「瀧」 ―横川の小さなバーに棲む気の話―

バーガヤマスター

文字の大きさ
21 / 26

第五部 残るもの 1

しおりを挟む
第二十一章 ユウの答え

翌日の昼過ぎ、ユウは「瀧」に来た。
開店前の時間だった。ドアをノックすると、中から沖田が出てきた。
「すみません、開店前に」とユウは言った。ギターケースを背負っていた。
「どうぞ」と沖田は言って、ドアを開けた。
昼間の「瀧」は、夜とは違う顔をしていた。照明が落ちていて、窓から入る薄い自然光だけが店内を照らしていた。カウンターの木の色が、夜より明るく見えた。グラスが棚に並んでいるのが、昼の光の中では少し違って見えた。でも端の席の灰皿は、昼も夜も同じようにそこにあった。
ユウはカウンターの前に立った。沖田が仕込みをしながら「何か飲みますか」と聞いた。
「いえ」とユウは言った。「弾かせてもらえますか」
「どうぞ」と沖田は言った。
ユウはギターケースを下ろして、スツールに座った。ケースを開けて、ギターを出した。チューニングを確かめた。弦を少し弾いて、音が部屋の中に広がるのを確かめた。
昼間の「瀧」に、ギターの音が響いた。
何を弾くか、決めてから来た。あの夜、初めてタキさんの前で弾いた曲だ。自分で作った曲で、まだ人前での演奏は数えるほどしかない。でも今日はその曲を弾きたかった。
弾き始めた。
沖田が仕込みの手を止めた。包丁を置いて、カウンターの内側でユウの方を向いた。
ユウは最初から最後まで、止めずに弾いた。バーの中に音が満ちた。昼の静けさの中で、音がよく通った。夜に弾くより、少し裸のような感じがした。隠れる暗さがない分、音がそのまま出ていく感じ。
弾き終えた。
残響が消えた後、沖田が「よかったですよ」と言った。昨日とは少し違う声だった。
ユウはギターを膝に置いたまま、少し間を置いてから聞いた。
「この曲、タキさんが前に聞いてくれた時、ありがとうって言ってくれたんです。何に感謝されたのか、ずっとわからなかったんですけど」
沖田が少し動きを止めた。
「マスター」とユウは続けた。「この曲、タキさんは知ってたと思いますか。自分で作った曲なんで、どこかで聞いたことがある曲じゃないはずなんですけど」
沖田がゆっくり口を開いた。
「瀧本さんが若い頃、よく口ずさんでいた曲があって」と沖田は言った。「メロディは覚えていないんですが、ある夜ユウさんが弾いていたのを聞いて、少し似てるかもしれないと思ったことがありました」
ユウは「似てる」と繰り返した。
「確かなことは言えません」と沖田は言った。「ただ、瀧本さんが口ずさんでいたのは、誰かの曲ではなく、自分で作ったものだと言っていました」
ユウはしばらく黙った。
自分で作った曲が、見ず知らずの老人が若い頃に作った曲と似ていた。それが本当かどうかは確かめようがない。でも、タキさんが「ありがとう」と言った理由が、その一点にある気がした。久しぶりに、自分が若かった頃の何かを思い出せた。生きていた頃の自分に戻れた。だから「ありがとう」と言った。
そうかもしれない、とユウは思った。そうじゃないかもしれない。でも、そうだったとしたら、と考えた時、胸の中で何かが温かくなった。
「続けます」とユウは言った。「音楽」
沖田が「そうですか」と言った。
「やめようと思った時期があって、タキさんに『好きでしたよ』って過去形で言われて、それで気持ちが変わったんです」とユウは言った。「過去形で言われたのが、なんか、効いて」
沖田が少し笑った。珍しい顔だった。
「瀧本さんらしいですね」と沖田は言った。
「どういう意味ですか」
「あの人は、答えを言わない人でした」と沖田は言った。「でも、考えさせることは上手だった。直接言わずに、相手が自分で動きたくなるように、何かを置いていく感じがありました」
ユウはその言葉を聞いて、少し笑った。
「そういう人、いますよね」とユウは言った。「教えてくれるんじゃなくて、考えさせてくれる人」
「ええ」と沖田は言った。
ユウはギターをケースにしまった。立ち上がって、「ありがとうございました」と沖田に言った。
「今夜も来ますか」と沖田が聞いた。
「来ます」とユウは言った。「ギター持って」
ドアを開けると、昼の横川の空気が入ってきた。少し冷たかったが、明るかった。ユウはギターケースを背負い直して、路地を歩き始めた。
来月のライブで、あの曲をやろうと思った。人前で演奏するのは初めてになる。でもそういう気分だった。
肩のギターケースが、今日もいつもより少し軽い気がした。

つづく
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

横川ガード下探偵団 結成篇 ~あの夏、僕らは名前をつけた~

バーガヤマスター
ライト文芸
広島・横川商店街のJR高架下に、五人の子供たちが集まった。正義感あふれるケンジ、グミ愛あふれるユイ、論理派のショウタ、足の速いテツ、情報通のミク。ある夏、古本屋から消えた一冊の本をめぐり、彼らは「横川ガード下探偵団」を結成する。人情と笑いと、少しの涙が交差する、昭和の香り漂う商店街のハートフルミステリー。

背徳のミラールージュ(母と子 それぞれが年の差恋愛にのめり込んでいく鏡写し)

MisakiNonagase
恋愛
24歳の市役所職員・中村洋平には、自慢の恋人がいた。2歳年上の小学校教師、夏海。誰もが羨む「正解」の幸せの中にいたはずだった。 しかし、50歳になる母・美鈴が21歳の青年・翔吾と恋に落ちたとき、歯車は狂い出す。 ​母の恋路を「不潔だ」と蔑んでいた洋平だったが、気づけば自分もまた、抗えない引力に引き寄せられていた。  その相手は、母の恋人の母親であり、二回りも年上の柳田悦子。 ​純愛か、背徳か。4年付き合った恋人を捨ててまで、なぜ僕は「彼女」を求めてしまうのか。 交差する二組の親子。歪な四角関係の果てに、彼らが見つける愛の形とは――。

**俺、東大院生の実験対象にされてた。**同居している美人家庭教師のやばい秘密

まさき
青春
 俺は今、東大院生の実験対象になっている。  ある雨の夜、アパートの前にずぶ濡れの美女が立っていた。  「家庭教師です。住まわせてください」  突然すぎる申し出に困惑しながらも、なぜか断れなかった。  桐島咲楽、東大大学院生。成績は天才、料理は壊滅的、距離感はおかしい。毎日転ぶ、焦がす、なぜか距離が近い。そのくせ授業は鬼のように丁寧で、俺のことを誰よりもよく見ていた。  偏差値42だった俺の成績は、気づけば上がっていた。でも、それより気になることがある。  咲楽さんが、研究ノートに何かを書いている。「被験者」という文字が、見えた気がした。  距離が近いのは、データのためか。褒めてくれるのは、実験のためか。でも、あの顔は。あの声は。  「データじゃなくて、私がそう思っています」  嘘をついているような顔じゃなかった。  偏差値42の俺に、東大院生の美女が押しかけてきた。ドタバタな毎日の中で、俺の心臓が休まる暇がない。これはドキドキなのか、心配なのか。それとも、もう恋なのか。  不器用な天才と、鈍感な高校生の、やばい同居生活。

『新橋スクランブルと、横川のハイボール』

バーガヤマスター
ライト文芸
突然の東京異動で理不尽な組織の壁にぶつかる53歳の聡子と30歳の結衣。新橋で再会した同郷の二人は、故郷・広島の横川で語り合った夜を胸に会社という鎧を脱ぎ捨てる。数々の裏切りや困難を乗り越え、自分たちだけの居場所である小さなバーを作り上げる。世代を超えた友情と本当の仲間の絆が胸を打つ、痛快な人生逆転ストーリー。

秘められた薫り

La Mistral
恋愛
エブリスタにて、トレンド#恋愛で最高位 55位を獲得した作品です。 「愛しているよ」という夫の言葉が、今の美咲には虚しい空気にしか聞こえない。 欠けていたのは、理性を焼き尽くすような衝動。 ​クライアントの慎吾と交わす視線。ビジネスという仮面の下で共有される、剥き出しの欲望。 指先が触れる。名前を呼ばれる。ただそれだけで、美咲の積み上げてきた「良き妻」としての世界は音を立てて崩れ去る。 ​完璧なアリバイ、塗り固めた嘘。 夫の隣で微笑みながら、心は別の男の指先を求めている。 一度知ってしまった濃厚な「薫り」は、もう彼女を元の場所へは戻してくれない。 ​守るべき家庭と、抗えない本能。 二つの世界の境界線で、美咲が選ぶ「最後の一線」とは――。 欲望の熱に浮かされた女の、美しくも残酷な堕落の記録。

梵珠山に、神は眠らない ―八峰 遥の豪運―

事業開発室長
ミステリー
神の気まぐれか、何かの意思か―― 八峰 遥が遭遇する不可思議な出来事と強運の連続。 彼女を呼ぶ声は一体? 現実とオカルトが交錯する、 全10話完結の短編ミステリー。 シリーズ第2弾【十二湖は、今日も蒼い ―八峰 遥の天運―】 公開中

僕がここでカフェを始めた理由

バーガヤマスター
ライト文芸
広島・横川の細い路地に、カウンター八席だけの小さなカフェ「HUIT(ユイット)」がある。オーナーの桐島奏は自分のことを語らないが、その静かな佇まいと一杯のコーヒーが、街の人々を引き寄せてきた。 なぜ北向きなのか。なぜ八席なのか。なぜこの場所を、十年以上かけて探し続けたのか。 ある日、一人の女性がやってくる。彼女の名は宮本さくら。亡き父の手帳を胸に、ある人を探して横川へ来た。 二人の出会いが、二十年越しの縁をほどき始める。ほっこりと、静かに、確かに。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

処理中です...