を手に取って、また静かにグラスを磨き始めた。その手が、いつもより少しゆっくり動いていた。
「お名前を聞いてもいいですか」と奈緒が沖田に聞いた。
「沖田です」と沖田は言った。「沖田正」
「沖田さん」と奈緒は言った。「祖父がお世話になりました」
沖田が「こちらこそ」と言った。
それきり、しばらく誰も何も言わなかった。
「瀧」という店の名前が、バーを開いた時から変わらずそこにあった。その名前の意味を、今夜この場所にいる全員が、初めて知った。
知って、誰も何も言わなかった。
でも、その沈黙は重くなかった。
むしろ、何かが正しい場所に収まった時の、静かな感触があった。
第四部 了
つづく
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